「いわゆる」アベノミクスとは何だろうか
「理事長のページ」 研究所ニュース No.47掲載分
中川雄一郎
発行日2014年09月01日
私の学部学生時代の専門書に使われていた「いわゆる」という言葉は、「所謂」という漢字で書かれていた。私が最初に読んだ――というよりも読まされた――専門書は近藤康男先生の『協同組合の理論』(御茶ノ水書房)であった。なぜ、1年生のくせに、しかも5月に入って間もない時期にそれを「読むことになった」のかと言えば、現在も各大学で入学後間もなくして行なわれるサークルによる「新入生獲得行事」の勧誘で農村調査サークル「農業問題研究会」に入会したためである。もう少し詳しく言えば、その研究会に入会して間もなく、農村調査の重要な対象である農業協同組合の調査班に、「半強制的」と言うべきか、入れられてしまったためである。後になって考えると、人間の「運命」はそれこそ不思議なもので、その時に、「農業協同組合班」に入ることを断っていたならば、私はこうして協同組合の研究と教育をしていないかもしれないからである。私は、農業協同組合班に私を「半強制的に誘ってくれた」(今は亡き)1年先輩にお礼を申し上げなければならない、と思っている。
ところで、『協同組合の理論』であるが、その年の夏休みまでに数回読み、その度に鉛筆で線を引いて理解しようと努力したが、しかし結局、ほとんど理解できなかったことを覚えている。それでも、イギリスの「ロッチデール先駆者組合」が世界の近代協同組合運動の創始であること、また第2次大戦後の日本の農村と農業の民主化を支える役割を与えられた「農業協同組合」は、ドイツの協同組合法を基礎に設立された戦前の「産業組合」(「産業組合法」は1900年に制定)とは異なる、イギリスの「ロッチデール型協同組合」を基礎としていることを知って、「世界と日本」という意識――人と人とのグローバルな諸関係が常識になっている現在の言葉を借りて言えば、「時空を超えた世界と日本と私」という意識――が朧(おぼろ)げながら自分のなかに生まれつつあることに気づき、喜んだことも覚えている。「大学という所は素晴らしい」と感激したことを思い出す。田舎者のいわゆる「無知の為せる業」であったのかもしれないが・・・。
前置きが長くなってしまったが、本ページのタイトルの「いわゆる」の漢字である「所謂」は、「謂(い)う所(ところ)の」、つまり、「世間で普通に言っている」という意味であるが、これを漢和辞典で探していくと、「所謂大臣者以道事君」(論語)が出てくる。この論語を、勝手に「私風に」、現代の言葉に直してみると、「世間で普通に言っているように、大臣なる者は道を以て(正道、道理、条理を尽くして)君(国を治める者)に事ふ(仕える、すなわち、君に仕えるを事とする)」と訳してみたが、どうだろうか。そこで、この訳をさらに、「現代シチズンシップ」、すなわち、「市民の眼」を以て敷衍してみるために、「大臣」は「政府や政治権力(国家)」を、また「(国を治める者としての)君」は、ほとんどすべての民主主義国家の憲法に記されている「主権者である国民」――言い換えると、「民主主義の前提としてのシチズンシップを実践し、ヒューマン・ガバナンスを遂行する市民である国民」――を意味するので、次のようになる。「政府・内閣・首相や政治権力(ポリティカル・コミュニティ)」は「政治・経済・社会に関わる諸政策について、正道、道理、条理を尽くして、すなわち、自治・権利・責任・参加をコアとするシチズンシップと民主主義に基づいてより良い社会秩序を形成し、それを維持する責任を遂行する市民たる国民に説明し、賛意を得て実行することを事(本務)とする」と説いてみたが、いかがであろうか。
さて、先般、協同組合や共済の研究を本務としている研究機関の機関誌編集部から巻頭言(2014年8月号)を依頼されたので「異次元の政治と市民の眼」というタイトルで、「いわゆるアベノミクス」に関する短文を6月末に書いた。すぐ後でその要旨を追うことで「アベノミクス」の中身を記すことになるが、6月末までの「アベノミクス」に関わる情報は、8月中葉を過ぎた現在の情報ほど「異次元」の中身が露わに伝わってこなかったことから、かなり大枠なものにならざるを得なかった。そこで、ここでは――既にお気づきのことと思うが、このところ「アベノミクス」とか「3本の矢」とか、大手のマスコミも以前ほど使わなくなった――最近の「アベノミクス」に関わる情報を採り入れながら、いわゆる「アベノミクス」の何であるかについて簡潔に言及することにしよう。
