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"本当に社会というようなものはあります" "There really is such a thing as society"

「理事長のページ」 研究所ニュース No.71掲載分

中川雄一郎

発行日2020年08月31日


愛知県および名古屋市における「新型コロナウイルス対応」がマスコミで大きく取り上げられるようになる直前の7月9日に、私は、名古屋市にあるコープあいちなどの協同組合研究所「地域と協同の研究センター」から依頼された「シチズンシップと協同組合」と題する講義を行った。この日の午前10時前の名古屋駅とその周辺で私が見かけた人たちは、マスクこそ掛けていたが、いわゆる「コロナがもたらす禍(わざわい)」を心配している様子などほとんど感じさせなかったし、また駅構内の土産店も買い物客でそれなりに混雑していた。それ故――マスク姿を別にすれば――駅の周辺や構内の人びとの行動を見る限り、オンラインによる講義でなくてもよかったのでは、と私には思えた。しかしながら、このコロナウイルスは「都市の空気を自由にしない」らしく、講義は予定通りオンラインで進められた。私は、オンラインとやら(編注:太 文字は圏点)による講義を初めて経験するので、私だけが一方的に戸惑っているだけなのかもしれないと思い直して、「講義の責任」を果たすべく臨んだ訳である。お蔭で私はかつてない「講義終了の安堵感」を憶えたのである。

その新型コロナウイルス(Covid-19)について、周知のように、WHO(世界保健機関)は、このウイルスが世界中で流行する可能性への警鐘を鳴らすのに少々出遅れた感があったと言われているが、それ以後は「パンデミック」(pandemic: 感染症が世界的規模で同時に流行する)を強調し、中国・武漢市から始まりヨーロッパ諸国、北アメリカ(合衆国・カナダ)、中南米諸国、アジア諸国そしてアフリカ諸国の人びとと社会にこのコロナウイルスへの対応・注意と医療処置を喚起してきた、と私は記憶している。

I.メルケル首相のテレビ演説:事態は深刻です。皆さんも深刻に受け止めてください

ところでこの間、日本でも医療従事者や小・中・高校の教職員をはじめ多くの人たちの努力によって新型コロナウイルスへの医療的、社会的、そして経済的な処置や対応がなされ、市民たる私たちは「生きることの尊厳」を再確認してきたはずである。しかしながら、そこには市民同士の間にあるべき確たる安心感が、すなわち、人びとが安心して生活していくための「生きた実体」の中身を提示する確たる政治性が欠けているように私には思えてならなかった。そこで私は、そのような市民の心意を掻き乱す原因について考えてみたのであるが、結局のところ、それは、一方で憲法が保障している臨時国会の開催を野党から強く求められても応じず、他方で市民の圧倒的多数が「不可」と判断しているコロナ対策を十分に吟味することなく持ち出したり、引っ込めたりしている安倍晋三政権の怠惰性(=政治的怠惰性)にあることに行き着いた。そこで更にこの「安倍政権の怠惰性」を証明してくれる直接的な政治的実体は何であるのかを考えていくうちに、私はヘーゲルの言葉である「真なるものは自らを展開していく動的なものである」を思い出した。この言葉を現に私たちが眼にしている「安倍政権の怠惰性」に当てはめてみると、自己意識とは相容れない「区別も運動もない単純性」に行き着くのである。

ヘーゲルの「自己意識」は、よく知られているように、「他者と出会い、他者を介して自分を捉え返すところに成立する。したがって、この自己意識は、自らのおかれた他者との関係のなかで、生身の主体を自覚しつつも、主観的な反省にとどまらず、客体の媒介を経るところに成立するのである」。しかも、この自己意識は「世界経験を経て、更なる自己形成を続ける」1〉のである。

前口上が長くなってしまった。ここで、新型コロナウイルスに関わる上記の「安倍政権の怠惰性」がいかなるものであるかを教えてくれているのが、アンゲラ・メルケル首相が本年3月18日にテレビ演説を通して「新型コロナウイルス感染症対策」について行ったドイツ市民への呼びかけである。彼女のこの呼びかけは世界中に発信され、ドイツ以外の国々の市民にも影響を与えている。その一部をここに記しておこう2〉

