スウェーデンの共済組合
原著:ビルゲル・シモンソン(ゲーテボルグ大学) 訳:主任研究員 石塚秀雄
掲載日2003年01月14日
はじめに
19世紀に、スウェーデンは農業国であった。1900年には人口の半分は、農民が所有している小さな農場で働いていた。農村では、農民は使用者でありまた家族経営の戸主であったが、社会保障の責任を担っていた。
1846年までに農村家族経営が解体して、同業組合が村の経済的社会的生活を支配した。親方は職人たちの面倒をみる責任があった。1846年にこの社会保障制度は廃止されたが、実質的には1864年以後になって無くなった。その時、商業の自由が導入された。それ以後、職人は社会保障を最低限しか受けられなくなった。
スウェーデンの産業革命は遅ればせながら始まったが、1870年から1890年にかけて急速に展開した。それから1890年から1920年までは非常な飛躍をした。大企業はその登場からして、重要な役割を果たした。1872年に、産業労働者の65パーセント以上が、従業員100名以上の企業で働いていた。その生産力のために、大工場が村の外にしばしば設立された。
■疾病給付組織
事故の犠牲となった労働者に個人的な保障を与える組織は、中世のギルドなかにすでに存在していた。もともと、ギルドは相互扶助と宗教儀式を行うためのものであった。都市の多くのギルドは、商人ギルドでも職人ギルドでも、13世紀から14世紀にかけて発生した。15世紀になると、農民ギルドや司祭ギルドも登場した。16世紀初めには、ギルドは大いに社会的役割、宗教的役割を果たした。そして後に疾病基金や死亡基金を設立した。
宗教改革の後、1520年に、ギルドは解体を始め、国家が管理を始めた。保守的な宗教団体と見なされて、ギルドはプロテスタント国家の新しい教会にとって危険視された。 新しい団体(skaran)が設立された。スウェーデンの村々は、ドイツの商人や職人たちによって、ドイツモデルによって組織された。ギルド組織に対しても職人組織に対しても同じ取扱いとなった。16世紀と17世紀のギルドの定款の大部分は困っている会員への保障を謳っていた。
職人たちはしばしば職場を換わり、だいたいは親方に依存していた。このために職人組合が作られた。18世紀以降、ストックホルムでは、職人組合は病人や患者のための特別施設や小さな病院を作って、住居、食事、世話などを提供した。
疾病保険組織
共済組合数と組合員数は、20世紀初頭まで確実に増加した。とりわけ1880年は特筆された。共済組合の発展に伴い、共済組合(および関連組織)についての法人制度、労働運動の登場、社会主義者による共済組合などについての議論も活発化した。
共済組合の資産は組合員数の増加に比例して増加した。共済組合制度は経済計画の発展に組みいれられた。それは弱者のピラミッドであった。すなわち、現実的にはその発展は微々たるものであった。確かに、共済組合は1862年の443から1904年の6,347に増加した。しかし、一共済組合あたりの組合員平均数は191人から146人と減少した。共済組合の平均資産は、かろうじて二倍になった。組合員当たりの資産額は4倍になった(18リラから85リラ)。共済組合は規模が小さいが、資産は倍増した。
現実には目立たないが、その資本は全体として75,000リラと馬鹿にならない額となった。これは20世紀始めのイタリアの各種団体(信用組合、貯蓄金庫、農村金庫、郵便貯金、信徒貯金など)の貯蓄高の2.5%を占めた。
投資や組合員の貯蓄再配分について経済計画上のいろいろな実行手段は次第に減っていった。証券投資や企業活動や食堂、パン屋、社会的薬局などの協同組合活動への投資は減少した。一部の共済組合は、不利な状況の中で、委託金融の戦いを行った。共済組合が多様な活動をしたのは定款上の問題があったがまた地域のそれぞれの事情もあった。そこでは経営陣主導の下に、発展を目指そうとしていた。
第一に、共済組合の収入構成は著しく変化した。名誉組合員の出資は、とりわけ発起人たちの出資は、年々大きく減少した。反対に、資産出資が増加した。それにより協同組合や企業の資産に対する利子だけでなく、経営方式も多様化した。逆に、出費構造も実質上同じ水準に達した。組合員に対する補助金は、当初よりも比率は低くなったけれども増加した。
