総研いのちとくらし
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ICAブループリントの「アイデンティティ」

「理事長のページ」 研究所ニュース No.49掲載分

中川雄一郎

発行日2015年02月28日


昨年11月に、2012年10月に開催されたICA(国際協同組合同盟)マンチェスター総会に「草稿」として提出され、議論・検討の後に承認された文書(ドキュメント)「協同組合の10年に向けたブループリント」(Blueprint for a Co-operative Decade, 以下、ブループリントと略記)の読後感想を書くようJC(Japan Co-operatives)総研の研究誌『季刊 にじ』の編集部に依頼された。JC総研には常日頃いろいろお世話になっているので、「多忙のため他の方に」とは言えず、「いいですよ」と返事を送った。OKしたので、編集担当者に『にじ』が追究するこの特集の「全体テーマ」を訊き直したところ、「今、協同組合はどのようなアイデンティティの確立を求められているか:事業環境や経営基盤の変化のもとでの協同組合運動の展望」とのことであった。そのテーマを耳にした途端、私は一瞬怯(ひる)んでしまった。怯んだ理由は、サブタイトルの「(協同組合の)事業環境と経営基盤の変化」について適切な情報が私の手許になかったからである。それでも「アイデンティティ」(Identity)という言葉が私と「ブループリント」との橋渡しをしてくれるかもしれないと思い立ち、「アイデンティティ」を基軸に「ブループリント」の目指すところを理解し、認識し、場合によっては批判してみようと書く覚悟をした訳である(結果的に、前編<冬号No.648>と後編<春号、No.649>の2回にわたって書くことになってしまった)。

書く覚悟をしたので、私は、もう一度、英文と日本語の訳文とを突き合わせながらブループリントを読み返してみた。日本語訳として「どうもしっくり行かない」と思える個所がいくつかあったので、それらの箇所は私なりに訳し直したが、その他はすべて基本的に訳文に従った(但し、この訳文の冊子には訳者や発行機関が記されていない。私はこの冊子を生協総研から送っていただいたので、おそらく日本生協連関係の発行と思っている)。執筆者は、オクスフォード大学ケロッグ・カレッジ「共同事業・従業員所有制事業研究所」(Centre for Mutual and Employee-Owned Business)のクリフ・ミルズ上級研究員とウィル・デイヴィス博士である(なお、デイヴィス博士はウォーリック大学「学際研究センター」の准教授でもある)。

ICA ブループリントの図式

このブループリントは、協同組合の「アイデンティティ」を中心に、「参加」・「持続可能性」・「法的枠組み」・「資本」の5項目(5つの章)から構成されている。そして「はじめに」のなかの「ブループリント戦略:概要」でこれらの5項目が図式化されており、「アイデンティティ」(第3章で論究される)を真中に置き、左上に「参加」(第1章)、右上に「持続可能性」、また右下に「法的枠組み」(第4章)、そして左下に「資本」(第5章)を置いている。また「アイデンティティ」とすべての項目とは矢印で相互に結ばれており、さらに「参加」と「持続可能性」および「法的枠組み」と「資本」が矢印で相互に結ばれている。(事務局注:図はICA Blueplintより引用)

ところが、どういう訳か、左上下にある「参加」と「資本」、右上下にある「持続可能性」と「法的枠組み」の各々には相互に結ばれるべき矢印が記されていないのである。素直に考えれば、(1)「参加」と「資本」および(2)「持続可能性」と「法的枠組み」はそれぞれ相互に密接な関係にあるはずなのに、なぜかそうなっていないのである。ブループリントそれ自身が述べているように、(1)について言えば、協同組合の「資本」は基本的に「組合員の出資金」によっており、したがって、「資本をコントロールするのは組合員」であり、「参加」の主要な対象も「組合員参加」が常に想定されているにもかかわらず、である。また(2)についても同様で、どの国の、あるいはどの地域の協同組合法も「協同組合を保護し、発展させる」ために、すなわち「持続可能性」を保証するために制定されているのであるから、両者は相互に密接な関係にあることは周知の事実である。ブループリントが(1)の場合も(2)の場合も各々相互に密接な関係がないかのように図式化しているのは問題であろう。

