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『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻146号)』(転載)

二木立

発行日2016年09月01日

出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。


目次


1. 論文:私の医療政策の分析・予測の視点と方法-第57回日本社会医学会総会特別講演より

(「二木教授の医療時評(141)」『文化連情報』2016年9月号(462号):18-23頁)

1.私の研究の視点と分析方法(総論)

まず、「私の研究の視点と分析方法」の総論を、2006年=10年前に出版した『医療経済・政策学の視点と研究方法』の第4章をベースにして述べます(1)
私は、長年、医療経済・政策学の視点から、政策的意味合いが明確な実証研究と医療・介護政策の分析・予測・批判・提言の「二本立」の研究と言論活動を行ってきました。ここで、「医療経済・政策学」とは、「政策的意味合いが明確な医療経済学的研究と、経済分析に裏打ちされた医療政策研究との統合・融合をめざし」た学問であり、勁草書房から「講座*医療経済・政策学」を2005~2007年に出版したときに造った新語です。ただし、英語にも"Health Economics and Policy"という用語はあり、教科書も出版されています。

私の医療経済・政策学研究についての心構え・スタンス

私の医療経済・政策学研究の心構え・スタンスは3つあります((1):104-105頁)。第1は、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究することです。リアリズムだけでは現状追随主義に陥るが、リアリズムを欠いたヒューマニズムでは観念的理想論になってしまうからです。ただし、リアリズムとヒューマニズムとの間には緊張関係があり、両者のバランスをどうとるか、いつも腐心しています。

第2は、事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断の3つを峻別するとともに、それぞれの根拠を示して「反証可能性」を保つこと、この視点から医療・介護政策の光と影を「複眼的にみる」ことです。ここで「客観的」将来予測とは、私の価値判断は棚上げして、現在の政治・経済・社会的条件が継続すると仮定した場合、今後生じる可能性・確率がもっとも高いと私が判断していることです。この仮定があるため、私は短期(今後数年間)の定性的予測のみを行っています。

第3はフェアプレイ精神で、次の3つを励行しています。①出所・根拠となる文献と情報はすべて明示する。②政府・省庁の公式文書や自分と立場の異なる研究者の主張も全否定せず、複眼的に評価する。③自己の以前の著作や論文に書いた事実認識や判断、将来予測に誤りがあることが判明した場合には、それを潔く認めるとともに、大きな誤りの時にはその理由も示す。

第1の心構えに関して、(私からみて)ヒューマニズムには富むがリアリズムが不足する医療・福祉運動家や研究者への忠告があります((1):107-110頁)。1つは、リアリズムを欠いたヒューマニズムは研究の敵であることです。なぜなら、(多くの)学問の本質は(政策)提言ではなく、事実の分析だからです。もう1つは、研究と現場・実践を直結させないことです。無理に直結させると「結論先にありき」の歪んだ研究になる危険があります。私が尊敬するアメリカの医療経済学者のフュックス氏は、若い医療経済学者に対して、「同時期に研究者と政治スタッフの兼業を試みるな」と警告しています。

実証研究のみでは政策の妥当性は評価できず、価値判断の明示が必要

次に強調したいことは、「実証研究のみでは政策の妥当性は評価できない。政策について論じる場合には自己の価値判断の明示が必要」であることです((1):12頁)。私は1992~93年のアメリカUCLA公衆衛生学大学院留学中にこのことを実感し、その直後の1994年に出版した『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』で、以下のように書きました。「『良い(善い)』医療政策の必要条件は、データ・実証研究ではなく、『良い』価値観・価値判断…。わが国の場合には、憲法25条に規定された、国民の生存権と国の社会保障義務に常に立ち帰って、政策を立案することである」((2):216頁)

私はこの時は25条のみをあげましたが、現在は、25条(生存権)に加えて、13条(幸福追求権)も重要と考えています:「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

実は、私は、1989年=27年前に名古屋大学で開かれた社会医学研究会30周年記念研究会のある分科会での報告「医療政策を分析する視点・方法論のパラダイム転換」で、政府の医療政策の「質」を評価する視角として、「生存権・社会保障権的視角に、医療技術・医療サービスの質を向上させるという視角を加え、『複眼』的に評価する必要がある」と提起しました(3)。最近になって、後者の視角は憲法13条に対応していることに気づきました。なお、日本福祉大学は2000年代初頭から「福祉」を「すべての人々の幸せ」と再定義して、平仮名で「ふくし」と表現し、それの憲法的基礎が25条と13条の両方であると説明しています(4)

2.日本の医療改革についての私の価値判断

次に、日本の医療改革についての私の価値判断を2つ述べます。この2つとも、長い試行錯誤を経て2000年代に入って、ようやく確立しました。

抜本改革ではなく部分改革の積み重ねと医療の者の自己改革

第1は、必要・可能な医療改革は、現行制度(国民皆保険制度と民間医療機関主体の医療提供体制)の枠内での部分改革の積み重ねであり、そのためには医療者の自己改革が不可欠であることです。

恥ずかしながら、私は1970年代から1980年代までは漠然と、日本の医療制度は他の先進国に比べて遅れているので、患者の立場に立った抜本改革が必要だと考えていました。しかし、その後の勉強と研究を通して、徐々に以下の3つのことに気づきました。①日本の医療制度・政策は他の先進国に比べすべて遅れているわけではなく積極面も少なくない、②第二次大戦後日本で行われた医療改革は、1961年に達成された国民皆保険制度を除いて、すべて部分改革であり、国民皆保険制度も4年計画で実施された。③日本と異なり政権交代が常態化している欧米諸国でも、1980年代以降は医療制度の抜本改革は行われず、部分改革のみが繰り返されている。そこで、2001年に出版した『21世紀初頭の医療と介護』の序章で初めて、上記のことを包括的に提唱しました(5)。この本の副題は「幻想の『抜本改革』を超えて」としたのですが、この副題はいわば「清水の舞台から飛び降りる」つもりで付けました。