1.「異次元の政治と市民の眼」のタイトルは、自公連合の「安倍政権の政治」を「異次元の政治」とみなし、またその政治に対する私たち市民の批判を「市民の眼」と称して、「日銀の金融緩和策」の「悪しき影響」が見えてきたことを綴ったもので、次のように考えればよいのである。この「悪しき影響」の原因は、安倍首相や黒田日銀総裁たちが歓喜してそう呼んでいる「異次元の金融緩和策」に、すなわち、「日銀が金融機関から国債を大量に買い上げて、その大量の札束を市場に流す」という、本来「やってはならない『策』をやっている」ことにある。ご存じのように、国債は「買い手が増えれば値上がりし、それに応じて金利が低下する」のであるから、その逆は「買い手の減少と国債の値下がりと金利の上昇」ということになる。したがって、「金利の上昇」は「国債評価の低下」のバロメーターとなる。
2.日銀のこの「異次元の金融緩和策」は、簡単に言えば、日銀が大量の国債の買い手である民間の金融機関――例えば「メガバンク」――から逆に大量の国債を買い上げ、そこに落とされた「代金」を金融市場に流すことで、先ずは日本の企業がその「代金」をメガバンクや他の金融機関からの融資として受け取って設備投資を行ない、企業活動を活発にして生産を増大し、その結果、賃金を上昇させて需要を増やし、企業の利益が増加し、そしてまた同じように「拡大しつつ循環する」流れを作りだす、との筋書きを下敷きにしている。ところが、である。その筋書きが「可笑(おか)しくなってきた」のである。何故かと言えば、日銀が金融機関から年額50兆円もの長期国債を買い増していることから、金融機関は国債保有を大幅に減少させ、それに応じて売買取り引き=買い手を減少させ、その結果、国債は値下がりし、金利が上昇し、したがって、国の借金が増大しているのである。黒田総裁は「国債市場の流動性(活発な売買取り引き)がスムーズではないとか、価格付けが適切になされない(値下がりしている)とか言われているが、そんなことはない」と平気の平左衛門を名乗っているが、私のような「市民の眼」からは「強弁を弄している」としか見えないのである。彼がいくら強弁を弄しても、その懸念は拭いきれないようである。その証拠に、安倍首相は、「集団的自衛権の閣議決定」に対する国民の大きな批判に対し「説明不足」を自認しておきながら、今日まで国民に何らの「説明」も「説得」もすることなく、海外に出かけては大企業のための「商人役」を務めているではないか。「異次元の金融緩和策」の成り行きが不安でしょうがないのである。
3.いわゆる「アベノミクス」の金融緩和策は、日銀による国債買い上げ代金が膨れ上がった資金として金融市場に出回っても、肝心要の日本の企業がそれを利用しないのであれば、まさに「水泡に帰する」ことになってしまい、結果的に、「単なるインフレ」を呼び込むだけになってしまう。そこで彼は、「産業競争力強化」の一環と銘打って、トルコやベトナムそれに中東に出かけて――無責任にも――「原発」施設の輸出の旗振り役を買って出るかと思えば、武器輸出三原則を改悪して軍需産業を成長戦略の一つの柱とし、さらに大学における研究・教育に対する大学自治・教授会自治を抑制することによって大学の研究・教育の目的を「大企業の競争力強化」に矮小化することを急がせる。加えて彼は、大企業と手を組んで「残業代ゼロ」政策までも言い出した。私のような「市民の眼」からすれば、大企業の経営陣と彼のこの感覚は、およそ「人間としての価値観」の喪失を言い表しているとしか思えないのである。これは「人間の尊厳と労働の価値を最大限軽視する資本家」による「盲目的利潤追求」に外ならず、19世紀20年代~30年代における産業革命期に現代を生きているわれわれを連れ戻そうとする「非道な発想」と言う外ない。彼らは企業人の誇りを投げ捨てた「高利貸し的、前期商人的な守銭奴」に成り果てたのだろうか。彼らには「金儲け」以外に何の想像力も働かないのだろうか。「企業が儲かりさえすれば何とかなる」というトリクル・ダウン論はまったくの幻想であり、tricky policy(狡猾で言い逃れの政策)だと見抜かれているのに、である。