どうしてそうなってしまったのか。推測するに、「問題の図式化」(1)については、ブループリント自身の次の文脈が語ってくれている。

(協同組合の)主要な施策は、その時代の人びとの心的態度(『主体的選択に基づく行為性向』)と動機付けとに合致していることが肝要である。そうであれば、この目標は、人びとが認識し、理解し、正しいと認めることができる協同組合の未来について信頼できる提案を示すことであり、したがってまた、協同組合の未来を確かなものにするために、それを通じて彼・彼女たちが自分たちの資金を活用できる適切な仕組み(メカニズム)を提供することである。このことは、協同組合のアイデンティティを壊すことなく収益を人びとに提供でき、また人びとが自分の資金を必要とする時にはそれを利用できる、とする金融上の提案を意味する。またそれは、組合員による管理(member control)を歪曲することなく、従来の伝統的な組合員(membership)の枠を超えて資本にアクセスするためのより広い選択肢を模索することを意味する。

これを要するに、組合員であれ非組合員であれ、従来の枠を超えた出資ができるようにすることであり、例えば、一般の銀行と同様な「資本へのアクセス」を可能にするシステムやメカニズムを設定する、しかも協同組合アイデンティティを破壊することなく、かつ「組合員コントロール」を歪曲することなくそうしたい、と言っているのである。そうであれば、参加と資本の間の密接な相互関係を印す矢印が記されるべきであろう。私自身はすぐ前で引用した「ブループリントの提案」を承認するものである。ただし、問題は「そのことをどう実質化していくか」、である。すなわち、実質化のプロセスには組合員をはじめとする協同組合人の参加と創意が大いに求められる、ということである。であれば、参加と資本の関係は「協同組合の未来を確かなものにするために」もこれまで以上の組合員の参加のみならず、職員などのステークホルダー(利害関係者)の参加が求められることになろう。前編で言及した、ヘッジファンド中心の債権保有者に株式の約70%を握られてしまったイギリス協同組合銀行の行状(「敗北の協同組合銀行」)と、その行状の原因を生み出したイギリス最大・世界第3位の大規模生協Co-operative Group(CG)の約4350億円に及ぶ巨額赤字(2013年度)の行状などを聞くにつけ、組合員をはじめとするマルチステークホルダーの参加に基礎を置く「ヒューマン・ガバナンス」(人間的な統治)と民主的な管理・運営の必要性を多くの協同組合人は認識し、理解し、正しいと認めるであろう。

(2)「持続可能性」と「法的枠組み」も、(1)と同じように、相互に密接な関係にある。にもかかわらず、(1)と同じように、両者の間の密接な関係を示す矢印が引かれていないのはなぜだろうか。私は、ブループリントは「法的枠組み」と「協同組合のアイデンティティ」との関係を正確に理解している、と評価している。再度言うが、それにもかかわらず、なぜ、「持続可能性」と「法的枠組み」との間に相互に密接な関係を示す矢印が引かれなかったのだろうか。

私はその要因はICAの「シチズンシップの理解不足」にあると考えている。すなわち、現代社会において、おそらく、すべての協同組合人は協同組合の法的枠組みの重要性を理解し、認識しているだろう。しかし、その理解、認識をより確かなものにするためには、各国、各地域・地方の協同組合法とICAの協同組合原則および協同組合のアイデンティティとが明確に連動している事実を社会的に可視化させていくよう努力することが極めて重要になる。なぜなら、ICAには「協同組合の社会的・公共的価値に基づく持続可能性」を証明する役割があるからである。そのことをシチズンシップの視点から言えば、ICAには、さまざまな個々の市民同士が協力し協同してヒューマン・ガバナンスに基礎を置いた協同組合を設立したり、発展させたりすることによって、コミュニケーションのチャンネルを人びとの間に拡げていくことがより大きな社会的・公共的価値を創り出すこと、またそうすることで、人びとのコミュニティにおける生活を相互に結びつける多様な紐帯を形成し維持することの普遍的価値を創り出すことで、人びとの持続可能な社会生活の質の向上に貢献することを証明する役割がある、ということになる。実際のところ、協同組合のヒューマン・ガバナンスによって結びつくこのようなさまざまな個人同士の連帯の経験は、一連の教育的プロセスとして展開されることで、協同組合の事業と運動のみならず、人びとのコミュニティ生活にも有意な教育的な影響を与えるのである。このような教育的プロセスをさらにまたシチズンシップの視点から見ていくと、次のように表現できる。個人同士の連帯に基づく一連の教育的プロセスは、

