総研いのちとくらし
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「無言国ニッポン」の深層心理

「理事長のページ」 研究所ニュース No.37掲載分

中川雄一郎

発行日2012年02月29日


先般、朝日新聞の「声」欄(「無言国ニッポン」)に載っていた二つの投書に興味を覚えた(2012年2月17日付朝刊)。一つは「ひと声かければすむものを」と題する84歳の男性の投書である。もう一つは「『こんにちは』は客から言おう」と題する13歳の少年の投書である。

前者の内容はこうである。電車が駅に止まると、降りる人は「あたふたと、ひたすら前の人をかき分けて扉に向かう。ものも言わずに」。「ちょっとごめん」とか「降ります」とか、何でもよいから声をかければ楽に降りられると思うのだが、黙って降りようとする。また混んでいる回転寿司屋でも「横の男性の腕が私の前にニューッと突き出てくる。醤油差しを取ったのだ」。ひと言「失礼」と言って取ればすむのに。「そうすれば『どうぞ』と私が返す。それだけのことなのに、無言国ニッポン、嗚呼……」。

後者はこう書いている。父親の仕事の関係で約7年間フランスに滞在し、1年ほど前に帰国したばかりで、「フランスの習慣」がまだ抜けていない。「フランスでは、買い物でお店に入る時に『こんにちは』と挨拶するのが当たり前でした」ので、「日本で先日、コンビニに行き、僕はいつも通り『こんにちは』と言って店に入りました」が、一緒にいた母親に「恥ずかしいからやめなさい」と小声で注意されてしまった。以前から「周りの人が何も言わずに店に入るのに気づいていましたが、僕は、こういう場合、日本では挨拶しないということを改めて知りました。 後から自分が恥ずかしいことをしたのではないかと不安になりました」。(そして少年はこう続ける)「それにしても、日本ではなぜ、お客は挨拶しないのでしょう。僕はすべきだと思います。その方が気持ちよく買い物ができそうです。『客と店員』である前に『人と人』として挨拶できる国になってほしいです」。

両者の投書も日常的にわれわれ「日本人」が目撃している―しかし、最近頓とみに不思議に思われなくなってしまった―生活の一コマである。前者は、(投稿者が「東京都府中市」在住なので)特に東京や横浜、それに名古屋や大阪などの大都会でしばしば目にする一コマであるかもしれない。私は時々地方都市に所用で出かけるが、このような場面に遭遇した経験はほとんどないからである。それにしても、このような「無言状態」が日常的に見られるようになったのは、いつ頃からだろうか。

後者の「客と店員」である前に「人と人」として挨拶すべきだとの少年の思いは、最近の日本に見られる経済・政治・社会の利己的現象に向けられているように私には思える。最近の日本社会は「公」(公的領域)と「私」(私的領域)の分割を当然のように思わせる状況が続いている。少年の「『客と店員』である前に『人と人』として挨拶すべき」という思いは、「公と私の分割は当然のことなのですか」と問うているのである。これについては後で言及する。それにしても、われわれは家庭でも、民間企業、居酒屋、レストラン、学校、病院、裁判所それに役所といった事業体や組織それに公的機関においても「挨拶」無しではすまされないだろう。それが何故、「客と店員」の場合には「挨拶」が「恥ずかしい」ことになってしまうのか。そう考えた少年の素朴な疑問は正しい疑問ではないだろうか。

両者の投書を読んですぐ思い浮かんだ言葉がある。新約聖書の「マタイによる福音書4章」に出てくる「イエスの言葉」である。聖書では「40日40夜、断食をし、空腹になられた」イエスが、悪魔に「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてみよ」と言われ、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から発する一語一語の言葉で生きるものである。」(Man shall not live by bread alone, but by every word that proceeds from the mouth of God.)と答えた、この「人はパンのみに生きるにあらず」、である。

