総研いのちとくらし
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少子高齢社会と雇用問題(1)

「理事長のページ」 研究所ニュース No.38掲載分

中川雄一郎

発行日2012年05月31日


早いもので、5月も過ぎようとしている。まさに「少年老い易く、学成り難し」を地で行くようである。それ故、この老頭児(ロートル)にとっては「一寸の光陰、軽んずべからず」でなければならないのに、日頃の不摂生が祟(たた)って、5月初めのゴールデン・ウィークは床に臥せっていなければならなかった。風邪に罹ったのである。

これまでの私であれば、「風邪の前兆」が顔のどこかの部位に現れていたので、その時に市販の風邪薬を一服飲めばほとんど治っていたのであるが、今回はその「風邪の前兆」がどこにも現れなかったのである。私の「風邪の前兆」は、先ず「右あるいは左の頬の皮膚の一部が少しカサカサあるいはヒリヒリする」、次に「泪が出やすくなる」、そして「外耳のどこかの部位でキーンと神経に触るような痛さを覚える」、といった具合である。この3番目の「耳のどこかの神経に触ったような痛さ」が風邪に罹る直前の「前兆」なので、この時に医師に診てもらえば、本格的な風邪に罹らないのである。しかし、今回はこのような「風邪の前兆」もなしに風邪に罹ってしまったのである。

かくして私は、床に臥せってしまったのであるから、ロートルの私にできることと言えば、本を読むことと音楽を聴くこと位である。で、床に臥せって音楽を聴きながら思ったのであるが、最近のDVDは音質も良く、あたかも生演奏の如くに制作されているので聴き甲斐があり、したがって、最後まで聴いてしまい、なかなか眠りに入れないのが珠にきずなのである(因みに、私の最も気に入ったDVDは、伊藤恵のピアノによるロベルト・シューマン「子どもの情景・幻想曲Op.17・森の状景Op.82」である)。

これに対して、床に臥せって本を読むのはいささか疲れる。読み始めて20~30分もすると次第に眠くなってきて、やがて眼を擦るほどになり、そしていつの間にか目を瞑ってしまう。そしてハッと気づいて再び字面を追うが、読もうとする気が次第に失せていく。で、「20~30分睡眠をとり、眠気を追い払ってから読もう」と考えて本を置くや、そのまま深い眠りに入ってしまい2~3時間後に眼が開くのである。このような「眠気との闘い」が3日間続いたのである。

じつは私は、連休に入る直前に―朝日新聞の書評欄に掲載されていた―G・エスピン‐アンデルセンの『アンデルセン、福祉を語る:女性・子ども・高齢者』(京極高宣監修/林昌宏訳、NTT出版)を連休中に読もうと思って手に入れておいたのである。しかし、私の体調が上記のごとくであったので、それを読み終わったのは連休後数日経ってからである。

私が新聞の書評欄を見て直ぐこの本を読もうと思ったのには―後で言及するが―二つの理由があった。一つは、私が翻訳した『シチズンシップ』(日本経済評論社、2011)のなかで著者のキース・フォークスが彼の提起する「市民所得」(いわゆる「ベーシック・インカム」)について、エスピン‐アンデルセンの主張を採り入れていたからである。もう一つの理由は、先般、『季刊労働法236号』(2012年3月)に掲載された私の拙論に関係している。この季刊誌の【第2特集:高齢者雇用の課題を解く】に掲載された私の拙論のタイトル「高年齢者の雇用・就労と社会的企業」が示唆しているように、この拙論は、日本において喫緊の社会-経済的な問題となりつつある「年金受給年齢と定年退職年齢のギャップ」による高年齢者(高齢者)の雇用・就労に関わるそれである。

「市民所得」というコンセプト

前者について言及すると、次のようになる。先ずフォークスは、社会的権利としての「市民所得」とは「成人市民の雇用状況に関係なく、各成人市民に(おそらく、児童にはより低い率で)支払われることになる最低保証金額」であり、「この最低保証金額は事業体と個人に対する課税によって調達され」、その点で、この市民所得の第1の利点は「市民所得が普遍的な社会的権利である」ことなので、シチズンシップの向上・促進という観点からすれば、「市民所得の意義は、市民所得が所得と労働を切り離すというよりもむしろシチズンシップを市場の制約から自由にする」ということになる、と主張する。そして次に彼は、「社会的権利の重要な尺度は、それが人びとの生活水準を純然たる市場の力から切り離すことを可能にするその度合いでなければならない」と強調するアンデルセンの主張を紹介して、市民所得を「社会的権利の脱商品化」を可能とする政策だと論じるのである。フォークスは、このように論じることで、彼の「市民所得」を「労働市場の力」から引き離し、公共政策の目標を「市場に奉仕する社会的、経済的な政策」の立案ではなく、「適切で公正なシチズンシップを促進する諸条件を維持する」政策の立案に向かわせなければならない、と言うのである。