この事実はなにを意味するのか。この種の共済組合が普及することを示すものであった。もし共済組合の資本配当が変わらず、非常に小規模化して数が増えたということであるならば、「より軽い」発展モデルによる共済組合が疾病給付を引き下げることになる。
すべての人に開かれた初めての疾病金庫
ここで述べたすべてのSSM(相互保険会社は)は共通点を持っている。すなわち、SMMは職業集団や労働集団と結びついていることである。主として都市部の手工業労働者と郊外の鉱山労働者などである。これらのグループは、1850年代の総人口の5パーセントに過ぎなかった。スウェーデンの人口の5分の4近くは農業漁業で暮らしていた。疾病の面倒を見るのは家族であり村落共同体であった。それらで無い場合は、地方政府が関与した。1734年に、新しい規則が出来て、地域共同体が農村病院と貧民避難所を作ることを定めた。1763年に、新しい法律で地方自治体の貧民への責任が拡大された。公的セクターの疾病支援と貧民への公的扶助が結合した。
誰でも加入できる最初の疾病金庫は、18世紀末に2つの大都市で作られた。それはゲーテボルグとストックホルムである。ゲーテボルグ金庫に加入したい者は、健康であり、入会金を支払うことのできる者である。開始後しばらくして、加入資格者は40歳以下と制限された。
新しいSSMの形態が19世紀になって登場した。これらは数も少なくて比較的弱小であった。存続期間も長くなかった。労働者保険委員会の報告によれば、1884年にはわずか3金庫しか残っていなかった。
疾病保険の進歩は1866年から1884年にかけてであった。1846年にギルド同業組合制度が崩壊して、1864年には商業の自由が旧体制の政治経済に終わりを告げた。そして社会制度におけるギルドによる社会保障にも終わりがきた。職人組合は、自らの状況を、工場労働者のそれと同じであることを改めて思い知った。すなわち、地域コミュニテイによる保障がないかぎりなんらの保護が受けられないことである。
1850年、1860年、1870年の流行病は疾病保険会社を登場させた。さらに農業は、1860年の不作で荒廃した。状況は悪化して、地域コミュニテイは住民の生存に必要な最低限のものしか供給出来なかった。労働者の自由アソシエーションは(ドイツ、フランス、イギリス、デンマークの同種の労働団体の影響下で)、自分たちの労働組合員たちのための疾病謹告の設立を始めた。
1861年に「ノルコピングス労働者協会」が疾病死亡保険金庫として設立された。これは最初の2種混合保険型である。これらの金庫は中産階級や上流階級の主導により、社会改革目的と単純に慈善的な目的で作られた。組合員の4分の1だけが労働者階級であった。金庫は2つの基本原則を持っていた。それは愛国主義と宗教であった。アソシエーションは制度を変えて貯蓄金庫を設立した。しかし、金庫は疾病死亡金庫も設立計画にもすぐに取り組んだのだった。外国からの影響は大きかったが、ともかくスウェーデンで初めての金庫のモデルを規則化した。
金庫はまもなく労働団体の加入を促進した。ストックホルムの労働団体は、疾病金庫の設立に力を入れた。6年後、組合員数5千人の95パーセントが疾病金庫に加入した。労働団体にとっての経済的財源としても金庫は重要な要素であった。
労働団体によって設立された疾病金庫や企業金庫が登場してきた。これらは労働団体の組合員や工場労働者を対象にした。1870年に、スウェーデンに疾病金庫の新しい型が生まれた。「百人協会」であり、原則はその数を超えないことであった。この最初の協会は1871年にゴーテンブルクで設立された。もうひとつもまもなく開始された。いくつかの金庫が家族向けの協会を作った。それにより100人の夫と100人の妻が組織された。(女性の会費は低くて、男性の会費の半分であった)。組合員は、種として労働者と職人であった(70パーセント)。残りは中産階級であった。1884年からスウェーデンでは、150の「百人協会」ができた。その年にすでに20が解散している。
