総研いのちとくらし
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シチズンシップの理念とは

「理事長のページ」 研究所ニュース No.90掲載分

中川雄一郎

発行日2025年08月31日


【高村 薫・《穴は至る所に》を読んで】

現在私は、ほぼ毎日午前6時半までに配達された新聞を手にするのが「日課の開始」になっており、したがって先ずは新聞に目を通すのが一種の「生活の癖」になっている。先般、いつ頃からこの癖が始まったのか思い立って調べたところ、"大学退職2年後"であることが分かった。と言うのは、「私は大学退職2年目(2018年)に3週間ほど入院し、無事退院した」記憶が甦ったからである。そう、家からさほど遠くない病院に3週間ほど入院した後、私は再び協同組合研究と向かい合ったのである。

2025年7月3日(木)付けの朝日新聞を手にした時もそうでしたが、これも私の癖で先ずは「オピニオン」欄に目を遣って文章を読み始めた。したがって、この日に私が最初に目にしたのは「穴は至る所に」と題した寄稿(原稿)であり、またその寄稿も私が滅多に目にしたことのない用語であったので、国語辞典で確認しつつ著者である作家・高村薫氏の文章を私はゆっくりと読み始めたのである。その最初の見出しは「〈いま〉に興じる我ら、先見通せぬ残念資質、何もかもガタがきた」であった。見終わって私は彼女の見解に感心した。

これら3つの見出しは日本社会の至ところで目にする。例えば「明確なテーマを欠いたまま、めぼしいコンテンツを寄せ集めただけの大阪・関西万博」がそうである。私たちも日本社会の至る所で見たり聞いたりするだろう。例えば、「明確なテーマを欠いたまま、目ぼしいコンテンツ(contents、容器の中身)を寄集めただけの大阪・関西万博」がそれである。それ故、大阪・関西万博は「1970年の万博と比べれば、個々の展示にかける意気込みも創意工夫も費用も大きく見劣りし、よく言えばSDGs、悪く言えば安普請のやっつけ仕事は目を覆うばかりである」との批判を逸らすことなく受け取らなければならないのである。

高村氏はまたこう述べている:その他にマイナ保険証問題を初め「道路の話」を述べているが、次の主張は私たちの「長い繁栄の夢から醒めてみれば、足下の道路には大穴があき、転落した車両を迅速に救出する対処能力もなく、穴の補修には数カ月から数年もかかる。さらに言えば、長期にわたる道路や橋の維持管理は責任の主体も必要な予算も明確ではなく、過大な既存インフラの清算に手を付ける者もいない。そしてある日、ただ通りかかっただけの利用者が穴に落ちる」。彼女のこの批判は、私たち人間の「生命と生活」があっての「社会であり、政治である」ことを訴えているのである。私たちもまた真剣に受け止めなければならない"現実"なのである。

私はまた、高村氏の言葉を通して、「『命』第一の政治あれば――誠実に働き生きるだけ」を共に創り出し、活かしていくならば――最新の日本の相対的貧困率がアメリカや韓国に抜かれて15.4%となり」先進国でもっとも貧しくなってしまったとことを知った。それでも群を抜いて国内の治安はよく、私たちは生活不安を抱えながらも、グルメ(美食家)だの「推し」だのと生活を楽しんでいると彼女は語っていた。だが、彼女は指摘する:「しかしそれもそのはず、私たちはそうして〈いま〉だけを見、見たくないものは見ない。その結果、全盛を迎えているのがフェイクニュースであり、YouTubeであり、切り取り動画である」、と。

政府の債務残高が1323兆円を超え、国家の信用が揺らぎつつある日本に、戦争をするカネはない。さらに、平原のない狭い国土は一発のミサイル攻撃にも耐えられない。これが私たちの現実である。しかしながら、雨が降ろうが槍が降ろうがこの現実だけは変わらないことを肝に銘じておけば、〈いま〉しか見ない私たちでも多分、何とかなる。いや、参院選も近いので、せっかくだからもう少し欲を出し、当面の暮らしだけではないこの国のかたちや、世界のあるべき姿にも目を配る、真に政治らしい政治を持ちたいと思う。皆さん、参院選から2カ月程を経た現在、私たちの「福祉を基礎とする社会的貢献」が「社会的平等と公正の確立・普及に貢献する」ことにより、更に広く「人間的な経済と社会の発展」に役立つ運動もまた展開されるでしょう。