フォークスが「市民所得」というコンセプトを用いてどうしてこのような「シチズンシップ論」を投げかけたかと言えば、「コミュニティ(すなわち、政治)の義務はその構成員の基本的ニーズを満たすことである、とのことが認識されてはじめて市民所得が支払われる」ことを人びとが承認する必要性を強調したかったからであり、したがってまた、市民所得は「コミュニティ(政治)の優先権が市場のニーズではなく、その構成員の福祉にあることを明確に示すことで、この両者(すなわち、個人とコミュニティ)の関係の上に築かれる」ことの重要性を明示したかったからである。その意味で、市民所得は、「コミュニティ(政治)と個人の相互依存」と「個人の自治」の双方を認識させかつ高めていくことから、雇用パターンの変化と関係する他の社会的権利よりも明確な利点を持っていることを彼は訴えたかったのである。

そこで、フォークスのこのような主張とアンデルセンの主張がどこでどう繋がるのか、ということになる。その繋がりは『シチズンシップ』の次の件(くだり)を読めば理解できる。というのも、アンデルセンが「女性革命」あるいは「男性の女性化」を社会に訴えていることは周知のことだからである。

従来の社会的権利に関わる問題の一つは、社会的権利が労働(仕事)と密接に結びつけられているだけでなく、「有用な労働」があまりに狭く定義されていることでもある。このことは、女性が従来の福祉計画からどうしてわずかな給付金や手当しか受け取れなかったのか、その理由を部分的に語っている。女性が無償の家庭内労働と社会的ケアに費やす(男性とあまりに)不釣合いな時間数は、まったく正当に認識されないままに過小評価されてしまうのである。さらに言えば、女性は、労働市場の不平等な構造のために、所得に関連する給付金や手当を要求することに十分貢献できないでいるのである。……その点で、市民所得は、女性の社会的貢献を暗黙裡に認めることによって、多くの女性たちの運命をかなりの程度改善するであろう。また市民所得は、(女性が)政治活動や市民活動に参加するのに必要な時間を確保するために使われる大きな資力を女性に与えるであろう。さらに市民所得は、女性を、結婚しているか否か、性別あるいは家族関係といった観点からではなく、独立した、自律的な個人としてみなすであろう。一家の稼ぎ手としての夫たる男性一人が優位な地位を占めるような核家族がますます一般的ではなくなっていくにつれて、市民所得は家族構造の社会的変化に敏感に反応する社会政策になっていくのである(180頁)。

「女性革命」と「男性の女性化」というコンセプト

アンデルセンはフォークスによるこの件(くだり)の内容を次のように言い換えている―少々長い引用になるが、我慢して読み解いていただければ、「なるほど」と肯けるようになるだろう([]の言葉は中川による)。

女性革命は社会の基盤に根源的変化をもたらす。女性のライフスタイルは短期間のうちに信じられないほど激減した。変化に要した時間はほんの一世代([30年])である。戦後([第二次大戦後])数十年間の典型的女性像とは、主婦として家庭に納まることであったが、彼女らの娘の世代では、自ら働いて経済的自立を手に入れる生活を選択できる機会が増えた。この世代に急変をもたらした決定要因は、教育水準ときちんとした給与であった。こうした意味で、女性は自らのライフスタイルの選択において「男性化」を体験したのである。大部分の先進国では、今後、女性は男性よりも高い教育水準を得ることになる。いち早く女性革命が始まった北米や北欧では、出産による仕事の中断は最小限に抑えられ、女性の大半(ほぼ75%)は生涯にわたって職を持ち続けることになった。(中略)

