オランダの共済組合の歴史
原著:J.V.ゲルベン、 J.ルカセン 試訳:主任研究員 石塚秀雄
掲載日2003年10月27日
始めに
勤労者と中小企業者むけの相互保険の歴史はオランダでは古い。14世紀始めから、同業組合(ギルド)や職人組合が相互補助組織を必要に応じて規則化していた。その後、会員制の共済組織が急速に展開された。それは民間の商業的なもの(より安心な人をより保障する、もしくは、危険の少ない団体をより保障する)や国家によるもの(その他すべての人を保障する)であった。この変化は、18世紀の後半にさらに一般化された。共済組織の地域組織は、地方単位、全国単位で再編されて、個人的な関与やボランティアの関与は、共同行為化や義務化されていった。疾病保険金庫は、1690年代【原文1990は誤植か?】以降にすでに同様な発展をみている。
19世紀においては、地方レベルから全国レベル化していき、オランダ国家による制度化が進んだ。それは一種のコーポラティズム型の福祉国家を生み出した。その運営はプロテスタント、カソリック、社会主義者などの各グループによって、さらには経営者、労働組合、国家の代表たちによって行われた。
1. 中世から14世紀始めまで
企業家たちは13世紀半ば以降からは国の南部において、14世紀初頭からは北部において、職人団体の中から登場してきた。企業家たちの目的は、単に生産価格の調整ばかりでなく、雇用条件の改善や困ったときの物質的精神的支援も含んでいた。団体が支援のための財政を提供した。16世紀以降には、すくなくともアムステルダムでは、同業団体が独自の金庫を設立して、必要な会員に貸し付けを行った。同業団体は、葬式代、病気費用、怪我、老齢金などを支給した。補助的な給付として未亡人や孤児にたいする給付を行った。
宗教改革の時代に、同業団体は、ほとんどの都市において廃止された。別の形式が急速に導入された。それは大工業の中で、また都市行政府が統制する経済的道具として登場した。しかし共済組合の性格は保持された。
1620年から1630年にかけての独立運動の中で、経営者と従業員の間の紛争は熾烈化した。17世紀の労働界は、労働市場の規模が二倍になったので非常に落ちついた時代であった。すなわち、第一の労働市場は都市労働者たちであり、固定給をもらい、労使関係は同業団体が指導していた。第二の労働市場は移民労働者たちであり、日給でいつも臨時雇用であり、産業界が必要とするときだけの季節雇用であった。
同時に、支援のために団体の基金は分割された。新しい基金や職人たちの独立金庫が設立された。毎週の保険料支払いをすることで、職人たちは、病気のときの給付、葬式費用、少ないながらの老齢年金、寡婦年金を受け取った。
1725年頃までには、金庫設立の二度目の流行が起きた。多数の職人団体が、とりわけ新教ユグノー派団体が、1698年から1722年にかけて、ライデン、ハーレム、ハーグ、ロッテルダムなどで金庫を設立した。金庫は急速に数を増した。多くは道徳的宗教的基準をもって作られていた。
1740年頃に、新しいタイプの金庫が作られた。これらは一般的に寡婦や孤児に給付して、貸付金額も多かった。その結果、共済団体における労働者の組織率が向上した。アムステルダムでは肉体労働者の30%がこの共済団体に加入した。共済団体以外では、新しい金庫は葬式代とかときには医療費を支給するだけであった。この新しい共済団体は、商業的な保険会社の萌芽的形態と言うことができる。
労働者の間に階級意識が広がるのに対して共済組合はどのような影響力があったのか。なによりも、意思決定の過程については、多かれ少なかれ、民主的連帯的であることを好んだ。第二に、政府や経営者たちは、二重の態度をとった。政府は共済組合が政府の貧民対策との関係では役に立つと考えていた。しかし、経営者と同じく、共済組合組織が独立的な組織であることを心配した。第三に、職人金庫が職人と地域とをより密接なものにした。職業団体と共済金庫が労働者たちの連帯を強化したことはともかく間違いない。
フランスの事例に引き続いて、オランダでは職業団体が1798年の春に憲法によって廃止された。それは政治体制による強制措置であった。この措置は、新しい中央政権に対抗して都市の独立を阻止する手段であった。都市市民の抗議は、地方における貧民対策の廃止の問題と関連して議論となった。1801年の憲法によって、この措置が取られ、1808年には団体法となった。フランスによって1810年から13年までオランダが占領されたときに、団体が再度廃止となった。これはオランダの独立のときに再確認された。1820年7月26日付の王令によって、当時生き残っていた団体金庫の活動が規則化された。その役割は中央政府と分担された。団体金庫の一部は疾病金庫や葬式金庫となった。