ただし、このような主張の初出は私ではなく池上直己・キャンベル氏であり、お二人は1996年出版の名著『日本の医療』の「あとがき」で、次のように述べました。「医療分野においては理論よりも実践的な経験則が、また上からの抜本改革よりも当事者による地道な改善の積み重ねのほうがそれぞれ効果的であるように思われる」(6)。最近、高木安雄氏は厚生省保険局(当時)の若手官僚も「診療報酬改定の歴史的変節点」となった1981年改定当時、次のように述べていたと証言しています(7)。「抜本改革がよく強調されるが、厚生行政全般は深く国民と結びついており、抜本改革はかえって混乱を招き、実現できるものではない。むしろ、角度にして3度のわずかな改革を毎年続けて、30年で90度、60年で180度の変化を目ざすしかない」。

ちなみに、『21世紀初頭の医療と介護』出版以降の15年間に、日本では2回の政権交代が生じたし、諸外国(アメリカ、イギリス、韓国等)でも政権交代が行われましたが、いずれの場合にも医療制度の抜本改革は行われていません。

医療改革の財源選択-主財源は社会保険料

第2の私の価値判断は医療改革の財源選択で、主財源は社会保険料率の引き上げ、補助的にたばこ税、所得税・企業課税、消費税等の引き上げを用いるべきだと考えています。このことは2009年に出版した『医療改革と財源選択』の第1章第3節で初めて包括的に述べました((8):32-40頁)。この前提として、私は財源選択は財源調達力と政治的実現可能性の両面から判断すべきと考えています。この視点から、私は、消費税は社会保障の重要な財源ではあるが、医療改革の主財源にはなり得ないと考えています。さらに、歳出のムダの削減、ましてや「霞ヶ関埋蔵金」は主財源にならないと判断しています。民主党は2009年の総選挙でこれらに依存した(私からみると空想的)財源論を掲げましたが、それは民主党政権成立直後に破綻しました。なお、この結論に到達するに至る「医療費の財源選択についての私の考えの変化-主財源は保険料と判断するまでの試行錯誤」は『医療改革と財源選択』の第1章補論で詳しく述べました((8):41-47頁)

手前味噌ですが、以上述べた2つの価値判断は、現在では、ほとんどの医療政策研究者や政策立案者の共通理解になっていると思います。

3.日本医療の将来予測を行うために考案した分析枠組み・概念

次に、日本医療の将来予測を行うために私が考案した3つの分析枠組み・概念を紹介します。それらは、①「将来予測の3つのスタンス」、②「厚生省の政策選択基準」と「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」、③「21世紀初頭の医療・社会保障改革の3つのシナリオ」です。

将来予測の3つのスタンス

まず、「将来予測の3つのスタンス」は、1991年に出版した『複眼でみる90年代の医療』の序章で初めて示しました((9):1-6頁)。
第1のスタンスは政府の施策を批判して、社会保障の理念を完全に満たす「あるべき医療」を対置するもの、第2のスタンスは厚生省の最大限願望が実現した場合に、将来起こりうる最悪の事態=「地獄のシナリオ」を示して、警鐘乱打するものです。この2つは、主に医療運動団体が主張していました。この2つのスタンスは一見正反対に見えますが、政府の医療政策(それも最大限願望)のみに眼を奪われ、①医師・医療機関の内部に存在する弱点や、②現実の医療の変化(特に医師・医療機関の階層分化)を無視しているか見落としている、あるいはタブーにしている、という共通の弱点を持っています。

私はこれら2つのスタンスの弱点を補うために、第3のスタンスとして、研究者の立場から、医療の徹底的な実証分析に基づいて、今後生じる確率の高い客観的・実証的予測を行い、それが現在に比べどのように変わるのか変わらないのか、どのような「光と影」(積極面と否定面)を持っているのか、を複眼的に考察することを提唱しました。
当時私は、以下の3つの研究や調査に基づいて、(90年代の)医療政策の予測を行いました。①(80年代の)日本医療の構造的変化の徹底的な実証分析。②自己の臨床経験に即して判断すると共に、それを補足するために新しい動きが注目される医療機関を個々に訪問し、そこから生の情報を得る(フィールド調査)。③政府・厚生省の公式文書や政策担当者の講演記録の分析(文献学的研究)。

厚生省の政策選択基準と新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ

次に、「厚生省の政策選択基準」は、同じく『複眼でみる90年代の医療』で次のように提起しました。「厚生省の政策選択基準はあくまで医療費抑制(正確には公的医療費抑制)であり、その政策が実施された場合には、結果的に国民医療や医療機関の経営の困難が増すことが多い、と媒介的に考えるべき」。「厚生省は医療費増加を招くことが明らかな政策は、特別の事情がないかぎり、選択しないという視点から、厚生省の医療政策を評価する。こうすれば、厚生省が打ち出している政策アドバルーンのうち、実際にはどれが採用されるかを、かなり正確に予測できる」。ここで「特別の事情」とは、「外圧[アメリカ]による政策変更」である((9):13-14,28-29頁)。今では信じがたいことですが、当時、「医療関係者や医療団体の間には、1980年代に厚生省が強行した厳しい医療・福祉『見直し』政策に反発する余り、厚生省を『悪の帝国』と見なし、厚生省の打ち出すすべての政策が国民医療の破壊や『民間病院つぶし』、あるいは大企業の市場・利潤の拡大、を直接の目的としていると全否定する傾向が見られ」ました。

この分析枠組み・概念を進化させたものが、2004年に出版した『医療改革と病院』で提起した「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」で、これは「医療の市場化・営利化は、企業にとっては新しい市場の拡大を意味する反面、医療費増加(総医療費と公的医療費の両方)をもたらすため、(公的)医療費抑制という『国是』と矛盾する」というものです((10):21頁)。この分析枠組みにより、小泉政権の絶頂期にも、私は企業の医療機関経営の解禁や混合診療の全面解禁はないと正確に予測できました。

