総研いのちとくらし
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公共空間あるいは公共圏(2)

「理事長のページ」 研究所ニュース No.62掲載分

中川雄一郎

発行日2018年05月31日


 公共空間あるいは公共圏という言葉を私たちが見聞きするようになったのは、NPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)が新聞・雑誌やインターネットなどの情報媒体を通じて少しずつ私たちの日常生活に登場し始め、したがって私たちもPublic Sphere、すなわち、「公共空間」あるいは「公共圏」(以下、「公共圏」とする)という言葉に少しずつ関心を持つようになっていく1990年代初期以降からである、と私は記憶している。しかしながら、公共圏について私が関心を寄せるようになった契機は、Gerard DelantyのCommunity(Routledge, 2003/ジェラード・デランティ著/山之内靖+伊藤茂訳『コミュニティ:グローバル化と社会理論の変容』NTT出版、2006年)を手にしてからである。それまでの私の研究上の関心は、グローバリゼーション、ソーシャル・キャピタル、オールド・エッジ、それにシチズンシップなどであったのだが、デランティの『コミュニティ』を読み返すことによりそれらの社会現象が相互に関係する研究対象になりつつあることに私は気づいたのである。とりわけ『シチズンシップ』と『コミュニティ』の相互関係は広い領域にわたっていることに気づかされた。

具体的に言えば、私は、Routledge出版社によるKey IdeasシリーズのGlobalization(by Malcolm Waters, 1995)Citizenship(by Keith Faulks, 2000)Social Capital(by John Field, 2003)Old Age(by John Vincent, 2003)をいわば必要に応じて読み込んでいた。特にデランティのCommunityの訳書『コミュニティ』には山之内 靖氏による解説「グローバル化と社会理論の変容」も含めて同書から私は有用な示唆を与えられたし、さらに私自身もCitizenshipの訳書を日本経済評論社から2011年に出版し、シチズンシップが市民たる個々の人びとにもたらす社会的、経済的、文化的、それに政治的な意識の重要性を学んだ。これらの書籍はKey Ideasシリーズの一部にすぎないが、それでも私には大いに有益であったし、今もなおそうである。

ところで、私は、デランティの『コミュニティ』を読み進めていくなかで、1995年に開催されたICA(国際協同組合同盟)100周年記念マンチェスター大会において採択された「協同組合アイデンティティに関するICA声明」の「定義・価値・原則」は、「協同組合はコミュニケーション・コミュニティである」と宣言しているのではないだろうか、と思うようになった。というのは、ICA声明がユルゲン・ハーバーマスの「コミュニタリアニズム批判」と「コミュニケーション・コミュニティの回復」に基礎を置いているのではないだろうか、と私にはそう思えてきたからである。前者は「社会を道徳的全体性と考えるコミュニタリアニズムに基づくナショナリズム対する批判」であり、後者は「商品化された社会関係によって道具化の危機に晒されているコミュニケーション・コミュニティという考え方の回復」である1)

ハーバーマスは、コミュニケーションを「社会的行為の一形態」と位置づけ、また「社会的行為は言語を基礎としており、したがって、社会は言語的に形成され、支えられる実体である」、と論じる。彼にとってコミュニケーションは「すべてに向けて開放されているとともに、あらゆる社会的行為の基礎」なのであり、したがって、「決して道具的関係に還元され得ない」のである。なぜなら、「対話的なプロセスは常に閉鎖に抵抗し、したがって結局は、支配に抵抗するからである」2)

ハーバーマスのこのような社会理論は「近代社会のなかに対話的な合理性を見出し、対話的な構造がいかにして政治的可能性の基礎を提供し得るのかを明らかにする」ことを目標としている。それ故、彼のモダニティ論は「資本主義の道具化された力に抵抗できるコミュニケーションの批判的形態を拡大するという観点に立って、そこからモダニティの再建を目指そうとする」のである。要するに、近代社会の理論化は「それ自体としては、生活世界の対話的な構造がシステムの道具的合理性に抵抗するところの、システムと生活世界の抗争の一つの表現でもある」のだと彼は強調するのである3)

ハーバーマスにとって、コミュニケーションは二つのレベルで機能する4)。一つは「社会的統合の基礎的媒体」として、もう一つは「政治的立場の競合も含めた紛争を調停する手段」としてである。前者のコミュニケーションは「社会的行為の基本的な言語的性格のなかに埋めこまれている。すべての社会的行為は言語によって媒介されるが、言語の本質は共有される世界における社会的行為だという点にあるのだ」。なるほど、「権力と多様な病理は対話的な構造を隠蔽(いんぺい)したり、歪めたりするけれど、人びとが自らの差異にもかかわらず、特定の事柄について合意に達することは常に原則として可能なのである」。換言すれば、「社会的行為が言語を通じて明確化されるという事実それ自体が、共通の真理、正義、倫理、政治についての共通の考え方を可能にすることを示唆しているのである。発話の能力そのもの(The very capacity to speak)が他者との合意の可能性に向かうのであり、共有される世界に関する暗黙の前提に向けた志向性を生み出す」のである5)、とハーバーマスは主張する。

後者のコミュニケーションは、コミュニタリアン的な概念としての「生活世界」とも関連するので、ハーバーマスにとって決して合意に達することはないだろうが、それでも「対話的行為の方法を熟考しようとする人びとの能力を原則として排除できない」ことを意味する。すなわち、それは言語の第二のレベルである「審議的コミュニケーション(deliberative communication)の反省的(reflective)で批判的(critical)な側面を構成する。それは常に日常生活からかけ離れた地点にあるが、しかし、常に日常生活において前提とされる地点でもある」。ハーバーマスは、この地点(編注: 原文では圏点)、すなわち、公共圏に関する研究において「近代社会がどのように公共的討議の空間を制度化したかについて論じている」が、彼の論証的、討議的民主主義(discursive democracy)という発想は「対話的プロセスとしての政治という、基本的にコミュニタリアン的な解釈を反映している」6)。 

