総研いのちとくらし
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イギリスの国民投票が教えてくれたこと

「理事長のページ」 研究所ニュース No.54掲載分

中川雄一郎

発行日2016年06月30日


EUではドイツに次ぐ経済大国のイギリスで、「EUに留まるべきか」(残留)それとも「EUから去るべきか」(離脱)の選択が争われた国民投票の結果、「残留48.1%」(1614万1241票)・「離脱51.9%」(1741万0742票)となり、僅差で「離脱」が勝利した(無効2万5359票)。ただし、この両者の数字は「投票率72.2%」の下での数字であって、27.8%の有権者が投票していない。したがって、実際には、「残留票」・「離脱票」・「無効票」・「無投票」の各々の数字がイギリス社会を形成する「市民一人ひとりの意志」であるとみなされるべきだが、形式的には、「48.1%」と「51.9%」のみが「民意の反映」であるとみなされる。なぜ、残留票・離脱票・無効票・無投票のすべてを合わせた「民意の反映」とならないのかといえば、投票の目的が「EUに残留」と「EUから離脱」の二者択一による「票数の多寡」を争った結果を「民意の反映」とみなして疑わないからである。そうでなければ、この「民意の反映」には「単純多数」では決められない「意志の範囲」が必ず存在することを考慮しなければならないのである。例えば、「無投票」のなかには「現時点では残留か離脱か決めかねる」とする人たちが少なからず存在しているのである。そこで、私は、シチズンシップの視点から、「EUに残留」・「EUから離脱」の二者択一に基づく「市民の意志決定」をどう観るか、簡潔に言及する。だがその前に、イギリスに居て「残留」と「離脱」両者の言い分を直接間接に見聞していたであろう梅原季哉氏(朝日新聞ヨーロッパ総局長)が指摘するこの問題の主論点を書き記しておこう(「英EU離脱へ」朝日新聞2016年6月25日付朝刊)。

「理念先行型統合の終幕」という視点

梅原季哉氏は、今回の国民投票で英国民の多数が示したEU離脱の民意は「小差とはいえ明確だ」と言う。「EUは存在意義を失い、自壊すらあやぶまれる最大の危機に直面している。第2次世界大戦後の不戦の誓いに端を発し、これまで進められてきた『エリート主導、理念先行型』の地域統合は終幕を迎えた」、と言い切った。梅原氏がそう言い切る根拠は何か。

その第1は「経済面で統合を進めて国境の壁を低くし、平和へ導く」という崇高な理想を掲げてはいるが、実は、EU本部の現実は「選挙による審判を経ない形で各国の閣僚を経験したエリートらが牛耳っており」、したがって、「人びとの手の届かない遠い場所で決まってしまう政治のあり方」が強い反発を招いたことである。その第2は、EUに背を向けた民意の背景に「反エリート主義やポピュリズムの台頭」である。この傾向は、イギリスに限らず、ドイツやフランスにも現れている。そしてその第3は、イギリス社会には人びとを分断するさまざまな要因が横たわっていることである。例えば、グローバル化のなかで金融サービス業の中心地としてのロンドンのみが繁栄している一方で、地方の鉱工業はすたれたまま置き去りにされている。若者は変革の波に乗る準備ができるが、それができない高齢者はかつての「大英帝国」にすがるしかない。かくして、第4に「職を求めて渡ってきた移民」と「彼らを迎える側の住民」との対立だけでなく、「エリートと一般市民の間の対立」もまた顕在化してきたのである。

梅原氏の「4つの現状分析ロジック」は中々に説得力がある、と私は思う。というのは、梅原氏のこのようなロジックは、ある意味で、EUにおいて周期的に繰り返される国家間・地域間の利害衝突や文化的相違による対立の、いわゆる「位相的対立局面」を言い当てており、それ故にまた、それらの対立局面に対応して作用する諸因子を言い当ててもいるからである。だが、もっと言えば、私としては、梅原氏に、上記の「4つの現状分析の対象」の背後にあって多くの人びとをして経済的、社会的、政治的、文化的に困惑させ、したがってまた、動員に駆り立てる誘引力としての「グローバリゼーションの影響力」をより一層強調してもらいたかった。なぜなら、かつてイギリスは「ECに残留か」それとも「ECから離脱か」を決定する、イギリス史上初めての国民投票を実施しているからである。したがって、その時の国民投票と今回の国民投票の原因と結果の異同について梅原氏は明らかにする必要があったのではないだろうか、と私には思えるのである。1975年に実施された国民投票の結果は「ECに残留」であった。この時期の政府は労働党の第2次ウィルソン内閣(1974~76年)で、イギリスはインフレーションの進行と外貨危機で混乱し苦悩していた。

