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スペインの共済組合

原著:サンチャゴ・カスティジョ 試訳:主任研究員 石塚秀雄

掲載日2003年10月27日


1.始めに

スペインには共済組合セクターに関する特別の研究論文はほとんどない。共済組合(SSM)に関しての研究は、これまでのところ、付随して触れられるものがほとんどであった。共済組合についてはあまり関心がなかったということである。共済組合に関する大学論文でも、19世紀と20世紀のスペインにおける共済組合についての正確な資料などが不足しているために不十分さがともなった。

しかし共済組合に対して関心がないわけではなかった。G.フォルヘ(Folch)は1936年に「共済組合主義はスペインで正常に発展し続けている。スペインの他の社会的活動分野の遅れと比較するならば、共済組合は飛び抜けて発展している分野だと言うことができる」と述べている。共済組合についての研究の遅れは、その研究の重要性がなかったということにはつながらない。

われわれは共済組合について見ていくときに、共済組合研究の集団的討議を行った。その結果は上々であった。共同研究により資料収集が容易になった。さらに共済組合を特別研究対象にしたのはスペインでは初めてであった。共同研究をまとめたのがこの論文である。

2. 共済組合の歴史的発展

任意の共済組合や賃金労働者が出資金を払っている対人保険会社を対象とした。

これまでに、18世紀まではアソシエーションとして先行する形態が、旧体制の解体に時期まで続いた。相互保険会社(単に共済組合)と呼ばれるものは、スペインでは、社会保険制度としてまた労働者向けに発展した。すなわち、営利保険会社との競争をしながら、また共存しながら20世紀に至って国家による保険ともさらに共存してきた。

共済組合の概念は次のようなもので構成されている。

現代スペインについて見るとき、それ以前のフェルナンド7世(1833)の死から内戦(1936-39)までの期間を無視する訳にはいかない。19世紀前半のスペインは旧体制の決定的崩壊過程であった。ブルジョア自由主義の一連の施策は資本主義発展の基礎を作った。その施策はヨーロッパの同時代の変化の過程の一環であった。一方、スペイン独自の効果をあげた実施もあった。スペインの場合、その特殊性は、遅れた産業化と遅れてはならないとする気持ちである。

労働者のアソシエーション主義は自由主義体制の導入を基礎として、1836年12月から始まった。当時は、団体は特定職業組織として禁止された。2年後に、新しい組織が作られ(1839年2月28日付王令)、自由なアソシエーションが認可されたこれは「困難、疾病などの互助をしたり、将来のニーズのために共同貯蓄を行うアソシエーションである」。こうして法律的には、細かい規制はほとんどなくて、共済組合のアソシエーションへの道が開かれた。逆に、「抵抗結社」(労働組合)はそこから除外された。

スペインの自由主義体制はまた、近隣諸国のやり方に追随したものであった。個人主義的な自由主義の原則は、労働組合組織の反対を引き起こした。国家の無干渉主義は労働関係法令においても示され、社会保障の義的制度化は拒否された。新しい無干渉主義は3つの側面があった。それはスペイン社会の発展の度合いを図るバロメータとなった。労働組合主義については、抑圧的な政治体制によってその発展にブレーキがかけられた。しかし結局は周りの諸国と同様にその状況は変わった。スペインでは労働組合の合法化は、変革の6年間(1868-1873)の後であった。1877年のアソシエーション法はすべての組織について結果的には労働組合に対する合法化の道を開いた。国家の無干渉主義的な態度の変化は、いささか遅ればせながら社会問題に対して現れた。1900年から1904年にかけて、社会問題にたいする国家の法的関与が始まった。1908年には国家社会保障局が設立され、国家による社会保障の道が開かれた。最初に問題となったのは、強制的社会保健の導入ではなかった。労働者退職年金は1919年に開始されたし、出産費用は1931年にようやく適用された。第二共和制は社会法制作りを熱心に行い、社会保険を検討した。内戦中には、社会政策作りにとっては不幸な時期であった。

国家の役割は社会改革では遅れをとっており共済組合は全く国家の視点には入っていなかった。1936年には「自由で任意の相互扶助組織の法制化に努力した。スペインでは共済組合の一般法がなかった。

当時、スペインでは国家が結社や共済組合の活動の法制改正しようと干渉したが、それは近隣の国とは逆行するものであった。その理由は共済組合の歴史的発展段階が他国とは異なることによった。当時の状況の検討を次に行う。

3. 一般的状況

1839年の王令以前の相互保障を特化して行っていたのはどのような組織か? それ以後設立された新しい組織はどのようなものか?

