イギリス協同組合法とJ.S.ミル
「理事長のページ」 研究所ニュース No.76掲載分
中川雄一郎
発行日2021年11月30日
私は、先の「研究所ニュースNo.75」の理事長のページに「労働者協同組合法の成立に寄せて―イギリス労働者協同組合運動の歴史に触れて―」と題する一種の論説を記しておいた。この論説の「二つのタイトル」から見分けられるように、私は、前者のメインタイトルでワーカーズコープ(労協)が日本の労働者協同組合法(労協法)成立に向けておよそ30年もの長きに渡って注いできた努力の一部を紹介し、また後者のサブタイトルでJ.M.ラドローに焦点を当てて1852年にイギリスのキリスト教社会主義者たちと、その当時に政権党であった「トーリー党議員」との努力によって成立した世界最初の協同組合法"The Industrial and Provident Societies Act"(産業および節約組合法)に関わる一種の社会改革の「努力の賜物(たまもの)」の一部を簡潔に紹介した。そこで私は、本号では世界最初の労働者協同組合法の成立にラドローとT.ヒューズと共に献身したE.V.ニールに焦点を当てて話を進めようかと考えたが、「後者のタイトル」を「イギリス協同組合法とJ.S.ミル」に変えて、世界最初の近代協同組合運動の発展の確かな基礎となっていく協同組合法成立の意義について簡潔に触れることにした。それは、現代の私たちが「今なぜ、『イギリス協同組合法とジョン・スチュアート・ミル』なのか」を理解するためでもある、と記しておく。なお、ご承知のように、日本の協同組合法は、農協法、漁協法、森林組合法、生協法、労協法など個々別々の法律であり、それらの各法律に基づいてガバナンスが実行されるのであるが、私の知る限りでは、ヨーロッパ諸国の協同組合は基本的に(編注: 原文では圏点)一つの「協同組合法」に基づいて各種の協同組合のガバナンスが遂行されるのである。
この「統一協同組合法」は、J.S.ミルの『経済学原理』第4篇第7章「労働者階級の将来の見通しについて」の「1〔従属保護の理論は近代社会の状態にはもはや当てはまならない〕」~「7〔競争は有害なものではなく、有用かつ不可欠なものである〕」(1)のうちの「6〔労働者たち同志の協同組織の実例〕」2)について簡潔に考察を加えてみようとするものである。というのは、「6の〔実例〕」は7つの事例のうち最も長く論述されており、労働者協同組合の最も典型的な事例でもあり、何よりもラドローとニールが目標とした労働者協同組合であるからだ。「研究所ニュース No.75」で書いておいたが、ラドローが目指していたのは「労働者組合員による協同労働の協同組合」に外ならないからである:すなわち、「競争制度の下に置かれている個々の労働者は、いかにして労働の束縛から解放されるのか」、「労働者は、労働の束縛から自らを解放するために、いかにして他の人たちの援助を得ることができるのか」との主張は、簡潔に言えば、「資本主義的競争下において労働者はいかにして『協同労働』を実現するか」、ということになるだろう。この主張はニールも同じである。
ところで、ミル自身は『経済学原理』の出版について『ミル自伝』で次のように書いている:『経済学原理』の急速な成功は、このような書物を大衆が欲しており、受け入れる用意があることを明らかにした。1848年の初めに出版され、第1年刷1,000部は1年以内に売り切った。同部数の次の版が1849年の春に出て、3版1,250部は1852年の初めに出た。最初から絶えず権威ある著書として引用言及されたが、「それは本書が単なる抽象理論の書でなく、同時に応用面も扱って、経済学を一つだけ切り離されたものとしてではなく、より大きな全体の一環、他のすべての部門と密接にからみ合った社会哲学の一部門として取り扱い、したがって経済学の固有の領域内での結論も、一定の条件づきでしか正しくない、それらは直接経済学自体の範囲内にはない諸原因からの干渉や反作用に制約される、したがって他の諸部門への考慮なしに経済学が実際的な指導理論の性格を持ち得る資格はない」のだとしたからである3)。
他方で、ミルが彼自身の『経済学原理』にこのように「高い評価」を与えたことについて、ウィリアム・トマス教授は彼の著書『J. S.ミル』でこう述べている4):『経済学原理』では、彼は子供の頃から親しんできた多数の経済学文献を要約しようとした。そして、そこには既にスミスやリカードゥの主要な正統学説とは見解を異にする多くの質の高い文献が含まれていた。だから、彼は本領を発揮できた。彼は、難しくて扱いにくい主題を一般の読者にも分かりやすくすることに秀でた、生まれながらの教師であった。そして『原理』は、とりわけ優れた教科書であり、おそらくリカード経済学にとっての最良の入門書であった。それはただちに成功を収めた。……それは、経済学を普及させ、「陰鬱な科学」という汚名を晴らしたのである。