近隣団体、都市や農村の住宅団体は16世紀に誕生し、非公式的な支援組織となった。これらの団体は、ボランタリイを基礎にして作られたので、その会員になるためには社会的制約があった。これらの団体は社会的役割を果たし文化的にも重要であった。しばしば、地域の自治体はこれらの団体の権限拡大に同意して、公的秩序の維持を図った。また地域における自治体もどきの行政的役割を与えた。18世紀には、これらの団体は、都市の行政組織にさらに統合されて、その独自の社会的役割が弱まった。19世紀には、これらの団体はその相互扶助機能を廃止した。同じく、特定の商業的保険会社が取って代わった。
オランダ北部を除いては農村に相互扶助組織はあまり多くなかった。近隣や労働団体で自然発生的に仲間支援組織をつくり必要はあまりなかった。オランダでは、今世紀の始めには共済組合の数が増加したのはなぜかを追求する必要がある。都市人口の大多数はなんらかの職業を持っていた。例外は軍人、船乗り、主婦などで、これらは雇い主の世話になっていた。
2. 1820年から1900年まで
共済組合の伝統
団体が廃止されたことによって団体の過去の実績と流れがまったく消滅したわけではない。一部の職人団体は、引き続き、19世紀まで新しい名前で継続した。職業団体のうち政府がその活動をもっと限定的に統制しようとしたものであり、たとえば、炭坑夫や公認計量士などである。1815年4月14日付法令では、地方自治体にそうした伝統的職種の独占権を認めた。一方、職業団体は、地域共同体に貸付金の支援をすることができた。この独占は1827年に廃止されたが、こうした組織の大部分は19世紀末まで存続した。これらの組織は一般に規模が大きく、独自の支援計画を持っていた。
解散した職業団体の労働者たちは、昔の仲間組合の基金に依存せざるを得なくなった。あるいは疾病金庫や葬式金庫などの補助に頼った。さらには今日でも見られる商業的な新しい保険会社に加入した。
1828年には、アムステルダムで、肉体労働者の25%が団体に加入した。団体を所有する会員は150名であった。代表者たちはほとんど職人たちであった。独占的な職業団体を除いて、団体は、特殊技能の団体としての性格を保持した。しばらくはこうした団体は拡大した。また「社会保障はわが目的」という葬式金庫が1825年にアムステルダムに設立された。加入年齢を7区分して、会費ランクを分けた。
革新
19世紀を残すところ25年という時点で、アムステルダムで大きな変化が見られた。新しい大規模な扶助政策が伝統的な基金の加入者を引きつけた。この政策は、工場労働者や新しいタイプの商業者たちが加入した。古いタイプの葬式金庫や生命保険団体は衰退し、同時に労働者階級内部での連帯的な特殊な扶助組織形態も衰退していった。
疾病保険の発展
もともと、不足の事態のための充当金と病気になったときの収入の損失とはいかなる区別もなかった。その後、医療費は給付金で支払うようになった。原則として医薬品を管理する医者がその処方を作成した。病院の治療は給付の対象とならなかったが、教会や慈善団体、政府が支払いを行った。現物支払保険と現金支払保険は、さらに後に19世紀になり実現した。保険者は現物払い戻しを受けるか、現金を受けるかである(疾病保険の場合)。この区分はオランダに特徴的である。
医者と薬剤師はこの新しい方式に殺到した。患者の新しいグループは、その日暮らしであった。すなわち保険を受ける者は、週払いの形で、医療手帳を受け取った。1850年までは、疾病保険の新しい方式のもののほとんどは、大工業の企業の中で採用された。慈善金庫や非営利保険団体(Directiefondsen)や職人のための共済保険もまた登場した。これらの保険は、治療代、薬代、疾病手当、死亡手当などを支払った。保険の経営陣は、医者と薬剤してとの協定を結んだ。これらの方法はオランダの疾病保険制度の基本として継続した。
疾病保険制度の中で、3つの当事者が存在する。すなわち、保険受給者、保険支払者、医療組織である。医者はこの制度によって医療費の支払を受けるという保険組織の側面を見ている。それは多くの人々がよりよい治療を受けて、自らの労働を確保するためのものである。19世紀後半には、医者の数も相対的に増加して、医療サービスを受ける人口の数も増加した。
医者の社会的地位という問題にかんして、医者たちは危機感を持っていた。とくに、「非営利保険団体(Directiefondsen)に批判的にであった。この団体が営利化していくことで、医療費支払金の水準が低下した。同様に、医者も相対的に貧困化していった。そのために医者達は自ら保険会社を設立しようとした。
