総研いのちとくらし
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経済学と倫理(2)

「理事長のページ」 研究所ニュース No.42掲載分

中川雄一郎

発行日2013年05月31日


前号(No.41)の末尾で私は、昨年度の3年生ゼミナールで使用した外書購読のテキスト『市場を考える:経済学の倫理的考察』(Reckoning with Markets: Moral Reflection in Economics, by James Halteman and Edd Noell, Oxford University Press, 2012)の序論のほんの一部を紹介しておいた。それは、著者のホルトマン教授がロシア文科省からの依頼でMBA(経営学修士)のカリキュラム設置プロジェクトに関わった際に「ビジネス倫理グループ」のあるロシア人教授に問いかけた「経済と倫理」についての「質問」と「答え」のエピソードであった。ホルトマン教授は―市場経済は「人びとがお互いに信頼し合う」ことを前提とする、という意味で―ロシア的文化としての「経済と倫理」の問題についてロシア人教授に問いかけたのであるが、そのロシア人教授はそれを「(損得の)経済的な好機」のことと思い違いをして答えた、というものであった。

 「経済学と倫理」という命題(テーゼ)は、しばしばこのような思い違いを起こさせるのであるが、その思い違いの主たる要因は、外でもない、これまで主流の経済学が「経済学は価値判断をしない」(value free)としてきたことに由来するのである。ところが近年、国や地域それに人びとの間での経済的、社会的な相互依存の観念の広まり、ゲームの理論や行動経済学の出現によって「経済学的考察」に心理学をはじめとする他の社会科学が浸透してきたことから、経済学に関わる思考はどのレベルにおいても「価値判断」(value judgments)を避けて通ることができない、との主張が次第に支持されるようになってきたのである。

そこで、私は、本年度のゼミナールでの外書購読では「経済学は価値判断する」という観点から、経済学の研究においてはどのように「倫理的考察」が展開されるのか、を理解するために『救済の経済学:アダム・スミスとヘーゲル』(Yong-Sun Yang, Economies of Salvation: Adam Smith and Hegel, Peter Lang, 2011)を使用することにした。だがじつは、私のゼミナール学生がどこまでこのテーゼを理解できるかは、今のところ私は何とも判断し難いのである。それでも、世界の近代史のなかの重要ないくつかのシーン、例えば、トマス・ホッブズ(1588—1679)、ジョン・ロック(1632—1704)、ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)、それに18世紀の啓蒙主義などの思想と運動の歴史的役割も合わせて学習することを通じて「経済学と倫理」の根本についてある程度の認識を学生が感じ取ってくれるのではないか、と私は密かに期待しているのである。

言うまでもないことだが、このようなテーゼはより慎重に扱われなければならないだろう。何故なら、経済学の主流がこれまで主張し続けてきた「経済学は価値判断をしない」との観念にある種の「風穴を開ける」ことになるからである。とはいえ、経済学は「持続可能な社会秩序を維持する」というシチズンシップで言うところの市民の「参加の倫理」にも大いに関係してくるのであるから、「経済学と価値判断」というロジックは市民社会における経済的、社会的それに政治的な諸制度を市民生活に有効に機能させることに寄与するだろう、と私は主張したい。その意味で、『救済の経済学』は経済あるいは経済学についての「倫理的思考」あるいは「倫理的考察」の現実的な有意義性をアダム・スミスとヘーゲルが「経済学とキリスト教神学の対話」を通じて語ってくれることを私は大いに期待しているのである。ましてや現代は、個々人の生活信条、価値観、宗教心といったものがますます経済や社会のシステムの歯車を動かす潤滑油として機能していく時代である。ホルトマン教授が、各時代には「物事を動かすことができる実体(existence)を形づくっておくためにさまざまな社会階級を結び合わせ合意させるような―権力構造に連動する―社会的、経済的な諸制度」が存在するのであって、「そのような社会的、経済的な諸制度や人びとの信条、価値観、宗教心といった諸力が相互に補い合うことで一つの束ねられた力となった文化は、それらの諸力が相矛盾しながら生き延びようとした文化よりもずっと長く持ちこたえてきた」と論じている意味が分かるというものである。その点でも、「経済と倫理」あるいは「経済学と倫理」というテーゼはまた、現代のわれわれの生活世界にとって大いに意義のある研究対象である、と言うべきであろう。