新型コロナウイルスによって私たちの生活は今、急激な変化にさらされています。私たちの日常性、社会生活、他者との共存といった常識が、これまでにない形で試練を受けています。何百万人もの人たちが職場に行けず、子どもたちは学校や保育園に通えず、劇場、映画館、それに店舗は閉じたままです。そしておそらく最もつらいことは、これまで当たり前であった人との付き合いができなくなっていることでしょう。このような状況の下では誰もが、今後どうなるのか不安でいっぱいになるでしょう。

本日は、現下の状況にある首相としての、したがってまた政府全体としての基本的な考えを皆さんに伝えるために、通常とは異なる形式で話を進めることとなりました。開かれた民主主義の下では、政治において下される決定はその透明性を確保し、説明を尽くすことが肝要です。したがって、私たちの取り組みについては可能な限り説得力のある形でその根拠を発信し、説明し、理解していただけるよう努めます。その意味で、すべての市民の皆さんが私たちの取り組みを自分自身の課題であると捉えてくだされば、この課題は必ずや克服できると私は固く信じています。

事態は深刻です。皆さんも真剣に受け止めてください。東西ドイツ統一以来、いや、第2次大戦以来、みなさんが連帯して立ち向かわなければならない行動がここまで試されている試練はありませんでした。だが、一人ひとりが自分の問題として受け止めて行動すれば、必ず乗り越えられると信じています。(中略)

この機会に私はまず、医師、看護師、そして他の役割を担って医療機関をはじめわが国の医療体制の下で活動されている皆さんに呼びかけたいと思います。皆さんはこの闘いの最前線に立って誰よりも先に患者さんと向き合い、感染がいかに重症化するのかを目の当たりにされています。そして来る日も来る日もご自身の仕事を引き受け、人びとのために働いています。皆さんが果たされる貢献はとてつもなく大きなものであります。その働きに心より感謝いたします。

現在の喫緊の課題は、ドイツに広がるウイルスの感染速度を遅らせることです。そしてそのためには社会生活を極力縮小する手段を取らなければなりません。これは非常に重要なことです。言うまでもないことですが、国の機能は引き続き維持され、物資の供給体制は確保され、経済活動は可能な限りの継続を図っていきます。これらはあくまでも理性と慎重さに基づいて遂行されるのです。(中略)

ここで、本日の私にとって最も重要な視点について述べます。国がどのような対策を講じても、急速なウイルス感染拡大に対抗し得る最も有効な手段を用いないのであれば、それは徒労に終わってしまいます。その最も有効な手段とは私たち自身なのです。誰もが等しくウイルスに感染する可能性があるのですから、誰もが助け合わなければなりません。まずは現在の状況を真剣に受け止めることから始めるのです。そしてパニックに陥ることのないようにし、しかしまた自分一人がどう行動しようと構わないだろうなどと一瞬たりとも考えないようにすることです。関係のない人など一人としておりません。すべての人が当事者であり、私たち全員の努力が必要なのです。感染症の拡大は、私たちがいかに脆弱で、他者の配慮ある行動に依存しているのかを見せつけています。しかしそれは、私たちが結束して対応を取れば、お互いに守り合い、力を与え合うことができるということでもあります。まさに一人ひとりの取り組みにかかっているのです。(中略)

わが国は民主主義国家です。私たちの活力の源は強制ではなく、知識の共有と参加です。現在私たちが直面している課題は歴史的課題なのですから、私たちは結束して初めてそれを乗り越えることができるのです。(以下略)

ドイツ市民に呼びかけたメルケル首相のこのテレビ演説は、医師・看護師などの医療従事者、ケアラー、教師、一般労働者、農・漁民、公務員、商人、中小企業者、自営業者、フリーランス、演劇家・俳優、研究者、学生など多くのドイツ市民に受け入れられたと言われているし、私もそう聞いている。なぜメルケル首相のこの演説が多くのドイツ市民を引き付けたのだろうか。それは、メルケル首相の演説の骨組みが「参加する民主主義」であったからだと私には思える。換言すれば、市民はすべて社会的、経済的そして政治的に平等な存在であり、したがってまた客体としての存在であり、かつ主体としての存在でもあることをメルケル首相は十分に理解していたのである。

