総研いのちとくらし
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反知性主義あるいはポピュリズム(2)
―ポピュリズムとは何か―

「理事長のページ」 研究所ニュース No.59掲載分

中川雄一郎

発行日2017年08月31日


 研究所ニュース前号(No.58)の「理事長のページ」で私は「反知主義あるいはポピュリズム」の主題に「アメリカにおける反知性主義」の副題を付して、森本あんり著『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を大まかに紹介しつつアメリカにおける「現代の反知性主義」の意味について簡潔に言及しておいたが、本号においても私は水島治郎著『ポピュリズムとは何か:民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)を大まかに紹介しつつ副題の「ポピュリズム」について簡潔に言及する。したがって私は、本号においてもう一度、森本氏の言う「反知性主義」を彼自身が提示した「知性と知能の相異」という観点から「ポピュリズム」を簡潔に追究してみることにする。前号で紹介した森本氏の指摘はポピュリズムのみならず今般の一連の「安倍政治の現実」についても示唆に富んでいると私には思えるからである。

(1)知性(intellectual)と知能(intelligence)は異なる:知能的(インテリジェント)なのは人間だけとは限らない。知能的な動物はいるし、知能的な機械も存在する。しかし、知性的(インテレクチュアル)な動物はいないし、知性的な機械は存在しない。すなわち、知性は人間だけが持つ能力である。

(2)この歴然たる用語法の違いは何を意味するのか:知性とは、ただ単に(編注:太文字は圏点)何かを理解したり分析したりする能力ではなく、それらの能力を自分自身に適用する「ふりかえり」の作業を含むのであって、そうすることで知性は、それらの能力を行使する行為者としての、すなわち、人間としての人格や自我の存在を示唆するのである。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが、「知性犯」はいないのである。

(3)では、「反知性主義」とは何か:上記のことから、「反知性」の意味も「単に知性の働き一般に対する反感や蔑視ではない」ことが分かるだろう。それは「最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。知性が欠如しているのではなく、知性の『ふりかえり』が欠如しているのである」。「知性のふりかえり」とはすなわち、「知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか」・「自分の権威を不当に拡大使用していないか」と絶えず「ふりかえる」ことであり、そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義なのである。

(4)「もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがって、やはり知性が欠如しているのだという議論もできる」。この議論は、私に言わせれば、例えば森友学院や加計学園など安倍首相に関わる不明朗な「忖度」=「越権行為」や「権威の不当な拡大使用」、それに反立憲主義から「共謀罪」成立に至るまでの一連の政治過程で見せた自公・安倍政権による国民無視の知性無き「民主主義の荒廃した姿」(朝日新聞)にも充分当てはまるであろう。

 このように、アメリカにおける「反知性主義」は日本における「反知性主義」とかなり異なっていることが分かる。前号で触れておいたが、日本では反知性主義は「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」(佐藤優)と見なされており、いわば「社会の病理をあらわすネガティヴな意味」で受け取られている。この違いを一言で表現すれば、「反知性主義が生まれた背景の違い」であると言えよう。森本氏は、アメリカで反知性主義が生まれた背景をこう語っている。

しばしば言われているように、アメリカは中世なき近代であり、宗教改革なきプロテスタンティズムであり、王や貴族の時代を飛び越えて、いきなり共和制になった国である。こうした伝統的な権威構造が欠落した社会では、知識人の果たす役割も突出していたに違い。それが本書で辿ったアメリカの歴史であるが、反知性主義はそれと同時に生まれた双子の片割れのような存在である。双子は、相手の振る舞いを常にチェックしながら成長する。他の国では知識人が果たしてきた役割を、アメリカではこの反知性主義が果たしてきた、ということだろう。

 森本氏は、すぐ前で示した佐藤優の「反知性主義の定義」に基づいて、「政権中枢にいる日本の政治家(麻生財務大臣-中川)がナチズムを肯定するかのような発言をし、その深刻化さを自覚できないでいる、というのはその典型的な症状」であり、「ここには、知性による客観的な検証や公共の場における対話を拒否する独りよがりな態度が見える」と日本的反知性主義を強く批判している。麻生大臣のあの「ナチズム肯定発言」はおそらく欧米では国会議員辞職では済まされないだろう、と私は思っている。