『救済の経済学』は何を追究するのか

さて、『救済の経済学』であるが、この著書は、「経済学の学問分野とキリスト教神学の学問分野には重要な繫がりや関連がある」ことを前提に論究がなされている。著者のヤーン博士によると、「実際のところ、二つの学問分野の大きなギャップは比較的近年の現象であって、ずっと以前の時代にあっては経済学と神学は極めて密接に絡み合っていたのである」。その証拠に、多くの経済用語や経済理念が「罪や過ちと救済といった神学上の問題や課題を説明するのに聖書のなかで使われている」のである。例えば、マタイによる福音書の「葡萄園の労働者」(『新約聖書』20:1~16)がそれであって、(葡萄園で働いた労働者に労働時間に関係なく1日1デナリの賃金を支払った)この寓話のように、「宗教的救済を説明するために経済用語を使うことは、一見別々の物事のように思える主題や対象の間に見られる関係を確証する可能性を示唆しているのである」。

では、このように、経済学とキリスト教神学(以下、神学と略称)との間に何らかの関係があるとするならば、「人間的な経済」(human economy)と「神の摂理」(God's providence)との間の正当な関係はどのようなものであるのだろうか。このことを追究するのが本書の論点であるが、同時にこの論点を追究することによって経済学と神学の関係は単なる神学的な倫理に関わる事柄を超え出ていることを、言い換えれば、経済思想は基本的に神学思想に基礎を置いており、また反対に神学思想も経済的側面を色濃く持っていること、これらのことを本書はアダム・スミスとG.W.F.ヘーゲルの「経済思想と神学(宗教的信条)」に論及することで明らかにし、以って「救済の経済学」の、したがってまた、現代における「経済の倫理」を考察しようとする、いわば「新倫理経済学アプローチ」とでも言うべき力作である、と私には思えるのである。

「アダム・スミスとヘーゲル」を知ることの意味

ところで、私が本書に当初興味と関心を抱いたのは本書のメインタイトル「救済の経済学」よりもサブタイトルの「アダム・スミスとヘーゲル」の方であった。「マニュファクチャーの時代」と称されるイギリス産業革命期の1759年にThe Theory of Moral Sentiments(日本語訳『道徳感情論』)を、また1776年にAn Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(『諸国民の富』または『国富論』)を著したイギリスのアダム・スミスと、そのスミスに遅れることおよそ30年後の、しかも依然としてカントの言う「虚偽の国家」が存続し、ナポレオンによる軍事的支配を受けていた時期の―したがって、ドイツ・ロマン主義の最中にあった―1807年にDie Phänomenologie des Geistes(『精神現象学』)を著したG.W.F.ヘーゲルを比較して論じる試みに私は興味と関心を大いに抱いたのである。というのは、アダム・スミスとヘーゲルの両者を比較研究するのであれば、経済思想と神学について両者に共通する点と対立する点が論究されるだろうし、しかも両者の生きた時代背景の相異を考慮して論究される極めて興味深い経済思想研究である、との期待が私に湧いてきたからである。

こうして私は新学期のゼミナールが始まるまでに本書の論旨をある程度学生に要領よく説明できるように目を通しておこうと思い、毎日少しずつ読み進めていった。ところが、である。読んでいくうちにあることに気がついたのである。それは、私の知っているアダム・スミスは『諸国民の富』のアダム・スミスであって、『道徳感情論』のアダム・スミスではないこと、またヘーゲルに至っては彼の断片的な哲学思想を通じてのヘーゲルにすぎないこと、これであった。

そこで私は―「時間の余裕」がそう多くないこともあり―スミスの『道徳感情論』とヘーゲルの『精神現象学』とに関わる書籍を数冊ずつ読むことにして、本書と向き合うことにした。現在、本書を中程のところまで読み進めてきて分かったことは、アダム・スミスとヘーゲルの両者に共通する用語が「自己意識」あるいは「自己意識願望」であること、そしてアダム・スミスに特有の用語が「利己心」で、ヘーゲルに特有の用語が「理性の狡知」である、ということである。