この百人協会は、わずか20年ちょっと活躍したにすぎなかった。19世紀末には他の相互扶助団体がこの先駆者にとって代わった。疾病保険法が1910年に制定され、原則として加入者の人数制限を禁止した。
1847年と1871年の新法では、ギルドにとって大混乱の結果、商業の自由が導入された。新法は、雇用主たちが従業員に対して社会的責任を持つことを規定した。ここから企業金庫が設立されて、労働者たちは雇用主の慈善を好み、また教区の支援もあった。一方1870年代に、重要な発展もあった。
1884年に、企業金庫は、加入者4万人となった。そのうち4つの金庫だけが死亡保険を扱っていた。その他は疾病金庫でときたま死亡保険を暑かった。1884年に鉄鋼労働者の約30パーセント、造船労働者の70パーセント、建設労働者、兵器工場の労働者などが企業金庫を設立した。
企業金庫は企業の労働者のための積立金制度である。半額が加入者負担の義務があった。企業金庫は、雇用主主導で設立された。しかし、労働者が作ったものも一部ある。従って、雇用主は、金庫に出資金を出し、運営は工場の中に事務局を置いたので、真の実権は雇用主が持っていた。
労働組合と疾病手当
職人組合の多くは労働組合に転じた。しかし、1850年から1890年にかけてはしばしば共済組合になった。労働組合もいろいろな理由で疾病金庫を作った。労働者はしばしば企業金庫で雇用主が影響力を発揮することをしばしば嫌ったためである。労働組合に加入する者を共済組合の新しい加入者にすることによって、労働組合員と労働組合の間という緊密な範囲で共済組合の設立が行われた。したがって、労働組合を止める者は共済組合も止めなければならなかった。
しかしこの共済組合は労働組合から一銭ももらってはいない。1902年以降、この共済組合は衰退し始め、1918年には疾病金庫の加入者の2パーセントくらいに落ちていた。
労働組合と疾病手当
職人組合の多くは労働組合に転じた。しかし、1850年から1890年にかけてはしばしば共済組合になった。労働組合もいろいろな理由で疾病金庫を作った。労働者はしばしば企業金庫で雇用主が影響力を発揮することをしばしば嫌ったためである。労働組合に加入する者を共済組合の新しい加入者にすることによって、労働組合員と労働組合の間という緊密な範囲で共済組合の設立が行われた。したがって、労働組合を止める者は共済組合も止めなければならなかった。
しかしこの共済組合は労働組合から一銭ももらってはいない。1902年以降、この共済組合は衰退し始め、1918年には疾病金庫の加入者の2パーセントくらいに落ちていた。
節制運動、反アングリカン教会運動、疾病金庫
節制協会は、1880年代始めから疾病金庫の設立を始めた。疾病金庫は1909年には116できた。反アングリカン教会グループも疾病金庫を作った。教会が金庫の運営と加入を促進した。これらはいずれも疾病金庫の運動を促進した。
政府の補助金と国家の統制
1891年法は、国家が疾病金庫に対する統制をする出発点となった。金庫に関する改正では、国家からの補助金は、組合員数に基づくとなった。そもそも、この補助金は、小規模なもので、小規模な金庫向けであった。しかし、金庫の独立を維持するために、一部の金庫は政府補助金を無視した。一方、国家補助金が増大したので登録する金庫が増えた。19世紀後半に、疾病金庫は、次第に重要性を失い消えていった。高齢化した加入者は、収入が無くなっているので、加入最高年齢は50歳までとされた。さらに、地方疾病金庫の多くは都市に所在した。農村地域の住民は、したがって、ほとんど加入できなかった。
1892年に最初の全国レベルの金庫が開始して、1897年には14000人の組合員となり、状況は変わった。節制運動との競争にもかかわらず、疾病金庫は前進した。1902年には22000人の組合員、1907年には43000人の組合員となった。
1910年に、全国疾病金庫はグループ化して16万人の組合員となった。すなわち、スウェーデン全体の全加入者の4分の1となった。疾病金庫は農村住民の相互扶助を可能にした。