旧体制の終わりに相互扶助主義は一定程度発展した。マドリッドにおいては、エレーナ・サンチェスの指摘によれば、17世紀末から18世紀にかけて、新しい種類のアソシエーションが誕生したそれは「救済友愛団体」と呼ばれるものであった。この団体は労働者と職人によって構成されており、信徒団体や同業組合とは3つの点で異なっていた。すなわち、ボランタリイ的性格で異なる職業の人々が集まった。しかし、単一職種のものもあった。第二に、保障は会員すべてを対象にした。また、疾病保障を対象にした。

この救済友愛団体については問題点もあった。組合員になるには経済力がないとなれなかった(定款)。年齢制限があった。慢性病の人は加入できなかった。会費を払っていても候補者の場合は、集団的な活動に制限があったなどである。したがって転換点がきた。この組織の協同的な性格は、現代の共済組合の性格につながっている。それはもはや片隅の限定的な運動ではなかった。というのもサンチェスに(E.Sanchez)よれば、18世紀には80以上の救済友愛団体がマドリッドに存在した。これはマドリッドから次第に全国に拡大していった全国に普及するのに50年間かかった。第二の点についてはまだ全体像がつかめていない。組織の運営費用は19世紀においても変わらず、共済組合の形式を取るようになった。

友愛団体にくわえて、王令によって新しい形の共済組合がカタロニアで誕生した。1839年の法律によって、織工組合とバルセロナ織工共済団体が生まれた。この二つの組織は、1839年の王令に基づいて作られた唯一のものであった。イザール(M.Izard)は次のように強調している。「織工組合は要求型の労働組合である。共済団体は明らかに社会保障(強制失業、病気、障害など)の解決を目的としたものである。この共済団体は次第に労働組合にとって代わるようになった。」

最初の織物工の労働組合は、カタルニア労働者階級の歴史で基本的な役割を果たした。現代労働運動の地域的な発展の幕を開いた。労働組合と共済組合の協力が旨くいったことは、スペイン独自のことではなくて、要求型の組織の禁止の時期だからこそ協力が進んだのであり、共済組合は労働組合の基本的な組織と見なされたのである、とアロンソ・オレアは(Alonso Olea)述べている。

労働組合と共済組合の関係は盛んであった。今日分析するに際して、共済組合独自の活動の役割を無視してはならない。つくり、共済主義はあまり重要視されてなかったので、労働組合の隆盛をもたらしたものであるとは理解されていなかった。労働組合が盛んになると、共済組合自体の発展存続にたいする研究の関心は薄れていった。歴史的な研究におけるこうした態度はまだその影響力を持っている。

友愛団体については、生産組合が統制能力を失って後に、1839年の王令では、共済組合としての性格を保持し強調できるようになった。共済組合の多くは、確かに、より複雑な問題に直面するようになった。マルチネス・ガジェゴ(Martines Gallego)がバレンシアの例でしめしたように友愛団体は19世紀を通じて大きな影響を与え続けた。状況は多様であった。友愛団体の会員の一部は、出資経営者になりたがった者たちは、友愛団体の規則が変更になったことで、団体資産の放棄(資産や設備など)ができることで利益を取得することができ自己資産を増加できるので喜んでいた。このように友愛団体の中で経営陣が資産化を促進していた。別の場合では、職人たちは貧困化しつつあり、友愛団体の資産防御をすべく原材料購入協同組合、生産協同組合、相互保険組織を作った。

バレンシアの実態研究はほとんどなされなかった。しかしながら、多くの資料が散逸している中で、友愛団体の転換や新しい団体の設立が見られた。たとえば、サンタンデールでは、19世紀半ばに3つの共済組合が誕生して20世紀初頭まで存続した。またカルタヘナの鉱山地域でも友愛団体が1848年時点で約20あったと言われる。マジョルカ島のパルマの初期の共済組合の中にも友愛団体との関係が深いものがある。サラゴサにもまた、多くの共済組合が職場を基礎に1880年から1890年にかけて設立された。

