発想の転換
「理事長のページ」 研究所ニュース No.51掲載分
中川雄一郎
発行日2015年08月31日
8月の日本列島は各地で35度以上の「猛暑日」を数日間連続して記録した。東京の都心でも8月の初旬から中旬にかけて8日連続の猛暑日が記録されている。特に8月7日の都心の最高気温は私の体温とほぼ同じ36.4度、群馬県館林市での気温は37.1度であった。気温37.1度は、私が風邪に罹って「だるさ」を感じる体温とほぼ同じである。
日本では8月初旬から中旬にかけて観測史上最長の「連続猛暑日」が記録されたが、地球全体では7月の気温が観測史上最高であったそうで、まさにこの7月から8月にかけての異常な高温こそ「地球温暖化」の証拠だと誰もが思っているのに、テレビに出てくる気象予報士の紳士・淑女たちは「異常気象」の「い」の字も発せず、「猛暑」=「熱中症に気を付けて」の言葉を口上然として発しているかのようである。
そのような「異常気象」の猛暑が続く8月5日、6日、7日の3日間、私は、3年ゼミナール員――男子8名・女子8名の――16名と共に、明治大学協同組合学ゼミナールの研究テーマ「地域再生と協同組合:JA甘楽(かんら)富岡(とみおか)の事例を通して」に導かれて、群馬県の南西部に位置する甘楽富岡地域の地域再生のプロセスと現況を「熱中症に気を付ける」ほどの暑さのなかで観察してきたのである。
3年ゼミナール(ゼミ)員が上記の研究テーマを設定したのは、私が直接関与しない、つまり参加しない3年ゼミ員による自主ゼミ――私はそれを「サブゼミ」と称している――で彼・彼女たちが4月~5月の約2カ月をかけて小田切徳美著『農山村は消滅しない』(岩波新書)を学習したことによる(じつは、この新書を、サブゼミ運営の責任を負う4名の学生、すなわち、ゼミ長、2人の副ゼミ長、それに調査担当責任者へ私の「感謝」として、プレゼントしておいたのである)。そして6月に入ると間もなく、彼らは今年の研究テーマの設定について私に説明し、研究のための具体的な調査対象を決めてくれるよう求めてきた(したがって、私と上記4名のゼミ員とで行なった6月25日の予備調査についても触れたいが、ここでは割愛する)。
(再び「じつは」であるが)私は今年の1月に「2015年度の3年ゼミの研究・調査対象」についてJC総研の高橋文男さんに相談し、高橋さんから「JA甘楽富岡」と甘楽富岡地域の「地域再生の指導的役割を担ってきた黒澤賢治理事」を紹介していただいた。また高橋さんからは黒澤理事の講演録やJA甘楽富岡に関わる出版物を送っていただき、まずは私自身がJA甘楽富岡とその事業と運動についてある程度学習しておいた。特に黒澤理事の講演録「営農の復権による地域おこし:地域を巻き込む活動のポイント」(協同組合研究誌『にじ』JC総研、2011年春号、No.633)は大いに役立った。学生たちもこの講演録を(主にサブゼミで)学習し、「JA甘楽富岡の地域再生における経済的、社会的な機能と役割」を理解しようと努力した。ということで、それからゼミ生たちの懸命なる「勇躍」が始まることになる。
ところで、ゼミ生たちの勇躍についての話は別の機会に譲ることにして、私なりにJA甘楽富岡の「地域おこし」――ゼミ生の設定した言葉で言えば「地域再生」――に言及すると、この「地域おこし」・「地域再生」の第1にして中心的なコンセプトは「発想の転換」だと私には思える。「発想の転換」、私のような凡人でも、この言葉こそJA甘楽富岡の実践プロセスになかなかに巧く当て嵌まる言葉だと頷けるのである。
例えば、(1)JA甘楽富岡の守備範囲は、富岡市・甘楽町・下仁田(しもにた)町・南牧(なんもく)村の「1市2町1村」にも及ぶ、いわゆる「中山間地域」である。しかも、(2)この地域の標高は平地で120メートル、山地では940メートルで、大きな標高差がある。(3)主食のコメの生産は「飯米」程度で、農家であってもコメは――販売するのではなく――買うものとされ、そのために、つまりコメを買うために、農民は「養蚕」と「こんにゃく」(蒟蒻)の、文字通りの「二大農産物の生産と販売」に励み、農家経済と地域経済を潤してきた。しかし、その二大農産物の生産と販売がとりわけ1980年代以降一気に衰退するのである。取り敢えず前口上はここまでにして、3つの事例がなぜ「発想の転換」であるのか、について話そう。
(1)のそれは、「中山間地域」と称されていることの「歴史的な意味や内容」を吟味したことによるものである。すなわち、現在「中山間地域」と呼ばれている農山村は、かつては多くの農民・農家によって集落が構成され、したがってまた、農業を軸に農民同士の協力・協同のシステムによって生産と生活が支えられ、維持されてきた「歴史」から学ぶべき何かを見いだそうと試みたことである。その試みが農業・食・職(労働)・人間関係に関わる自然的、歴史的、文化的、技術的な諸資源の再確認に繋がり、新たな農業生産の方式、食文化と農村文化の継承、生活・職(労働)の応用と創造を可能にしたのである。
