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菅野正純さんの逝去を偲んで

「理事長のページ」 研究所ニュース No.21 掲載分

 角瀬保雄

発行日2008年01月31日


協同総合研究所の理事長・菅野正純さんが、2008年1月11日、永眠されました。昨年の2月に自宅で倒れられ、最後に転院された順天堂病院で亡くなられました。風の便りに一時はリハビリに励むまでになったと聞き、一日も早い全快を願っておりましたが、そこに突然の訃報です。

私にとって菅野さんは忘れられない一人です。私が菅野さんと最初に知り合ったのは、いつの頃だったか、もう遠い昔のように思われます。イタリア文化の研究者・佐藤一子さんの『文化協同の時代』(1989年)の出版記念会の折でした。その以前から菅野さんは、全日自労の書記として忙しい労働組合活動の傍ら、プランディーニの『協同組合論―イタリアの戦略―』(1985年)を翻訳出版されるなど、労働者協同組合運動の研究に取り組まれていました。当時、私はイタリアの政治・経済に関心を持っていましたので、佐藤さんの会合に出かけ、その二次会で新宿のピアノバーに行ったのが菅野さんと付き合うようになったきっかけだったと思います。しかし、佐藤さんとは直接面識はなかったので、私が会の案内を頂いたのはどうしてかよくわかりません。それ以前、イタリア政治の研究家山崎功さんを囲む集まりに出たことがあったので、その関係かもしれません。

以来、黒川俊雄先生の研究会から発展した労働者協同組合運動のシンクタンクを目指す協同総研の設立(1991年)に加わり、研究者サイドからの副理事長として専務理事の菅野さんと行動を共にする日々が多くなりました。協同総研では労金協会の杉本時哉、つばさ流通の小西明など若き日の大学時代の仲間と再会し、青春の日々を再現することができましたが、90年代になるとお互いに還暦を迎え、体力が退化期に入ってきており、障害をかかえながらも、この運動に人生の最後を賭ける思いを抱くようになりました。私はマルクスの「共同社会」への展望を切り開くモメントとして、また大学時代からの協同組合運動の発展として、私なりに労働者協同組合を位置づけ、希望を託していました。

菅野さんは協同総研では労働者協同組合運動の理論化にリーダーシップを発揮されるという、立派な活動をされてきました。同時にあれあれと思う間に、日本労働者協同組合連合会の理事長となり、現場の運動のリーダーという重責を担うことになりました。一方、協同総研は幾代かの理事長を経て、内部の人材も充実するようになり、私は顧問として第一線からは退きましたが、2002年からは非営利・協同総合研究所いのちとくらしの理事長として再び非営利、協同の運動にカンバックし、今日に至っております。

一方、病気になってから後の菅野さんは、連合会の理事長職を退き、協同総研の理事長として病からの回復を待つことになりました。こうして私と菅野さんとは「仕事起こし」と「医療・福祉」と領域は異なれ、人々の「いのちとくらし」のあり方に関わる問題と取り組むという点では共通した戦線で活動することになったのです。私には実践運動のリーダーとしてよりも、理論分野での活動のほうが、菅野さんには適していたのではないかと思われましたが、労働者協同組合運動が困難に直面するなかで、自ら実践のリーダーの立場に立たざるをえなくなったのだと思います。

菅野さんと最後にお会いしたのは、倒れられる前の年に日本労協連合会の総会に呼ばれたときでした。その時、私のほかに研究者の参加がみられなかったのが気になったことを覚えています。以前、中西五洲さんの時代には若手研究者が寄り集まっていたのを思うと一抹の寂しさを禁じえませんでした。当時と比べると協同集会も大きくなり、連合会も大きくなった結果かとも思いますが、それだけに遠くへ行ってしまったようにも思われます。

しかし、学生運動から労働組合運動へ、そして協同組合運動へと発展していった菅野さんの活動には目覚しいものがありました。とはいえ、菅野さんも人間ですから色々と問題を抱えていたことは確かです。そのビヘイビアには、時に、どうかと思われるところがなかったわけではありませんでした。人に対する好悪の感情が強く、喧嘩速いということには定評がありました。条件反射的に異論を拒絶するきらいも強かったように思います。学生運動家によくありがちな運動上の組織保全意識が、プラス・マイナスの両面に働き、それがしばしばそうしたことを生み出したのかも知れません。以前、協同総研時代、私も菅野さんと運動論をめぐって意見を異にし、時にはきびしく対立することのあったことを思い出します。

好漢菅野さんも、やがて還暦を迎えるのもそう遠くない年になりました。突破力よりも包容力が求められるとき、菅野さんが大衆運動のリーダーとして一回りも二回りも大きくなられることを期待していました。労働者協同組合運動は農協や生協のような既成の大きな組織の運動ではなく、少数派の新しい運動だったところからくる急ぎすぎと、焦りがあったのかもしれません。菅野さんはやがて病気から全快され、研究所の理事長としての活動を期待されていたとき、想定外の事故によって帰らぬ人となってしまいました。惜しみてもあまりあります。協同労働の協同組合法の法制化運動が、ようやく広範な共同を形成するという時に、菅野さんというリーダーを失ったことは協同の運動にとって大変大きな損失といえますが、その思想と行動は今後とも大きな影響をもち続けることは確かでしょう。どうか運動の未来を信じて、安らかにお眠りいただきたいと思います。

2008 年最初の「理事長のページ」は、個人的な追憶といういつもとは大変趣を異にするものとなりました。実は昨年末から新年にかけ、身近なところで4件もの訃報に接しました。いまなお病床にある仲間もおります。例年にない異常なことですが、これも私がそうした年齢になったからなのだと思います。昭和という時代が懐かしく思われる年まで生き長らえてしまったと思う今日この頃です。ご理解いただければ有難く思います。

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