ここで共済組合に関していくつかの問題がある。すなわち、友愛団体から共済組合は生まれたのか。あるいは同時並行的な活動主体からあるいはまったく新しい活動主体から生まれたのか。断定するのは難しい。しかし友愛団体からできた共済組合の数は次第に減少していったことは確かである。

ともかくも、ヨーロッパ全体として、共済組合が友愛団体から誕生して発展したこと、また「民衆支援」アソシエーションが多く発展した。これらの団体はそれまでの登記された組織よりも次第に重要性を増していった。民衆支援アソシエーションはとりわけバスク地方のビットリアやサンセバスチャンに作られた。アストリアス地方にも3つの大きなアソシエーションがあった。ガリシア地方、サラマンカ地方、リオハ地方にも同様にアソシエーションが多く作られた。19世紀半ば、庶民的共済組合主義は活発化し、支援共済組合も活発化した。この傾向は19世紀から20世紀にかけて安定拡大を続けた。20世紀前半にとりわけ隆盛を見た。この発展において支援の内容と種類の研究がいくつか行われている。

統計的資料

19世紀末のアソシエーションおよび相互保険に関する統計的資料についての初めてのものは1882年1月に内務省が地方毎に対して行ったものでスペインの既存の団体、共同団体、クラブ、余暇組織、賭博所などの情報と数字を調査した。調査結果は発表されなかったが、49県のうち19県の資料を作った。この資料によれば、共済組合の20パーセントは余暇組織が作ったものである。五年後の統計は不完全なものであった。1887年の調査では、スペイン全体で664の共済組合があり、関連団体は3,108であった。共済組合の比率はアソシエーションのうちの20パーセント強であり、余暇組織が全体の半分を占めていた。

1904年に社会改良局が実施した統計調査は充実している。社会学者と統計学者が実施したこの統計調査では、共済組合のうち庶民型共済組合は1,691組合で組合員数は351,629人で、そのうち1,271組合、組合員数238,351人が連合会を形成していた。また労働者共済組合は309組合で、組合員は84,426人であった。それは共済組合全体の18.2パーセントであり、登録共済組合の24パーセントを占めた。

労働者共済組合においては、一般共済組合の比重は高く、1904年統計では非熟練労働者の共済組合が245組合、42,436人でそれぞれ、全体の79パーセントと50パーセントを占める。職場・会社共済組合は23組合、10,548人であった。

同時に強調すべきは、共済組合が労働界においては一種別の団体だと見なされていたことである。1,147労働組合、171,791組合員がいた。保険団体は309組織84,426人であった。レクレーション団体は会員数だけだが22,076人であった。協同組合の組合員数は18,280人、合唱団、音楽グループの人数は7,593であった。

最後に1916年6月30日の実施されたアソシエーション調査では、労働団体のうち、職能別労働組合が4,764団体、共済組合が967組合であった。非職能的団体では保障組織が3,550団体あった。共済組合は労働団体の中に位置づけられており、非職能的団体とは見なされなかった。ともかく、この二つの数字967足す3,550イコール4,517団体が1916年の時点で相互保険を実施していると考えれば、労働団体のうちの21パーセントを占めることになる。

労働団体における共済組合の比重はかなりのものがあると言える。つまり4764対967である。また労働組織全体の10パーセントを共済組合は占めている。

各種公的統計を総合すると、スペインの共済組合の発展は次のように要約できる。すなわち、1887年に1,200組織、1904年に2,500組織、1916年に5,500組織であった。別の公式統計ではそれぞれ664組織、1,691組織、4,517組織となっている。

われわれの推定では、1915年から1925年についての公式統計は疑わしい点が多い。1920年から1930年の数字もおかしい。

しかし、数字は絶対重要だということでもない。共済組合についての検討は、資料としての定款や法律などが重視される。資料としては事業数字や貸借対照表、貸付高などがのこっていることは少ない。共済組合の活動を知るにはこれらの数字が不可欠である。これらの不足が研究を妨げているのがもっとも深刻である。共済組合が次第に地域化して企業化することによって分析が可能になってくる。

たしかに補助的な資料しかないので「スペインにおる共済組合研究」は始まったばかりと言える。

Santiago Castillo, Le Societes de Secours Mutuels en Espagne Contemporaine,?≪Mutualites de Tous Les Pays?≫, Mutualite francais, 1995.

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