共済組合は労働者によって19世紀前半に設立された。その重要性が増したのは1850年以降である。L.S.ゴードフロワによれば、共済組合は18世紀の労働者金庫に似ている。この二つの組織の間に直接的関係はほとんどない。法律的には、これらの共済組織は、正式なものではなくて、一部は、相互保険会社として作られた。給付の内容は、当初、疾病と死亡時の給付金に限られていた。医療費はずっと後になってから適用となった。経営陣は組合員から選出されたものから指名された。1872年の合併禁止以降、多くの共済組合は地域団体としての登録を受けた。
医者によって設立され共済組織やまた保険受給者たちによって運営された共済組織は、疾病保険会社のモデルとなって発展した。すなわち株式会社の形態である。非営利保険団体(Directiefondsen)は、次第にその重要性を失っていった。一方で、疾病保険会社は大企業になるのに制限があった。
死亡保険会社の発展
営利保険会社の発展はまた生命保険と死亡保険の分野で19世紀前半に著しかった。伝統的な保険組織と違って新しい営利保険会社は、給付金を死亡給付金と葬式代にのみとした。19世紀後半には全国に広がった。
現代的な生命保険会社の登場は、完全に新しいものであった。民間企業として、だいたいは有限責任会社として、保険統計原則に基づいて計算された生命保険であった。もともと、金持ちしかこの保険に加入できなかった。これらの生命保険会社は、急速に普及し、死亡保険市場にも参入した。これはそれまで葬儀会社が取り仕切っていた保険である。保険統計原則によって保険料が計算されて、必要な給付金、さらには保険受給者の個人的にニーズの拡大が図られた。オランダですなわちヨーロッパ大陸での最初の現代的生命保険会社は、オランダ生命保険会社(HSL)であり、これは1807年にアムステルダムで設立された。
確かに、死亡保険会社はこれに対抗しなければならなかった。営利保険大会社は保険統計原理に基づいているのは当然である。従来の共済会社は、現代的な生命保険会社に転換せざるを得なかった。これらの会社は、完全には転換しきれなかった。従来の死亡保険会社は、庶民向けに留まり、地方での会員の増加を図った。また給付制度も保険受給者の直接の保険料支払いを必要としなかった。従って、この立場からは営利大会社を疑問視したことが見てとれる。
新しい現象。企業内保険
19世紀の前半には、企業内保険制度は実際にはまだ知られていなかった。1850年以降に急速に企業内保険は増加した。鉱山会社や機械製造会社や鉄道会社、織物会社などといった大会社の中で企業内保険は設立された。これはそれら会社の安定雇用の従業員が増加したためである。これらの保険基金は企業経営者たちが運営した。一部では、企業経営者たちは基金管理に労働者を参加させた。従って労働者自身が保険を運営することになった。中小企業ではほとんどこうした基金を持てなかった。これらの企業では日雇い労働者をたくさん雇っていたからである。
工場はしばしばたくさんの保険基金を持った。すなわち、疾病金庫、失業基金、寡婦年金、孤児手当などである。これらの給付金は年金の形式をもとった。労働者の反対にもかかわらず、加入はしばしば義務化された。というのも、基礎加入数の増加により保険危険負担率が減少するからである。すなわち、工場所有者たちの団体は、共同保険を設立した。
1892年の国家労働統計によれば、企業保険が活発化している。この統計によると、労働者は、企業保険毎に区分されている。給付金の水準は非常に低い。必要な保険料に比べて加入期間が短いためである。企業を退職すると権利は失ってしまうことも労働不能や老齢の手当もないことも不利な点であった。企業保険の管理についてもまた非常に批判があった。結局、一部の人は企業保険を「会社のための修正策に過ぎないし、国家の社会保障の一部である」とみなした。一部の労働者たちは怪我や老齢のための保険料を支払って、給付を受けた。
工場経営者の一部もまた国家給付を受けることを希望した。まず、製造会社は従業員の将来についての保障をしなかった。さらに経営者と従業員の相互義務に基づいて、それぞれの自由意思での保険加入となった。
事故と失業保険
1892年の国家統計によれば、事故保険と怪我保険は、あまり発達してない。これは政府が法律を制定する動きがあったためである。長い間事故保険は、もっぱら社会的性格をもった企業や外国企業が運営していた。生命保険と事故保険の最初の現代的な会社は、「第一オランダ生命傷害保険会社」(1882)である。当初は中産階級向けであって、労働者むけにもなったのはずっと後であった。労働者で保険証券を持てるのは少なかった。経営者は集団保険証券を購入したり、また労働者の給料からの天引きで保険料を直接徴収した。1892年に、「事故保険会社」が設立された。1880年から1890年の十年間で、その他の事故保険会社もいくつか設立された。19世紀末には6社が設立される勢いであった。失業保険は、当時バブル的に発生した。国家統計によれば、労働者は景気の良い時期には、加入しないし、経済が悪化した時期には半分しか加入していない。