II. 新自由主義者ジョンソン首相は「不都合な真実」を知る

さて、本番に入ろう。ご承知のように、イギリスには長い歴史を誇る2つの有力紙がある。1つはThe Times、もう1つはThe Guardianである。ここでの話題は、本「理事長のページ」のタイトルが後者のガーディアン(2020年3月29日付)に掲載されたことの意味を示すことである。実は、本タイトルはイギリス保守党のボリス・ジョンソン首相の言葉なのである。そのジョンソン首相は新型コロナウイルスに感染して重症隔離され、ウイルスと闘い、そしてどうにか隔離から解き放され、「生きて帰ってきた」のである。本タイトルは、退院まもなく彼が発した「生きて帰れた喜悦の声」なのである:「本当に社会というようなものはあります」(There really is such a thing as society)。以下で私は、彼が発したこの不可思議な言葉の由来を簡潔に説明し、この言葉の真意に言及することにより新自由主義(市場原理(至上)主義)の何であるかを明らかにするであろう。

[1] 重症隔離から解き放されたジョンソン首相はガーディアン紙に、イギリスのNHS(The National Health Service: 国民医療サービス制度)の存在と機能について胸の内をこう述べた:「このコロナウイルスとの闘いを支援するために、2万人ものかつてのNHSスタッフが戻って来てくれました」(20,000 former NHS staff have returned to help battle the virus)。また彼は医師、看護師、それにかつて医療に従事されていた多くの他の専門家だけでなく医療サービスを自発的に支援してくれている75万人にも及ぶ多数の人たちに謝意を表したのである。そしてさらにジョンソン首相は再度、彼のビデオメッセージで次のように述べたのである:「このコロナウイルス危機が既に証明した一つのことは、本当に社会というようなものはあります、ということです」。

このようにジョンソン首相は、なぜ、私たち市民にとって至極当たり前の、それ故にまた不可思議とも思える言葉を市民に投げかけたのであろうか。このことを説明するために、少々時代を遡(さかのぼ)って、1979年5月に行われたイギリス総選挙を保守党の党首として勝ち抜き首相に就任したマーガレット・サッチャー氏に登場願うことになる。

[2] サッチャー首相の登場はイギリスにおける「新自由主義」(neo-liberalism)の開始でもあった。彼女は首相に就任するや「イギリスの福祉国家は終焉した」と国民に告げた。彼女はいかなる論拠を以て「福祉国家の終焉」を国民に告げたのだろうか。

第二次世界大戦後のイギリス福祉国家の「イデオロギー的構成要素」には3つの基本概念があった。ベヴァリッジ主義、ケインズ主義、そしてフェビアン主義である。ベヴァリッジ主義は家族手当と国民医療サービス制度を中心とする「社会保障サービス」を、ケインズ主義は「完全雇用」(需要の創出)政策を、フェビアン主義は「主要産業部門の国有化」政策をそれぞれプログラム化した。またそれらのなかでもケインズ主義政策は特別な位置を占めていた。なぜなら、ベヴァリッジ主義政策プログラムもフェビアン主義政策プログラムも、ケインズ主義政策プログラムに基づく「経済成長」を前提にしていたからである。それ故、ケインズ主義政策プログラムによる「右肩上がりの経済成長」が実現不可能となれば、すなわち、機能しなくなれば、イギリス福祉国家体制の枠組みそれ自体が変更を余儀なくされることになる。実際のところ、サッチャー政権成立の要因はケインズ主義政策プログラムの機能衰退にあったのである。

それではサッチャー政権はいかなる政治理念に基づいて、それまでイギリスの「福祉国家」を支えてきた経済-社会制度を「新自由主義国家」を支える経済-社会制度へと切り替えたのだろうか。一言で言えば、それが「小さな政府」である。そしてこの「小さな政府」の実体が「市場原理(至上)主義」であり、そしてその内実が「民営化」であった。

そこでサッチャー政権の新自由主義政策プログラムを簡潔に示せば、次のように言えるであろう:新自由主義政策プログラムは、福祉国家体制が1973-74年に生起した石油危機を引き金に「経済成長の終焉」とその後の景気後退によって破局を迎えたことから、それまでの政府のさまざまな政策の大枠を構成していたベヴァリッジ主義政策の基盤としての「経済政策と社会政策の相互連関」を取り止め、かつ切り離すことにより福祉部門を縮小し、経済・産業部門を拡大する政策を推進していく。そのためにサッチャー政権は新自由主義の市場原理(至上)主義に基づく経済効率優先の政治、例えば国営企業や公益部門企業(ガス、電気、通信、水道、住宅、交通、医療等々)の民営化を実施し、政治的には新保守主義者の主張する「小さな政府」の確立を図っていったのである。それらに加えてサッチャー政権は次のような論陣を張ることを忘れなかった:ケインズ主義政策の「完全雇用」が達成される見込みのない状況下で、労働党政権に取って代わったサッチャー政権が引き続きケインズ主義政策を実行することは無責任であり、かつ世界同時的景気後退が原因である「イギリスの失業」に本政府が公的責任を負うべきなのか、したがって「失業率の上昇」は果たして「(保守党)政府の失敗」なのであろうか、と。サッチャー政権はこのような論陣を張り、福祉国家の枠組みを新自由主義国家の枠組みへと転換させていくことを正当化したのである。

