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空襲から生き延びて―学童集団疎開と東京大空襲―

「理事長のページ」 研究所ニュース No.29 掲載分

 角瀬保雄

発行日2009年02月20日


1945年3月10日の東京大空襲の被災者や遺族131人が、国に対して謝罪と総額14億円の損害賠償を求めた集団訴訟において、東京地裁は2009年12月14日、原告の請求を棄却する判決を言い渡した。原告側の「国は旧軍人や軍属に補償をしたのに、民間の被災者は何の救済もせずに切り捨てて放置した」という訴えに対して、裁判長は判決の中で「原告らの受けた苦痛は計り知れないものがあり、提訴した心情は十分に理解できる」と述べているが、「救済は立法で」というのがその基本的な立場であった。それに対して原告らは「司法の責任を放棄」するものであるとして、控訴の方針という。

私は東京大空襲の被災者の一人として、以下個人的な体験を述べてみたいと思う。私は東京の下町、深川の富岡八幡宮の近くで生まれた。父は千葉県の、今では小野田町となって船橋市の一部に編入されているが、昔は豊富村の小野田といった集落の出で、5人兄弟の末っ子であった。東京の足袋屋に丁稚奉公に出、やがて独立、木場の材木問屋の職人を相手に地下足袋などを商っていた。私は毎年の夏休みには長屋門を構えた父の故郷の家で過ごすのを常としていた。その集落にはカクライを名乗る家が多かったが、いずれも角頼と書き、私の本家だけが名主をしていたということで、殿様から「サンズイ」をつけた角瀬という苗字を貰ったのだという。この由来は地元の文献にも紹介されているので確かなことであろう。しかし、子孫は自己紹介の際いちいちその由来を説明しなくてはならない煩わしさ背負っている。母は同じく船橋の漁師町の網元の長女で、戦後も陸と海の産物には恵まれていた。

私の子供の頃は、もっぱら八幡様の周辺が遊び場になっていた。当時の学校教育は軍国色一色で、少年戦車兵を動員したり、近くに商船学校があったからか手旗信号を教えるなど、日常的に戦争への協力が進められていった。高学年になると、男子生徒は予科練などへの志望を語るものもでてきたが、私は小学校入学前の幼児期に股関節炎を患い、身体に障害をもっていたので軍人は不可能で、漠然と機械技師にでもなろうかと考えていた。家業が手焼きせんべい屋であった級長の青野正一君は私の気持ちを察してか、君は勉強の方で頑張ればよいと励ましてくれたが、東京大空襲で亡くなってしまった。

そうしたなかでわずかに華やかな彩をつけていたのは、他の学校ではどうだったか定かではないが、私のクラスが男女組で、1 年生から6 年生までの6 年間を通して、共学であったことである。男女組では男子より女子のほうがはるかに大人びていたと思う。それと学校の近くに枝川町という朝鮮人の多く住む地域があり、金、孫、牧という在日朝鮮人の子弟が編入されてきたことを思い出す。なかでも牧君は図画に抜群の腕を持っていて、年長者の今は亡き池田重辰君と優劣を競うほどであった。敗戦後、彼らと再会したいと思っていたが、ついにその機会がなかった。祖国へ帰ったのかもしれない。

私は股関節炎の治療のため、父に連れられ信濃町の慶応大学病院に通っていたが、その度ごとに、病院の前の洋食屋でカレーライスを食べるのが楽しみであった。私の股関節は今日もなお腰痛の原因となっているが、思えば70年間もの長い間よく働いてくれたものである。私の知人である中小企業家同友会の、河野先税理士の父上は、私の住んでいた富岡町1丁目から通りを一つ渡った隣町の富岡町2丁目で医院を営んでいた。子供の頃、受診したことがあったかも知れないが、記憶にない。河野税理士の父上は東京大空襲にあい、帰らぬ人となったという。したがって、戦前戦後を通して我が家の身近なホームドクターとしてお世話になったのは近所の塩入先生である。