ヨーロッパ統合の時代

梅原氏の論点を参考にしながら、次にEUの歴史を簡単に観ておこう。

第2次世界大戦の教訓からフランス、西ドイツ、イタリアそれにベネルクス3国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)の間で1951年に結成された――「石炭と鉄鋼」の国家的運営を止め国際的共同運営とする――「ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体(ECSC)」の設立から始まって、上記6カ国の間で結ばれた「ローマ条約」(57年)に基づき58年に――域内における共通関税、労働力と資本の自由化など経済統合の範囲を拡大させた――「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」が発足、そして67年の――ECSC・EEC・EURATOM(ユーラトム)ヨーロッパ原子力共同体の機構が統合された――「ヨーロッパ共同体(EC)」を経て、イギリスがデンマークとアイルランドと共にECに加盟した73年の「拡大EC」、さらに92年に「通貨統合と共通安保政策の合意」を見たマーストリヒト条約の発効により翌93年から「ヨーロッパ連合(EU)」となり、現在に至っている。

こうした「EUの歴史」を一瞥するだけでも、この間のイギリスの自己本位的、日和見的な「立ち位置」がどうしても気になるのは、私だけではないだろう。それは、梅原氏が「大英帝国」意識と呼んでいるものかもしれない。というのも、イギリスがEECへの参加を拒否した理由は、いくつかの統治的権利をEECに委譲しなければならないこと、それに何よりも「イギリス連邦との関係」を重視していたからであった。ということで、イギリスはEECへの加盟を求められるやこれを拒否し、60年にEFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)を結成し、EECに対抗するのである(EFTAの加盟国はイギリスの他にスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、オーストリア、ポルトガル)。しかし、イギリスが目論んだEFTAによってもイギリスの貿易赤字は解消されず、かくして、前述したように、73年にイギリスはECに加盟する。

ところで、イギリスのEC加盟までには「前史」があった。それは、EFTA結成後もイギリスの経済は依然として回復せず、むしろ悪化していったことから、イギリスはEEC加盟を二度にわたって申請した、という事実である。しかしながら、加盟申請は二度とも承認されなかった。ド・ゴールがイギリスの加盟に強く反対したからである。ド・ゴールは「パリとボン」、すなわち、「フランスと西ドイツ」を枢軸にしたEECの強化と発展を目指す構想を抱いていたのであって、イギリスの加盟は、その意味で、彼にとっては「百害あって一利無し」であった。イギリスは73年にして漸くEECから発展したECに加盟するのであるが、それはド・ゴール亡き後のポンピドゥー大統領による「対イギリスEC加盟拒否政策」の放棄によるものであった。フランスによるイギリスのEECとECへの加盟拒否は、文字通りのフランスの「国家政策」であったのだ。

イギリスのEC加盟にはこのような紆余曲折があったのであるが、その第1の要因はイギリスの自己本位的、日和見的な「立ち位置」であったと言ってよい。日本的な言い方をすれば、EC加盟までのイギリスの取った行為は、何とも「世故(せこ)い」行為、つまり「不合理で、狭量で、ケチな行為」と言われても、イギリスは容易には弁明できないだろう。
またこの間、EC加盟国は「新植民地主義政策」を善しとしていた。私は(1967年・学部3年次の)イギリス経済史の授業で「新植民地主義」という言葉に出会い、「やっぱりそうなのか」と思ったことを今でも覚えている。1960年代のこの時期にドイツやフランスをはじめとするECメンバー国は経済成長の最中にあった。1960年代は、周知のように、アフリカやアジアにおける植民地の解放と独立の時代でもあって、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーなどヨーロッパの(旧)宗主国は、アフリカやアジアの植民地を失えば経済的に衰退するのではないかと見られていた。が、あに図らんや、実際はそうではなかった。なぜなら、植民地の解放・独立が、かつてのヨーロッパの宗主国をして、植民地維持のための経済的負担を軽減させると同時に、それらの国の経済的および政治的な影響力と社会的な結集力とを「ヨーロッパ市場」に動員させるよう可能にしたからである。「旧植民地を政治的に独立させておいて、経済的に従属させておく」という「新植民地主義」によって、ECメンバー国にあっては直接間接に経済的利益を吸収・確保し得る構造が作られていたのである。