私はここ20年ほぼ毎年ヨーロッパの国々、特にイギリスにおける協同組合や社会的企業それに他の非営利・協同組織を訪問・調査してきたこともあって、ヨーロッパの人たちが日常の生活で交(かわ)し合う挨拶については周知している。スーパーマーケットでも町の店舗でも、客と店員が「ハロー」と挨拶を交わしてからお喋りするのも、また知り合いの客同士が挨拶を交わしてお喋りするのも当たり前のことなのである。そして勘定がすめば客は「サンキュー」と言い、レジの店員は「サンキュー・バァーイ(バイバイ)」と言い返してくれる。客が店員に挨拶するのは当たり前のことではないか、との少年の主張はまったく正しいのである(挨拶せず、お喋りもしない日本の客がおかしいのである)。

私の経験を記しておこう。私は家族と共にイギリスのブラッドフォード市の郊外に家を借りて、1985~86年のおよそ1年間をそこで過ごした。近所の人たちは親切で、私たち家族のために買い物、クリニック、ごみの集配、ガス・水道の修理、図書館案内、バス・鉄道の乗り方、公園、家族旅行、それに息子と娘の学校生活などいろいろ世話を焼いてくださった。本当に助かった。何しろ私たちは初めて海外に出て海外で生活したのだから。私たち家族が住んでいた家から徒歩で5分ともかからない所に息子と娘が通う小学校があり、その隣りに2階建て高齢者住宅があった。その高齢者住宅の住民は、天気の良い午前中に小学校沿いの歩道のベンチに座って子どもたちや通行人にこのように声をかけるのだ:lovely day, isn't it ?(いいお天気ですね。)最初私は、見ず知らずのおばあさん・おじいさんたちだったので、私ではなく誰か別の人に挨拶をしているのかと思って黙って通りすごそうとしたが、次のおばあさんが同じように「いいお天気ですね」と挨拶する。振り向くとそこを歩いているのは私ただ一人、つまり私に挨拶していたのである。「見知らぬ人に挨拶することに不慣れな日本人」の私も気づいて、Yes, lovely, good morning to you と挨拶を返した。それからは天気の良い午前中の挨拶はhelloやmorning,時にlovely weatherとなり、私たち家族が日本人であること知ったおばあさん・おじいさんたちは日本のことにいささか興味を持ったようだった(その地域コミュニティに住んでいる日本人は私たち家族だけだった)。こんな簡単な、しかし、心温かい言葉が仲介して私たちは会話を交わすようになっていったのである。

さて、このような私の小さな経験を振り返ってみただけでも、先ほどの「イエスの言葉」は、「無言国ニッポン」という現状の背後にいかに社会的に重大な問題が潜んでいるかを思わせるに十分な現象である、と私には思える。イエスの言葉を私なりに言い換えれば、こうなるであろう。「人間は言葉によって人間本来の関係を創りだし、人間の本来的な要求を満たしていくのだ」、と。したがって、言葉で生きているはずの日本人の口から「こんにちは」の挨拶や「ちょっとごめん」・「失礼」の声かけが次第に出てこなくなっているのは、日本社会のどこかが「病んでいる」からだと私は診断している。そうであるのなら、何らかの症状が現れているはずである。その症状が「無言国ニッポン症候群」である、と私は言いたいのである。