アマルティア・センが福祉・福利を単なる「効用」や「財貨の量」ではなく、「生活の質」と結びつけて考察したことは、後に彼によって主張される「人間の安全保障」というコンセプトをグローバリゼーションと対置させる視点と、民主主義・教育・健康を人びとの生活の本質的要素として明確に位置づける視点とを人びとに指し示すことになります。アマルティア・センの次の言葉がそれを分かり易く伝えてくれています:「人間の生活を脅かすさまざまな不安」のなかでも、保健・医療に直接かかわる不安は、しばしば大きな比重を占めます。なぜなら、健康でなければ人は望むことも実現できないからです。したがって、病気や不健康状態に置かれることによって『生活を脅かされる不安』を減らし、排除していくのは政府や国の役割であると言うのは、今では社会の共通認識になっていなければならいのである」。

【ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリートリヒ・ヘーゲルの「承認の必要性」】
Georg Wilhelm Friedrich Hegel〈1770~1831〉

ヘーゲルは彼の有名な研究成果である『精神現象学』のなかで「自己意識」について次のように述べている:自己意識は「他者と出会い、他者を介して自分を捉え返す」ところに成立する――すなわち、自分と他者との関係のなかで主体としての自分を自覚しつつ客体の媒介を経るところに成立する――のであるから、自己意識は「自らを意識しているところに成り立つ主体性の自覚」である、と彼は言う。要するに、自己意識とは「私(自分)は、私(自分)一人だけで生きているのではなく、他者との関係のなかで生きていることを意識する」ことによって初めて「共同(協同)性に基づく存在」・「(他者と相互に)協力し協同する存在」となる私(自分)を意識する意識なのだとヘーゲルは言っているのである。

私が突然ここでヘーゲルの「自己意識」に触れたのには理由がある。それは、私たちの日常生活は言うまでもなく、市民の皆さんによる協同組合運動や地域づくり運動といった経済-社会的な事業・運動もまた、「共同(協同)性に基づく存在」・「協力・協働する存在」としての多くの市民の「主体性の自覚」に導かれて実践されることを強調したかったからである。そこでもう少し、ヘーゲルの「承認の必要性」に言及しておきたい。と言うのは、「承認の必要性」と「個々の市民は自分自身の生活に判断を下す能力があることを承認する」シチズンシップの理念とが相互に関連するからである。

ところで、近・現代の社会における「共同(協同)性」は「自立した個人」によって構成され、成り立っている。したがって近・現代の社会それ自体は「共同(協同)性と個の自立との統一」を意味し、また個人それ自体はこの「共同(協同)性と個の自立との統一」を意味し、またその個人はこの「共同(協同)性と個の自立の統一」を「他者」を介して理解し確信することになる、とヘーゲルは言う。こうして自立した個人は「自己意識的存在」となり、各個人の自己意識はその充足を「他者の自己意識において初めて達成する」ことになる、とヘーゲルは強調した。言い換えれば、各個人の「自己を意識する自己意識」が「自分は自分一人で生きているのではなく、他者との関係のなかで生きていることを意識する意識を生み出す」と認識するのである。ヘーゲルはこれを「自己意識は承認されたものとしてのみ存在する」と言い、また自己意識は「精神の概念が実現される場」となり、それ故にまた自立した各個人は「社会で生きる自覚」を意識するのである、と論じた。これが有名なヘーゲルの「承認の必要性」である。

ヘーゲルはまた「個人は自らが他者によって承認されて初めて幸福に導かれる」と言い、これは「すべての人間の尊厳を承認する闘いである」と主張し、この闘いによって「対等平等な人びとの間での相互の"承認のための秩序"が創り出される」ことを示したのである。このようにヘーゲルは「承認の必要性を」を論じ、「人びとが相互に承認し合うための秩序」を明らかにし、「承認の構造」を次のように提示したのである。