19世紀の最後の十年間には、労働組合が失業基金を設立した。1885年以降労働者保護の政策が取られた。ストライキ基金、失業基金が普及した。従来の共済組織に代わって新しい共済組織がこの分野で現れた。労働組合は、20世紀に至るまで失業保険では重要な役割を果たした。1906年に、組織労働者の7パーセントは失業保険に加入していた。1913年にはその比率は30パーセント(約59,000万人)であり、これは男性熟練労働人口の7パーセントであった。
1900年から今日まで
19世紀末にオランダは民間保険と任意保険のネットワークが拡大した。共済組合よりも営利会社が多かった。これらは社会保障的側面をカバーした。同時に、国家は社会政策の分野を分担した。1891年の社会政策では、オランダ王妃が怪我保険や老齢保険の財源をカバーするように提案した。しかし、1901年になってようやく最初の疾病保険法が議会を通過した。この法律は製造会社に雇用される従業員で危険な労働に従事しているのだけを対象としたものである。ドイツも同じように、疾病保険と怪我保険は存続した。次の段階では、1913年に労働不能者保険が通過した。これは労働災害者、老齢者、死亡時にたいする手当給付の強制保険である。
1913年の疾病保険法は、1930年になってようやく適用された。それは保険が疾病によって収入を失うことに対してのものであり、また強制加入であり医療費をカバーするものであるとしても、国家の疾病保険のほうが真の疾病保険制度であるからである。1918年以降、政治的状況は疾病保険と似たような法律を通すことになったが、経営者団体と労働者団体がそのことについて対立した。労使両団体の協定が「産業界保険労使委員会の提案によって結ばれ、疾病保険が運営された。保険法は1930年に結局適用された。同法は、通常の給与の最大80パーセントまで給付するものである。
保険の普及は1940年までに隅々までに及んだ。労働団体と経営者団体は、次第に任意保険の考えに傾いた。これは疾病と怪我を対象としたものである。経営者団体は長い間、企業内保険制度を採用してきた。1930年代の大不況の時期に、既存の保険制度が破産して、社会政策も縮小して、経済政策も厳しいものが採用された。常に国家の失業保険があるわけではない。1912年の貧困法も労働組合も効果をあげたが、いずれも地方自治体から補助を受けて組合員拡大に努めた。
一方、ドイツによる占領下では、強制保険制度が実施された。疾病保険にかんする1941年の法令では、従業員が保険料を疾病保険金庫(Ziekenfondsen)に支払うことを義務づけた。これは19世紀の職人相互保険制度を基礎に改良を加えて作られたものである。保険料額は政府によって決められた。経営者は半分支払う義務をもった。労働者の権利は、したがって政府が定めた。疾病保険基金委員会は1949年に設立された。これは保険受給者、医療関係者、経営者団体、労働団体と政府のそれぞれの代表によって構成された。独立機関であり、疾病保険基金は政府の決定によって運用された。1945年以降疾病保険はいずれも、全国連合会を作って結集することになった。事実上の疾病保険制度の全体的統制となった。この変化は、同時に保険の集中化による強化と、従来の保険団体と民間保険会社との協力体制の増加となった。
同時に、民間保険会社と疾病保険金庫との共存は1967年の例外的医療費用法によって統合化された。1992年に、疾病保険活動の分野に対する制限が軽減化された。それ以後、疾病保険は全国展開をして、保険受給者は加入会社を変更することが可能になった。民間保険会社と全国組織は、例外的医療費用法の規定によりつながっている。この状況で、民間会社と国家との協力が著しく増加した。1992年以降、疾病保険は新しい保険加入者を増やさなければならなくなっている。民間保険もおなじような状況を抱えている。こちらのほうも、営利企業と国家制度との協力が推進されている。
20世紀を通じて、地域的な性格をもち、社会的危険だけをカバーする事業を行っている民間非営利共済組合会社が、強制保険の全国ネットワークに吸収されたのは確かである。経営者団体と労働団体の役割は、この全国的強制保険制度を実施し管理することに見いだされる。
Jacques van Gerwen et Jan Lucassen, Les Societe Mutuelles Aux Pays-Bas du XVIe Siecle a Nos Jours,?≪Mutualites de tous les pays?≫, Mutualite Francaise 1995.