私の個人的な経験を含めて、この症候群が大都市を中心に伝染していったのは、自公連立の小泉政権(2001年4月~06年9月)が、金融市場と労働市場を中心にさまざまな部門において可能な限りの規制緩和を実施して、働けど働けど貧困から抜け出せない「ワーキング・プワー」(working poor)を生みだした新自由主義政策=「小さな政府」を遂行し、その結果を「自己責任」という言葉でいとも簡単に括ってしまい、ついに人びとの間に二重三重の「新たな格差」が広がっていくのを許してしまってからではないか、と私は考えている。新自由主義政策のイデオロギーはあのハイエクの言葉から察しがつく。すなわち、「私的領域の不平等は免れ難いし、むしろ好ましいことでもある。民主主義は、精々のところ、市場の力によって決定することができない生活の領分に厳格に限定されるべき功利主義の装置である」。もう一人の、新自由主義に凝り固まった人物R.ノージックに至ってはどう仕様も無い。彼はこう言うのである。「民主的なシチズンシップの行使を通じて社会的正義・公正を追求するいかなる試みも市民権の侵害である。したがって、国家(政府)は、最も目立たないが実行可能な方法で安全を用立てる夜警として行動すればよいのである。国家はその市民の物質的な福祉に関与すべきではない。何故なら、国家が物質的な福祉に関与することは、市場によって最適に決定される資源の配分に国家が干渉することを必然的に意味するからである」。当時の小泉首相も竹中平蔵大臣もハイエクとノージックと似たり寄ったりである。要するに、「市場の力」がすべてであるのだから、その結果は「自己責任」ということになるのである。

「無言国ニッポン症候群」の伝染因子が明らかになったのは2004年の「イラクで人質になった日本人3名に対する(多数派の)日本人による激しいバッシング」であった、と指摘しておく。これは政治的にも社会的にも激しいバッシングであって、まさに「究極の自己責任」を問う恐怖感を日本社会全体に与えたのである。欧米人から見ても、この恐怖感は実に異常なものに映った。シカゴ大学のノーマン・フィールド教授(当時)はこの異常さを次のように語っている(朝日新聞2005年8月17日付朝刊)。「日本人は今、他人や社会の出来事との関係を拒否することが新種のアイデンティティになっていないか」。「(日本の)国民の圧倒的多数が、自分は経済的成功を遂げた国家の一員だと信じる社会、日本の国民的アイデンティティの核を作ってきたこの意識は、バブル崩壊後も生き続けている。日常に潜む抑圧を告発する個人は、この多数派から『私は黙ってこの日常を生きているのに』との迷惑意識を向けられる」。「イラクで人質となった3人へのバッシングもそうだ。3人は身近でないイラク人に共感し、個人として行動した。それは、無意識の日常生活を生きたい人びとには迷惑なことだったのである」。

「日本国民の圧倒的多数派」は今もなお、「(日本社会の)日常に潜む抑圧を告発することは迷惑だ」、「黙って日常生活を生きていこう」と考えているのだろうか。福島原発事故を受けた「脱原発」を考えることもなく、また戦後67年にもなろうとしているのに、米軍基地が「独立国ニッポン」にかくも多数存在し、しかもその70%が沖縄にあるような「世界的に異常な状態」を許しておいて、「無意識の日常生活を生きたい」などと国民の多数派は考えているのだろうか。「イエスの言葉」は「沈黙してはならない」と言っているのに。

ヘーゲルは、市民のステータスであるシチズンシップは「(市民自らが)自分自身の生活について判断を下す能力があることを承認する」のであるから、そのような能力を有する人間としての市民は、「自治・権利・責任・参加」を遂行することを通じて、「他のどんなアイデンティティよりも人間の基本的な政治的欲求を充足させることができる」と考えた。ヘーゲルはそれを「承認の必要性」と称した。ヘーゲルの言う「承認の必要性」とはこうである。「個人は自らが他者によって承認されることではじめて幸福に導かれる」とする「承認を求める闘い」を行う。「承認を求める闘い」は「人びとの平等な尊厳を求める闘い」であり、この闘いによって「対等平等な人びとの間での相互の承認」のための秩序が創りだされる、と。脱原発も米軍基地撤去もシチズンシップの範囲であり、「イエスの言葉」を以て脱原発と米軍基地撤去を主張しなければならないのである。

