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原子力発電(原発)のリスク認識とシチズンップ

「理事長のページ」 研究所ニュース No.34掲載分

中川雄一郎

発行日2011年05月20日


2011年5月13日付の朝日新聞朝刊・オピニオン欄に「原発事故の正体」と題したインタビュー記事が掲載された。最近の朝日新聞にはアメリカ政府の言い分を代弁するような中身の論説や記事が多く、私の関心や興味を引くような記事が少なくなってきたので、そろそろ別の新聞に乗り換えようかな、と思っていた矢先にこのインタビュー記事が載ったのである(乗り換えるとは言っても、他の新聞も朝日新聞と同じかそれ以下のように私には思われるので、東京新聞にしようかどうしようかと判断がつかないままズルズルきてしまったのであるが)。新聞やテレビ・ラジオといった「メディアの使命」の原則は昔も今も変わらないだろうが、それでも政治、経済、社会、文化など私たち市民の日常的な暮らしや地域コミュニティにおける人びとの社会的諸関係に直接間接に影響を及ぼすだけでなく、地球的規模での自然環境に対して私たちが負うべき責任にも大きな影響を及ぼすグローバリゼーション下の現代にあっては、市民に透明度の高い正確な情報を伝えるとともに、その情報のなかに見いだされるさまざまな問題や課題について市民に深く考えさせるような中身のある論説・説明や記事が掲載され、伝えられることが絶対に必要である。その意味で、すべてのメディアは権力から独立していなければならず、自国であろうと他国であろうと政府権力の代弁者に成り下がったまま思考停止してはならないのである。

さて、このインタビュー記事であるが、取材相手は「チェルノブイリ事故の前にすでに、今日の世界を『リスク社会』と喝破していた」著名な社会学者、ミュンヘン大学のウルリッヒ・ベック教授である。ベック教授は、福島原発事故の意味について質問され、こう答えている。あの原発事故は「人間自身が作り出し、その被害の広がりに社会的、地理的、時間的に限界がない大災害です。通常の事故は、たとえば交通事故であれ、あるいはもっと深刻で数千人がなくなるような場合であれ、被害は一定の場所、一定の社会グループに限定されます。しかし、原発事故はそうではない。新しいタイプのリスクです。...福島の事故は、近代社会が抱えるリスクの象徴的な事例なのです」。また彼は、「日本では、多くの政治家や経済人が、あれは想定を超えた規模の天災が原因だ、と言っています」が、との質問に対してこう説明している。「(それは)間違った考え方です。地震が起きる場所に原子力施設を建設するというのは、政府であれ企業であれ、人間が決めたことです。自然が決めたわけではありません。...産業界などは自然を持ち出すのです。しかし、そこに人間がいて社会があるから自然現象は災害に変わるのです」。そして彼はこう続ける。「これはとても重要なことですが、近代化の勝利そのものが私たちに制御できない結果を生み出しているのです。そして、それについてだれも責任を取らない。組織化された無責任システムができあがっている。こんな状態は変えなければならない」。

ベック教授が説明しているように、福島原発事故は、現代のわれわれにとって「限界のないリスク」であり、それ故、われわれは「制御できない結果を生み出している」のであって、したがってまた、その結果について誰も責任を取らない「組織化された無責任システム」の象徴なのである。どうして「組織化された無責任システムができあがっている」のかと言えば、チェルノブイリ原発事故の場合にもそう言えるのであるが、現代の多くの制度は「元来はもっと小さな問題の解決のために設計されていて、大規模災害を想定していない」からである、との彼の説明には説得力がある。

ベック教授はさらに、「近年、温暖化問題への解決策として再び原子力への注目が集まっていました」とのインタビュアーの質問に対して大変解り易いロジックを提示している。「原子力依存か気候変動か、というのは忌まわしい二者択一です。温暖化が大きなリスクであることを大義名分に『環境に優しい』原子力が必要だという主張は間違いです。もし長期的に責任ある政策を望むのであれば、私たちは制御不能な結果をもたらす温暖化も原発も避けなければなりません」、これである。この主張に続けて彼は、重要なことは長い時間が必要でも「そこを目指さなければならない」ことを強調し、ドイツ政府の「原子力政策の転換」を明示した。「ドイツ政府は福島の事故後、原子力政策を検討する諮問委員会を作りました。私も参加しますが、政府に原子力からも温暖化からも抜け出すタイムテーブルを示すよう求めるでしょう」。そしてさらに彼は、インタビュアーの「第2次大戦後、日本の政治指導者たちは原子力を国家再建の柱の一つと考えた」との説明を受けて次のように論じた。「確かに原子力政策は国家主権と深く関わっている。ドイツにもそうした面もあるけれど、今、ドイツではこういう考えが広まっています。他国が原子力にこだわるなら、むしろそれは、ドイツが新しい代替エネルギー市場で支配権を確立するチャンスだ、と。今は、この未来の市場の風を感じるときではないでしょうか。自然エネルギーへの投資は、国民にとっても経済にとっても大きな突破口になる」、と。ベック教授のこの言葉は、「原子力政策」についてドイツ政府の方が日本政府よりもずっと先を見据え、国民生活のあり方を考えていることをわれわれに教えてくれている。同じ日の朝日新聞に「エネルギー会議初会合」と書かれた小さな見出しの、「ドイツとこうも違うのか」と思うガッカリする小さな記事が載っていた。全文を記しておく。