21世紀初頭の医療・社会保障改革の3つのシナリオ

第3の「21世紀初頭の医療・社会保障改革の3つのシナリオ」は、2001年に出版した『21世紀初頭の医療と介護』の序章で初めて提起しました(5)。私はそこで、1990年代までは一枚岩だった体制(内閣・官庁・自由民主党・経済団体・政府系研究者等)の医療・社会保障改革のシナリオが1990年代末に2つに分裂し、その結果、21世紀初頭には改革のシナリオは、①新自由主義的改革、②社会保障制度の[部分的-後に補足]公私2階建て化、③公的医療費・社会保障費用の総枠拡大の3つになったと主張しました(4:6-37頁)。「3つのシナリオ」は『医療経済・政策学の視点と研究方法』の第3章でより詳しく説明しました((1):47-70頁)

「3つのシナリオ」は、小泉政権時に提起しましたが、その後の安倍・福田・麻生政権、民主党政権、および現在の安倍政権の医療・社会保障改革を分析する上でも有効と判断しています。そのポイントは、小泉政権以降の歴代政権の医療・社会保障改革は、現在の安倍政権のものを含め、新自由主義改革一色ではないことです。

私は2014年に出版した『安倍政権の医療・社会保障改革』で、「安倍政権の医療政策の中心は、伝統的な(公的)医療費抑制政策の徹底[とそのための規制強化-今回補足]であり、部分的に医療の(営利)産業化政策も含んでいる」と位置づけました(11)。安倍首相・安倍政権は、歴代自民党政権のうちでも飛び抜けて保守的イデオロギーが強く、特に2013年夏の参議院議員選挙で大勝し、衆参両院で安定多数を確保して以来、特定秘密保護法の強行採決、靖国神社公式参拝、集団的自衛権行使は認められないとする歴代内閣の憲法解釈の見直し、そして2015年9月の安保関連法の強行採決等、憲法解釈・外交面で「タカ派」的政策・行動を強めています。しかし、安倍政権の医療・社会保障政策は、歴代政権の政策を引き継いだ「部分改革」であり、「抜本改革」は目ざしていないことをリアルに見る必要があります【注】

『医療経済・政策学の視点と研究』第2章では、以上を含めて、「医療政策の将来予測の視点と方法」について詳細に述べました((1))。私の知る限り、このテーマについてまとまって論じた論文・図書はこれ以外にありません。手前味噌ですが、この時点(2006年)で、私の将来予測の的中率は概ね7~8割と自己評価していました。

この第2章の最後では、2004年に出版した『医療改革と病院』中の「私の過去の将来予測の誤りの原因」を、以下の5つに分類しました。①複数の選択肢(シナリオ)の存在の無視。②法の規定とは異なる現実・実態の見落とし。③単なる不勉強や勘違い。④予測の方向性は間違っていないが、現実の改革・変化のスピードは予測よりも遅い。特に、時期を限定した予測は外れやすい。⑤論争で相手の極端な主張を批判したときに「筆が走って」逆の極端に陥りことによる誤り。この自己反省が生きたためか、その後行った将来予測では、初歩的な誤りや重大な誤りはしないですんでいます。

【注】安倍政権の社会政策は「リベラル」?

医療政策の枠を超えますが、安倍政権が進めている立法や社会政策にはリベラルな側面があることも見落とせません(森健「[人権法案群][リベラル」な安倍政権」[毎日新聞」2016年5月24日朝刊。原昌平「安倍政権が始めた『社会政策』」「京都保険医新聞」2015年12月5日)。
その最たるものは、6月2日の閣議決定「ニッポン一億総活躍プラン」です。これは、安倍首相が昨年10月に唐突に発表した「新三本の矢」の具体化を図ったものですが、第2の矢「夢をつむぐ子育て支援」と第3の矢「安心につながる社会保障」は、少なくとも言葉としては誰もが賛成できるものです。さらに「働き方改革」には、「同一労働同一賃金の実現など非正規雇用の待遇改善」や「長時間労働の是正」など、労働組合や民主党・共産党等が長年主張してきたものを取り込んでいます。驚くべきことに、「性的指向、性自認に関する正しい理解を促進するとともに、社会全体が多様性を受け入れる環境づくりを進める」という、従来の自民党的発想とは真逆なリベラルな方針も含まれました。それだけに、

[本稿は2016年8月6日の第57回日本社会学会総会での特別講演「私の医療政策の分析・予測方法と『2040年の医療・社会保障』」の前半に加筆したものです。]

文献

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2.論文:地域包括ケアシステムと地域医療構想-医療経済・政策学の視点から
(『公衆衛生』2016年8月号(80巻8号):562-566頁)。

地域包括ケアシステムは、2003年に初めて提唱されたとき、「介護サービスを中核」とする介護保険制度改革と位置づけられ、医療は診療所・在宅医療に限定されました(高齢者介護研究会「2015年の高齢者介護」)。そのため、当時は、医療関係者の間では、それは医療とは無関係との理解が一般的でした。私は、かつて、ある医師会の講演会で、「地域包括ケアシステムが拡大すると介護費用が増え、医療費財源がその分抑制されるのではないか?」との質問を受けたことがあります。

しかし、その後地域包括ケアシステムの概念・範囲は徐々に拡大され、2012年以降は病院医療を含むことが明確になりました。その結果、最近では、地域包括ケアシステムが今後の医療・福祉改革の「中核」・「上位概念」であり、「地域医療構想」や急性期医療は下位概念、「脇役」との、以前とは逆の主張がなされるようにもなりました。

本稿では、まず、これら両極端の理解・主張は不正確であり、両者は法・行政的にも、実態的にも、同格・一体、相補的であることを示します。次に、今後の人口の超高齢化に対応して地域包括ケアシステムが構築されれれば、急性期医療のニーズは減少し、医療・介護費も節減できるとの期待は幻想であること、および厚生労働省関係者もそのような説明はしていないことを示します。なお、本稿は2015年に発表した拙稿に、その後公開された情報に基づいて加筆したものです(1)