そしてもう一つ両者の共通点をあげると、それはカール・マルクスである。若きマルクスは「青年ヘーゲル学派」であったし、ヘーゲルの弁証法を学び、またヘーゲルの『法の哲学』(1821年)に対する批判を通してマルクスは自らの思想を高めっていった。マルクスのヘーゲル法哲学批判には次のような有名な言葉があるが、その言葉は、われわれにとって、現在の「自民党・安倍政権」に対する厳しい批判であるようにも思えるので、ヘーゲルと「自民党・安倍政権」を同等に置くようでヘーゲルとマルクスには誠に申し訳ないが、ここに記しておく。

ヘーゲルは国家から出発して、人間を主体化させた国家にする。ところが、民主制は人間から出発して、国家を客体化させた人間にする。宗教が人間をつくるのではなく人間が宗教をつくるように、憲法が国民をつくるのではなく国民が憲法をつくるのである。

マルクスはまたイギリスに亡命して経済学の研究を本格的に始め、British Libraryの書籍や雑誌、政府資料などを利用して『剰余価値学説』をはじめとする経済学批判を研究し、『資本論』―『経済学批判』―を世に出した。その時期にマルクスが使用したLibraryの椅子は現在でも残っている。またマルクスはイギリスに亡命する前の1844年にパリにおいてスミスやリカードなど古典派経済学を批判的に検討したノート『経済学・哲学草稿』を書き、「私有財産」が「疎外された労働」の帰結であることを論じている。この「労働の疎外的構造」の究明は今日までその影響力を保持しており、世界の多くの人たちの知るところでもある。このような意味で、カール・マルクスは、現代のわれわれから見ても、アダム・スミスとヘーゲルの共通の人物なのである。

さて、締めくくりに、「なぜアダム・スミスとG.W.F.ヘーゲルか」を論じているヤーン博士の言葉を引用しておこう。われわれはヤーン博士の言葉をどう受け止めるだろうか。

道徳哲学者としてのアダム・スミスは人間の諸関係における道徳的側面の重要性を軽視しはしない。人間は唯我論的原子としての社会に生まれるのではなく、個々人が他者と関係を持つ社会に生まれるのであるから、われわれがそこで生活している社会はまさに単なる個人の総計以上のものなのである、と彼は考えている。彼の「利己心」の理念は、「自己中心」(selfishness)ではなく、むしろ個人的願望と社会福祉との間の緊張関係を調和わさせるのに必要な「自然な自己意識」(natural self-consciousness)である。それ故、なぜ彼が、個人と社会の双方にとっての「利益の伝動装置」として利己心の役割に注目したのか、という経済的、道徳的それに神学的な理由を理解することが重要なのである。(中略)

本書で論究されるもう一人の思想家はG.W.F.ヘーゲルである。ヘーゲルは彼の思想体系全体を貫いている循環論法や弁証法的論理でよく知られている人物である。彼は確かに現代的な意味での経済学者ではないとはいえ、彼が近・現代に及ぼしてきた直接、間接の影響力は無視できないものである。とりわけ、「理性の狡知」(cunning of reason)についての彼の理念にきめ細かい注意が払われなければならない。何故なら、「人間の理性的能力」(human rational ability)を彼が大いに強調していることを考慮すると、歴史に現れた「人間の情念」(human passion)の積極的役割を彼が承認していることは奇妙に思えるからである。では、「理性の狡知」という表現を以ってヘーゲルは何を伝えようとしているのだろうか。そこには人間の情念が理性の狡知であると断言するいかなる神学的根拠があるのだろうか。ヘーゲルはどのようにして(人間の)原罪(original sin)を自らの思想体系に持ち込むのだろうか。ヘーゲルの経済的理念に埋め込まれているキリスト教神学の教義とはどんなものであろうか。もし教義があるとすれば、その神学的背景によって彼の経済的理念はどのように影響を受けたのであろうか。これらの推論は経済学と神学との関係についてどのようなことを含意しているのだろうか。そして最後に、ヘーゲルの「経済生活の神学」における救済は何を意味しているのだろうか。これらのことが議論されるべき主要な問題なのである。

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