また森本氏は社会学者の竹内洋の定義についてこう記している。「社会の大衆化が進み、人びとの感情を煽るような言動で票を集めるような政治家があらわれたことに、反知性主義の高まりを見ている」と述べ、こう批判を続けている。「こうした政治家(橋下徹氏-中川)は、メディアに登場して『本ばかり読んでいるような学者』の学問や知性を軽蔑した発言をすると、一部の有権者が喝采を送ってくれるのを知っているのである。民主主義社会では、政治が扇動家やポピュリズムに乗っ取られる危険性は常に伏在している」のである。

それでは、森本氏の「民主主義社会では、政治が扇動家やポピュリズムに乗っ取られる危険性が常に伏在している」との言葉は何をわれわれに訴えようとしているのだろうか、ここで水島治郎著『ポピュリズムとは何か』に基づいてその意味するところを簡潔に追ってみることにしよう。

水島氏は、彼の著書『ポピュリズムとは何か』に「民主主義の敵か、改革の希望か」という副題を付していることから分かるように、ポピュリズムを「デモクラシーに内在する矛盾を端的に示すものではないか」と考えている。というのは、「現代デモクラシーを支える『リベラル』な価値、『デモクラシー』の原理を突きつめれば突きつめるほど、それは結果として、ポピュリズムを正統化することになる」からであり、もっと簡潔に言えば、「現代デモクラシーは、自らが作り上げた袋小路に迷い込んでいるのではないか」、と水島氏は言う。果たして人びとは、ポピュリズムあるいはポピュリズム政党が「民主的諸制度に対する重大な脅威だと認識している」のか否か、ということになろう。

しかしながら、アメリカ合衆国から始まったポピュリズムの歴史を紐解くと、ポピュリズムを「デモクラシーを危機にさらすもの」とする見方は必ずしも一般的でない、と水島は言う。「むしろかつてのポピュリズムは、少数派支配を崩し、デモクラシーの実質を支える解放運動として出現した」のであって、例えば「19世紀末のアメリカ合衆国、20世紀のラテンアメリカ諸国を典型として、既成の政治エリート支配に対抗し、政治から疎外された多様な層の人々、すなわち、農民、労働者、中間層などの政治参加と利益表出の経路として、ポピュリズムが積極的に活用され」、また特にラテンアメリカにおいて「労働者や多様な弱者の地位向上、社会政策の展開を支えた重要な推進力の一つがポピュリズム的政治だったのである」。それ故、「ポピュリズムとデモクラシーの関係は一筋縄ではいかないことが分かる」のである。

そこで、われわれが現代の「ポピュリズムの功罪」を理解しようとするならば、ポピュリズムの持つ「二つの論理」、すなわち、かつての多様な層の人びとの「解放の論理」としてのポピュリズムが、現代では排外主義と結びついた「抑圧の論理」として席捲している事実を捉えることが重要である。とはいえ、現代におけるポピュリズムを「抑圧の論理」だけで捉えることはできない。なぜなら、近年のヨーロッパにおけるポピュリズムがそうであるように、イスラム系の移民を批判する際に「男女平等を認めないイスラムは問題である」、あるいは「民主主義的価値と相容れないイスラムは認められない」というロジックを展開して、「ジェンダーの平等やデモクラシーを擁護するが故に移民を排撃する」という主張を外向けには打ち出しているからである。その点では、現代のポピュリズムもまた「解放と抑圧」の「二つの顔を同時に持っている」のである。このことを理解しておいて、次に水島氏によるポピュリズムの「二つの定義」を示しておこう。

(1)固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル:「政党や議会を迂回して、有権者に直接訴えかける政治手法」・「国民に訴えるレトリックを駆使して変革を追い求めるカリスマ的な政治スタイル」である。このようなポピュリズの事例としては中曽根政権、サッチャー政権、サルコジ政権、ベルルスコーニ政権などが挙げられるが、私はこれらの政権に小泉政権を加えたい。

(2)「人民」(民衆・市民)の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動:政治変革を目指す勢力が既成の権力構造やエリート層(および社会の支配的な価値観)を批判し、その変革を実現することを「人民」に訴えていく運動。この運動は「人民」と「エリートと特権層」との二項対立を常に想定している。その際、変革を目指す勢力=「人民」=「善」であり、エリート層=「人民をないがしろにする遠い存在」=「悪」である、として描き出す。フランスの国民戦線(National Front)やオーストリアの自由党(Liberal Party)などのポピュリズム政党がこのような立場をとっている。
実は、ポピュリズムにはもう一つの定義がある。ある意味で、ヨーロッパにおいてはこの第三の定義が有力であるように私には思われるので、私としては第三の定義をここに付け加えておく。すなわち、

