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医療の産業化

「理事長のページ」 研究所ニュース No.30 掲載分

 角瀬保雄

発行日2010年04月30日


最近、「医療の産業化」ということが問題になっています。その旗手は伊藤元重氏とみることができます。昨年末、伊藤元重+総合研究開発機構[編著]『日本の医療は変えられる』(東洋経済新潮社、09 年)とうたった単行本が出版されました。伊藤氏といえば東大教授として令名を馳せている国際経済学者ですが、経済産業省の医療産業研究会座長など政府系の各種委員会に名を連ね、行くところ可ならざるはなしというマルチタレントです。財団法人・総合研究開発機構はNIRA ともいわれ、公正・中立な立場から公益性の高い活動を行い、政策形成に貢献していくとうたわれているものですが、伊藤氏はその理事長を勤めています。

伊藤氏は同書の第1部「医療を考える経済学の視点」を執筆しておりますが、冒頭「医療を産業として捉えると」として問題を提起しています。したがって、「医療の産業化」ということが同書のキイワードといえます。医療崩壊がいわれるようになってから、すでにかなりの歳月がたちます。その間、自公政権から民主党連立政権へと政権交代が行なわれましたが、医療費抑制政策は続き、救急医療における医師、看護師不足、公立病院の経営破綻など問題は続いています。後期高齢者医療制度など、医療分野における矛盾も依然として続いており、深刻さを増しています。

しかし、この医療に介護を加えた医療・福祉となると状況が少し異なってきます。総務省の労働力調査によると、医療・福祉分野の就業者は2010 年2 月時点で663万人に達し、しかも3 カ月連続で前月を上回り、就業者全体に占める割合も昨夏から1割を超しているといいます。製造業が2月に16.9%と、前年同月に比べて0.6%ポイント低下した反面、医療・福祉は10.6%と0.8 ポイント上昇しています(「日本経済新聞」01 年4 月7 日付)。医療・福祉分野は雇用増大で、いまや日本の主要産業になっているともいわれます。

しかし、いま改めて「産業化」ということを考えると、なにが問題かと問われます。「産業化」という限り、就業者の数だけでなく、医療・福祉の全体像が問題になります。伊藤氏は医師不足の問題を資源配分の歪みの結果としてとらえています。医師の需要と供給がマッチしていない結果、患者が期待する医療が提供されないことになるというのです。しかし、医療の場合、通常の財やサービスと異なって単純な市場メカニズムに多くを期待することができない、ともいいます。もし医療を産業として見たら、国民の医療への需要が拡大していくことはむしろ喜ばしいことではないだろうか、といいます。通常の産業であれば企業の売上が増え、雇用が拡大し、国民の生活が向上する。ところが医療の場合には、需要が拡大することがマイナス要因となるのが問題といいます。国民が医療サービスに対してきちんと対価を払い、産業としての体を成すことが重要なのだといいます。

形式論理では確かにそのようにいえます。しかし、それは医療サービスをハンバーガと同じように市場で自由に売買する商品としてとらえるものといえます。しかし、伊藤氏はそれほど単純ではありません。「財政的関与も、国民皆保険制度の維持も、そしてある程度の料金や価格規制も必要であるかもしれない。」とした上で、「医療の中に産業的な要素をいかに入れて行くかということが重要である。」といいます。こうすれば「医療は21 世紀の日本のリーディング産業の一角に位置づけることができる。」というのです。

伊藤氏は、日本の医療制度は国際的に高く評価されてきたと認めています。皆保険制度の導入によって日本人の平均寿命が世界一長くなったという事実は否定しようがないからです。しかし、環境が大きく変化しているにもかかわらず旧来の仕組みを改革するスピードが遅いので、理想と現実のギャップが開いているのだといいます。急速な高齢化、医療の高度化とそれに伴う国民の医療に対する期待の増大、「情報化」の動きなどに対して、政府には正しい資源配分ができる保証はないといいます。そこで質・アクセス・コストのトレードオフが問題になるといいます。そこで色々な事例をあげて「政府の失敗」なるものが示されます。政府規制のマイナスがこれでもか、これでもかと示されますが、市場原理のマイナスは通り一遍の提示で終えています。果たして伊藤氏の診断で、日本の医療問題が解決されるか疑問です。