6年生になるとともに戦況も緊迫し、江東地区の学童は新潟・山形といった遠隔地への集団疎開を迫られた。頼るべき親類縁者のあるものには縁故疎開という道もあったが、私は学校ぐるみの集団疎開を選び、父母から離れ、新潟県の三条に行くことになった。お寺に分宿し、地元の学校に通うことになった。私がお世話になったのは極楽寺というお寺で、戦後一度訪れたことがある。生徒のなかには父母の顔が忘れられず、東京に舞い戻るものもいた。食事に関してはよく水田でイナゴを取って、たんぱく源にしていた。またよく胡桃の実を拾っては間食にしていた。一年に一回東京から親族が面会に訪れるのが待ち遠しく、その時には町の洋食屋で食事を楽しむことができた。集団疎開の思い出として苦しいことのみがよく語られるが、私にはそれなりに懐かしい思い出のみが残っている。吹雪のなか隊列を組んで地元の小学校に通ったのも、このときの思い出である。やがて卒業が近くなり、進学などそれぞれの進路を選ばなくてはならなくなり、東京に帰ることになった。帰京の前、一晩だけ地元の民家に泊まることになり、私は鮭川泰三君と一緒に紙問屋のお宅にお世話になった。こうして米軍の飛行機が襲来するなか、列車で昭和20年2月25日、東京に帰ってきたのである。卒業を控えた6年生は、偶然、3月10日の東京大空襲の前日、3月9日に校庭に集まり卒業写真をとったが、その写真に写っていた173人の生徒の半数は、その10時間後、10日の早朝、東京の下町を襲ったB29による無差別爆撃によって命を奪われてしまった。当時6 年生は、区内全体で約3,500名いたというが、私達173名の卒業写真をとった写真屋がどこの写真屋なのか、東京大空襲の混乱の中でわからなくなり、幻の卒業写真となってしまった。今、私の通った区立数矢小学校(当時の数矢国民学校)に一枚の集合写真が保管されている。そして江東図書館内の江東区学童集団疎開資料室にコピーがある。私は2009年、江東区役所で開かれた「学童集団疎開と東京大空襲」の写真展でそこに私が写っているのを確認し、江東区役所でそのコピーを作成していただいた。『希いー平和の詩―』というパンフレットには当時の写真が収録されている。生き残った同級生で、毎年同期会を持っていたが、しかし、生き残ったものも年々数が減り、今では10 人以下になってしまっている。

東京大空襲の当時、我が家は最初、家の前に掘られた防空壕に避難したが、危険を感じ、より安全なところを求めて逃げることにした。後で聞くところによると防空壕に入っていたものはみな蒸し焼きになってしまったという。頭上から焼夷弾が降り注ぐ中、私は父、母、弟と一緒に逃げたが、よくその直撃を受けなかったものと思う。その途中、三条での最後の夜を共におくった鮭川君が家族とはぐれて逃げてくるのに出会った。そこで一緒に逃げることにしたが、何時の間にか彼ともはぐれてしまった。彼は戦後、芸大を出て、フランスへ絵の修行に行き、その道で一家をなしたが、残念なことに早死にしてしまった。私の一家は東京湾の水辺に逃れ、一晩中まんじりともせずにおくったが、隅田川の支流や掘割に逃れた人々はみな水死体となってしまった。また反対の亀戸の方向に、今の都立墨東病院のある方に逃げた人々も助からなかったという。

翌朝、無事に空襲から生き延びた私ども家族は難民となって、黒焦げになった死体が道端に転がっている中を千葉県の親類を頼って落ち延びていった。生死を分けたのは運がよかったというしかない。途中、葛西橋を過ぎたところで民家の炊き出しのオムスビを頂いたのが有難かった。永代橋や勝鬨橋など隅田川に架かる橋を除くと、今では故郷・深川といっても昔の面影は残っていない。数矢小学校の背後には高速道路が走り、高層ビルが聳え立っている。登校の行き帰りに親しんだ八幡橋は日本人の手になる初めての鉄橋として国の重要文化財になっているが、今では水のない遊歩道に架かる形だけの橋になってしまっている。同時代に大学生活を送った三浦哲郎の小説「忍ぶ川」を、私と同じ調布の住人、熊井啓監督が加藤剛、栗原小巻の主演で映画化しているが、そこに描かれた風景にわずかに往時の面影が忍ばれるだけである。

なお、アマチュア写真家の鈴木賢士氏による『写真で伝える東京大空襲の傷あと・生き証人』(高文研、2007 年)は、戦災で焼け残った傷跡を足で歩いた貴重な資料である。戦後、自民党政府は住民皆殺しの無差別爆撃を計画・指揮した米空軍のカーチス・ルメイ将軍に、「航空自衛隊の育成に功績があった」と勲一等旭日大綬章を贈っているが、私には許すことの出来ないことである。

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