(3)ポピュリズムは伝統的な右派と左派に分類できないのであって、むしろ基本的に「下」(社会的に下層)に属する運動である:既成政党は右派も左派もひっくるめて社会的に下層ではない「上」の存在であり、したがって、ポピュリズムはその「上」のエリートたちを下から批判する運動なのである。
さて、水島氏の分析に戻って、これら二つのポピュリズムの定義のうち、水島氏は(2)の定義、すなわち、「エリートと人民」の対比を軸とする政治運動としてのポピュリズムの定義を採用する。「なぜなら、現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする「下」からの運動に支えられたものだからである」。そして水島氏はその「下」からの運動の実体を次のように論及する。

近年の欧州におけるポピュリズム政党の台頭や、EU離脱をめぐるイギリスの国民投票、2016年のアメリカ大統領選挙で露わになったのは、既存のエリート層、エスタブリッシュメント(支配階級)に対する「下」の強い反発だった。グローバル化やヨーロッパ統合を一方的に進め、移民に「寛容」な政治経済エリートに対し、緊縮財政や産業構造の空洞化などの痛みを一方的に負わされ、疎外感を味わう人々の反感が、現在のポピュリズムを支える有力な基盤となったのである。ポピュリズム勢力は、既成政治から見捨てられた人々の守り手を任じ、自らを「真の民主主義」の担い手と称しつつ、エリート層を既得権益にすがる存在として断罪することで、「下」の強い支持を獲得している。

水島氏の主張は正鵠を射ている。本研究所報(第57号/2017年1月)にイギリスの「EU残留・離脱」の国民投票結果について、マーク・サディントン氏が寄せてくれた論文が掲載されている。サディントン氏はそのなかで「EUが抱える問題点」・「離脱派多数の背景にあるイギリス社会の『分断』」・「投票パターンの地勢的な差異」・「ポスト工業化政策によって置き去りにされた地域」・「都市政策の余波」・「グローバリゼーションと国際関係による翻弄」について具体的でかつ要領能く論じてくれており、私は彼の考察からイギリスの、延いてはヨーロッパの社会状況とポピュリズムの現況を知りかつ学ぶことができた。しかし同時に、私はある種の危機感を覚えた。その危機感は水島氏の論考を読んで覚えたそれでもあった。

私のその危機感は、地域間および階層・階級間の「下」対「上」の対立、「職を求めてやって来た移民」対「彼らを迎える住民」の対立、そして「人びとの民主主義への信頼」の動揺である。これらの「対立」の危機や「民主主義への信頼」の危機が、民主主義を支える「市民の自治・権利・責任・参加」をコアとするシチズンシップに必ずや悪しき影響を及ぼすことは、これまでしばしば経験されてきた。しかもシチズンシップは特定のコミュニティ(政治的共同体)によって支えられるのであるから、コミュニティへの帰属によってはじめて保障される個人の平等な権利や尊厳もまた影響を受けざるを得なくなる。しかもシチズンシップを支えるコミュニティは、多様な価値や文化を持つ個々人が討議と妥協を通じて共存のルールを創り出すことで成立する政治的構築物なのである。このことは、コミュニティは市民が積極的に政治に参加する責任を負うことではじめて維持されるのである。それ故、「下」対「上」の「対立」や「移民」と「住民」の対立は民主主義への信頼を弱め、したがって、シチズンシップを危機に追いやるかもしれない。

シチズンシップはまた「市場の自由」を保障するだけでなく、市場がもたらす不平等を矯正することで政治的な平等を保障するために資源の再分配を要求する。さらにシチズンシップはグローバル化による世界的規模のリスクや不平等に対し国家を超えた対処を求められる。その意味で、シチズンシップは地域コミュニティや広域のコミュニティ、国家連合それにグローバルな国際組織といった複数のレベルにおける各々のガバナンスを通じて保障されなければならないだろう。

こうして観ると、ポピュリズムの問題は、個人の権利と尊厳に関わって、国内外の政治、経済、文化それに社会に及ぶ諸問題を映し出していることが分かる。森本氏の「民主主義社会では、政治が扇動家やポピュリズムに乗っ取られる危険性が常に伏在している」との訴えにわれわれは想像力を働かせ、逞しくしなければならないだろう。

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