最後に、「無言国ニッポン」に反対する少年が訴えている「公と私の分割」について言及しておこう。「公と私の分割」は男女の中立性を意味しない。このことをまず理解しておこう。事実、私的領域での「自由」は男女間の不平等な関係に基づいているからである。一般に、家族という私的領域における女性のステータスは、公的領域における女性のステータスと同じように、夫という男性のステータスに本来的に従属している、とみなされているし、ましてや家父長的な社会にあっては、女性はシチズンシップを行使する能力のある合理的な政治的行為者ではない、とみなされてしまう。これを現代の文脈から言えば、男性は政治的および経済的行為者とみなされるのに対し、女性は市民というよりもむしろケアラー(家族の世話係・介護者)とみなされてしまうのである。このはなはだしい不平等を自由主義はまったく正当化できない。何故なら、シチズンシップは、自由主義の伝統にあっては、何よりも「一連の個人的権利」だと定義され、そしてそれらの個人的権利を有することは個々人が「自治」を有することを意味することとされて、権利は個人の利益を生みだし、他の個人やコミュニティ全体による干渉を受けることなく個人の潜在能力を引き出す「生活空間」を個人に与えるのであると考えられているからである。この自由主義のロジックは、かつては男性のためのロジックであったが、現代は「男女の不平等」のロジックとみなされるようになっているのである。

それ故、シチズンシップが女性にとってより大きな意味を持つためには、シチズンシップの「平等主義の価値」がどうすれば私的領域の個人関係にも適応されるようになるのか、また子どもや他の扶養家族へのケアの不平等で一方的な負担が女性の肩にかからないようにして、どうすれば女性が市民として十分に社会的な参加ができるよう諸資源を手に入れ、それらを利用できるようになるのか、という問題にわれわれは取り組まなければならないのである。しかし同時に、決定的に重要なことは、自由主義の伝統の中心をなす「平等」という理想が女性の自立の機会を広げてくれる推進力を女性に与えること、これである。こうして、現代では、「公と私の分割」は「男女の中立性を保持する」というロジックそのものを滑稽なものにしているのであるから、公的領域においても私的領域においても男女の平等を実現する諸条件や枠組みをわれわれは再生産していかなければならないのである。

さて、「公と私の分割」がどうして「無言国ニッポン症候群」と結びつくのか、という問題に移ろう。ここでは、二つのことが問題になる。一つは、「自由主義の危機」に関わる点である。これは、自由主義者がシチズンシップの「責任履行能力」を無視あるいは軽視していることと関連する。ダニエル・ベルが主張しているように、新自由主義政策を許してきた資本主義が直面している「経済的ジレンマは、われわれが俗物的欲求を是としてきた事実の結果である。この俗物的欲求は、道徳的見地に立とうが税を課せられようが、欲深さを抑えることに抵抗するのである」。要するにこれは、「自由主義という名の個人主義」であって、この個人主義は「民主主義やシチズンシップに対して自分本位の態度や道具主義的な態度を助長してきたのであって、民主主義やシチズンシップを共同生活の表現としてみなすのではなく、自己の利益を促す方法としてみなすのである。権利は大いに要求するが、責任はまったく受け入れないのである」。新自由主義的資本主義の人間像は、民主主義やシチズンシップに対して自分本位あるいは道具主義の態度を取り、また民主主義やシチズンシップを人びとの「共同生活の表現」とみなさずに「自己利益を促す方法」とみなし、かつ「権利は大いに要求する」が「責任はまったく受け入れない」という「自由が勝手気ままに変異する」ことを最善とする人間像なのである。丁度あの「橋下徹とその仲間」のように、である。他者の尊厳を無視あるいは軽視する、他者への配慮を欠く社会的な空気が「無言国ニッポン症候群」をつくりだす因子になっているのである。

もう一つは、「俗物的欲求」や「欲深さ」とも関連するが、「責任」を「自治の条件」とみなさず、単純に「自由の侵害」とみなす傾向の強まりである。これは、「権利の行使と責任の履行は相補的な関係にある」という事実を市民が理解しなければ、社会秩序や社会規律に対する権利の重要性が見失われてしまい、その結果、「権利は絶対的なものである」との主張を許してしまう危険性が生まれてしまう、ということである。じつは、「無言国ニッポン症候群」の因子の一つは、この「権利と責任」が相補的な関係にあるのではなく、対立的な関係にあると人びとに思わせている社会的な空気だと言えるのである。

