スポーツと民主主義
―スポーツと「自立」の社会意識―
「理事長のページ」 研究所ニュース No.69掲載分
中川雄一郎
発行日2020年02月29日
先般、「スポーツと『自立』の社会意識」と題する拙文をロバアト・オウエン協会(1)に書き送った。それは、朝日新聞「オピニオン」欄(2019年11月22日付朝刊)の「『自立』なき国の五輪」と題されたインタビューに応えて(元サッカー日本代表監督)岡田武史氏が語っていた内容が私には「現代日本の『スポーツと社会意識』の現象」を言い当てていると思えたので、「現代日本の社会を観る一つの視点」として簡潔に書き記したものである。
私はそのインタビューのなかでもとりわけ「サッカー・プレーにおける選手の自立」についての岡田氏の「二つの論点」に関心を覚えた。そこでここでは、その「二つの論点」が交差して形成される彼の社会的視点に着目して、プレイヤー自身の「勝ちたい、勝つことが楽しいという内発的欲求で力を出せるようなことが真の自立である」とする、いわば「スポーツと民主主義」とでも言うべき彼のスポーツ理念を追ってみることにする。
さて、岡田氏は「自立が確立されていない」日本のサッカー・プレイヤーを例に取って、「内発的欲求で力を出せることが真の自立である」と、こう述べている:(日本では)「一度も市民革命を経験していないから、とはよく言われるね。お上に従っていたら間違いないというのが染みついている。自分たちで勝ち取った民主主義とか、自由とかいう発想がないから、命令された仕事をこなすようになる。仕事なんて自ら探すべきだ。今の日本で、自分たちで何かをやっているという実感が持てる人は少ないのではないか」。そして岡田氏のもう一つの論点を簡潔に示せば、次のことである:(日本において自立したプレイヤーを育てるために本当に必要なのは)「リーダーの育成というよりも、自分で決めて自ら行動するような自立した国民なのである」。すなわち、自立した国民(市民)としてのサッカー・プレイヤーを育成する、ということである。
そこで私は、この「二つの論点」に基づいて語っている岡田氏の問題意識を次のように指摘しておいた:「私が一つ言えるとすれば、それは、彼が日本におけるスポーツの、それもサッカー・フットボールの現状を発展的に変えていくにはサッカー・プレイヤーの自立のみならず、他のアスリートや多くの市民の自立をもまた求めている、ということである。彼は、その点で、日本の『サッカー・プレイヤーの自立』は日本の他のアスリートや市民の自立があってこそ可能となること、またそのためには『民主主義と自由』を基礎とする社会的ガバナンスを市民生活それ自体のなかに取り込み、確立していくこと、さらには私たち市民の前に立ちはだかる経済的、社会的、そして政治的なバリアの排除に私たち市民が本気で取り組むことを訴えているのだ」、と。かくして私は、岡田氏は「スポーツの真の概念」を形式化、形骸化させることなく「いかにして人びとのより良い社会的諸関係の実体を創り出すか」、その筋道を追い求めてきたのだ、と感じ取ったのである。
ところで私は、「スポーツと『自立』の社会意識」と題した私の拙文を書き送ってから遠からずして、朝日新聞編集委員の稲垣康介氏による「岡田武史さんの挑戦 主体性を育み社会変えたい」と題する記事「多事奏論」(2020年1月18日付朝刊)を眼にした。そこには岡本氏の社会意識を高く評価している稲垣氏の次のような書き出しの言葉があり、私を引き付けた:「サッカー元日本代表監督、岡田武史さんに師走に会ったとき、さらっと言われた。『おれ、今は前よりかなり良い指導者になってるよ』」、と。そして稲垣氏はこう続けた。
Jリーグ連覇も経験した知将は大言壮語とは正反対なタイプだけに確信があるに違いない。サッカーの指導法をまとめた『岡田メソッド』(英治出版)を出版するタイミングだった。読んでみると単に戦術の指南書ではない。4年近く悩み抜いた末に編んだ学術書、いや哲学書の趣すらある。
上記「オピニオン」欄でのインタビューでも、岡田氏は「日本のサッカーは、『子どものときは教えすぎず好きにやらせろ』と言っておいて、高校生になると、いきなりチーム戦術を教えこまれる。だから言われたことはできるけど、思い切った発想が出ない、自分で判断できないと言われるのではないだろうか。そうじゃなくて、原則みたいのを16歳までに教えて、あとは自由にする。そうしたら自立した選手が出てくるんじゃないかと思っている」、と批判していた。稲垣氏も岡田氏のサッカー指導批判を次のように記している:「岡田さんは、日本は順序が逆だと感じた。子どものときは教えすぎずに自由にドリブルなど個人技を磨かせ、高校生から監督のチーム戦術にはめ込む。だから、選手が状況に応じて柔軟に判断するのが苦手で監督の指示を仰ぎがちになる。『2006年や14年のW杯日本代表は良いチームだったのに、初戦で逆転負けするとガクッときて1次リーグで大敗した。選手が自立していなかった』と岡田さんはみる。互いの主張をぶつけ合う外国と違い、日本は伝統的に和を尊び、同調圧力が働く。コーチに従順な上意下達も根強い。だからこそ(岡田さんは)早く原則を習得させ、その後の創造性、主体的な判断を促す。日本にこそ必要な指導理論という確信に至った」のである、と。
さらに稲垣氏は、岡田氏が目指すのは「強いサッカーチームを作ることだけではない」のだと次のように言う。