シチズンシップと民主主義との密接な関係を意識することを意味する。実際のところ、シチズンシップは民主主義の前提条件とみなされるのである。権利と責任がガバナンスの民主的システムに必ず含まれるのは、民主主義には平等な「参加する権利」という理念が必ず伴うからである。民主主義はまた、例えば、「言論の自由」の権利、「結社の自由」の権利、それに「異議を唱える自由」の権利といった「意見の表明」に必要な市民権を伴う。逆に言えば、民主主義は政治的組織体としての国家(polity)のメンバーシップを「従属的身分」から「市民の身分」に、すなわち、シチズンシップに変えるのである。個人一人ひとりを自己統治することができる自治的で自律的な行為者と認識することによってはじめて、積極的な社会的経済が可能となるのである(K.フォークス・中川訳『シチズンシップ』日本経済評論社、2011年、p.164)。

 このように、「個人同士の連帯に基づく教育的プロセス」は「安定したガバナンスのために民主主義がますます重要になってくる」こと、また「大多数の人たちが共に生活できるよう差異を認識し、民主的な諸制度をそのための政策決定にまで辿り着く唯一可能な方法として擁護する」ことを協同組合人に教えてくれるのである。ICAはこれらのことを能く能く理解し、認識しなければならないだろう。

なぜ「アイデンティティ」なのか

長いイントロダクションになってしまった。さて、ブループリントの5項目のうち私が多目(おおめ)の分量を費やして言及した項目は、それらの中心として位置づけられている(第3章)「アイデンティティ」である。冒頭部分で触れた「図式」に明瞭に記されているように、この「アイデンティティ」は他の4つの項目の真中に位置し、それらすべてと密接な相互関係を示す矢印を記している。要するに、「アイデンティティ」は「参加・持続可能性・法的枠組み・資本」に対するいわば「中心核」(core)あるいは「基礎」(foundation)の役割を担っているのである。「協同組合のアイデンティティ」こそ「協同組合の事業と運動の正鵠である」と言われる所以である。

ところで、われわれは、「協同組合のアイデンティティ」を、簡潔に、「協同組合が何であるかの自己定義」あるいは「他のものに置き代えることができない協同組合の自己存在証明」である、と言ってきたが、実際に協同組合の「自己定義」や「自己存在証明」をそう易々と表現することはできないだろう。例えば、「農協のアイデンティティは何か」と問われた時に―農協(JA)が表現しているように―「農協らしさ」と言ったところで、農協人には何となく(・・・・)理解できるかもしれないが、他の人たちには理解できないだろう。「農協らしさ」だけでは「農協が何であるかの自己定義」や「他のものには置き代えられない農協の自己存在証明」の何であるかが皆目見当がつかないからである。では、協同組合のアイデンティティを的確に表現する「自己定義」あるいは「自己存在証明」を表現し得る何か適切なヒントはあるのだろうか。

ブループリントのアイデンティティ・アプローチは、「協同組合のアイデンティティ」を、じつに大まかに、「協同組合セクターそれ自体と組合員のための協同組合の意義」であり、あるいは「協同組合セクターが鏡に映っている自らの姿をどう認識するか」である、と説明している。しかし、このような説明では、協同組合人は「協同組合のアイデンティティ」を他の人たちに伝え知らせ、理解してもらうことができないだろう。