ヨーロッパ統合のロジック

こうして観てくると、EECもECも、そしてEUも専ら西ヨーロッパの先進諸国を中心に創り出された「国家的利益集団システム」そのもののように見えてくる。確かにそう見える部分はある。しかし同時に、ECSCからEECへ、またEECからECへ、そしてECからEUへと時間と空間を超えてその内容を変化させてきたヨーロッパ諸国の国家的努力には、実は、それらは「国家的運営」ではなく「国際的共同運営」を目指しているのだ、というアイデンティティが働いているのであって、その働きがEUの危機をも乗り越える努力を善しとさせているのだと言えるのではないか。

なるほど、梅原氏の「『理念先行型』の統合」の「終幕」、すなわち、私が名づけた「梅原氏の『4つの現状分析ロジック』」は分かり易く説得力もある。しかし、そうであっても、やはり私は、ECSCもEECもECも、それにEUも「理念」が「先行」することによってはじめて成り立つのであり、またそのための理念なしには物事は前に進むことはできないのである。そうでなければ、「生まれながらにして政治的でない」われわれは、国家にほとんど無関心になるか、国家を避けることでエリートたちが従事する「政治」に拘束されてしまうか、いずれかの状況に追い込まれてしまうのである、と私は主張したい。現代にあって国家の支配力が大きくなっていくことは、裏を返せば、国家こそ「市民が諸権利の拡大を求める中心部」になっていくことでもある。この過程をアンソニー・ギデンズは「統制・管理の弁証法的矛盾」と呼んだ。

ギデンズが言いたいことは、民主主義の下では国家権力が大きくなればなるほど、さまざまな社会運動が権利を求めて活動し、国家によって創り出されたコミュニケーション・チャンネルを利用するようになる、ということである。言い換えれば、国家はガバナンスを「強制力」に委ねるのではなく、「合意に基づく手段」に委ねなければならない、ということなのである。それ故にこそ、イデオロギーがより一層重要になるのである。

ヨーロッパにおける「宗教改革」が近・現代の世俗社会に大きなインパクトを与えたことは、われわれのよく知るところである。とりわけ、「神と個人との関係」がプロテスタンティズムによって「直接的関係に委ねられる」ようになったことは、人びとの生活と文化とに極めて重要な影響を及ぼした。ジョン・ロックも「神と個人との関係」を「市民と国家との関係」に置き換えることによって国家の世俗化を正当化したし、時代を経てヘーゲルは「神と国家」に言及して、「国家こそが人びとの願いや望みの中心である」と論じることで国家を「神聖な存在」である神に取って代えた。マルクスも基本的にヘーゲルと同じである。

むすび

6月23日のイギリスの国民投票は小差であるが「EUからの離脱」を「国民」が選択したことになっている(編注太字は圏点)。しかし、6月末から7月の初めにかけて「離脱」に投票した人たちが「投票のやり直し」を要求しているという。その数400万人とのことである。このことは、「政治的でない」人たちの国家に対する「無関心」あるいは「忌避」の結果としての「政治的拘束」の一つの現象なのである。その意味で、われわれは「国家エリート集団」や「国家機関」に社会的、政治的に「真っ当な性質」を持つよう強く求めなければならないだろう。そうでなければ、われわれの市民社会は「エリート集団による政治」に簡単に拘束されてしまうだろうことを肝に銘じなければならない。「イギリスの国民投票」がわれわれに教えてくれたこと、それは、われわれは市民として常に政治的に国家と向かい合い、国家に無関心であったり、国家を忌避したりしないこと、国家はそのガバナンスを「強制力」に委ねるのではなく、「合意に基づく手段」に委ねることを普遍的価値とすること、市民は「エリート集団による政治」に拘束されないようさまざまな社会運動を活発に展開し、われわれの諸権利の行使を支える責任の意識を常に持つこと、そして市民社会は人びとのアイデンティティを尊重すること、である。

最後に、シチズンシップの視点から「イギリスの国民投票」を総括するのに相応しい言葉を引用しておこう。シチズンシップは、

さまざまな場所や空間で活動する市民自身の活動である。そしてその活動は、政治の中心を国家から離れたところに移していくことによって、分担し共有する共同活動への個人の参加としての政治の可能性を取り戻すのである(キース・フォークス著/中川訳『シチズンシップ』pp.14-5)。

この短い言葉は、われわれ市民は「国家に無関心であってはならないこと、国家を忌避したりしないこと」によって政治を市民に取り戻すことを論じているのである。

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