かくしてトマス教授は、ミルの自由主義的個人主義は――ミルが「ベンサムの倫理学や法学よりもリカードゥの経済学体系に負うところが大きい」と述べ、それ故、ミルの自由主義は、第1に「リカードゥの体系を一般読者向けにするために、彼はそれをはるかに非決定論的なものとした」、第2に「経済・社会政策の問題において、彼は全体的に国家干渉よりも原理としてのレセ・フェールを好んだ」、そして第3に「社会主義に対する彼の限定的な容認でさえも、自由市場制との文脈においてなされる」5)、というものである。そこでこれらのことを理解して、「『経済学原理』第7章6〔労働者たち同士の間の協同(共同)組織の実例〕」を簡潔に見ていくことにする。なお、ミルの論点については、既に「6」の他に、「1」および「7」のタイトルを提示しておいたので、ここでは「2〔将来における労働諸階級の福祉は主として彼ら自身の精神的教養に依存する〕」、「3〔知能の向上はおそらくより適切な人口調節を行わせるという効果をもつ――この効果は婦人の社会的独立によって促進されるであろう〕」、それに「4〔雇用関係廃棄への社会の傾向〕」、そして「5〔労働者が資本家との間に協同(共同)組織をつくった実例〕」について論じていることを示しておく。
さて、ミルは「6」についてこう述べ始める6):「いやしくも人類が進歩向上をつづけるとした場合、結局において支配的となるものと期待されなければならぬものは、主人としての資本家と経営に対して発言権を持たぬ労働者との間に成立し得るそれではなく、労働者たちがその作業を営むための資本を共同で所有し、かつ自分自身で選出し、また罷免(ひめん)し得る支配人のもとで労働するところの、労働者たち自身の平等という条件に則った協同(共同)組織である」。ミルのこの言葉はラドロー、ニールそしてヒューズをはじめとするキリスト教社会主義たちの協同組合立法の基本でもあったので、彼らの戦略もまた、1846年の「修正友愛組合法」の適用範囲を拡大した、労働者協同組合と消費者協同組合の生産活動を可能とする協同組合法の成立を目指していた。その結果、1852年に成立した「産業および節約組合法」は次の権利を協同組合に与えた7):(1)協同組合の設立を登記することにより、労働者協同組合と消費者協同組合の双方を合法化する(法人格の取得)、(2)協同組合の名義で不動産を所有することができる、(3)役員の名をもって訴訟を起こす権利を有する、(4)組合員の出資持分(もちぶん)の譲渡を制限することができる、(5)員外利用を承認する、である。これらの権利は協同組合運動に大きな利点をもたらすのであるが、同時にこの協同組合法には、① 無限責任制、② 連合活動規定の欠如、③ 協同組合の相互投資の制限など修正されるべき問題が残された。それでも、①と②は10年後の1862年に撤廃あるいは修正され、また③は1876年の修正協同組合法によって「銀行業務の認可」を得たことで、ミルの支援を得て開始されたイギリス協同組合は実質的に完成したのである。ミルは「イギリス協同組合の実質的完成」を見ることなく、その3年前の1873年5月7日に風土病により亡くなった。そしてニールはこの「1876年の修正協同組合法」を感慨深げにこう語った8)。
産業および節約組合法の政治史には興味をそそられる。1852年の最初の法律は、フランス人が中道左派―自由党穏健派―と称した党派に属したスラニー氏によって下院に提出された。62年の法律については、長い間友愛組合に大きな関心を払ってきた保守党員のS.エスコート氏に多くを負っている。上院ではエスコート氏の友人で自由党所属のポートマン卿がそれを取り上げてくれた。67年と71年の法律はわれわれ自身の頼りになる友人たち、T.ヒューズ氏とW.モリソン氏が下院で、上院ではリボン侯爵―彼らは自由党員である―が支持した。現法律が、保守党が多数を占める議会で保守党政府の下で可決されたこと、また現法律に関わってきた議員のうち、S.ヒル氏、ロッドウェル氏、へニッカー卿が保守党に所属していること―但し、この法律の通称に自分の名前を貸してくれたC.テンプル氏および銀行業務に関する条項の定義に尽力してくれたバード氏は野党に所属していた―は、保守党員としての私の満足するところである。このことを協同組合人は忘れないだろう、と私は思う。これらの事実は民衆の福祉に関係する法律は党派的政策や感情の嵐によって影響を受けない領域になりつつある、という心強い兆候であるように私には思われるのである。
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