新自由主義の広がりは、サッチャー首相に遅れること1年半後の1981年1月にアメリカ合衆国大統領に共和党のロナルド・レーガン氏が就任するや、新自由主義の「小さな政府」をスローガンとする諸政策が実行されることにより世界的に広がっていった。日本でも中曽根康弘首相が彼らに追従(ついじゅう)して、国鉄の民営化をはじめとする民営化政策を多様な分野に広げ、現在に至っている。

ところで、レーガン大統領の新自由主義のスローガン「政府は解決ではない、政府こそ問題である」について、彼は大まかにこう強調した:「(アメリカ合衆国の)国民は政府に頼るな、国民が抱える諸問題の解決を政府に願い、頼ろうとするから問題が起こるのだ。アメリカ社会は、個々人が市場を通じて自立する『自己責任』の社会なのだ」、と。これに対して「新自由主義の人間像」を「専(もっぱ)ら自己の利益しか考えない合理的な愚か者」と称したアマルティア・セン教授はレーガン大統領をこう批判した3〉

愚かしい。確かに政府が出しゃばり過ぎるのは問題である。改革開放前の中国などがその例だ。しかし、政府は解決でもあるのだ。国民皆保険制度を作るのは政府の役割である。それは人びとに幸福だけでなく自由もまたもたらす。健康でなければ、人は望むことも実現できない(からである)。識字教育も公教育を通して実現される。国家(政府)の役割は社会の基盤を作る点で非常に大きい。また国家(政府)は金融機関の活動を抑制する点でも重要である。逸(いち)早(はや)く利益を得ようとして市場を歪めてしまうことを政府は防がねばならない。アメリカは金融機関への規制をほとんど廃止してしまったので、市場経済が混乱に陥ってしまったのである。

さらにセン教授は、イギリスやアメリカを中核とする「新自由主義の責任」についても次のように批判している4〉

新自由主義という用語にはきちんとした定義はないが、もし市場経済に基礎を置くことを意味するだけであるならば、結構なことである。市場経済はどこでも繁栄のもとなのだから。だが、市場経済体制はいくつもの仕組みによって動いている。市場はその一つに過ぎないのである。にもかかわらず、市場の利用だけを考え、国家(政府)や個人の倫理の果たす役割を否定するのであれば、新自由主義は人を失望させる非生産的な考えだということになる。

セン教授のこのような新自由主義批判を私なりに再考してみると、私たち市民が日常的に営んでいる生活と労働に根ざした経済-社会的な行為や活動を新自由主義者のサッチャー首相やレーガン大統領の眼にどう映っていたのか知りたくもなる。なぜなら、私たち市民は「専ら自己の利益しか考えない合理的な愚か者」にはなり得ないからである。

III.サッチャー首相は言った:"イギリスには社会というようなものはありません"

ところで、サッチャー首相であるが、彼女は1980年代中頃になると、イギリスの経済と社会、したがってまた政治に関わる大きな困難が自分を待ち構えているのではないか、と思うようになった。同時にイギリス市民もまた忍び寄る経済-社会的な不安を感じ取るようになっていた。この「忍び寄る危機」(creeping crisis)こそ「不平等と失業による危機」であった。この時期の失業率は10%を超えていたかもしれない。とりわけ15~24歳の若者の失業率は高かった。

1985-86年にかけて私は、ブラッドフォード大学Peace Studies の客員研究員としてトム・ウッドハウス助教授(当時)の下で私の「イギリス近代協同組合運動の歴史と思想」研究の主要な一部を構成する「イギリスにおけるキリスト教社会主義と協同組合運動」を仕上げるための文献・資料を漁(あさ)っていたことから、マンチェスターのHolyoake House内にあるCo-operative College Library や――当時はロンドンのBritish Museum内にあった――British Libraryなどを訪れてはそれらの町の通りで若者の失業状況を垣間見てはイギリスの経済-社会状態の異常さを感じ取っていたことを今でも覚えている。