自立した個人は、「自分自身を他者のなかに見いだす自己意識」によって、すなわち、自分が他者と人間関係を結ぶなかでこそ、「自分に対する期待」・「自分の果たすべき役割」・「自分の成し得ること」について意識するのであり、それ故、自立した個人たる市民としての「われわれ」は「人びとがお互いに承認し合っている」ことを「承認する」のである。

【むすびに代えて:シチズンシップと協同組合】

私は、ヘーゲルの「承認の必要性」に言及していた最中にふと、明治大学の重田園江教授の論考の一部分を思い出した。それは、彼女が書き上げた『隔たりと政治:統治と連帯の思想』と題する中々に面白く、私には今でも大いに役に立っている著書である。以前私はある協同組合の女性職員・組合員の方々にその著書の「第九章・現代社会における排除と分断」を土台にして協同組合運動の社会・経済的な重要性を語ったことがありましたので、よく覚えています。なお、最後の「人と社会と政治の論理」はその著書の特徴を表現する言葉として私が付けたものです。
なお、重田教授はその著書の「はじめに」で「論理のエッセンス」を簡潔にこう述べています(括弧内と傍点は中川)。

未来をいまよりよくしたいと願うことは、(トマス)ホッブズによれば人間の本性である。異なった思惑を持つ人々が住まうこの世界では、未来をよくしたいという個々の願望は意図せざる結果を生む。それが愚かな帰結につながらぬよう社会のチューニング(tuning)を整理する(社会が正しく十全に機能するよう調整する)ことは、生きるときを選べない人間という生物に与えられた責務ではないだろうか。

重田教授のこの言葉を協同組合運動に関連させて私なりに簡潔に言い換えれば、協同組合運動の開始とその後の発展は、各々の時代に生まれ成長していった人たちが協力・協同して「より良き生活と労働」を担保し得るよう努力するならば、それ相応の成果が得られるよう地道に実現する"協同組合運動の賜物"の何であるかを人びとは知ることになるだろう。しかも同時に、協同組合運動の歴史を考察していくと、「協同組合を生み出した背景とそれを育成した人々の構想」とがあったことを私たちは気付くのである。例えば、1893年に『人びとによる自助:ロッチデール先駆者組合の歴史』(Self-help by the People: The History of the Rochdale Pioneers)を著したジョージ・ジェイコブ・ホリヨークは「自助」についてこう述べている:

協同組合における自助は他者の福祉(well-being=健康で幸福な状態)を尊重することを意味する。言い換えれば、協同組合運動における「自助」は組合員相互の助け合いを通じた自助、すなわち、「協同による自助」のことである。したがって、協同組合運動が「他者の福祉を尊重する」という条件を満たし得ないのであれば、その自助は単に「競争の促進」を意味するにすぎない。それ故、協同組合運動における自助は、言葉の真の意味で、人びとの自立を支援し、また自立した人びとの福祉を保証するものでなければならない。

ここで私は「他者の福祉を尊重する」とのホリヨークの言葉からヘーゲルの言う「自己意識」という言葉を思い出した。ヘーゲルの自己意識は「自己を意識する意識」、すなわち、「自分は自分一人で生きているのではなく、他者との関係のなかで生きていることを意識する意識」なのである。この「自己意識」がまたシチズンシップ(市民であること)と関連する概念であることを強調しておく。

ところで、私たち市民は、私たちの諸権利がある社会的枠組みを通じて行使され、実現されることを知っている。例えば、教育を受ける権利は学校で、健康や生命を維持する権利は病院で実現され、また私たちの諸権利の承認は裁判所でなされ、議会もまた私たちの多様な権利を承認し、維持し、証明する。だが、これらのことは同時に、市民のすべてがそれらの枠組みを維持する役割を果たすよう求められる。市民である私たちは、権利だけでなく責任・義務もまた果たさなければならない。なぜなら、シチズンシップ(市民であること)は権利だけでなく、責任・義務もまた包含しているからである。確かに、権利が公式に表現されなくても、社会が校正にその権利を果たすことは考えられるが、しかしながら、コミュニティの構成員が責任・義務の意識を持たなければ、安定した人間的なコミュニティを想像することは難しくなる。その意味で、私たち市民一人ひとりが権利と責任・義務の意識を持ち、かつそれを履行して初めてシチズンシップは「人間的な統治」(human governance)のための優れた基礎となり得るのである。

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