法・行政的には同格・一体

地域包括ケアシステムという用語は、2003年に初めて提唱されたものの、2004~2008年(小泉内閣・第一次安倍内閣時代)には政府(関連)の公式文書からほとんど消え、それが復活するのは2009・2010年の「地域包括ケア研究会報告書」においてでした(2:22-34)

その後、この用語は、2012年2月に民主党野田内閣の閣議決定「社会保障・一体改革大綱について」で、初めて用いられました。それの「医療・介護等①」の副題は「地域の実情に応じた医療・介護サービスの提供体制の効率化・重点化と機能強化」とされ、「(1)医療サービス提供体制の制度改革」と「(2)地域包括ケアシステムの構築」が同格・同列に位置づけられました(8-9頁。(3)は「その他」)。

医療提供体制改革と地域包括ケアシステムの同格・同列視は、2012年末に成立した第2次安倍内閣でも踏襲されました。2013年8月の「社会保障制度改革国民会議報告書」は、「地域包括ケアシステムの構築」と「医療機能の分化・連携」を併記し、「医療の見直しと介護の見直しは、文字どおり一体となって行わなければならない」と強調し、「医療と介護の一体的な改革」を提起しました。その後、この表現は、医療・介護制度改革の「標語」となっています。上記報告書の「医療・介護分野の改革」部分の草稿を執筆した権丈善一氏は、昨年末に出版した新著で、「医療介護の一体改革」というさらに簡潔な表現を提起しています(3)。いずれの用語も、地域包括ケアシステムと地域医療構想の両方を含んでいます。

2013年12月に成立した社会保障改革プログラム法は、地域包括ケアシステムの法的定義を初めて規定したのですが、第4条第4項で「政府は、①医療従事者、医療施設等の確保及び有効活用等を図り、効率的かつ質の高い医療提供体制を構築するとともに、②今後の高齢化の進展に対応して地域包括ケアシステム(中略)を構築することを通じ、地域で必要な医療を確保するため」(以下略)とされ、「効率的かつ質の高い医療提供体制」と「地域包括ケアシステム」の構築は同格・一体とされました(①と②は私が便宜的に付けました。①の具体化が現在の「地域医療構想」です)。この扱いは、2014年の医療介護総合確保推進法でも踏襲されました。

医療を含まない地域包括ケアもある

私が繰り返し強調しているように、地域包括ケアシステムの実態は全国一律の「システム」ではなく、「ネットワーク」であり、それの具体的在り方は地域により大きく異なります(2:6-8)。しかもその多くが発展途上であり、病院を含まないものがむしろ多いとさえ言えます。歴史的にみれば、地域包括ケアシステムには「保健・医療系」と「(地域)福祉系」の2つの源流があるのですが、後者には医療そのものを含まないか、含んでも診療所・在宅医療のみであり、病院医療とは断絶しているものが少なくありません。

意外なことに、厚生労働省の「地域包括ケアシステムへ向けた取組事例」(同省HPに掲載)に示された10の「先進的な取組事例」の「イメージ図」「取組の概要」等には、病院についての記載はほとんどありません(実際には、3例は「保健・医療・福祉複合体」母体の特別養護老人ホームの取り組みですが、病院との関係は示されていません)。

昨年、山梨県下の自治体の地域包括ケアシステムづくりを進めてきた「チーム山梨」の優れた実践記録が出版されましたが、同県では保健福祉職主導が徹底しており、「往診をしてくれる医師や、医療機関そのものとの連携については、じっくり踏み込めていない」と明言しています(4)

以上から、実態的にも、地域包括ケアが地域医療構想の「上位概念」でないことは明らかです。

地域包括ケアシステムに含まれる病院も多様

ただし、法・行政的には、地域包括ケアシステムと地域医療構想との具体的な関係・線引きは示されていません。先述したように、現在は地域包括ケアシステムには病院医療も含まれますが、それは主として地域密着型の中小病院(概ね200床未満)であり、高度急性期を担う大病院は想定されていないと思います。厚生労働省の地域包括ケアシステムのポンチ絵もそのように読めます。

ただし、この点についての明示的な規定はなく、例えば、私の地元の愛知県では、藤田保健衛生大学病院や名古屋第二赤十字病院等の大規模病院が地域包括ケアに積極的に関わっています。特に、藤田保健衛生大学は医科大学として全国で唯一地域包括ケア中核センターを設置するなど、地域包括ケアに積極的に参入しています(5)。また、大規模急性期病院が多い「地域医療機能推進機構(旧・全社連・厚生団・船保会が合同)も、「全国57病院が一丸『地域包括ケア』の牽引役を担う」とアピールしています(6)

私は、大病院の地域包括ケアへの関わりは、それぞれの病院・地域が決めればよいと思っています。この点でも、地域包括ケアはシステムではなくネットワークと言えます。

後期高齢者急増でも急性期医療ニーズは減らない

在宅医療や地域包括ケアシステムを過大評価する方の中には、地域包括ケアシステムでは「治す医療」(キュア)から「支える医療」(ケア)に転換する、今後急増する後期高齢者には「治す医療」ではなく「支える医療」が必要になるので、急性期医療のニーズは縮小すると主張している方もいます。私が知る限りでの一番の極論は上野千鶴子氏で、ベストセラー『おひとりさまの最期』で、「超高齢社会における死は予期できるゆっくり死、ひとは徐々に弱っていき、足腰が立たなくなって寝たきりになり、やがて食べられなくなって飢餓状態になり、水も飲めなくなって脱水状態になり、やがて呼吸困難になって下顎呼吸が始まり、最後は文字通り息を引き取ります。(中略)これが老衰の大往生です」と、根拠を示さずに断言しています(7)

