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「検察庁法改正に反対する検察OB有志の意見書」を読んで

「理事長のページ」 研究所ニュース No.70掲載分

中川雄一郎

発行日2020年05月31日


安倍首相の傍若無人の政治的態度は今更ながら始まった訳ではない。安倍首相がその関係を問われ、また国会で追及された森友学園や加計学園の問題、そして桜を見る会の問題に対する国会での彼の応対(この言葉の本来の意味は「相手の質問をよく聴き、その内容に応じた回答(返事)をすること」である)を観たり聞いたりする限りでは、これが首相たる者の執るべき姿勢・態度かと、私は思わず憤慨してしまうことしばしばである。しかも、安倍首相が上記の問題を、とりわけ森友学園問題に関わる「文書改ざん」や安倍首相後援会の「桜を見る会」に関わる問題等々を今なお抱えていることは、私たちのよく知るところであろう。そして今また黒川弘務・東京高検検事長定年の定年延長問題である。

なぜ、安倍首相はこのような政治問題を常に抱えるのだろうか、私なりに考えてみた。そして私はこう考えた:それは、安倍首相の政治的性行が民主主義を軽視する「自己中心主義」であって、「首相」というその地位を「自分自身のために維持する」諸条件を絶えず気にしているからである、と。

例えば、一般に国民生活を支えるための政府の基本政策は経済政策と社会政策であるが、安倍首相の場合、それらの政策支点は、小泉純一郎元首相のあの「構造改革」路線、すなわち、新自由主義に基づく「市場原理主義」を引き継いだ、今では安倍首相本人すらほとんど口にしなくなった「アベノミクス」である。そのアベノミクスは、現在では労働者のおよそ40%にも及ぶ――「格差と貧困」要因の代名詞にさえなっている――「非正規雇用」の増加であり、利益の労働分配率を抑制し、大企業経営の効率化を高める戦略としての「自己責任」論に外ならない。かかる自己責任に基づくこの経済政策と社会政策はしばしば日本の経済と社会に混乱をもたらさずにおかない。なぜなら、アベノミクスの市場原理主義は「市場至上主義」(内橋克人)であるからだ。アマルティア・セン教授も強調しているように「市場経済は、市場以外のいくつもの仕組みによって動き、機能する」ことを安倍首相は基本的に考慮しないからである。彼が自らの名を付した経済政策である「アベノミクス」の失敗について私たち市民に「失敗の原因」を分かり易く説明しようとしないのは、彼が「市場の利用だけを考えて、国家や個人の倫理観の果たす役割を否定する」からである。安倍首相が「アベノミクス」の政策実行能力の現状を判断しないのは、政策実行責任者としての役割を放棄しているのだと私は思っている。

また角度を変えて付け加えれば、昨年行われた「日米貿易協定」についても彼の無責任さを私は指摘したい。彼は、トランプ大統領の要求にすんなりと応じて米国農産物の大幅輸入を承認し、その結果、日本農業は大きな痛手を被ることになるのであるが、この「貿易協定の真実」を私たち市民に正しく伝えようとしないのである。このことについて私は『現代農業』(2019. 8号)に次のように書いておいた。

私たちがしばしば国会で目撃する安倍政権と自公による強行採決は、民主主義のプロセスを蔑(ないがし)ろにする政治活動以外の何ものでもない。それは安倍政権に内在する「政治の失敗」を表現しており、社会的な合意形成を意図的に回避する一連の政治的テクニックになり下がっていることもまた表現している。事実、先の国会で「日米FTA (日米2国間貿易交渉)につながるような交渉は行わない」と述べた安倍首相の答弁との矛盾を隠すために、安倍政権は2018年9月26日に交わされた「日米共同声明」の第3項にありもしないTAG(日米物品貿易協定)なるものをでっち上げ、あたかもFTA協定の交渉には入らないかのような印象操作を市民に向けて行なった。

このように安倍首相の政治的行為の一事が万事そうなのである。此の度の黒川弘務・東京高検検事長の定年を立法府の手続きを経ずに閣議決定だけで延長するという行為は重大な違反であるにもかかわらず実行しようとするのである。安倍首相にとってはこの行為は間違った行為でも違反の行為でもないのである。自民党の中谷元衆議院議員(元防衛相)は次のように発言している(「自民・中谷氏「許されない答弁、国民の理解得られない」5月19日 朝日新聞DIGITAL)。

