反知性主義あるいはポピュリズム(1)
「理事長のページ」 研究所ニュース No.58掲載分
中川雄一郎
発行日2017年05月31日
今年の3月末を以て大学を定年退職した私は、4月・5月の2カ月間ほどで「7畳プラス1畳余の備え付けベッド」の空間しかない狭い書斎を整理・整頓をしようと気張って、まずはこれまで乱雑に放って置いた書棚の跡片付けに取り掛ったのだが、予想通りと言うべきか、5月末の今になっても片付けは遅々として進まず、特に書物の跡片付けに手間取っている。ということで、狭い書斎の空間は一層乱雑になり、却って狭くさえなってしまった感さえ覚える。こうなると、書棚の跡片付け終了の目標を5月末ではなく7月末に変更する理由を考えなければならなくなる。そこで思いついた理由が、現に取り掛っている翻訳(Economies of Salvation: Adam Smith and Hegel『救済の経済:アダム・スミスとヘーゲル』)と書斎の整理・整頓とを同時進行させることである。
狭い我が家も、息子も娘も独立・結婚したことから、私の使える部屋が増えた。私は、これ幸いと、娘の居た部屋をほんの少しリフォームし、また娘がそれなりの幅のテーブルを残しておいてくれたので、そこで本を読み、原稿を書く空間を確保することができた。
こうして書斎の跡片付けと整理・整頓の終了目標を2カ月延長することを正当化し得たのであるが、しかし、その正当化故に私は、翻訳を進めるのに必要だと思える、主にスミスとヘーゲルに関わる書物を手に入れるべく御茶ノ水・神田界隈の書店を巡り歩くことになってしまった。何のことはない、結局のところ、この書店巡りの時間は「書斎の整理・整頓」の作業時間の大幅削減となるだけなく、翻訳に必要だと思える書物を購入することから本棚の乱雑振りも一向に治まらない状態をもつくり出してしまっているのである。
しかしそれでも、終了目標を2カ月延ばしたことによって私には「心の余裕」が生まれたような(編注:太字は圏点、以下同)気がするので、私自身はあえて納得しているところである。加えて、この書店巡りで私は、翻訳とは基本的に関係しそうもない、近年欧米で話題になっている「極右政党の変貌」=「ポピュリズム」・「反知性主義」の広がり、また日本での政治の右傾化=「反知性主義」の広がりとを含めた「日本・EU・アメリカの経済・政治・社会」に直接間接に関わる、深刻でしかも関心を引きつける「ポピュリズム」・「反知性主義」に関わる書籍を手にしてはしばしば見入ってしまうので、書斎の整理・整頓の進行を遅らせ、したがってまた本棚の跡片付けも容易に進まない状況を嘆いているのである。
そこで、現今の日本の政治状況とも大いに関連する反知性主義について今回の「理事長のページ」で(1)「森本あんり著『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)」を、そしてポピュリズムについては次回の「理事長のページ」で(2)「水島治郎著『ポピュリズムとは何か:民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)」を紹介しつつ、安倍政治・自公維政治の反知性主義について私たちが明確に知見し得るようになるための一種の「はしがき」を書き置くことにする。
日本では、反知性主義は「どちらかといえば、社会の病理をあらわすネガティヴな意味」で使われることが多いが、総じて、反知性主義は、佐藤優が定義しているように、「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」とみなされている。またポピュリズムは、教育社会学者の竹内洋が指摘しているように、社会の大衆化が進み、人びとの感情を煽るような言動で票を集めるような政治である、と観られている。これらの定義や概念は、ある意味で日本の現状に基づいているのであって、その点で、アメリカの反知性主義とも、また西ヨーロッパ諸国のポピュリズムとも多かれ少なかれ相違するかもしれない。しかしここでは、それらの相違を観るというよりもむしろアメリカの反知性主義と西ヨーロッパ諸国のポピュリズムについてそれらの真の姿を理解することを強調するものである。
(1)『反知性主義』は、主にアメリカ史における移民とキリスト教との関係から現在までのアメリカ市民とキリスト教との関係をベースに「反知性主義」について論究されている、ある意味で現在のアメリカ市民のアイデンティティの何であるかを教えてくれている。
著者の森本あんり氏は本来の反知性主義について「はじめに」でこう述べている:「反知性主義」は、知性そのものではなくそれに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。(中略)「反知性主義」(anti-intellectualism)という言葉には、特定の名付け親がある。それは、『アメリカの反知性主義』を著したリチャード・ホフスタッターである。1963年に出版されたこの本は、マッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面からたどったもので、ただちに大好評を博して翌年のピュリッツァー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房からでたのは40年後の2003年であるが、今日でもその面白さは失われていない。(中略)