しかし、このような「老衰死」は高齢者死亡の一部にすぎず、多くの高齢者は、他の年齢層と同じく、急性疾患に罹患し、急性期治療を受けた後に死亡しています。最近は軽症の高齢患者や末期状態の高齢患者の救急車利用が増加していると一部で主張されていますが、石井暎禧氏は川崎市消防局の救急搬送患者の詳細な分析により、以下の2点を明らかにしています(8)。①高齢者の軽症者割合は4割強で、幼児(8割強)・少年(8割弱)・成人(7割弱)よりはるかに低い。②高齢者の軽症割合は2008~2012年に4割強で安定している。さらに、石井氏は氏が理事長を務めるる川崎幸病院(全国トップクラスの高機能救急病院)のデータを分析し、緊急入院した患者の死亡退院率は「年齢であまり違わない」ことも示しています(9)

視点は変わりますが、アメリカのイェール大学のGill教授等は、地域で暮らし当初は障害のなかった70歳以上の高齢者754人を対象にして、1998~1999年から毎月インタビュー調査等を行うなど、10年以上追跡調査を行い、2011年6月末までに死亡した491人(死亡時の平均年齢85.8最)の死亡前1年間の「日常生活の制限をもたらす症候」の有無を調査・解析し、以下の興味ある知見を得ています(10)。①死亡の1年前から日常生活の制限のあった高齢者は2割にすぎない。②この割合は死亡前5か月間まではほぼ一定だが、その後急増する。③ただし死亡1か月前でも日常生活の制限のない高齢者が4割強存在する。著者等によると、当初は健康だった高齢者を対象にして、死亡までの1年間の経過を月単位で詳細に調査した研究は、これが初めてだそうです。

日本ではまだこのような調査はなされていないと思いますが、日本の高齢者の健康水準がアメリカよりも高いことを考えると、日本では、死亡の1年前から日常生活の制限のある高齢者の割合は、さらに少なくなると推察します。内閣府「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」(平成22年)によると、60歳以上の男女のうち、「健康である」と答えた者の割合は日本65.4%、アメリカ61.2%、同「まったく不自由なく過ごせる」と回答した者の割合は日本89.8%、アメリカ63.3%でした(11)

このような大多数の健康高齢者が、心筋梗塞や脳卒中等の急性疾患になった場合に、「治す医療」をせずに、最初から「支える医療」のみをすることは、本人・家族の希望に反するし、現在の国民意識と乖離しています。

それに対して、「社会保障制度改革国民会議報告書」は、病院が「治す医療」から「治し・支える医療」の担い手に変化することを提起しました。武田俊彦厚生労働省大臣官房審議官も、2015年4月の講演で、「救急の受け入れ体制は地域包括ケアと不可分」、高齢者の第二次救急(病院)の問題は「地域包括ケアシステムそのものである」と強調しました(12)。「地域包括ケア研究会(座長:田中滋慶應義塾大学名誉教授)が本年5月に発表した2015年度報告書も、「人生の最終段階におけるケアのあり方を模索する」の項で、「超高齢社会においては、『治す医療』のみでは限界があり、人生の最終段階の医療や介護のあり方を含め、『治し・支える医療』が求められているいう変化は、社会保障制度国民会議報告書が2013年に的確に指摘した通りである」と書いています(13)

地域包括ケアシステムにより医療・介護費用が低下することはない

最後に、地域包括ケアシステムにより医療・介護費用が低下することはないことを指摘します(2:15-16)

私は1980年代以来、30年以上、地域・在宅ケアの経済評価、費用効果分析を研究テーマの1つにしています。そして、少なくとも重度の要介護者・患者の場合には、地域・在宅ケアの費用が施設ケアに比べて高いことは、1990年代以降、医療経済学の膨大な実証研究により確立された国際的常識になっています(14)

実は、厚生労働省は1990年代までは地域・在宅ケアを拡充すれば医療・介護費が抑制できるとの期待を持っていたようですが、21世紀に入ってからはそのような主張はしていません。私の知る限り、このことを最初に認めた厚生労働省の高官は佐藤敏信保険局医療課長(当時)で、2008年に、「在宅と入院を比較した場合、在宅のほうが安いと言い続けてきたが、経済学的には正しくない。例えば女性が仕事を辞めて親の介護をしたり、在宅をバリアフリーにしたりする場合のコストなども含めて、本当の意味での議論をしていく時代になった」と率直に発言しました(2008年11月14日全国公私病院連盟「国民の健康会議」)。

地域包括ケアシステムの批判者の中には、厚生労働省がそれにより医療・介護費の抑制を目指していると主張されている方もいますが、厚生労働省の高官や厚生(労働)大臣経験者で、そのような発言をしている方はいません。逆に、坂口力元厚生労働大臣は、津島雄二元厚生大臣等との2014年の座談会で、「『地域包括ケアシステム』が実現しても医療介護の費用は下がらないと思います。つまり、『地域包括ケアシステム』は社会にとって大変良い制度ではありますが、必ずしも財政的にコストカットを可能とするものではない」と述べ、津島氏も「同感です。一番重要なことは財務省的に国の医療介護のコストを下げればよいということではなく、全体として効率的に機能する制度に向けてベクトルを合わせるべきである」と応じています(15)

ただし、医療・介護の実態を知らない経済官庁や政治家にはまだ、地域包括ケアシステムで費用が抑制できるとの誤解・幻想が残っています。

引用文献

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3.書評:早川一光+立岩真也+西沢いづみ『わらじ医者の来た道-民主的医療現代史』(青土社,2015年8月)

(『保健医療社会学論集』27巻1号:118-119,2016年7月31日)

堀川病院と早川一光先生のお名前は、1970年代~1980年代前半に、地域医療の旗手・パイオニアとして全国に轟いていました。当時私は、東京の地域病院・代々木病院で脳卒中患者を中心としたリハビリテーションの診療と臨床研究に従事していたのですが、早川先生の文献を多いに参考にさせて頂きました。特に本書でもなんども言及される「間歇入院」は代々木病院のリハビリテーションでも導入し、それについての研究論文を発表したこともあります(「陳旧期脳卒中患者に対する『間けつ入院』」『リハビリテーション医学』20(4):251-253,1983)。