私はまた、1988年8月にウッドハウス先生を大学に訪ねた際に、サッチャー首相が市民に向けて言い放ったあの言葉を先生から知らされて驚いたことも覚えている。彼女は1988年5月に開催されたスコットランド国教会長老派総会でこう語ったのである:「イギリスには社会というようなものはありません(存在しません)。存在するのは個々の男女と、そして家族です(There is no such thing as society in Britain. There are individual men and women, and there are families)。彼女は前年の1987年にも同じことを語っていたとのことであるが、国教会長老派での新自由主義=市場原理(至上)主義を意味する彼女のこの言葉は、イギリスの多くの市民に何とも言いようのない驚きを与えたそうである。だが、これこそ紛れもなく「サッチャー首相の経済-社会意識」に外ならなかったのである。これを要するに、彼女は「新自由主義的資本主義の社会であるイギリスにあっては、市民の誰かが社会的に包摂される(included)のであれば、他の誰かが社会的に排除される(excluded)であろう」と、言い放っているように人びとには思われたのである。

サッチャー首相のこのような「社会意識」に対するイギリス市民の「社会意識」はどのようなものであったのだろうか。それについては、社会学者のリチャード・ジェンキンズ教授が次のように述べている5〉。「なるほど」と思わせる説明である。

 (サッチャー首相の「イギリスには社会というようなものはありません」という)その言葉によって人びとが想い起す物事(ものごと)(thing)、それは生活全般に関わって協力し協同しようとする人びとの意識(sense)と物事の本質(nature)である。言い換えれば、それは(地域コミュニティの)一員であること(membership)の意識とその帰属(belonging)の意識であり、人びとがお互いに期待し合いかつ支え合う意識、責任・義務(obligations)を自発的に担う意識、そして(人びとの間で合意されてきた)規範(norms)を守ろうとする意識であり、また既成の行事や慣行に参加しかつ関わっていく意識、さらには急を要する仕事や事業以上に幅広くかつ共通する物事に関わっていく意識である。これを要するに、「社会というようなものはあります、という意識」(a sense that there is such a thing as society)、これである。

 ジェンキンズ教授が示してくれたように、ここには市民の「社会意識」とサッチャー首相の新自由主義=市場原理(至上)主義の「社会意識」との間には大きな差異が見られる。実は、マーガレット・サッチャーの信奉者である――おそらく現在もなおそうであろう――ジョンソン首相は、それでも「協力し協同して社会的困難を克服しようとする市民の社会意識」によって自らが「死を免れた」ことの現実に気づかされたのである。それ故、「(イギリスには)本当に社会というようなものはあります」という彼の言葉は、「私はミセス・サッチャーの不都合の真実を知ってしまいました」との告白であったのだと私は思っている。

そこで更に私は思ったのであるが、多分ジョンソン首相は、少なくとも暫くの間、NHSの改悪に手を染めることは控えるであろう。なぜなら、先に私が触れたように、彼は「イギリスには社会があることを発見し、認識してその内容を教えられ、そして現に自らの生命をその社会によって助けられ、維持することができたのであるから、イギリスの社会を無下(むげ)に扱うことはできないだろう」と、私は観ているが、どうであろうか。もしそうであるならば、私は最後に言っておきたいことがある。それは、彼の政府が社会政策全般に関わる論点(テーゼ)をイギリス市民に明確に示すこと、これである。なぜなら、ミセス・サッチャーの「小さな政府」論を隠すために、その実体を言葉(用語)で、すなわち、「小さな政府」を「大きな社会」という言葉に言い換えて現実を誤魔化すことは、イギリス社会全体を裏切ることになるからだ。そこで最後に、重田園江教授の著書『隔たりと政治:統治と連帯の思想』の「はじめに」に記されている一節を付して、筆を擱くことにする6〉

未来をいまよりもよくしたいと願うことは、ホッブズによれば、人間の本性である。異なった思惑を持つ人々が住まうこの世界では、未来をよくしたいという個々の願望は意図せざる結果を生む。それが愚かな帰結につながらぬよう社会のチューニングを調整する(社会が正しく十全に機能するよう調整する-中川)ことは、生きるときを選べない人間という生物に与えられた責務ではないだろうか。

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