本書は、この奇妙きわまりないアメリカのキリスト教を背景として生まれた反知性主義の歴史を通観し、読者がそれぞれのしかたで現代社会を読み解くための道具立てとして提供しようとするものである。反知性主義は、どのような土壌に生まれ、どんな主義主張を成分としているのか。だれがその担い手となり、なぜこれほどの広がりを見せたのか。こうした疑問を少しずつ解きほぐしながら説明するには、ホフスタッターの見立てを出発点としつつも、それぞれの出来事や登場人物にふさわしい解釈と評価を当て直し、歴史の流れの中に再定位する作業が必要になる。反知性主義が21世紀のわれわれ日本人にとってもつ意味も、そこから新たに見えてくるはずである。
本書はこうして、キリスト教と結びついた「反知性主義」を手がかりにアメリカの歴史を辿ることで、現代における反知性主義の意味を整理し、論じる。まずは「知性とは何か」である。それは、「知性」(intellectual)と「知能」(intelligence)の違いを認識することである。「インテリジェント」なのは人間とは限らない:「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」も存在する。しかし、「インテレクチュアルな動物や機械」は存在しないし、知能的な動物はいるが、知性的な動物はいないのである。すなわち、「知性」は人間だけが持つ能力なのである。著者は「この歴然たる用語法の違いは何を指し示すか」と強調して、こう論じる:「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性はその能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが、「知性犯」はいないのである。
それでは「反知性主義とは何か」。上記のことから「反知性」の意味も「単に知性の働き一般に対する反感や蔑視ではない」ことが分かるだろう。「それは、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。知性が欠如しているのではなく、知性の『ふりかえり』が欠如しているのである」。「知性のふりかえり」それはすなわち、「知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか」、「自分の権威を不当に拡大使用していないか」、と絶えず「ふりかえる」ことであり、そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義なのである、と著者は論じ、さらに次のように主張する。「もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる」。このことは、例えば現今の安倍首相に関わる(森友学院や加計学園への)「忖度」=「越権行為」、自公(維)・安倍政権による国民無視の知性無き国会運営にも当てはまる。
ではなぜ、「そのような反知性主義がアメリカのキリスト教を背景に生まれ、先鋭化していったのか」と、著者は自問し、こう答えている:アメリカは中世なき近代であり、宗教改革なきプロテスタンティズムであり、王や貴族の時代を飛び越えていきなり共和制になった国である。こうした伝統的な権威構造が欠落した社会では、知識人の果たす役割も突出していたに違いない。それが本書で辿ったアメリカの歴史であるが、反知性主義はそれと同時に生まれた双子の片割れのような存在である。双子は、相手の振る舞いを常にチェックしながら成長する。他の国で知識人が果たしてきた役割を、アメリカではこの反知性主義が果たしてきた、ということだろう」。
最後に、本書を読み解くなかで一つだけ合点のいかない論点が出てくる。それは「平等」という「理念」についてである。著者はそれを「エスタブリッシュメントに対する宗教的な異議申し立ての権利」によるものであり、またその権利は信仰復興(リバイバリズム)運動によって一般大衆一人ひとりの手にあることが確認されている、と言う。しかしながら、この「平等」あるいは「平等意識」は、現代にあってもなおアメリカ国内における平等であり平等意識であり続けており、他の国々・他の諸国民との間の「平等」あるいは「平等意識」についてはほとんど生かされていない、と言うべきである。とりわけ農産物に典型的に現れている日米貿易の不平等・不平等意識、自国の利益のために沖縄をはじめとする日本の多くの地方・地域に米軍基地を存在させていることなどアメリカによるさまざま不平等・不平等意識がはっきりと確認されるのである。「異議申し立ての権利」は、「平等」と共に民主主義の前提を構成するものであり、シチズンシップの最も重要な価値であることは誰しもが承認しているところである。
(次号に続く)