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再び「沖縄『復帰50 年』」に触れて

「理事長のページ」 研究所ニュース No.79掲載分

中川雄一郎

発行日2022年08月31日


私は、本「研究所ニュースNo.78」(2022.5.31)で、「沖縄 基地なお集中 あす日本復帰50年」と題する「現代沖縄歴史資料」(朝日新聞朝刊2022年5月14日付)と共に、作家であり詩人でもある池澤夏樹氏の「巻頭言:復帰/返還五十年 減らない基地と沖縄の憂鬱」(AERA' 22.5.16. No. 22)、そして山本章子琉球大学准教授の「『安全保障』下の日常:空も水もほど遠い平穏」と題する「沖縄季評」(朝日新聞朝刊2022年2月3日付)を引用して、いわば「沖縄の三つの不自由」について言及した。周知のように、これら「三つの不自由」は依然として「沖縄復帰50年にあってもなお沖縄にとって加重基地負担の声」の一部であって、文字通りの「減らない基地」であり、辺野古「新基地」に到っては「沖縄の憂鬱」の最たるものの一つである。それ故私は、「沖縄の市民の憂鬱は日本の市民の憂鬱であり、沖縄の市民の自立と尊厳は日本の市民の自立と尊厳である」、と私たちは真摯にそう思うべきだと強調したい。

そこで、私事になってしまうが、実は私は、池澤夏樹氏の「沖縄の憂鬱」と山本章子氏の「沖縄季評」を追いながら「沖縄への関心」を抱くようになった切っ掛けを想い起していたのである。そしてやがて私のこの「沖縄への関心」は、「沖縄の自立と尊厳」へと拡がっていき、次第に私の本位となってきたのである。言い換えれば、「沖縄の自立と尊厳」は「沖縄市民の自立と尊厳」であり、また「すべての日本市民の自立と尊厳」に他ならない、と私は考えるようになったのである。

私がそう考えるようになった切っ掛けを私は今でも鮮明に覚えている。それは、「偶然」と言うよりもむしろ、「思ってもみなかった」と言うべきかもしれない。

私は、大学では学生生活(編注: 原文では圏点)を豊にすると思える研究サークルに参加し、そこで自分の進むべき方向を見出して、大学生活を有意義なものにしていこうと考えていた。1965年4月に入学した私は、先ずは自らの勉学を進めるために役立つだろうと思える研究サークルをいくつか訪ねたが、しかし、そもそも「自らの勉学を進める」と言っても、高校でのそれのようにはいかず、まったく以って皆目見当もつかなかった。そこで私は「気取るのは止めて、行き当たりばったりで行こう」と考え直し、偶然にして少々埃(ほこり)っぽい部室を尋ねたのである。それでもこの部屋の入口には学生が書いたと思われる、私には到底書けそうもない筆で書かれた達筆な看板「農業問題研究会」が掲げられていた。結局、この看板に引かれて、私は飾り気のない部室で4年間を過ごすことになるのである。そしてそれから1週間後に、私は「あの(編注: 原文では圏点)切っ掛け」を経験することになるのである。

女子学生1名を含め私たち新入生7名は、数名の2、3年生の待つ、少々埃っぽい「農業問題研究会」のあの部屋に迎え入れられ、簡単な歓迎挨拶を3年生幹事長より戴(いただ)いた。そして新入生の自己紹介も済み、団欒(だんらん)が始まって間もなく、2年生の一人が私たち1年生に向かって語り始めた。「沖縄問題」である。私にはその言葉は、柔らかな「沖縄訛(なまり)」で、しかも当初は話上手に思えたが、突然立ち上がって黒板に「西表島」と書き、これを何と読むか私たち新入生に質問したのである。その時にたまたま私と目が合い、彼は私を指して回答を求めたのである。私は戸惑い、少々考えたが、思いつかず――すなわち、「いりおもて」の「いり」が浮かばず――「さいひょう(編注: 原文では圏点)とう」と答えてしまった。その時の彼の顔は一見「笑っている」ようにも見えたが、しかしその目は「厳(きび)しかった」と記憶している。「さいひょうとう」ではなく、「いりおもてじま」である、と彼はやんわりと教えてくれた。

