Citizenshipを翻訳して
「理事長のページ」 研究所ニュース No.33掲載分
中川雄一郎
発行日2011年01月31日
私事で恐縮であるが、キース・フォークス著『シチズンシップ』(Keith Faulks,Citizenship, Routledge 2000)を2010年12月末に漸く訳し終えた。原文はそう長文ではない、というよりもむしろ学生には手頃の170ページほどの本である。しかし、この本の翻訳に約2年もの時間を費やすことになってしまった。長い時間を費やしたのには勿論いくつか理由があるのだが、今となっては言い訳にしか聞こえないかもしれない。何よりもシチズンシップ論の研究分野が私の研究分野と重なる部分が基本的に少ない政治学と社会学であることが主たる理由である。政治学と社会学についてはいわば「素人(アマチュア)」である私は、フォークス教授の『シチズンシップ』を訳しながらその「政治学と社会学」を勉強しなければならなかったのである。しかし、今振り返ってみるとその勉強が大いに役立ったように思える。特にEU(ヨーロッパ連合)メンバー国では「シチズンシップ」の学習は小学生と中学生には必修の科目であって、多くの高校生も―必修ではないのだが―かなり高い内容のシチズンシップ論を学んでいるようである。
シチズンシップのコアは「自治(自律)、権利、責任、参加」である。しかし、何より重要なことは、「権利と責任」は相補的関係にあるのであって、二元論的(あるいは二分法的)な対立関係にないこと、「権利と責任」が与えられることによって「自治」が与えられること、そして「自治・権利・責任」は「参加」に支えられてはじめて具現化されること、これらを理解することである。この理解こそがシチズンシップを真に生活全般に活かしていく鍵となるのである。要するに、人びとは現代シチズンシップを通じて自治と権利と責任を支える「参加の倫理」を基礎に人びとの間の社会的諸関係をより深く、より厚くしていくことで民主的な新しい社会秩序を創りだす「ヒューマン・ガバナンス」、すなわち、「人間味のあるガバナンス」を発展させる責任を自覚するようになっていくのである。
ところで、この「人間味のあるガバナンス」であるが、それはまた民主主義に基づいた社会秩序を維持するパワーも創りだすのであって、これについて説得力のある説明をしてくれる理念の一つが―簡単に言うと―フェミニストたちが主張してきた、ジェンダー問題をシチズンシップと関係させる「ケアの倫理」なのである。フォークス教授は、この「ケアの倫理」が地球的規模での生態系の破壊や自然環境の劣化の問題に対する「人間の責任」と関係するのだ、と強調している。
さて、訳し終えて私ははたと思ったのである。この夏から冬にかけて起こった世界的規模の異常気象をである。この異常気象は、先進資本主義諸国も含めた世界中の人びと、しかし特にアジア、アフリカ、南アメリカの発展途上諸国の人びとに大きな影響を及ぼしている。一つは「食料不足」とそれによる「食料価格の高騰」である。新聞報道によると、FAO(国連食糧農業機関)は「昨年12月の世界食料価格は2002~04年の平均価格を100とした指数で214.7となり、統計を開始した1990年1月以来の最高を更新した。砂糖、穀物、食料油などの価格高騰が著しい」との「食料の切迫状況」を発表している。おそらく、このままでは、2011年の食料の国際価格はさらに高騰することは必至である、と私は思っている。事実、アルジェリアやチュニジアでは若者を中心に「食料価格の高騰」に抗議する暴動が起きている。
アルジェリアでは2011年新年早々の1月7日に首都アルジェを皮切りに、首都から550キロメートル離れた東部の都市アンナバ、次いでコンスタンティーヌそれにテベサなどで抗議行動が活発化しており、死者や負傷者が多数でている。またチュニジアでも1月8日に首都チュニスの西南約200キロメートルに位置する都市タラで野菜や果物を販売していた若者が「販売許可書がない」との理由でそれらの品物を警察官に没収されたことに抗議して焼身自殺を図ったことから暴動が起こり、それがチュニスにも飛び火している。
もう一つは、異常気候が引き起こしている大規模な自然災害である。昨年旱魃で農作物に大きな被害を受けたオーストラリアでは年が変わって間もなくの1月中旬にクィーンズランド州でいわゆる「ラニーニャ現象」の影響による記録的な豪雨に見舞われ、州都ブリスベンでは大規模な洪水が発生している。日本の国土面積の約2.3倍もあるクィーンズランド州で、しかも州都ブリスベンで洪水の規模としては過去120年で最大となる(約2万戸が浸水)と言われている。ドイツでは12月に降り積もった雪が1月の気温上昇(10度)によって溶けだして川の水位が上がり、いくつかの地域が洪水に見舞われたとのことである。また同じく1月中旬に南米のブラジルでもアジアのスリランカでも大規模な水害が起こっている。
われわれはこの異常気象がもたらしている現象を「地球的規模の危機(グローバル・リスク)」と呼ぶべきであろう。フォークス教授によると、グローバル・リスクの一つの重要な要素は「シチズンシップに対する市場の優位性」であり、グローバルな変化の最も重要な側面である。紙幅の都合で「シチズンシップと市場」に関わる問題についてはここではこれ以上触れないが、ただ、今では誰もが知っているように、グローバル・リスクには一つの国家だけでは首尾よく対処することなどほとんどできないこと、またグローバル・リスクは先進諸国と発展途上諸国との間でしばしば見られる国家間の大きな不平等、不均等の問題と密接に結びついていることだけは強調しておきたい。