女性のライフスタイルの変容は、良くも悪くも、著しい社会的「ドミノ現象」となった。夫は外で働いて稼ぎ、妻は主婦に納まる、という伝統的な家族形態はあっという間に凋落することになった。しかし、女性が新たな役割を得たことにともない、同じ社会階層に属する者同士の結婚は増え、第一子の出産時期は遅れ、出生率は人びとの希望よりかなり低くなり、夫婦仲は不安定となり、「変則的な」家族が増えた。ちなみに、こうした「変則的な」家族の多くは経済的に脆弱である。女性化傾向は長期的な人口推移に悪影響を及ぼす。社会が急速に高齢化するのは、女性革命の副産物といえよう。(中略)[だが]女性革命はいまだに未完成である。[それでも]女性革命がわれわれの福祉制度に深刻な挑戦状を叩きつけていることは想像に難くない。というのは、女性革命は福祉制度を機能させる柱の一つに根源的な影響をもたらしているからである。その柱とは家族である。

福祉国家に叩きつけられた挑戦状を解読するためには、福祉レジーム(広義の社会保障をめぐる基本的枠組み)という用語に検討を加えることが必要不可欠となる。社会と同様に、個人は家族・市場・公的社会給付を混ぜ合わせた福祉を得ている。しかし、大部分の人びとにとって主要な福祉の源泉は、家族と市場である。つまり、われわれは主に市場を通じて所得を得ており、一般的にわれわれの家族がわれわれを社会的に支援している。ライフサイクルの観点からすると、福祉国家が市場や家族を超えて、本当にわれわれを支援するのは、われわれの幼年期と老年期だけである。

こうした福祉の三つの柱は総合に影響を及ぼし合っている。市場が失敗する場合、われわれは家族と行政サービスで我慢する[実際には、価格や情報の非対称化のために、われわれは市場によってわれわれの基本的要求をしっかり満たすことはできない]。医療[サービス]や教育サービスは、市場化の失敗という古典的な例証となっているが、女性革命により、さらに二つ要求が浮上してきた。すなわち、乳幼児の保育と高齢者介護の問題である。……民間ケアサービスを享受できるのは、ある程度裕福な世帯のみである。同様に、家族が失敗する場合には、われわれは市場や行政を頼みとすることになる。これまで女性に割り当てられてきた介護の役割から女性が身を引くようになり、また親世代と同居することがなくなると、家族の「失敗」は増加する。したがって、市場または家族によっても、われわれの社会的要求には適切に対応できていないという点において、現代社会には失敗が蓄積しているといえよう。高齢者介護問題がまさにその例証である。……[こうして]皮肉なことに、家族主義政策にしがみつくことで、社会福祉の対象から外された領域は拡大する一方である。(中略)

こうして、ほとんどの先進国社会では、採用する政策が女性革命にきちんと対応してこなかったことから、社会の不均衡が拡大していった。家族主義に基づいた社会政策が家族の形成を妨げているというのが、われわれの時代のパラドクスである。合計特殊出生率の激減、特に教育水準の高い女性の間で子どもを産まない女性が急増したという事態は、ヨーロッパの大部分で観察されているが、これは保育サービスの不在と関連がある。(中略)

家族政策を再考する必要性があるのは明らかである。育児に関する福祉の機能を「脱家族化」させない限り、育児と仕事の両立を図ることはできない。低い合計特殊出生率は、子どもが欲しくないという人びとの意思の表れではなく、むしろ彼[・彼女]らにのしかかる重圧が高まったと解釈できるのではないだろうか。家族は今後も社会のカギとなる制度であり続けることから、家族を支援する政策を打ち出すことが必要となってくる。また家族は、ますます多様化していくが、子どもの幸せにとっても必要不可欠である。[それ故]子どもを経済的窮乏から保護する政策が必要不可欠となってくる。……われわれは子どもにかかるコストと、子どもが社会にもたらす利益の公平な分配を構想する必要がある。(中略)

[少子化]政策を実行するうえで、われわれは少子化の背後に隠れたものを突き止めなければならない。これまでの少子化対策は二つの要因を強調してきた。第一に、子どもをつくるという決定にあたっては、世帯主(父親)の所得に依存するという点。第二に、女性の生涯所得という観点から、女性にとって出産が重要な機会費用(女性が出産のために仕事を犠牲にすることで失う所得など)をともなうのであれば、女性の産む子どもの数は減るという点である。……しかし、現代社会においては、こうした説明では不十分である。各国のデータを分析してまず分かることは、就労率と合計特殊出生率との間で、今後は相関関係が成り立つということである。女性の就労が広範囲に普及した国では合計特殊出生率は最も高い。この逆もまた真なりである。(中略)