俗物的欲求や欲深さを正当化する新自由主義者は「人間の行動について単純で割り切った考え方をする」ので、「権利を行使する能力の不平等が現に果たしている役割」について真剣に考察することなくあしらってしまう。したがって、新自由主義者は「社会に対する義務や責務(責任)の意識が欠けていることの問題をより広い範囲に及ぶ社会的な問題の一つの側面だとみなすのではなく、個人としての弱点や欠点の問題だとみなし、したがってまた、シチズンシップの遂行を妨げている本当の障害物である制度や機関や機構―主に排他的な政府・国家や市場の不平等―を無批判的に受け入れる」のである。このような誤った判断は「問題の根本に手をつけないままさらなる不平等を生みだすような政策を先導してしまう」のである。「橋下徹とその仲間」が喧伝している政策は、まさに権利の一層の充実を求めている「弱い立場の人たちにとっての自由」に対する脅威と言うべきである。何故なら、「橋下徹とその仲間」は「権利の縮小」と「新しい権利の停止」を擁護しているからである。私は思うのだが、「橋下徹とその仲間」は、少子高齢社会やジェネレーション・ギャップの可能性といった日本社会の現況を(政治的に)目前にすると、「伝統的な家族構造への回帰」や「ケアラー(世話係・介護者)としての女性と活動的で積極的な市民としての男性」という分裂を再現する恐れが大いにあるだろう。イギリス保守党の「鉄の女」と褒めそやされたサッチャー元首相は1988年5月に―自分は他の一般的な女性とは違うステータスにあるので、とわざわざ断って―スコットランド国教会長老派総会でこう演説した。「イギリスには社会というようなものは存在しません。存在するのは個人の男女、それに家族なのです。」(There is no such thing as society in Britain. There are individual men and women, and there are families.)ミセス・サッチャーは「あなた方市民は経済的、社会的、政治的な諸結果すべてを『自己責任』として受け止め、対処しなければなりませんよ。何故なら、イギリスには社会というようなものがないからよ」、とそう主張したのである。これが多くの市民、とりわけ女性の怒りを呼んでしまったことは言うまでもない。

われわれは、シチズンシップの意識を高めていくのに権利が果たす役割の重要性を承認しなければならない。われわれはまた、権利はガバナンスの問題、すなわち、公正な資源配分や社会の秩序や規律の維持といった問題を成功裡に解決するのに決定的に重要であることも承認しなければならない。この「権利の重要性」は、「権利こそ政治的行動の延長線上にあること、また権利こそ敬意をもって個人を思いやるのに値するものだと明確に理解すること」を意味している。権利は正義と公正の原則に従って、またコミュニティの各メンバーのステータスは平等であるという認識に従って、資源を配分する一つの方法として測り知れない価値を有していること、さらに権利には社会的な安定を持続させるのに果たすべき重要な役割があることを市民は承認しなければならないのである。

最後に、「無言国ニッポン」を優しく告発してくれた84歳と13歳の二人の市民にキース・フォークスの次の言葉を送りたい。

人間は多様でありまた創造的であるのだから、人と人との対立は避けることができない。だがこの対立は、しばしば非常に生産的であって、しかも必ずしも激しい感情や言葉(あるいは暴力行為)を伴うものではない。実際、シチズンシップがその一部を成している政治のまさにその目的は、妥協や歩み寄りを通じて紛争や争議を解決することである。権利が社会的な対立を解決するのに重要な役割を果たすのは、個人は一人ひとりが最大の尊敬を払われなければならず、他者の目的のための単なる手段だとみなされてはならない、ということを権利が人びとをして想い起させるからである。

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