1910年の疾病金庫の新法では、100人以下の加入者の金庫は登録できないと規定された。法律では、さらに給付最低額も決められた。したがって弱小の疾病金庫は吸収された。法律では、死亡給付金は最高200クローネとされた。この金額は1918年には500クローネとなった。しかし、一部の金庫ではずっと定額の給付をしていた。また、たとえば、節制金庫の多くは1910年には死亡給付金は1200クローネであった。
新法は、死亡扶助を補完的なものにしていた給付分割方式を廃止した。すなわち、加入組合員が増加したので、個人的分割給付方式は一括支払に取って代わった。
1931年から1945年の発展
節制協会は、1880年代始めから疾病金庫の設立を始めた。疾病金庫は1909年には116できた。反アングリカン教会グループも疾病金庫を作った。教会が金庫の運営と加入を促進した。これらはいずれも疾病金庫の運動を促進した。
失業給付金庫
失業給付公的保険はスウェーデンでは遅れて発展した。イギリスやイタリアでは、1920年以前にこの種の保険が実施された。ヨーロッパの他の諸国ではすでに、ベルギーのゲントの随意方式を採用していた。これは自治体の補助金を労働組合の失業金庫に保障するというものであった。すこしずつ、各国はこのゲント方式を義務的な制度として導入した。1934年に、スウェーデンでは、このゲント方式に触発された失業給付公的保険を導入した。現在まで、スウェーデンの失業保険は義務的制度ではない。
同業組合内部の職人団体は、医療費金庫を設立しただけではなく、職人の配転も担当した。同じような金庫が他の職人労働組合によって後に設立された。「配転支援金庫」は失業給付金庫の先駆者であった。いくつかの場合、これらの金庫は全国レベルでの労働組合連合会を作った。
1883年に、印刷工たちが最初の全国配転支援金庫を作った。この金庫は、1886年にスウェーデン印刷工連合会設立の道を開いた。6年後、これらの金庫は全国連合会への加入が義務化された。同じく、配転支援金は失業給付の変形であり、金庫はこの2種類の給付を引き続き行った。1898年以降、金庫は失業給付金庫として特徴づけられた。そして同じような経過を辿った別の業界はタバコ労働者連合会であった。
19世紀末に、他の2つの連合会が失業給付金庫を設立した。それは鉄鋼勤続労働者団体と製パン労働者団体であった。1899年末に、4つの連合会の組合員は17316人となった。同じ時期に、配転保障金を出していたより小規模のその他の5つの連合会は4049人であった。
躍進したのは1912年から1920年である。約20の労働組合連合会が1920年に似たような配転金庫を組合員むけに設立した(加入は義務的であった)。
1934年に、労働組合は失業給付を349800人の組合員に支払った。1920年以降、金庫の設立は失業の増大によって無くなった。
どのような理由が労働組合をして金庫の設立にむかわせたのか? 第一に、このような扶助の形式は19世紀末には非常に必要とされた。ただ労働組合だけが、これらを設立する手段を持っていた。というのも労働組合は失業統計を持っていたので、労働市場の状況に対応する手段を持っていたのである。さらに、労働組合は自らの実行機関を持っていた。第二に、労働組合が作った失業給付金庫は、労働組合員の増加によって利潤を引き出すことができた。それで雇用主との交渉に際して強い立場に立てた。第三に、労働組合は真に失業者の支援部隊であった。低賃金を防止する有力な力となった。最後に、労働組合は、失業した組合員も資格を止めさせた。こうして失業金庫は労働組合を強固にした。
労働組合の失業給付金庫の活動を疾病金庫の活動と比較すると非常な違いがある。第一に、自由労働者団体も節制運動も労働組合と競争しなかった。国家は1934年以前には干渉しなかった。失業保険を獲得するために、労働者は労働組合に加入する以外に道はなかった。
1934年に、41労働組合のうちわずか24組合がこの失業保険制度を持っていた。なぜ、全部の労働組合がそうしなかったのか? 多くの労働組合が失業金庫の設立を決めたが、政府補助金に対する議会の承認を待っていたので遅れてしまったのである。国家はまた経済危機に何度も直面した。この状況は、明らかにしかるべき失業給付の支払に影響を与えた。
