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協同組合アイデンティティとは何か――コミュニケーション・コミュニティとしての協同組合――

「理事長のページ」 研究所ニュース No.86掲載分

中川雄一郎

発行日2024年05月31日


I. 「〝光陰矢の如し″とは能く言ったものだ、今日はもう21日、5月も後半に入ったか。そろそろ茶摘みが広がる季節だな」と、独り言を囁(ささや)きながら探していた雑誌を手にした。それは、24年前の2000年1月15日に発行された『明治』第5号である。実は、私はその雑誌の「明大からの処方箋」欄に原稿を書くよう依頼されたので、それに相応(ふさわ)しいだろうと思った「福祉社会をめざして」と題する原稿を提出しておいた。大袈裟(おおげさ)に言えば、本雑誌は「およそ4分の1世紀前」の雑誌なので、本号に何方(どなた)方が書いておられるのかを改めて見直したところ、戸沢充則学長、北出俊昭農学部教授、長岡 顯文学部教授、山泉 進法学部教授、そして鈴木俊光法学部教授など30余名もの教職員が筆を運び、走らせていた。これはいわば「明大論壇(ろんだん)誌」と称すべきものかも知れない、と私は思った。その中でも恐らく一番読まれたのは「シリーズ・この人に聞く⑤」だろう。何しろ「この人」が本学出身の(今は亡き)阿久悠(あくゆう)氏(作詞家・作家、1959年文学部卒業)であり、また10頁にも亘(わた)って彼の話の内容が読者を惹き付けたことは、大いに考えられるからである。彼は「時代」と共に移り変わる「経済・社会・政治の時の流れ」のなかにあって「庶民の歴史」をしっかり見ていたであろうと、今でも私は思っている。

そこでさらに私は、この10頁全体を再度読み直し、私が関心した箇所を――左程多くはなかったけれども――いくつかチェックしておき、なかでも本ページに書き置きたいなと思った箇所のうちの一個所だけをここに取り上げておくことにする。次の話がそれである。

僕は、ある雑誌に書いたんですけど、民主主義ということを突然言われて、どこかいかがわしいものだということを子供心に感じるわけですね。だれも民主主義のことを説明しない。戦争中と違うことをやれば民主主義だというような乱暴な教え方ですから。要するに、昔は悪かったんだ、これからやることはいいことだ。こんないかがわしいものあるかと、ちょっと頭の働く子供だったら思うわけですよ。

そのなかで、これは信じてもいいなと思ったのは、民主主義とともにやって来た歌と映画と野球です。これが民主主義の三色旗だと思っています。たぶん「何をテーマに詩を書きますか」ということになると、民主主義の三色旗を書いていくでしょうね、ということを最近言っているのですけどね。

ここで阿久 悠氏が言っている「民主主義の三色旗」は、何も外国(ここではアメリカ)からやって来た「歌と映画と野球」=「アメリカの顔を伺(うかが)う民主主義」に限らずに、日本の市民が自ら主体的に創り出していく民主主義を発展させて行くべきだ、との認識を示唆しているのだと、私は読み取ったのです。

さて、久し振りに目にしたその雑誌(『明治』第5号「福祉社会をめざして」)を開いてみると、先の先生方の顔写真に代わって、「I高齢化の社会的課題 II福祉国家の破産と福祉社会論 III合理的な愚か者と福祉社会  IVアマルティア・セン教授(1998年にノーベル経済学賞を受賞)へのインタビュー」が登場します。ここでは「セン教授へのインタビュー」に絞(しぼ)って、「福祉社会・雇用・高齢者と労働者協同組合」について簡潔に書き添えておくことにします。セン教授のこの提言は「多様な社会に訴える力」と「理想的社会のあり様についての思考」とを示唆(しさ)してくれている、と言ってよいだろう。

セン教授は「福祉社会」の「福祉」を次のように述べています:「福祉」は「公的扶助による私的な家族生活を援助する補完的な制度」も含め、市場に投入されず、再分配されない資源(自然環境、生態系など)も自立した生活の一部として取り込み、コミュニティ(地域社会)住民の連帯と参加に支えられた「協同の自助」の原理によって生活の質を豊かにしていく広義の「福祉」を意味する。言い換えれば、福祉社会は「コミュニティの住民一人ひとりが自立して生活できる肉体的、精神的、物質的な生活構造を支える生活環境基盤の向上を社会的に保障するシステムが確立している社会」なのである。したがって「雇用、保育・教育、住宅、食料、医療などの保障も当然この生活環境基盤に含まれるのである。セン教授は、このように、福祉を広義の意味で捉え民主主義と経済的発展のバランスを強調している経済学者なのである」。

セン教授はまた、市場原理主義が前提とする「専(もっぱ)ら自己の利益しか考えない」人間(像)を「合理的な愚か者」として批判し、人間の多様性に関心を持ち、多様性に基づく平等を主張する理論を展開する。そして人間は倫理、慎重さ、自己の利益の判断、社会的義務を踏まえて行動する市民的存在でもあり、福祉(well-being)は主観的な効用や財貨の量ではなく、「人間がどのような生き方を選べるか」という「生活の質」によって判定されるべきである、と論じる。さらに彼は経済開発についてこう主張する:開発の基本目標は「自由の拡大」であり、自由はまた開発を進める手段でもある。とは言え、自由の本質的役割は「人びとの生活を豊かにする」ことであり、「飢餓や栄養失調、疾病、若年死といった窮乏(きゅうぼう)状態から逃れ得る基本的能力」を確保すること、そして「識字率の向上、政治的参加や検閲(けんえつ)無き言論の享受を実現する」ことでもある。これは要するに、「社会的に成熟し、社会への責任を負うことが可能となった人びとの生活内容を豊かにする」ことに関心を払うヒューマニズムの有り様であると私は見ている。