さらにハーバーマスのコミュニケーション・コミュニティにとって「コミュニティ」は「それが生活世界の対話的な行為の表現であるもあり得るし、支配構造を手つかずのまま残すものでもあり、純粋に道徳的な立場でなされるという点でコミュニケーションからの逃避所でもあり得ることから、両義的である」。したがって、「対話的な概念としてのコミュニティ」はハーバーマスの理論において非常に重要である。というのは、彼はコミュニケーション・コミュニティを次のように考えているからである、とデランティはこう論じている7)

コミュニケーション・コミュニティという考え方は、近代社会の社会関係が権威、地位、儀式などその他の媒介物によってではなく、コミュニケーションをめぐって組織されることを意味している。もちろん、権力と貨幣が――法とともに――近代社会を導く最も重要な媒体ではあるが、こうしたシステマティックな再生産の形態は常に異なる論理によって再生産され、コミュニケーションと密接に結びつく反抗的な生活世界からの抵抗に直面する、というのがハーバーマスの研究の基本的前提である。近代社会ではますます対話的な空間が増大しているが、そのなかで最も重要なものは公共空間と科学である。公共圏は多様な対話的な場から構成されており、それはナショナルな形の市民社会からトランスナショナルな言説に至るまで、社会のすべてのレベルで可能である。ハーバーマスによれば、科学や近代的な大学制度もまた、開かれたコミュニケーション・コミュニティである。というのも、それが原則として合意によってのみ解決可能な真理へのコミットメントを特徴とするからである。真理は審議的な方法によってのみ到達することができ、合意により決定される、という考え方がハーバーマスのコミュニケーション理論の核心である。彼をコミュニタリアニズムの否定に向かわせ、オールタナティヴな、より対話的なコミュニティという発想に向かわせたものこそ、この考え方である。もしもコミュニティが共有されるものだとすれば、それはコミュニケーションの形をとらなければならない。これがハーバーマスのコミュニケーション的行為理論の含意である。それは、コミュニケーション能力の表明に向かわせるものであり、変化を起こす力を持ったコミュニティという発想をも指示している。コミュニティは決して完全なものではなく、常に現れ出るものなのである。

ジェラード・デランティによるハーバーマスの「コミュニケーション・コミュニティ」についてのこのような論及は、現今の安倍政権と自公与党による悪しき政治的態度のあり様と「公共空間」あるいは「公共圏」に関わる私たち市民の心的態度(主体的選択に基づく行為性向)のあり様とを真剣に分析し、理解し、認識することを求めているように私には思える。

ということで、私は、先に「公共空間あるいは公共圏(1)」で2018年1月16日付朝日新聞朝刊の「耕論」に登場された3名の方々、すなわち、(1)林 春樹氏・欧州三菱商事社長(2)ロビン・ニブレット氏・英王立国際問題研究所所長(3)新井潤美・上智大学教授が「EUからの離脱交渉が進む英国。2016年6月の国民投票で離脱が決まってからは、先行きを悲観する論調も目立つ。栄華を誇ったかつての大英帝国の、足元と未来は」と題するインタビューで述べた「論調」の――全てではないが――必要な部分を書き込んでおいたので、本「理事長のページ」(「公共空間あるいは公共圏(2)」)において私が紹介し、言及したユルゲン・ハーバーマスとジェラード・デランティの「コミュニケーション・コミュニティ」論を参考に、読者が上記3名の方々の見解を考察することで「公共圏」について言及していただくよう願っている。そうすることによって私たちは「公共空間」あるいは「公共圏」が市民たる私たちの政治、社会、経済、文化などに関わる諸問題とその解決にどのように連携するのかを知ることになる、と私は考えている。

最後に私は、朝日新聞社説(2018年5月20付朝刊)の「9条俳句裁判 公共の場の表現を守る」の一部を掲載しておきます。「公共」・「公共空間」・「公共圏」とは何であるかを考え討議する際の参考になるかと思います。

梅雨空に「九条守れ」の女性デモ――。さいたま市の女性が詠んだ俳句を、公民館だよりに載せることを市当局が認めなかった問題で、表現活動への安易な規制を戒める判決が、東京高裁で言い渡された。

この公民館では、地元の俳句サークルで秀作に選ばれたものを、たよりに掲載するのを慣例としてきた。ところが女性の句は拒まれた。「公民館は政治的に公平中立であるべきだ」というのが、市側の説明だった。

高裁は、住民が学び、生活や文化を豊かにする場である公民館の役割に注目した。

学びの成果の発表を思想や信条を理由に不公正に取り扱うことは、思想・表現の自由の重みに照らして許されない。意見が対立するテーマだから排除するというのは理由にならない。

そう指摘して、一審に続いて女性に慰謝料を支払うよう、市に命じた。(中略)

人びとが学び、意見を交わし、考えを深めることが民主主義の基本である。そして、その根底を支えるのが表現の自由だ。

もちろん、他者の人権を侵すヘイト行為などは、厳しく批判されなければならない。

だが、そうではない活動は最大限保障するのが、憲法の説くところだ。自治体は市民と対立するのではなく、自由を守る道を一緒に進んでもらいたい。

 

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