現代において、合計特殊出生率のカギは女性の新たな役割にあり、特に女性の生涯を通じた職業の選択にある。これはすべての研究者の一致した見方である。職業キャリアは必ずしも出産と両立しない訳ではないことは、北欧諸国が例証している。したがって、女性の就労を思い止まらせる少子化対策では、いずれ重大な副作用を引き起こすであろう。……貧困は子どもの発達にきわめて有害である。母親が就労している場合は貧困に陥ることが少ないことから、子どもの貧困も減る。また母親の就労には他にも大きな効用がある。高齢化社会の財源確保である。そのためにも、女性の就労率を最大限に引き上げる必要がある。……したがって、少子化対策は女性の新たな役割を考慮に入れて実行する必要がある。合計特殊出生率に関して、女性の決断と夫の所得の繋がりは薄れている。今後、合計特殊出生率は、主に女性が労働市場に安定的に地歩を固めることができるか、という能力に左右される。(中略)

われわれの目的が仕事と育児の両立を最大限に支援することであるとすれば、この両立という問題の二面性を考慮すると、デンマークの政策がベストということになる。第一のポイントとして、デンマークの政策はすべての小さな子どもを持つ母親に就労継続の可能性を保障している。デンマークの母親の就労率は78%である(フランスは63%)。また研究者によると、母親の生涯獲得所得に対する影響も比較的軽微であるという。これは主に、産休後にほとんどすべての女性が復職しているからである。第二のポイントは、保育サービスの利用がほぼ普遍化していることである。最新の公式な推定値によれば、一歳児から二歳児の保育サービスの利用は85%であるという。(中略)

女性革命が未完であるのだとすれば、それは女性のライフスタイルにおいて女性が「男性化」したほどに、男性のライフスタイルが「女性化」していないからでもある。[それでも]男性のライフスタイルに目を向けると、かなり大きな変化が確認できる。アンケート調査によると、男性における家事参加がここ10年から20年の間に急上昇した。……[このように]こうした傾向には著しいものがあるが、革命的とまでは言えない。家事・育児に関する男女間の隔たりは依然として大きい。……男性の家事・育児への参加は社会階層によって大きく異なっている。というのは、男性の家事・育児への参加が増えているのは、家庭内において女性が強い権力(権限)をもつ世帯や、高学歴の男性の場合であるからだ。最も学歴の高い男性と最も学歴の低い男性の育児への関わり方の違いから、格差が生じているし、この格差は拡大する一方である。つまり、男性のライフスタイルが女性化することは、主に社会階層のトップに関する話なのである。

男女間の対称性は社会行動においてさらに大きな役割を演じている。すなわち、夫の参加の度合いが働く女性の合計特殊出生率の決定要因なのである。また夫の家事・育児に対する貢献は、別居や離婚のリスクを軽減することも分かっている。(中略)

経済的自立を手に入れ、そして子どもを持つ女性の願望は、私的利益ばかりではなく、コミュニティに大きな価値を生み出す。これは公共政策を打ち出す際の論拠でもある。両親の出産休暇、育児、高齢者介護に関する福祉国家の役割は単純で、主にこうした福祉政策にかかる費用と、それがもたらす便益が問題となる。しかし、家族間の不平等がバランスのとれた社会を目指す上で大きな障害となっているとすれば、福祉国家としては何をなすべきであろうか。……[それ故]だからこそ、われわれはカギを握る経済的インセンティヴや社会的拘束を突き止める必要があるのだ。

シチズンシップ論を基礎とするキース・フォークスの「市民所得」を、社会福祉政策論を基礎とするエスピン‐アンデルセンの「福祉社会」をもって具体的に論及すると、このように長丁場になってしまう。それでも、私としては「シチズンシップと福祉社会」を結びつけるカギを見いだした思いがして、ある種の研究の広がりを覚えたような心境に至っている。ところで、もう一つの私の「拙論」についてであるが、これについては、紙幅の都合で次回の「理事長のページ」で多少詳しく述べることにさせていただくことにする。

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