闘病記
「理事長のページ」 研究所ニュース No.23 掲載分
角瀬保雄
発行日2008年07月31日
2008年度の総会で、当研究所は創立以来5年を経過したことになります。今年の総会は2 年毎の人事交代総会で、本務の移動にともなって何人かの民医連関係者の交代がありました。理事の平均年齢が何歳になったか計算していませんが、新陳代謝によって若返ったことは確かでしょう。私は総会後の理事会で再度、理事長に選任されました。6 年目のお勤めとなり、今までとは異なった感慨があります。
私は昨年75 歳を経過し、今年は「後期高齢者」ということになりました。政府自民党のいうもう「早く死ね」という歳にあたります。ということになれば、意地でも頑張って長生きしなくてはならないと思います。しかし、身の回りでは次々とこの世に別れを告げる仲間が続いています。私も活力が低下し、身体が思うようにならなくなってきました。3 年前の総会時には腸閉塞で約1ヶ月の入院手術を経験しました。今年の総会時には手術のための入院は1日ですんだので、総会は欠席しないですみました。しかし、トータルでは3 ヶ月の自宅療養を要しました。
ことの起こりは4月4日のことですが、朝起きたとき歩行困難、意識不明に陥っていたということです。妻は脳梗塞と思い、とりあえず近所の開業医のところに担ぎこんだところ、ビタミン注射しかしてくれず、これではどうなるかわからないと思い、専門病院を探すことにしました。しかし、前回の腸閉塞のときもそうでしたが、救急車を頼んだのでは盥回しされてしまうと思い、電話で受け入れてくれる病院を探したそうです。脳外科で定評のある都立府中病院に電話したところ、予約者しか受け付けないということでしたが、状況を訴えたところER センターに来なさいということで、タクシーで運んだそうです。CT をとり、検査をしたところ慢性硬膜下血腫ということがわかり、その夜遅く手術をしてもらいました。前回は内臓の障害でしたが、今回は頭脳にかかわることなので、普段は強気の妻ですが、さすがに心理的には重いものがあったようで、体重がめっきり減ってしまいました。退院後、妻の友人から今度は角瀬さんが病気になるのではといわれているようです。
私の方は病院にもいろいろ慣れて、比較的冷静に対応できました。都立府中病院は1990 年に『都立病院白書』作りに参加した時に訪れたのと、その後の友人の病気見舞い以来3 回目です。それと医療・福祉の勉強をしていると、この機会になにか学ぼうという欲もでてきます。病院の古いところと新しいところがみられました。
入院前後のことは、私には何の記憶もなく、意識を回復したときはリカバリー・ルームのベッドの上で両手を大きな手袋で拘束され、頭から血液を抽出中でした。それが終わって意識が回復してから帰宅が許されました。話しを聞くと脳の左側部分に血腫がたまり、それが脳を圧迫し、いろいろな障害をもたらしたということです。以上は後で妻から聞いたことで、本人の私はなにも知らず、全て医師と妻との合意の上で進められたことになります。
その後自宅療養となり、1 週間後の4月12 日に再びCT検査をしたところ、たまった血を抜きとったことによって、脳の状態はかなり正常化していました。抜糸をし、1ヵ月後、5月17 日に再びCT 検査をしたところ、再び脳の内部は元の状態に戻っていました。再発の可能性が10%あるといわれる出血がおこったようです。そこで再手術かという話しになりましたが、私も医師の方も、二度あることは三度あると、頭に穴を開けるのを何回も繰り返すのは好ましくないと、そのまま様子をみることにし、1ヵ月後の6月23日、再度CT検査をしました。するとどうしたことでしょう、血の塊はどこかへ吸収されていったようで、消えてなくなっていました。医師からは、これからは元どおりの生活でいいですよ、といわれるまでになりました。思わず万歳と叫びたい気持ちでした。しかし、妻は医師から私の言動によく注意して、変わったことがあったら直ぐ知らせるようにといわれていました。回復も「一応の回復」であって、再発の可能性が常にあり、爆弾を抱えていることになります。
以上の一件の背景を探ってみますと、これまでも私は子供のときから足が悪いため、歩行中、ときどき躓いて転ぶことがありましたが、たいしたことはありませんでした。老齢化してからは、転びなれていて、転ぶのが上手と、変な自信をもっていました。ただ、寝たきりにならないように気をつけていました。ところが、昨年の秋頃から一月に一回の頻度で本格的に転倒を繰り返すようになりました。それも自転車にぶつけられて転倒、強風にあおられ、飛ばされて転倒、飲みすぎて酔っ払い、足元が見えなくなって転倒するなど、これまでとかなり状況が異なってきました。慢性硬膜下血腫は、事件の何週間か何ヶ月後になってその影響がでてくるということなので、これらの累積した結果が今回の要因になっているといえそうです。
今回の一件のような明らかな影響が出る前にも、その端緒と思われるものがなかったわけではありません。物忘れがはげしくなったり、名前が出なくなったりするなど、自分では歳のせいと思っていましたが、今から振り返ってみると、血腫の影響があったのかもしれません。私の周りには80を過ぎて認知症になる人も少なくありませんが、私はまだまだ大丈夫と思っていました。腸閉塞で入院していたときには、ベッドで著書の校正をしましたし、今回は自宅で療養中、雑誌のインタビューをうけ、原稿を1 本つくりました。後2年、2~3本は原稿執筆も可能かと思いますが、今回の一件で限界を自覚することも大切と思うようになりました。
周りをみわたすと、シルバー人材センターで働いている知り合いも少なくなく、地域に貢献しています。80~90で元気な人もめずらしくなく、なかにはドクター稲垣のように百歳を目指している人もいます。また研究者仲間にも、聖路加病院のドクター日野原の会に入って矍鑠としている人もいます。とはいえ長い人生のつみ重ねの結果として、個々人の健康にいろいろと問題が生まれてくるのも避けられないところです。妻からは歩けなくなるからと、毎日一緒に散歩をするようにいわれ、近所の評判にもなっています。しかし、私の歩みがのろく、散歩にならない、かえってくたびれると不満をあびています。私の方は妻にいちいち行動の了承をえなくてはならず、自由に出歩けないという不自由さをかこっています。
以上が闘病の近況ですが、過日、介護保険の認定を受けたところ、「要支援1」という結果がでました。後2年間「程々に」頑張り、理事長の責を全うせねばと思っているところです。なにかとご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、よろしくお願いいたします。