日本財団が昨秋、9カ国17~19歳に尋ねた調査で、「自分で国や社会を変えられると思う」と答えた割合は、日本が18.3%の最下位だった(2)。「日本には自分で決めて自ら行動する自立した国民が必要だ。今は何かに従っている方が安泰で、とがったことはしないほうがいいという雰囲気を感じる」と話す岡田さんの憂慮と重なる。スポーツが突破口にならないか。……監督にでも自身の主張を盾に「冗談じゃない」と食ってかかる主体性を培ってほしい。岡田さんはそう願う。残念ながら今も日本で相次ぐコーチの体罰、パワハラの根絶にもつながると信じて。
そして稲垣氏は、岡田氏の思いを私たちにこう伝える:「スポーツから社会を変えるのは簡単じゃないけれど、僕らがずっと考えてきたことなんだよね。それが究極の目標だよ」。
では、なぜ岡田氏は「スポーツから社会を変えていく」ことを「究極の目的」としたのだろうか。それは、私が思うに、日本のスポーツ界に欠けている民主主義を、市民たるサッカー・プレイヤーをはじめとするすべてのアスリートたちは言うまでもなく、市民たる私たちもまたその「生活」と「労働」(岡田氏の言う「仕事」を含めて)を通して「身近な、当たり前の、そして確かな存在」にしていくことによってはじめて達成される、と考えたからに他ならない。岡田氏はこう言っている。
例えば、日本は今、貧困なんだよ。子どもがいる一人親世帯の相対的貧困率は5割と、主要国の中で最悪のレベル。それなのに、みんな関心がないじゃない。「日本は素晴らしい」という本が書店にならんでいるけれど、日本人の多くは自分の生活が来週どうなるかで頭がいっぱい。日本だけでなく、世界中で、その場しのぎの経済政策をやれば、文句をいわない国民が増えている。
そして私は、岡田氏のこの言葉を私なりにこう解釈した:彼は「民主主義と自由」と「市民の自立」を基礎とする社会的ガバナンスを市民生活それ自体のなかに取り込み、確立していき、さらにそのために市民たる私たちの前に立ちはだかる経済的、社会的、したがってまた政治的なバリアに私たち市民自身が本気で取り組み、克服するよう私たちに求めているのだ、と。
実は、私は稲垣氏の「多事奏論」を眼にする6日前の、朝日新聞スポーツ社説担当・西山良太郎氏の「脱メダル至上主義で行こう」と題する「社説余滴」(2020年1月12日朝刊)を眼にしていた。西山氏はその「余滴」の冒頭で「オリンピックイヤーの幕が開いたのに、小骨がのどに刺さったような気分が消えない」と記していたが、「余滴」全体を読み進めると、西山氏は「本当は小骨どころではなく、もっと強く批判したかっただろうな」と私には思えたのだ。私にそう思わせたのは、「スポーツから社会を変える」という岡田氏のあの社会意識が私に感動を与えたからであるかもしれない。日本陸連が「陸上男子400メートルリレーの金メダルを狙う」ために「100メートルと200メートルの個人種目の出場は一つに絞るよう選手に迫る方針を打ち出し」、しかもその方針を「選考要項に書き込む」というのであるから、西山氏に限らず、陸連のこの「出場方針」を知った人たちの多くはおそらく、これを陸連による「選手無視の方針」だと思ったことであろう。この方針を西山氏も「個人の意思や判断より、チームや組織の利益が優先されて当然。そんな意識を陸連の方針に感じる」と、指摘している。
なるほど、陸連は「短距離種目の日程は過密であり、新国立競技場は反発力が強い。体力面の負担を考え、日程終盤のリレーに力を温存して欲しい」とのことを理由としているそうだが、そうであればなお更のこと、選手と指導者が相互信頼に基づいて話し合い、決定するのが筋であろう。その意味で、西山氏の次の主張は正鵠を射ていると言うべきである:陸連の上記の方針を「はなから『選考要項に書き込む』のは、強引すぎる。反発した選手が法的判断を求めることも想定済みだそうだが、法律論で解決できるという感覚はずれている。選手にも陸連にも東京五輪は大きな目標だが、ゴールではない。開幕まで200日を切った今だからこそ、視野を広げ、『脱メダル至上主義』で考えたい」。
私も西山氏と同意見である。私たちはここで、「近代オリンピックの精神」に立ち返り、すべてのアスリートと共に「スポーツと民主主義」について真摯に語り合うべきである。
---- (1)『ロバアト・オウエン協会年報44号(2019年)』
- (2)日本財団「第20回 18歳意識調査」(2019年11月30日)、なお本調査は日本の他にインド・インドネシア・韓国・ベトナム・中国・イギリス・アメリカ・ドイツの18歳(17~19歳)1000人の回答である。「日本は、いずれの項目においても9カ国の中で他の国に差(・)をつけて(・・・・)最下位となった」と記されている。因みに、日本(18.3%)以外の他の8カ国の「自分で国や社会を変えられると思うか」の「はい」の割合は、インド・83.4% インドネシア・68.2% 韓国・39.6% ベトナム・47.6% 中国・65.6% イギリス・50.7% アメリカ・65.7% ドイツ・45.9%である。また「社会課題について、家族や友人など周りの人と積極的に議論している」も次の通り日本は最下位である:日本・27.2% インド・83・8% インドネシア・79.1% 韓国・55.0% ベトナム・75.3% 中国・87.7% イギリス・74.5% アメリカ・68.4% ドイツ・73.1%。これらの回答割合にみられるように、少なくとも日本の18(17~19)歳は、他諸国の18歳に比べて「社会意識に乏しい」と言えるかもしれない。