全く事前に自民党や与党にも相談なく、突然、閣議決定で(黒川弘務・東京高検検事長の定年延長が)決まったことに、びっくりした。検察庁は起訴、逮捕できる準司法官で、社会正義の官庁。官邸の一存で定年延長が決まると、検察に対する信頼を失ってしまうのではないか、本当に大丈夫なのかと。非常に強い問題意識を持っていた。

国会の審議を見ていても、決定の基準はこれから検討しますということで、非常に許されない答弁が続いている。これでは国民の理解は到底得られない。与野党でまだ協議が続いているから、しっかりと国民の皆さんがそうだと納得できるように、議論を煮詰めていただきたい。

 私は、中谷議員のこの発言から、これでは自民党は本当のところ、与党たる責任政党の体(てい)を成していないのではないか、との疑念を強くした。また「検察庁法改正に反対する検察OB有志の意見書」(以下、「意見書」)も次のように指摘している:黒川氏は定年を過ぎて今なお現職に止まっているが、しかしながら、

「検察庁法」によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って、検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在任期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。(中略)

いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出しが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留年という異常な状態が現在も続いている。

ここで強調されている「内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留年という異常な状態」とは次のことである:「一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って『特別法は一般報に優先する』との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は適用されない。これは従来の政府の見解でもあった」。

ではなぜ、「定年に関して検察庁法に規定がある」のか。それは、検察官は起訴不起訴の決定権=公訴権を独占し、併せて捜査権を有しており、しかも捜査権の範囲も広く「政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる」ので、「捜査権をもつ公訴官としての責任は広く重い」。それ故に「時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば、日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない」からである。

そしてさらに「意見書」は、私たち市民にとって極めて重要な歴史的かつ思想的な政治理念を強調してくれている。安倍首相は次の一節を心して読まなければならない。

本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨を述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

時代背景は異なるが、17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著『統治二論』(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

法律に弱い私は、この箇所を読んではたと(編注: 太字は圏点)思った。この安倍政権はひょっとすると「法律改正の手続きを経ることなく内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更」していたのではないか、と。

さて、「意見書」を読み進んでいくなかで私は特に次の3箇所の文章にハッとした。すなわち、

(1) 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

(2) 検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。しかしながら、検察が委縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

(3) 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化しての時の政権の意のままに動く組織に改編させようとする動きである。ロッキード世代として看過し得ないものである。

「意見書」のこれらの訴えは、市民たる私の心に大きく響いた。何よりも私たち市民の「権利と責任」に直接間接に関係してくることを教えてくれているからである。現代市民社会において私たち市民一人ひとりは、社会の正当かつ対等平等な「構成員の資格」を享受し、人種・民族、宗教、階層、ジェンダー、それに独自のアイデンティティによってあらかじめ決めつけられることなく、自分自身の生活について判断を下す能力のあることを承認されている。そういう市民的存在としての私たちは、他のどんなアイデンティティよりも人間の基本的な政治的欲求を充足させることができるのである。ヘーゲルはこれを「承認の必要性」と呼んだ。要するに、私たち市民は、コミュニティの、すなわち、その「社会・国」の構成員となることで「包摂の意識」を持ち、コミュニティ(社会・国)に貢献することを承認され、個人の自治が与えられ、かくして政治的行為・行動の承認を意味する一連の諸権利を行使するのである。その際に私たち市民に求められるのが社会的ガバナンスのための民主主義なのである。それ故、民主主義は多様な市民同士の間の関係をより良く築いていこうと努力するプロセスなのである。その意味で私たち市民は、大多数の人びとが共に生活できるよう差異を認識し、民主主義の諸制度をそのための政策決定に辿り着く可能な方法として擁護するのである。「意見書」はまさに、安倍政権に「政治における民主主義とは何か」を教えているのである。

最後に強調しておきたいことは、私たち市民の権利は、例えば「裁判所、学校、病院、それに議会などを含む社会的枠組みを通じて実現される」ということである。しかもその社会的枠組みは、私たち市民のすべてがその枠組みを維持し、より良いものにしていく役割を果たすよう求めるのである。このことは、市民としての私たち一人ひとりが権利だけでなく責任・義務をも遂行することを意味する。コミュニティ、すなわち、「社会・国」の構成メンバーとしての私たちが責任・義務の意識を持ち、それを行使することによって初めて「安定した思いやりのある人間的なコミュニティ(社会・国)」を私たちは想定することができるのである。これを私たちは「人間的なガバナンス」(Human Governance)と呼ぶ。議会は文字通りの「人間的なガバナンス」でなければならない 。

(事務局より:理事長に原稿を送付いただいた後に賭けマージャン報道があり、黒川氏は辞表を提出、政府は22日に辞任を承認した。)

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