早川先生が1980年以降、積極的に取り組まれている「ボケ」(認知症)に対するケアは、現在でも取り上げられますが、先生が実践された「地域医療」、「民主的医療」は、ごく一部の関係者を除いてはほとんど忘れられていると思います。この点では、早川先生より1周り年長だった長野県・佐久総合病院の若月俊一先生(2006年死去、96歳)が現在でも「地域医療の先駆者」として高い評価を受け、膨大な研究があり、しかも佐久総合病院では「若月イズム」継承の努力が続けられているのと対照的です。それだけに、「民主的医療現代史」の空白を埋める本書は、医療史的価値が高いと思います。以下、各章のポイントと私の感想を述べ、最後に、本書への2つの疑問・注文を率直に書きます。

本書の本文は4章構成です。第1章「たどり来し道」は、早川先生が、今から21年前の1995年に「京都新聞」に発表した回想録であり、生い立ちから医学生(運動)時代、そして堀川病院の前進である白峯診療所の開設(1950年)とそこでの医療運動が生き生きと語られています。ただし、記述は1958年に堀川病院を建設した頃で終わっており、「青春グラフィティ」とも言えます。本章の特色は「両親のこと」が①~⑥もあることで、これは早川先生の「人間の思想というものはポッと生まれてくるものではなく、必ず生まれ、育ち、それから親、家庭の教育、雰囲気、そういうものから影響されてできてくる」(第2章66頁)との信念の反映と思います。

第2章「わらじ医者はわらじも脱ぎ捨て-『民主的医療』現代史」は、早川先生に対する立岩真也さんのインタビューですが、実質的には対談であり、第1部で早川先生が(意識的に?)ぼかして語った重要な事実・論点について、立岩さんが鋭い質問をすることにより、早川先生の本音をかなり引き出しています。私にとってもっとも興味深かったことは、「民主的医療の実践」を貫くために、「白峯診療所の理事会の構成を住民側8,病院側7に」したことです。この点とも関連して、立岩さんは「民主医療」と「民主的医療」とは違うという視点から、早川先生と当時の日本共産党との医療運動に対する認識の違いについて執拗に質問していますが、早川先生はサラリとかわしています。

第2章では、第1章では触れられていなかった、早川先生の1970年代以降の「呆け」(認知症)に対する取り組みのプロセスも具体的に語られ、早川先生の以下のような「医療に対する基本的な考え」が示されています。「治らない、治せない、ではどうするかといったら、一緒に泣こうよ、一緒に語ろうよ、一緒に悩もうよ、つねにあなたの側にいるよ、と、住民と一緒に歩いていくことしか僕にはできないのではないか」(101-102頁)。

第3章「早川一光インタビューの後で」は、第2章についての立岩さんの「補遺」です。インタビューでも早川先生から聞き出せなかったことについて、ほぼ時系列的に、「文字資料で固められることは固めていく」作業(文献研究)が行われており、1940~1970年代の「民主的医療現代史」を研究する上でのヒントが多数示されています。私が特に重要だと思った論点は、1950~1960年代に白峯診療所や堀川病院が先駆的地域医療を実践したにもかかわらず、同じ時期に、京都府では十全会の3つの巨大(精神→老人)病院が設立され、3病院の病床数は堀川病院の10倍を超えていたが、「両者をどのように並べてみたらよいのか」です(117-118頁)。ただし、第3章は、立岩さん独特の、厳密ではあるが、回りくどくて分かりにくい表現が多く、他章と違い、すらすらとは読めませんでした。また後半(特に149頁以降)は、本題の「民主的医療現代史」から離れた立岩さん独特の「現代医療改革論」であり、しかも「間違っている」、「べきである」等の、上から目線または独断的表現を連発しているのが気になりました。

第4章「早川一光の臨床実践と住民の医療運動-1950~1970年代の西陣における地域医療の取り組みを手がかりに」は、西沢いづみさんによる詳細な文献研究です。西沢さんは早川先生の次女だそうですが、実父に対する思い入れは一切含まれず、優れた評伝にもなっていると思います。第1~3章には書かれていなかったことで、特に興味深かったのは次の2点です。1つは、第2次大戦直後の白峯診療所を拠点とした早川先生たちの医療運動が、母校の京都府立医科大学内の運動と連動していたこと、およびそのことが『京都府立医科大学百年史』にも明記されていたことです(202-203頁)です。もう1つは、早川先生が早い時期から(初出文献は1981年ですから、おそらく1970年代から)、「本当の医療」は「住民の生活の中に医療があることを意味している」として、「生活医療」という用語を用いていたことです(208頁)。保健医療社会学や社会福祉学等では、現在でも現代医療を「生物医学モデル」と批判し、それに「生活モデル」を対置する言説が散見されますが、早川先生はそのような不毛な二項対立を30年以上前に克服していたと言えます。

冒頭で述べたように、「民主的医療現代史」の空白を埋める本書は、医療史的価値が高いと思います。しかし、以下の2点では、物足りなさ・疑問も感じました。

第1は、第2章で、特に立岩さんが「民主医療と民主的医療」との違いにこだわっている反面、それらと「医療の社会化」との大きな違いについてはほとんど論じていないことです(146頁で、高橋晄正医師の言説にチラリとは触れています)。博覧強記の立岩さんが、1960年代後半~1970年代前半に、医療社会化(公営化)を主張する日本社会党・総評・自治労・「医療社会化推進会議」とそれを批判する日本共産党・民医連・保団連等との間で展開された激しい論争をご存じないとは意外です。この論争に比べれば、「民主医療」と「民主的医療」との違いはほとんど問題にならないと思います。