(2)のそれは、この地域のいわば「自然条件の再利用」である。温暖であり、冬の季節風も穏やかで、降雪もまれである、という「恵まれた気象条件」と「標高差」を連動させたことである。すなわち、標高差は農業にとっての「弱点」ではなく、農業生産方式を変えることによって「利点」とする、と考えたことである。農業にとっての「利点」として取り込むのに適している「多品種少量生産」(「適量多品目」)方式によってその「利点」を浮き出したのである。そしてこのことによって農業生産の持続的な増大と拡大を可能にしているのである。例えば、玉ネギは年間を通して生産可能となった。夏は適温の高地で、春と秋は適温の中間地で、そして冬は適温の低地で玉ネギを生産し、かくして東京や横浜などに「甘楽富岡産玉ネギ」市場が形成されたのである。実際は玉ネギだけではない。ナス、キュウリ、ネギ、オクラ、いんげん、ニラ、タラの芽、馬鈴薯、レタス、イチゴ、花卉(園芸)、梅などの市場が創出されている。とはいえ、JA甘楽富岡は、東京や横浜といった大消費地だけを見ているのではない。地産地消の重要性もしっかり捉えている。3つの直売所(食彩館)を設置し、学校給食や公立富岡病院の食事を含め、地域の消費者にも野菜をはじめとする新鮮な農産物を供給している。
ところで、私の眼から見たJA甘楽富岡の特徴であるが、それは何といっても「営農指導事業が中心核になっている」ところにある。私は「農協の要は営農指導事業である」と考えているし、そう言い続けてもいるが、現実は「信用事業中心」になってしまっている。現在の日本の農協にあっては「営農指導部門は赤字部門」と言われて久しいが、JA甘楽富岡はそうではない。むしろJA甘楽富岡の事業全体を支えているのが営農指導事業なのである。
この活発な営農指導事業は1市2町1村の地域再生の「旗振り役」であるだけでなく、地域の資金循環の要でもある。何よりも、「農業に携わる」ことを希望する地域の人たちに「農業訓練を施す」のである。すなわち、農業生産に携わるのは数少ない専業農家だけではないのである。Uターンの人たちやIターンの若者もそうであるが、数は多いが規模の小さな兼業農家の多くの高齢者が、つまり60歳代~80歳代の――なかには90歳代の――「爺ちゃん・婆ちゃん」が農業生産に加わり、一定の所得(年間約200万円)を稼ぐまでにするのである。コストを別にして「農業所得プラス年金」で生活するのであるから、生活に余裕が生まれる。高齢者にとっては実に適切な農業生産労働なので彼らの健康維持に大いに貢献している。加えて高齢者も農協の指導の下に「納税義務」をしっかり果たしている。
(3)のそれは、1970年代以前にあっては地域の特産であった「養蚕とこんにゃく」でこの地域は潤っていたが、80年代以降の貿易の自由化により養蚕は壊滅状態に陥り、こんにゃくの販売高も大幅に下落した状況下で、農協を中心に地域の諸組織による「地域再生」と「JA甘楽富岡の再建」が検討され、(1)および(2)で観たように、「地域に埋もれていた宝を再発見し、それを活かしていく」地域総点検運動に成功したことである。そしてその成功を受けて「埋もれた宝を再発見し、活かしていく場」のカギとなったのが、すぐ前で触れたように、農業の「トレーニングセンター」と位置づけられている3つの「直売所」である。この直売所の機能と役割は極めて重要であって、簡潔に説明すると次のようである。組合員を「4つのランク」に分ける:(1)アマチュアゾーン、(2)セミプロゾーン、(3)プロゾーン、そして(4)スーパープロ、である。ここでまた重要なのは、組合員各自が「ステップアップを図っていく」という意識である。例えば、(1)は新規農業参入者の組合員のゾーンで、彼・彼女らはトレーニングセンターへ出荷し、直売所を通じて「地元循環型」の消費構造に対応する。このアマチュアゾーンの組合員は月20万円以上の売り上げが可能となれば、ステップアップし、次のセミプロゾーンに加わるのである。セミプロゾーンの組合員は「幕張から横須賀にある42店舗」に生産した農産物商品を出荷できるのである。プロゾーンの組合員は「数量・単価を決めて取り引きする」(「総合相対複合取り引き」と称している)組合員である。彼らは、価格を決めて契約店舗で生産した農産物を販売することができるのである。最後にスーパープロであるが、彼らはプロゾーンの組合員の8%で、群馬県知事賞以上の受賞者である。彼らの供給先は老舗のレストランや料亭が共同購入している組織などであり、またJA甘楽富岡が独自開発した「農産物ギフト」を担当している。
このようにしてJA甘楽富岡は、組合員と地域の人びとの経済的、社会的そして文化的なニーズを満たす「独自の方法」を創り出し、それを着実に実践し、多様な「努力のプロセス」の成果を組合員や地域の人びとが確実に可視化できるようにすることで、かつての無為策が生み出した巨額の赤字を黒字に変えてきたのである。この展開を可能にしたのがJA甘楽富岡の職員による「発想の転換」であった。
先に述べた(1)~(3)の事例は「発想の転換」の一部にすぎないが、その一部の事例に共通していること、それは、地域で農業を生業にしてきた人たちが、その生産と生活に直接、間接に関わる諸条件を「マイナス」から「プラス」に変えていく「農的アイデンティティ」である、と私は考えている。規模の大きな専業農家も、戸数としては多数である小規模な兼業農家も、Uターン組・Iターン組も、高齢者も若者も、爺ちゃん・婆ちゃんも、すべて農的アイデンティティの持ち主、正確に言えば、「真の農的アイデンティティを我が物としている人びと」なのである。「マイナスの条件」だと思い込んでいた条件を「プラスの条件」に変えるのは、そう容易なことではない。その意味で、「農的アイデンティティ」の実体(entity)を農協の組合員や職員それに地域の人びとに可視化させる「努力のプロセス」を創り出し、実践した人や組織こそが「発想の転換者」なのだと私は思っている。