4.自民党税制調査会は6月3日に「法人減税」を容認する方針を安倍首相に伝えたそうである。しかし、税制調査会は、その容認のためには「法人税を課税する企業の数を増やす」課税ベースの拡大と併せて(大企業の)税率を引き下げる、という条件付き容認案を考えている、とのことである。要するに、条件付き容認とは「減税分の財源を穴埋めする」条件を満たすことであって、その最有力の条件は赤字や経営不振の企業であっても事業規模に応じて負担する「外形標準課税の拡大」のことである。しかしながら、これが条件であるならば、この課税の拡大に該当する企業の多くは中小企業なのであるから、大企業の減税のために中小企業への課税を拡大する、という「逆さまの政治思考」が大手を振るうことになる。何故なら、税制調査会は、主に大企業が恩恵に与っている「租税特別措置法」の見直しについて口を噤(つぐ)んでいるからである。
5.ところで、いわゆる「アベノミクス」の異次元の金融緩和策と産業競争力強化は、TPP(環太平洋経済連携協定)に強く反対している農業協同組合の「改革」(「改悪」)にも手を染めようとしている。具体的には、政府の規制改革会議が提言した「農協中央会(JA全中)の廃止」であるが、「なぜ、いま、全中廃止なのか」と言えば、TPPに対する農協の反対姿勢が安倍政権の金融緩和策に抵抗することになるからである。しばしば見聞きすることであるが、新聞やTVなどナショナルレベルのマスコミ陣の多くはあのリカードの「国際分業論」・「比較生産費説」(「比較優位説」)の、古めかしくも現在では非現実的な理論を口実に日本の農業の「良し悪し」を決めつけて、アメリカやオーストラリアなど農業先進国の安価な農産物の輸入をしきりと喧伝する。しかし、それは、「国民的食料の確保」という、農協の最も重要な社会的使命(social mission)を彼らが理解し認識しようとしないことに起因しているのである。彼らは、「日本は天然資源に恵まれないが故の(工業製品)貿易立国であり、したがって、高度な工業技術に基づく工業製品を輸出することで成り立っている国だ」と主張し、日本経済は専ら「高度工業技術に基づく工業製品輸出の賜物」であるかのように情宣するのである。だが、実態は決してそうではなく、工業製品全体の60%以上は国内需要に依拠しており、反対に60%を超える輸入農産物によって日本人の胃袋が満たされているのであって、関税率も欧米の農業先進国よりも低いのである。その意味で、彼らがTPPに賛成するのも、工業生産第一主義の「工業製品貿易立国存亡論」の幻想に憑(と)りつかれているからである。
例えば、朝日新聞(2014年6月4日付け朝刊)は、「農協改革 全中が壁」との見出しを付けて、「全中」と「JA越前たけふ」との「対立」を全面的な対立であるかのように取り上げ、全中が農協改革を阻止しているように描き出し、私のような「市民の眼」から見ると、大企業・大資本を優遇する先導役としての規制改革会議の「農協改革」(改悪)が正義であるかのような思わせ振りなのである。
6.私のような「市民の眼」から、自公連合の安倍政権による経済、社会、教育、文化それに軍事の諸領域に及ぶ政策を見わたして、彼らの「政治」を一言で表現すると、「周囲の人たちに危険を与える状態」(dangerousness)と言うことになる。何故なら、安倍政権は、憲法9条を尊重するよう心がけてきた多くの人たちによって積み上げられた政治の機知(resourcefulness)や安定感(stableness)を破壊しようとしており、またこれまでアメリカの要請というよりも強制によって積み増しされてきた膨大な赤字国債の上に更なる国債を積み増してまで――つまり、国民の意に反してまで――「国の形を変える」自己満足的な政治行動を繰り返しているからである。私のような「市民の眼」からは、安倍政権とその政権に寄り添う財界人たちのなかに、「他者への配慮」(caring for others)、「正直・誠実」(honesty)、民主主義(democracy)、平等(equality)、公正(equity)、連帯(solidarity)といった、人類が実現しようと努力している価値(観)を見いだすことが難しい状態は何とも不可思議であり、異様さだけが漂っているように思えるのである。何とかしなければならない。