協同組合のアイデンティティは、「協同組合が何であるのかの自己定義」であり、あるいは「他のものに置き代えられない協同組合の自己存在証明」であるのだから、協同組合人は、他者に、「協同組合の目的・目標」、「協同組合の特徴的性格」、「協同組合の独自の経済-社会的役割」、それに「協同組合の基本的価値」や「協同組合の定義」・「協同組合原則」を伝え知らせ、理解してもらうよう努力するであろう。そうすることによって、協同組合は多元的なアイデンティティをその内に包み持つのである。しかし、それらの協同組合のアイデンティティは―アマルティア・センが強調しているように―決して矛盾しないのである。1980年の第27回ICAモスクワ大会に提出され採択されたレイドロー報告(『西暦2000年における協同組合』)は、協同組合における「イデオロギーの危機」を鋭く批判し、こう論じた。「協同組合の目的は何か、他の企業とは違った種類の企業として独自の役割を果たしているのか」。そしてさらにこう続けている。「世界が奇妙な、時に人びとを困惑させるような道筋で変化しているのであれば、協同組合も同じような道筋で変化していくべきなのか、それとも協同組合はそれとは異なる方向に進み、別の種類の経済-社会的な秩序を創ろうとすべきなのか」と、レイドロー報告は協同組合の目的・目標は何であるのかを協同組合人に問いかけたのである。私は、レイドロー報告のこの問いかけを協同組合(人)の「主体的選択に基づく行為性向」(心的態度)、すなわち、「協同組合(人)のエートス」と呼んでいる。その点で、私は、現在の協同組合人に、イギリスのかつての保守党首相のミセス・サッチャーが主張し、彼女からおよそ30年後の今また自公政権の安倍首相が主張しているThere is no alternative framework(「別の経済-社会的な枠組みなど存在しない」)に対して、「オールターナティヴ・フレームワークを創り出す」のが協同組合である、とのアイデンティティを大いに強調するよう期待しているのである。

紙幅の都合でそろそろ筆を擱かなければならないが、最後にブループリントのアイデンティティ・アプローチについて少々批判しておいた理由を示しておこう。

ブループリントの「協同組合のアイデンティティ」について探っていっても、そのアイデンティティが「参加・持続可能性・法的枠組み・資本」を結び合わせる中心核あるいは基礎だとされているにもかかわらず、「個人的な行為と社会的な実践とが相互に依存し合う場・機会を提供する」協同組合の特徴的性格が容易に見えてこないのである。なぜだろうか。私が思うに、それは、営利企業とは異なる非営利・協同組織としての「協同組合のアイデンティティ」に基づく「協同組合の価値」を明確にし、その「価値」に相応しい「制度」を構成し、そしてその制度に基礎を置く「システム」(体系)を構築し、さらにそのシステムが的確かつ合理的に展開するための「メカニズム」(仕組み)を創り出すことによって、協同組合の事業と運動を社会的により影響力のある実体(entity)として適切に組み立てることができないでいるからではないのか。もしそうであるなら、協同組合の事業と運動がシチズンシップの実体を豊かにすることなど適わないことになるだろう。なぜなら、シチズンシップそれ自体が市民の「能動的なアイデンティティ」であるからである。著名なシチズンシップ論者のキース・フォークスはこう述べている。

市民は、創意に富んだ行為者として自らのシチズンシップを表現する新たな方法を常に見いだそうとするので、市民とコミュニティの変化するニーズに具体的に応えるための新たな権利、義務それに制度が組み立てられ、構成される必要がある。

私は、ICAのブループリントを読みながら、ブループリントが多くの協同組合人を引きつけ、的確な批判に出会い、その批判から多くを学び、協同組合の事業と運動の基点は何であるのかを再び協同組合人に返してくれるよう願うようになった。なぜそう願うようになったのか。それは、ブループリントが「協同組合には他のどんな倫理的な事業モデルも及ばない信頼性がある」と述べているからである。しかしながら、その「信頼性」は、協同組合人が営々として築いてきた努力の賜物による「歴史的成果」であることをわれわれは忘れてはならない。それ故、われわれはここで、ヘーゲル哲学に従って、「精神」は「われわれ」であり、「歴史」であり、そして「歴史のなかで自己を知る」、とのことを想起しよう。協同組合人は「われ思う、故にわれ在り」(デカルト)でないことを「協同組合のアイデンティティ」から学ばなければならない。われわれは、したがってまた、協同組合人は具体的な存在であるのだ。

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