第2は、立岩さんが第2章で早川先生に長時間のインタビューをしながら、1970年代以降の「民主的医療現代史」についてはほとんど質問されていないことです。第2章の最後では医療運動の「仕掛けと継承」が論じられていますが、早川先生は「[堀川病院には]もう残骸しか残っていない」、「荒れ果てた古いお城を眺めるような気分です」(107頁)と投げやりな発言をするだけで、立岩さんもそれ以上は質問していません。「インタビューでは(でも?)失礼な人間」(228頁)と自称する立岩さんらしくないと思います。第3章でも、立岩さんは「その[堀川]病院は今は普通の病院になっているらしい」(141頁)と書いていますが、その根拠は示されず、これでは同病院に対して大変失礼だと思います。「民主的医療」に限らず、どんな運動・組織でも「継承」は重要な課題であるだけに、立岩さんにはもっと掘り下げた分析をして頂きたかったと思います。

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4.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文

(通算126回.2016年分その6:6論文)

「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。

<韓国の医療(4論文)>

○韓国の価格・販売量協定の下での医薬品の予測販売量と実際の販売量との差に影響する諸要因
Park S-Y, et al: Factors influencing the difference between forecasted and actual drug sales volume under price-volume agreement in South Korea. Health Policy 120(8):867-874, 2016.[量的研究]

本研究は、価格・販売量協定(PVA)の下での医薬品の予測販売量を超える実際の販売量に影響する諸要因を分析する。韓国では、2007年に「医薬品費合理化計画」の一環として、国民健康保険公団・製薬企業間でのPVAが開始された。新たに保険収載された医薬品(新薬)の販売量はPVA施策でモニターされ、実際の販売量が事前に合意された販売量を30%以上超過した場合には、その医薬品の償還価格(以下、価格)が引き下げられる。ただし引き下げの上限は10%であり、医薬品費を抑制するためにはPVAの予測販売量を正確に決める必要がある。

ロジスティック回帰分析により、PVAにより価格を引き下げられる新薬に関連する要因を評価した。γ分布による一般化線型ロジスティック・モデルにより、PVAにより価格を引き下げられた新薬のうち、予測販売量に比べての実際の販売量超過に関連する諸要因を評価した。PVAによりモニターされた186の新薬のうち、65(34.9%)が価格を引き下げられていた。新薬と同一の薬効分類の医薬品市場で既存の医薬品のシェアが高かった(10%以上)製薬企業が販売した新薬は、そうでないメーカーの医薬品より価格引き下げの確率が高かった。多国籍企業はの新薬は国内企業の医薬品より、価格引き下げの確率が高かった。代替可能な医薬品がたくさんある新薬ほど、価格を引き下げられる医薬品であるオッズ比が高かった。価格を引き下げられた新薬のうち、予測販売量に比べ実際の販売量のが多かった新薬ほど臨床的有用性が高かった。

二木コメント-韓国で2006年に導入された保険収載された新薬の実際の販売量が事前の予測販売量を30%以上超えた場合の価格引き下げ施策(PVA)は、日本での新薬の薬価引き下げ施策の参考になると思います。なお、Health Policy誌2016年8月号は「医薬品政策」(Pharmaceutical policies)を特集して、6論文を掲載しており、本論文がその巻頭論文です。

○韓国で医薬品の償還に医療技術評価を用いた8年間の経験
Bae E-Y, et al: Eight-year experience of using HTA in drug reimbursement: Korea. Health Policy 120(6):612-620,2016.[医療政策研究]

本研究は、韓国における医薬品の償還の意思決定のプロセスと結果を記述し、それのパフォーマンスを様々な利害関係者の視点から評価する。健康保険審査評価院(HIRA)がウェブ上に公開しているデータを用いた。対象は、2007年1月から2014年12月までの8年間に、HIRAに保険収載(償還)が申請され、HIRAがそれの可否について意思決定した253の新薬である。これらのうち、175(69.2%)の新薬の保険収載が推奨され、78(30.8%)は却下された。253の新薬のうち、68の新薬は既存薬に比べ臨床的効果が大きいと判断された。既存薬に比べ臨床的効果が大きいとは見なされなかった新薬では、既存薬と比べて薬価が安いことが保険収載の基準とされた。

以上の分析に加え、本研究では104の利害関係者(産業、大学、公的機関、社会団体)に対して、韓国で2006年に導入された医薬品の保険収載のポジティブリスト方式についての見解について質問紙調査を行った。産業界と非産業界の利害関係者は、制度の効率性、透明性、エビデンスに基づく償還の意思決定に関しては意見を異にしたが、2007年以降保険収載の意思決定の一貫性は改善した反面、新薬へのアクセスが後退したことについては意見が一致していた。回答者は国民のこの意思決定についての情報へのアクセスを改善することを希望していた。韓国における医薬品の償還の意思決定について検討した本研究は、同様の政策の導入を検討している国に重要な情報を提供するであろう。

二木コメント-日本より一足早く、アジアで最初に、新薬の保険収載の判断時に経済評価(費用対効果)を導入した韓国における、経済評価のプロセスと結果がよく分かります。類似論文と異なり、利害関係者のそれについての評価の異同を調査しているのは有用と思います。なお、Health Policy誌 2016年6月号は韓国の医療を特集しており(Focus on South Korea)、10論文を掲載しています。韓国と日本の医療制度は世界で一番似ているので、日本の研究者にも参考になると思います。以下の2論文もこの特集掲載論文です。

○韓国における処方箋なしでも購入可能な配合薬の健康保険給付リストからの除外が医薬品費に与えた影響
Park CM, et al: Effects of delisting nonprescription combination drugs on health insurance expenditures for pharmaceuticals in Korea. Health Policy 120(6):590-595,2016.[医療政策研究]