東京電力の福島第一原子力発電所事故を受け、海江田万里経済産業相が設けた「今後のエネルギー政策に関する有識者会議」(エネルギー政策賢人会議)の初会合が12日、開かれた。原子力政策を含むエネルギー政策全般について再検討する議論が始まった。

経産省によると、原発事故を踏まえて原子力をどう位置づけていくかなどの指摘があったが、「脱原発」の意見はなかった。

次いで、インタビュアーは「制御不能なリスクは退けなければならないといっても、これまでそれを受け入れてきた政治家たちに期待できるでしょうか」とベック教授に問いかけている。私にしてみれば、期待できないのは何も政治家だけでなはないのである。「エネルギー政策賢人会議」のように「有識者」と称されている人たちも期待できないのである。この問いかけにベック教授はこう述べている。「ドイツには環境問題について強い市民社会、市民運動があります。緑の党もそこから生まれました。近代テクノロジーがもたらす問題を広く見える形にするには民主主義が必要だけれども、市民運動がないと、産業界と政府の間に強い直接的な結びつきができる。そこには市民は不在で透明性にも欠け、意思決定は両者の密接な連携のもとに行われてしまいます。しかし、市民社会が関われば、政治を開放できます」。私はベック教授のこの言葉を「シチズンシップの実践能力」と理解したい。「自治・平等な権利・自発的責任・参加」をコアとするシチズンシップが、「市民運動」という形態をとって展開されることにより、ドイツでは市民生活のなかに活かされているのである。日本ではまさに「政治家」や「有識者」といった人たちにも「参加の倫理」の理解と認識が必要なのである。ベック教授の話を聴こう。

ドイツのメルケル首相は、温暖化問題の解決には原子力は必要だと考えていました。しかし、福島の事故で、彼女は自分が産業界の囚われ人であったと感じたのではないでしょうか。彼女は初めて市民運動の主張をまじめに考えなければならなくなり、委員会を作り、公式に議論する場を設けた。産業界とは摩擦が起きるでしょう。しかし、これは政治を再活性化し、テクノロジーを民主化します。

産業界や専門家たちにいかにして責任を持たせられるか。いかにして透明にできるか。いかにして市民参加を組織できるか。そこがポイントです。産業界や技術的な専門家は今まで、何がリスクで何がリスクでないのか、決定する権限を独占してきた。彼らは普通の市民がそこに関与するのを望まなかった。

日本の「エネルギー政策賢人会議」の面々は、おそらく、エネルギー政策に関わる情報と意思決定権を独占することを当たり前のように考えているだろう。メルケル首相が産業界との摩擦を覚悟して委員会を設置し、市民運動の主張も加えて公の議論の場を設けたのは、福島原発事故に端を発した原子力発電の問題は一国では解決できないこと、どの国の国民も自分たちだけでは決して解決できないグローバルな問題であることを理解し、認識したからであろう。とろが原発事故を起こした当の日本の「政治家」や「有識者」はそのことを理解できず、認識できないでいるのである。私たちは、シチズンシップの何であるかを知らない「政治家や有識者・賢人」がエネルギー政策の情報と意思決定権を独占することを許してはならないのである。最後に、インタビューでのベック教授の発言を記しておく。

昨年の秋、私は広島の平和記念資料館を訪れ感銘を受けました。原爆がどんな結果をもたらすかを知り、世界の良心の声となって核兵器廃絶を呼びかけながら、どうして日本が、原子力に投資し原発を建設してきたのか、疑問に感じました。

私は、「市民の権利と責任」という観点から、ベック教授のこの言葉を日本の人たちはどう理解するのか、是非聴いてみたい気になった。もう少し朝日新聞を購読することにしよう。

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