大規模ないくつかのグローバル・リスクのなかでも先に言及した「異常気象」によって引き起こされるリスクは、人間による「生態系の破壊」がもたらす「自然環境の劣化」を原因とするそれである。「生態系の破壊」・「自然環境の劣化」によって引き起こされる災害・被害に対して人間はあまりに脆弱であることをわれわれは次第に自覚するようになってはきているが、それでも現実には人間による「生態系の破壊」、したがってまた「自然環境の劣化」は止まるところを知らないのである。何故そうなのか。それは、多国籍企業のような巨大資本によるグローバルな激しい市場競争の影響を受けているわれわれがその競争を是認することでわれわれ自身の生活のあり方を保守しようとして、自然の報復を眼の前にしてもなお「人間の脆(もろ)さや弱さ」をなかなか受け入れようとしないからである、と私は思っている。したがって、もしそうであるとするならば、巨大資本によるグローバルな市場競争を規制したり、先進諸国と発展途上諸国との格差や不均等を削減していく新たなグローバル秩序のルールを確立したりするために、われわれは国家や国民を、すなわち、国民国家を超越したグローバル・シチズンシップを追求し、われわれ自身が「人間の脆さや弱さ」を受け入れる「人間味のある生活」=「ディーセント・ライフ」のあり方を創りださなければならないだろう、と私は思っているのである。
グローバル・シチズンシップには「グローバルな権利と責任」が伴う。であれば、生態系の破壊を阻止し、自然環境を保護・改善することは現在を生きているわれわれの権利であり責任であることをわれわれは自覚しなければならない。実際、近年多くの人びとが環境保護政策に大きな関心を持ち、責任を強く意識するようになってきているのである。
さて、先に言及した「人間味のあるガバナンス」に関わるフェミニストの―ジェンダー問題をシチズンシップと関係させる―「ケアの倫理」と「生態系の破壊」や「自然環境の劣化」の問題に対する「人間の責任」との関係であるが、簡潔に言えば次のようである。
自由主義シチズンシップ論にあっては、シチズンシップは、本来、「理性が支配する厳密に公共の事柄」であるとみなされてきたのに対し、「家族生活と需要・供給の法則によって支配される市場交換とに基礎を置いている」「私的領分」はシチズンシップの外にあるとみなされてきた。すなわち、自由主義シチズンシップは伝統的に「公」と「私」とを明確に分割するのであるが、その分割は、結果的に、「男性たちの利益に肩入れ」することになり、特に「家庭生活においてしばしば起こる、女性や子どもに対する暴力を世間の注視から覆い隠す」効果をさえ持つのである。したがって、「シチズンシップの目的」を「私的領分」に適用することが肝要となる。何故なら、そうすることによってはじめて「現代のシチズンシップ」は―自由主義シチズンシップをアウフヘーベンする― 全体論的(ホリスティック)なシチズンシップとなり得るからである。こうして、シチズンシップは、公的にも私的にも、相補的関係にある「権利と責任」を人びとに認識・理解させ、人びとのなかに広げていくのである。
フォークス教授の言う「ケアの倫理」とは、「ケアや思い遣りの観念を親密なシチズンシップの議論に引き入れることにより…自由主義批判の理性と感情の二元論を克服」するフェミニストの理論である。例えばこうである。「女性の行為を自然的なものとして見ることは避けなければならないのだが、それでも、一般に他者に依存せざるを得ない人たちを世話したりケアしたりする女性たちの経験は、男性たち以上に女性たちに他者のニーズや関心事に敏感に反応する政治的関心と見解とを持たせるようにする。…ケアと政治、この二つともが他者の福祉に携わるような活動によってどうにかこうにかやり遂げられるのである」。同じように、「ケアの倫理」は「自由主義によって促進されてきた抽象的形態の自立ではなく相互依存をその内に含む」のであるから、「われわれはケアの価値をシチズンシップに取り入れることにより、公的領域と私的領域の双方において合意の関係を構築していくのである」。
このようなフェミニストの「ケアの倫理」を敷衍して、フォークス教授は次のように主張するのである。
第一は、環境保護に意識的な市民はますます「生命ある有機体としてこの地球で生まれ、成長してきた彼・彼女の有機的プロセスを意識するようになる」ということである。このようなシチズンシップの概念は、自由主義中心の、そして権利と責任の問題に対して原子論的アプローチを善(よ)しとする男性支配的で現実離れしたシチズンシップの観点に異議を突き付けてくれるであろう。第二は、環境保護シチズンシップが福祉の権利や財産の権利それに市場取り引きといった物質的な利害関係を超越したところまでシチズンシップについてわれわれの理解を広げてくれる、ということである。その意味で、エコロジカル・シチズンシップを考察することは、個人一人ひとりに関わるシチズンシップと地球的問題との概念上の連関を考えるのにわれわれにとって大いに有益である。個々人は、自分自身と環境との関わり方、消費の行動パターン、それに環境全般にわれわれが対応する方法に責任を負うよう注意を向けることによって、「人間の成功(ヒューマン・サクセス)」を単なる量的尺度から―われわれが呼吸する空気の質、自然の美しさ、それに新鮮で良質な食料品の生産と味わいといったような―より奥行きと厚みのある質的評価へと変え始めることができるのである。このような理解を踏まえて、シチズンシップは、限られた経済的基準を「人間の業績(ヒューマン・アチーヴメント)」の主要な尺度だとしてきた市場志向言語の記号論的な支配に対する重要な異議申し立てとなるのである。
少々引用が長くなってしまったが、フォークス教授の著書Citizenshipを―そのままカタカナ表記のタイトルで―『シチズンシップ』として訳出し終わった私は今、本書から最も利益を得るのは私自身かもしれない、と密かに悦んでいるところである。