II. コミュニケーション・コミュニティとしての協同組合運動

“コミュニケーション・コミュニティ”はユルゲン・ハーバーマスの言葉である。彼はコミュニケーションを「言語を基礎とする社会的行為の一形態」であり、しかも社会は「言語的に形成され、支えられる実体である」と主張し、またコミュニケーションは「すべてに向けて開放されている」だけでなく、すべての社会的行為の基礎でもあるのだから、私たちはコミュニケーションを物事の本質を認識することによって「生活と労働の質の向上」のために社会を導きかつ支えていく理性(合理性)としてではなく、ただ単に与えられた目的のための手段を提示するだけの操作的価値に貶(おとし)めてしまう道具的関係から解き放さねばならない、と強調する。と言うのは、「対話的プロセスは常に閉鎖に抵抗し、したがってまた支配に抵抗する」からである、とハーバーマスは言うのである。彼はこのような社会的行為を「コミュニケーション・コミュニティ」と称している。

ハーバーマスのこのような社会理論は、市民としての個人が現代社会のなかに「対話的合理性」を見いだすと同時に、現代社会の「対話的構造」によって可能となる「コミュニティへの貢献」が承認されることにより与えられる「個人の自治」を一連の諸権利に反映させる、とする「現代シチズンシップ」論に接近する。その意味で、コミュニケーション・コミュニティは、市民である個人を「自治の権利を有する個人」・「統治能力のある自立・自律的な個人」だと承認しようとしない力(支配力)によって強制される「上意下達の承認受諾関係」を拒否する「参加の倫理」に基づくコミュニティである、と言ってよいだろう。そこで私は「協同組合とコミュニケーション・コミュニティの接近」を次のように表現してみた。

コミュニケーション・コミュニティは、コミュニティとしての協同組合が日々の生活と労働において人びとが相互に協力し協同し合う多様な機会を創り出し、福祉を享受する権利の行使や文化的資源の活性化、物質的資源の公正な配分などの諸条件を規定する「社会の基本的枠組み」の維持あるいは改善に貢献することによって、自治・権利・責任・参加に基づくヒューマン・ガバナンス(人間的な統治)にとって有用な諸条件を再生産する社会的役割を果たす目的と、その目的を実現するための手段としての協同組合事業の定位が逆転することのないよう「常に討議する協同組合のメンバーシップの合意性」を尊重し、かつ確かなものにすることを意味する。このことはまた「生活世界の対話的行為の表現」として実践躬行(きゅうこう)される、協同組合も理念と目的を絶えず再確認する重要な作業であることを示唆している。

かくして、対話的概念を協同組合の基礎的枠組みとすることにより「コミュニティとしての協同組合」が「コミュニケーション・コミュニティとしての協同組合」に昇華することになる。ジェラード・デランティは、ハーバーマスのコミュニケーション・コミュニティを次のように評価している。

「コミュニケーション・コミュニティ」という考え方は、近代社会の社会関係が権威、地位、儀式などその他の媒介物によってではなく、コミュニケーションをめぐって組織されることを意味している。……近代社会ではますます対話的な空間が増大しているが、なかでも最も重要なそれは公共空間と科学である。公共圏は多様な対話的な場から構成されており、……社会のすべてのレベルで存在可能である。ハーバーマスによれば、科学や近代的大学制度もまた開かれたコミュニケーション・コミュニティである。というのは、それが原則として合意によってのみ解決可能な真理への積極的参画を特徴とするからである。真理は審議的方法によって初めて到達することができ、合意によって決定されるという考え方がハーバーマスのコミュニケーション理論の核心である。……コミュニティが共有されるものであるならば、それは対話的形態を取らなければならない。これがハーバーマスの対話的行為理論の意味するところである。それはまた、対話的能力の表明に向かわせるものであり、変化を起こす力を持ったコミュニティという発想も示唆している。コミュニティは決して完全なものではなく、常に現れ出るものなのである。

デランティが述べているように、ハーバーマスの「コミュニケーション・コミュニティ」論は、日本における協同組合の概念に、したがってその事業と運動の有り様に大きな影響をもたらす可能性があるだろう、と私は考えている。なぜならば、彼のコミュニケーション・コミュニティは、コミュニティとしての協同組合の事業と運動をただ単に「規範的、道徳的な全体性」に還元させるのではなく、コミュニケーションを通じて「事業と運動」を構造化させる合意のプロセスを創り出していく場を提供するからである。その意味で、レイドロー報告が訴えているように、協同組合が未来の世代に責任を負う「未来の創造者」になり、また市場原理主義に対抗する「正気の島」となり得るとすれば、それは、現代の協同組合人が「コミュニケーション・コミュニティとしての協同組合」の理念とアイデンティティに基づいた実践をいかに想像し、かつ創造していくか、一重にその努力に掛かっているのである。

アマルティア・センもこう強調している:「市場メカニズムの長期的に有効な機能は、社会的な平等と公正に基づいた、人びとの社会的参加の機会を創り出すことによって促進されなければならない」、と。そして彼はさらに、協同組合運動における「参加の役割」をこう強調した:「参加の役割は、協同組合の古典的な文献で論じられてきた補完的役割をはるかに超えて広がっているのであるから、協同組合は、その事業と運動を通じて参加の役割をより有効にし、より多くの人びとの参加を保障し得るように市場メカニズムを「(人びとの)生活と労働の質」と「地域コミュニティの質」の向上に結び付けていく政策を確立すること、このことこそ協同組合が追求し、実現していくミッションである」、と。

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