その1カ月後、私は思い切って彼に「沖縄戦中・戦後史」を教えてくれるよう頼み込み、夏休みに入って間もなく彼の宿舎で4日間を過し、日本の軍人による沖縄市民差別とその後の米軍統治の実体について「講義」を受けた。私にとってそれは初めての沖縄戦中・戦後史学習であった。振り返ってみると、私の中学・高校時代の日本史学習はこのような歴史研究と「ほとんど無縁」であった、とつくづく思った次第である。かくして最後に彼は、私の言葉「さいひょうとう」を笑って許してくださった。「やはり気にしていたのだな」と、私も改めて反省した。彼は卒業後、沖縄県農業協同組合中央会で活躍し、私も彼に依頼されて2回ほど同中央会で国際協同組合史などを講演した。

さて、それから長い月日が経ち、私は2017年3月に定年を迎えた。とはいえ、現在でも私なりに協同組合研究を継続させながら、現役時代にお世話になった、現在でもロンドンで活躍している著名な協同組合運動の女性指導者や、大学院で実に見事な博士論文を世に出し、韓国に戻って大学で近・現代協同組合を研究・教育している国際的に著名な女性の教え子が活躍している。そういう彼女たちが送ってくれるメールや手紙は私の楽しみでもある。

ところで最後に、私はこのページにもう1つ掲載したい文章がある。私にとってそれは、文字通りの「再び『沖縄復帰50年』に触れて」の文章なのだと言ってよい。それは、私が改めて読み返した「女性『九条の会』ニュース」(第45号、2018年8月20日発行)に安里(あさと)英子氏が怒りを以って、しかし冷静に世論に訴えた「海を呑み、人を喰う政治に終わりを」である。彼女のこの心根(こころね)は、当時も今も、私たち一人ひとりの気持ちを目敏(めざと)く牽引(けんいん)してくれるのだと、私は感じ取ったのである。

大浦湾。どのように美しい海であったか。入り江に面した久志、辺野古、安部、嘉陽などのムラではサンゴの浅瀬で魚を獲り、藻を集める暮らしぶりであった。ジュゴンの親子の住処は、浜から近いサンゴのくぼみ。戦後食べ物がないときには、ジュゴンが我身を人びとに分け与えた。浜につづく森には、ヤマモモが実り、青年男女がそろって木の実をとり、薪をひろった。そんな暮らしも、九〇年代にはリゾート開発で、消えた。今、基地建設で辺野古の海は埋め立てられようとしている。安部集落の浅瀬にはオスプレイも墜落した。埋め立てのための、護岸工事がほぼ終了し、防衛庁は八月一七日から辺野古の海に土砂を投入する。護岸工事とは埋め立部分の周辺を砂利で囲ったもので、そのための工事をこれまで一日に延べで三五〇台から四〇〇台ものダンプで砂利を運んだ。想像してほしい、巨大なダンプが海を埋め立てるために基地の中に入っている。それを食い止めるために何百日、数千日も多くの市民が道路上に座り込み、あるいは海ではカヌーや船で阻止行動をしてきた。女性たちはできうる限り、日に焼けないようにスカーフで顔を覆い、深く帽子をかぶっても、連日座り込んでいる人たちはほとんど火傷状態だ。日毎に市民への弾圧は激しくなり、これまでの逮捕者は九〇人にのぼる。

七月一四日、辺野古ではとんでもない工事がはじまった。米軍キャンプ・シュワーブ工事用ゲート前に、柵の高さ四㍍、長さ四五㍍を設置した。柵の前にはさらに重量のある物体を築き、市民が入り込めないようにした。これまで市民は警察車両の間や機動隊の隊列に挟まれるようにして阻止行動をしてきた。ごぼう抜きにされる際、肋骨が折れるなどのけが人が続出している。

このような切羽つまった状況の中、一五日からは県庁前広場では、沖縄県知事に対して「辺野古埋立承認の即時撤回」を求めて座り込み行動を開始した。一方、翁長知事は二七日に記者会見をし、二〇一三に前知事が埋め立てを承認したことに対する「撤回」を行うと表明した。ただそのためには防衛庁の意見を聴くための「聴聞」が必要となる。

私は、基地闘争は全国の地域がそれぞれに現場だと思っている。日本の政治が変わらなければ、基地はなくならない。東アジアの状況は大きく変わろうとしている。日本で変革の波が起こらなければ、日本は世界に取り残されてしまうだろう。人を喰って(犠牲にして)生き延びる政治は終わりにしなければならない。憲法で保障された「平和的生存権」は誰もが享受されなければならない。

(ここで明らかにしておきます;実は、沖縄訛で私に「沖縄戦中・戦後史」を教えて下さった学生は、後に安里英子氏の夫となる安里精善氏です。)

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