多くの金庫が経済危機のときに給付金支払いの増加によって資金を枯渇させた。ほかの時期にも支払いは減少した。他の連合会でも給付総額が減少した。失業金庫はいずれもすくなくとも一回は補助金を受けなければならなかった。別の方法は、労働組合の連合会の金を失業金庫に充当することであった。
1934年以降: 国家補助金と全国組織
1920年以降、労働組合は失業給付にたいする公的保険を導入する必要性を主張して、「ゲント方式」が好ましいとした。これは労働組合への加入の増加をもたらし、また労働組合の重要性も増し、保険も普及するのに都合がよい。1920年代に、議会の多数派である反社会党グループは、労働組合が伸びないようにまたこの制度にすべての労働者が加入しないようにこの制度の採用を拒否した。
1934年に、社会民主党は議会に対して「ゲント方式」の修正案を出して迫った。1934年法は、国家の補助金を削減することによって国家の保険損失を押さえて、失業の21日目だけに支払うとした。21日がすぎたら、金庫が給付の引継を行う。失業給付の最大日数は120日間とした。保険給付を受け取る者は、給付資格を得るためには、職を失う前に2年間の間に最低52週間保険料を支払わなければならない。給付の最大金額は、給与の60パーセント(一家の支え手の場合は80パーセント)である。実際は、失業給付金はしばしば低額であので、失業に備えて組合員は保険区分を選択して、給付金に見合った保険料を決めている。法律の主要な修正は、失業金庫で国家補助金を受け取っているところは、非組合員に対しても開かれていなければならないことである。
1914年に、地方自治体は、失業保険を雇用されていない者にも給付可能にした。1934年の協定によって自治体補助が失業金庫に属していないところに与えられるが、同じく、権利のある者に対しては最低限保障が与えられる。
自由主義者が義務方式よりも「ゲント方式」を採用したことは驚くべきことであった。実際、この制度は労働組合の加入者を元気づけて、金庫の運営に関与させた。1934年の法律は、自由党の要求を考慮して、金庫が非組合員にも開かれることになった。しかし、依然として労働組合に加入することが失業保険金庫に加入することの近道であった。
国家の補助金は、末端の失業金庫にとっては連合会にとってよりも重要であった。金庫連合会は労働者にとって末端の金庫に加入するより金がかかった。その結果、労働者の連合会加入は減少した。しかしこれは1941年にまったく変わった。
1940年に、労働組合連合会の24の失業保険金庫のうち10が「ゲント方式」を採用した。この相対的な無関心は、報酬基準に対する1934年改革に対する労働組合内部での強い抵抗がある。さらに、改革条文の中では、長期失業の犠牲者に対してはあまり好意的でなくて、短期の者に好意的であった。また給与によって給付は異なり、一部の職種についての労働組合は1934年の制度の適用を拒否された。労働組合連合会は、1920年代には組合員の6から11パーセントが失業していた。低賃金労働者には1934年以降の新しいシステムが適用された。
1940年以降1960年から1970年にかけて、強制的失業保険制度の設置が試みられた。しかし、1992年に、「ゲント方式」はまだ有効であった。1934年以来、国家の補助金は、少しずつ増加して、給付金の額も増加した。1950年代の始め、労働組合と国家は、賃金の連帯政策、教育計画などに同意して、産業の輸出分野の増加と失業の減少の促進を図った。第二次世界大戦後、スウェーデンの失業率は相対的に低下して、1991年にはわずか3パーセント強に過ぎなかった。この理由は、1950年以降、失業保険金庫について活発な議論にならなかったことがあげられる。スウェーデンの福祉国家は、共済組合への支援を篤く行っている上に成り立っている。しかしながら、国家がスウェーデン社会に干渉しても、1955年前の強制疾病保険制定に至らなかったことは驚くべきことである。1992年に、失業保険は、すべてが義務的ではなかった。しかし、失業保険金庫の仲間に労働組合がいた。国家は社会民主党に運営されていて、失業給付制度を第一義的に扱わなかったが、失業それ自体とは闘う意思を示してきた。
以上