韓国では、2006年11月に、処方箋なしでも薬局で購入可能な727の配合薬(24の薬効分類にまたがる)が、健康保険の医薬品費を削減することを目的にして、保険収載リストから除外され、全額患者負担となった(それ以前のネガティブリスト方式からポジティブリスト方式に移行した)。この除外が国民医療費中の薬剤費に与えた影響を明らかにするために、国民健康保険公団の2005年1月~2007年8月の公式データを用いて、時系列・差の差分析(回帰分析)を行った。主なアウトカム変数は総医薬品費、および医療施設別と薬効分類別の医薬品費である。保険収載リストから除外された医薬品と除外されなかった医薬品とを比較した。医薬品費総額の趨勢については、両群の間に差は認められなかった。しかし、診療所ではリスト除外医薬品の費用は減少した。薬効分類によっても、影響は異なった。

二木コメント-処方箋なしでも薬局で購入可能な医薬品の保険給付からの除外は、必ずしも医薬品費を減らさないが、保険者から個人・患者への「コスト・シフティング」を起こすことが示されています。

○韓国の国民皆保険制度における国民の医療制度のパフォーマンスへの満足度
Park K, et al: Public satisfaction with the healthcare system performance in South Korea: Universal healthcare system. Health Policy 120(6):621-629,2016.[量的研究]

国民の医療専門職に対する満足度を知ることは、医療の質の向上、費用削減および医療改革実施の重要なステップになりつつある。本研究の目的は、韓国民の医療制度に対する満足度を評価し、満足度と社会・人口学的要因との関連を検討することである。保健福祉省がソウル・京畿道・釜山の3都市部で2011年6・7月に行った、1573人の成人(20-69歳)を対象にした面接調査(1人平均40分)のデータを用いた。医療制度の満足度は3つの領域(医療へのアクセス、医療費、医療の質)にまたがる13の質問で評価した。確認的因子分析により、医療制度のパフォーマンスについての満足度の回答の妥当性を検証した。構造方程式モデリングにより、人口的要因と社会経済的要因が満足度に与える相対的影響を推計した。

本研究は、医療制度のパフォーマンスの満足度についての包括的な3要因モデルを提起した。3要因のうち医療制度の満足度に一番影響したのは医療の質であり、このことはそれが消費者の医療制度の満足度を決める一番重要な要因であることを示唆している。人口的・社会経済的要因については、居住地と婚姻状態が満足度に影響していた(満足度は京畿道居住者と配偶者のいない者で低かった)。

二木コメント-緻密な多変量解析ではありますが、結果は陳腐であり、他国の調査結果との比較も行われていません。

<その他(2論文)>

○医療におけるリーン介入:それは現実に機能するのか?体系的文献レビュー
Moraros J, et al: Lean intervention in healthcare: Do they actually work? A systematic literature review. International Journal for Quality in Health Care 28(2):150-165,2016.[文献レビュー]

「リーン」(原義は「引き締まった」、「贅肉のない」の意)は広く用いられている質改善の方法論であり、最初は自動車産業や製造業で開発・使用されたが、近年は医療部門にも拡張されている。本体系的文献レビューは「リーン」または「リーン介入」が医療従事者、患者の満足度、健康アウトカムとプロセスアウトカム、及び医療費に与える影響を別々に評価する。Medline等9つの電子的データベースを用いて、査読付き雑誌に掲載され、リーン介入についての定量的データを含んでいる論文を検索した。各論文の方法論の質は、妥当性が確認されているチェックリストを用いて評価した。これら以外の公開データも収集した。

電子データベースから得られ、方法論の質の最低条件をクリアしたのは22論文であった。これらのうち、4論文は健康アウトカムのみを、3論文は健康アウトカムとプロセスアウトカムの両方を、15論文はプロセスアウトカムのみを評価していた。本レビューから、医療におけるリーン介入について得られた主な知見は以下の通りである。①患者の満足度と健康アウトカムとの間に統計的に有意な関連はない。②医療費と医療従事者の満足度との間には負の関連がある。③リーン介入は、患者の流れや安全のようなプロセスアウトカムに対しては効果があるかもしれないが、結果は一貫していない(inconsistent)。

結論:一部の人々はリーン介入が医療の質改善をもたらすと強く信じているが、現時点で得られるエビデンスはこのような主張を支持していない。

二木コメント-医療における「リーン」についての最新の体系的文献レビューです。主な知見と結論は、本「ニューズレター」139号(2016年2月)で紹介した以下の文献レビューと同じです:D'Andreamatteo A, et al: Lean in healthcare: A comprehensive review. Health Policy 119:1197-1209,2015.

○[アメリカにおいて]フォーマルな雇用はインフォーマルなケア提供を減らすか?
HE D, et al: Does formal employment reduce informal caregiving?
Health Economics 25(7):829-843,2016.[量的研究]

アメリカ国勢調査局が継続的に実施している「所得・プログラム参加調査」(SIPP)を用いて、フォーマルな雇用がインフォーマルなケア提供に与える影響を調査する。個人の週当たり労働時間と州の失業率を用いる。その結果、主要なケア提供年齢(40-64歳)の女性では、週当たりの労働時間が10%増えるとインフォーマルなケア提供の確率は2%ポイント低下することを見いだした。この効果は、長時間のケア提供が必要な場合、およびケア提供者が世帯構成員である場合、より強かった。本研究の結果は就労促進政策は、高齢化社会では、インフォーマルなケア提供を減らすという意図せざる結果を招くことを意味している。

二木コメント-英語要旨はごく簡単ですが、本文は緻密な計量経済学的研究です。なお、私は、『地域包括ケアと地域医療連携』(勁草書房,2015)の第1章第1節の「おわりに-地域包括ケアシステム確立の2つのブレーキ」(16頁)で、地域包括ケアシステムでは家族介護の拡大が暗黙の了解とされているが、それを無理に促進すると、「介護離職」が増加し、それにより現役労働者の減少に拍車が掛かる危険があると指摘しました。

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5.私の好きな名言・警句の紹介(その141)-最近知った名言・警句

<研究と研究者の役割>

<組織のマネジメントとリーダーシップのあり方>

<その他>

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