ソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)
「副理事長のページ」 研究所ニュース No.27掲載分
中川雄一郎
発行日2009年08月31日
この夏の8月17・18日に、私は「ソーシャル・インクルージョン研究会」の一員として北海道の浦河町にある「べてるの家」を訪ねた。この夏の北海道は気候が良くないようで、両日とも気温は20度を超えなかった。私は浦河町にちょっとした係わりがあったので懐かしさも手伝って、千歳空港から浦河町までおよそ2 時間ほどの間バスの車窓から外の景観を眺めることにした。
私は、1996年の夏に明治大学の学生部長として、浦河町の山裾に竣工される町立の「優駿の里」を本学の学生がゼミナール合宿やスポーツ合宿の目的に利用する契約の準備のために浦河町の谷川町長にお会いしたのである。谷川さんは現在も町長職に就かれてご活躍とのことなので久し振りにお会いできるかもしれないと期待したが、あいにく職務のためにその期待は叶わなかった。それでもあの当時はまだ設計の段階であった「優駿の里」のホテルに泊まることができ、私は多少の懐かしさを味わうことができたのである。谷川さんは「谷川牧場」の経営者であり、特に知る人ぞ知る駿馬「シンザン」を育てたことで有名である。谷川牧場の入り口にはそのシンザンの悠々たる銅像が建てられており、研究会の一行もシンザンの銅像に触れることができた。
さて、2 時間ほどのバスからの眺めであるが、私が驚かされたのは「歩いている人や作業中の人」をほとんど目にしなかったことである。夏期休暇ということもあったかもしれないが、途中に見えた苫小牧にしても私が1980年代初めに四全総に基づいた「苫東開発」の問題点を探るために訪れた時よりも閑散としているように思えた。「北海道の景気は最悪だ」とある人が言っていたが、「当たらずとも遠からず」かもしれない。このことは浦河町についても言えることであり、「べてるの家」の関係者であり、またソーシャル・インクルージョン研究会の委員でもある向谷地生良教授(北海道医療大学)も「ここ10年の間に経済活動は半減し、人口も8 万人を切りました」と語っていた。
ところで、「ソーシャル・インクルージョン」であるが―これは日本語で「社会的包摂」と訳されるが―元来は「ソーシャル・イクスクルージョン」(Social Exclusion)、すなわち、「社会的排除」の反意語であって、1980 年代から90 年代にかけて生起した失業―特に若者の失業―問題の解決策の一つとして打ち出された「労働を通じた市民統合」を成し遂げるためにEU(ヨーロッパ連合)メンバー国が一致して協定した政策である。したがって、EU メンバー国にはSocial Exclusion Office あるいはSocial Inclusion Unit といった省・庁が設置されている。要するに、EUメンバー国では「人びとを市民として分け隔てしはならない」とのシチズンシップの確立、普及を各国の政策としてこれを実施しているのである。
例えば、イギリスでは、地域コミュニティの再生を目指す社会的企業の多くが障害者のニーズを満たすための事業を展開し、しかも「障害者を市民として社会的に包摂する(社会的に排除しない)」ために障害者の雇用=自立支援を実践している。イギリスではそのような障害者の雇用を創出するために設立された社会的企業(Social Enterprise)がソーシャル・ファーム(Social Firm)と名乗って活動している。ソーシャル・ファームのおおよそのイメージは次のことによって捉えることができるだろう。
- (1)ソーシャル・ファームは、障害者などの雇用を創出するために設立された事業体である。ソーシャル・ファームがその事業において明確に定めている3つの中心的な価値がある。すなわち、[1](権利を行使する経済的、社会的な能力・権限としての) エンパワーメント、[2]雇用、[3]企業、である。
- (2)ソーシャル・ファームは、雇用を通じた障害者などの経済的、社会的な統合に責任を負う。この目的を果たすための主要な手段はすべての労働者スタッフに市場賃金(率)を支払う経済的エンパワーメントである。
- (3)ソーシャル・ファームは、労働者スタッフに生活支援、目標達成の機会、それに有用な仕事を提供するのに有効な仕事場である。ソーシャル・ファームはまた、市場志向と社会的使命とを結び合わせる事業体である。
私は「べてるの家」もこのソーシャル・ファームの要素を持っているように思える。それらの要素の1つが、「べてるの家」は統合失調症の精神的障害を抱えている約150人のメンバーが「就労を通して浦河町の再生に協力する」というビジョンを掲げていることである。このビジョンは、産業が衰退し、地域コミュニティの過疎化が顕著になりつつある浦河町において、「べてるの家」のスタッフ・メンバーが仕事をおこし、企業活動に参画することにより「町の人びとと結びつく」ことの重要性を認識しているのである。また「べてるの家」がメンバーのための「権利擁護サービス」を遂行していることも、「メンバーの生活支援、目標達成の機会、それに雇用の創出」という点で大きな意味を持っている。「べてるの家」のソーシャル・インクルージョンは「権利擁護サービス」を介してはじめて「メンバーの自立」を可能にする、と私には思えるからである。そしてこの権利擁護サービスは、スタッフ・メンバーの「当事者」を意識させる「協同に基づく自助」によって、ソーシャル・インクルージョンへの架橋的役割を果たしてくれるだろう。イギリスでもっとも有名なソーシャル・ファームの一つで、「うつ病、精神不安定、統合失調症、躁うつ病、摂食障害、自己傷害行為」といった精神的健康問題を抱えている150~200人のメンバーと健常者のスタッフとによってエディンバラで事業展開 している「フォースセクター」(Forth Sector)のケビン・ロビー理事長はフォースセクターの目的を次のように強調している。
フォースセクターの目的は、理解し、受け入れ、育成するという労働文化のなかにあって、現実的で、有意義でかつ刺激的な職業から生まれ出る多くの積極的で建設的な利益を人びとが体験する機会を創りだすことであり、また精神的健康問題を抱えている人たちが、社会的排除を克服して、徐々にそして支援を得ながら雇用に復帰する間もそのコア・スキルを高めていくことのできる機会を提供すること、それに当事者たちの回復のプロセスを容易にするための確たる基礎を準備することである。
私は、「べてるの家」を訪問し、そのメンバーや関係者による説明や話を聴きながら、「べてるの家」はイギリスのソーシャル・ファームによく似た理念を擁する事業体であり、したがってまた、イタリアの社会的協同組合―とりわけB型の社会的協同組合―にもよく似た非営利・協同組織である、と思うようになった。そうであればこそ、1978 年に始まった「べてるの家」のソーシャル・インクルージョンへの戦いと努力は、その独自の労働文化を育みながらより高い峰を目指してなお続いていかなければならないのである。
* ソーシャル・ファーム(social firm)の連合組織であるソーシャル・ファームズUK はソーシャル・ファームを社会的企業(social enterprise)である、と強調している。ここでは社会的企業の表記の混乱を避けるために、social enterprise を「社会的企業」と表記し、social firm を「ソーシャル・ファーム」とカタカナ表記にしている。