同書の第二部は「先端からの発言」として、わが国の医療・経済の第一線の人々が勢揃いしています。永井良三(東大医学系研究科教授)、黒川清(政策研究大学院大学教授)、池上直己(慶応義塾大学医学部教授)、川渕孝一(東京医科歯科大学教授)、山本修三(日本病院会会長)、飯塚敏晃(慶応大学経済学部教授)、落合慈之(NTT 東関東病院病院長)、井伊雅子(一橋大学国際公共政策大学院教授)、石川義弘(横浜市立大学循環制御医学教授)、近藤正晃ジェームス(東京大学先端科学技術研究センター特任准教授)の各氏がそれぞれのテーマ毎に発言しています。

こうしたなかで日本経済新聞社は医療・介護制度改革研究会として、「医療・介護改革 本社提言」なるものを発表し、そのあるべき方向を打ち出していますが、土屋了介・前国立がんセンター中央病院長はそれに応えて「医療を産業としてとらえ、成長の原動力に」「混合診療。医療ツーリズムなどの工夫必要」「国民が望む医療体系実現へ『官主導』脱却を」(日本経済新聞、10年4月8日付)と主張しています。

土屋氏によれば、「これまで医療産業とは、医療機器産業、医薬品産業、医療サービス産業を意味し、医療行為自身は含まれないと考えられてきた。この結果、医療は診療報酬(プライス)が費用(コスト)と関係なく決まり、聖職者である医師によって行なわれる領域とされてきた。」「医療産業の成長は医療との連携なしにはありえない。医療と医療産業とは一体であり、医薬品・医療機器の開発には医療本体にも産業の視点をもつべきだろう。」「先進的な診療に対する私費負担を公的保険に併用する『混合診療』の導入も検討すべきだ。」といいます。日経本社提言でも混合診療で「私費」を伸ばすとあり、後発薬も欧米並みに普及さるべきとしています。

このように見てくると、「医療の産業化」というキイワードはたいへんな意味をもったものとして理解できそうです。この「産業化」の内容は規制緩和、市場化、営利化とみることができそうです。私は「産業化」のすべてを否定するものではありませんが、社会保障制度の拡充がその前提になると考えます。私が以前監修した『日本の医療はどこへいく』(新日本出版社、2007 年)では、「いのちの平等」から来る「医療の平等」を大前提としています。そして憲法25 条の生存権から非営利医療の原則を打ち出しています。そして「医療の社会化」による「公的医療費の拡大」によって「公正な医療」を21 世紀の日本が目指すべき方向としています。そこでは東大の宇沢弘文名誉教授の社会的共通資本の概念に依拠して、その拡充をもって豊かな社会を築くための必要条件としています。

宇沢氏は最近、国立国際医療センター名誉総長の鴨下重彦氏と共同で『社会的共通資本としての医療』(東大出版会、2010年)という単行本を編集し、理想的な医療制度実現のための方策を提言しています。そこには日野原重明(聖路加国際病院名誉総長)、鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)、冨沢達弥(慶友国際医療研究所)、近藤克則(日本福祉大教授)、小松秀樹(亀田総合病院)、鈴木厚(川崎市立川崎病院)、出月康夫(東京大学名誉教授)、平林洌(慶友整形外科病院)、杉岡洋一(元九州大学総長・09 年逝去)、黒川清(政策研究大学院大学教授)の各氏が参加、執筆しています。日本の医療のおかれている危機的状況はいかにして起こったのか、医療の各分野で活躍する第一人者たちが発言しています。伊藤氏の本が「医療の産業化」の視点に立つのに対して、宇沢・鴨下氏の本は「社会的共通資本」の視点に立って、がっぷり四つに組んでいるといえます。

最後に、伊藤氏の編著では、氏自らも認めているように、地域医療の崩壊が重大な問題であるとしながらも、それに対する処方箋を欠いております。過疎地の「医療の産業化」をどのように行なおうというのでしょうか。この点については、『地域医療再生の力』という当研究所の単行本シリーズの第二弾は、私の同僚である中川雄一郎氏が監修しております。ぜひご参照いただきたいと思います。

こうみてくると、伊藤氏の編著と宇沢・鴨下氏の編著で、医療についての論壇の主役が出揃ったかの感があります。いわば闘いの前の陣形布陣ともいえるでしょう。わが研究所のポジショニングはどこにあるのか、この陣形の一角に位置していけるよう頑張らねばと思います。

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