総研いのちとくらし
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『民主主義と社会正義』

「理事長のページ」 研究所ニュース No.91掲載分

中川雄一郎

発行日2025年11月30日


本年9月末のことであった。私はふと呟(つぶや)いた自分に気づいた:“今ではこの表題と人物写真、それに彼の氏名を覚えている日本人は少なくなってしまったかもしれないな”。その本のタイトルは「民主主義と社会正義」(和山のぞみ・訳)であり、人物写真はアマルティア・セン教授である。上部に頁(130~147)とタイトルが示されており、ページ130の下部には〔SEKAI 1999.6〕が記されている。なお、タイトルの隣に短文が記されている;

「経済成長にとっては開発独裁体制の方が効果的で、民主主義は妨げになる」
「アジア的価値観にとって民主主義の公開性や合理性はなじまない」
――これらの通説に対し、昨年度のノーベル賞経済学者は、
民主制度の拡大と深化が、開発プロセスに必須のものであることを主張する。

セン教授は「はじめに」で次のように述べている:この100年間は重大なことが非常に多く起こった。19世紀をあれほどまでに支配したヨーロッパ帝国――おおかたはイギリスとフランス―が終焉をむかえた。そして我々は2つの世界大戦に立ち合い、ファシズムとナチスの台頭と没落をみた。今世紀はまた、共産主義の台頭、そして(旧ソ連で見られたような)凋落と(中国で見られてきたような)急進的移行の混在も目撃してきた。また西側の経済支配から、日本、東アジア、東南アジアがより大きな経済力を持つ新しい経済均衡へのシフトも見た。たとえそのヨーロッパ地域が、現在いくつかの金融、その他の経済問題に耐え抜いているとしても、何十年もかけて生起した(日本の場合は、ほぼ丸一世紀間)今の世界経済の均衡シフトを変化させることにはならないだろう。このように、上述の問の回答となりそうな大きな出来事は、いろいろとあったのである。

しかし私は、民主主義の台頭こそが今世紀の最も際立った進歩であるという結論に至った。実際に遠い将来、人々が今世紀起こったことを振り返るようなことがあったならば、彼らも迷うことなく、民主主義の世界的拡大こそ今世紀の最も特筆すべき進歩であったと考えるだろう。(文略)しかし、ヨーロッパであろうが、アメリカであろうが、アジアであろうが、アフリカであろうが、どんな国でも民主主義国家と銘打つほど"あたりまえの"政治形態として定着すようになったのは、20世紀になってからなのである。

価値観の形成と民主主義の構築作用:インドのある地域では根強い性差別があり、これには改革すべき問題の指摘も批判も含めた本格的な取り組みが必要となる。実際こうした見落とされがちな問題が、公共的な討論や法廷対決の場に現れて(例えば、インドでは過去数十年間、初等教育を推進する女性運動や圧力団体が力を合わせてきた)、やっと政府は動き始めている。民主主義では、人々は自らが要求するものを手に入れるが、もっと重要なことは、要求しないものが手に入るなどということは起こらないということである。

価値観の形成と民主主義の構築作用:このようなことはすべて、社会正義の考え方――現代世界において何が許容できて何が許容できないか――に直接関係してくる。(経済学の教科書で主張されているように)狭い意味での利己心だけでは捉(とら)えきれない個人の行動に、正義の考えが影響を与えているということも前に述べておいた。実際、この点を飢饉の防止に果たす民主主義の役割を例に示そう;国際比較で飢饉を経済分析すると、飢饉に見舞われる人々の総人口に占める割合は小さく、せいぜい5%前後である。通常、こうした貧しい層の所得や食料の取り分の全体に占める割合は、3%程度に過ぎないから、飢餓の防止に真剣な努力がなされれば、彼らの所得や食糧の失われた部分を最供給することは、最貧国であっても難しくはない。このように飢饉は容易に回避でき、統治者が餓死でもしない限り、政府批判や有権者との対話を要求することによって、政府に迅速な阻止行動を取らせる政治的インセンティブを与えられるのである。

だが、ここで問題が生じる:総人口のうち僅かな部分しか占めていない人々が飢餓に遭ったとき、多数決原理に基づく選挙方式や大衆による政府批判の仕組みの中で、それはどのようにして深刻な問題として訴える力を持つ問題になるであろうか。自己中心性を仮定する世界では、この問題はある程度の緊張を生むだろう。しかし我々は、他者の困窮状態を理解し、行動を起こす能力と性向を持っている。この問題を解決しようとすると、我々人間は、永遠に自己中心の世界に囚われたままの存在ではないという事実に目が向く。だからこそ、徳の考え方や正当性(the right)、公平性(the fair)、公正性(the just)が何を最優先にすべきか、他者へのコミットメント〔自分の利益に関わりなく、自分のもつ倫理規範に従って行動選択すること〕と行動に影響を与えるのである。

さて、簡潔にセン教授が述べた「民主主義と社会正義」のほんの一部分を紹介しましたが、最後に私は、セン教授が「おわりに」で述べた「言葉」というよりも、「理念」を書き置きます。

民主主義の制度が重要であることは当然認めるべきことであるが、制度はセットしさえすれば自動的に開発がうまくいくように動いてくれる機械装置ではない。民主制度は、我々がもっている価値観や優先事項や、つまるところ正義感覚を抜きにしては、うまく機能しないのである。これまで多くの問題を市場メカニズムの地からだけに頼って解決しようとした結果、却って深刻な弊害が引き起こされてきた。それも然りで、市場メカニズムは、先の見通しが立っていようがいまいが、また社会的責任を伴っていようがいまいが、お構えなしにいかようにも使われる道具なのである。実際、規範や優先事項への社会的コミットメントは、平等実現のたばかりだけでなく、市場メカニズム自体を効率的に機能させるためにも不可欠なのである。

そうした価値観の形成に大きな役割を果たすのが、公共的討論や議論である。この意味で、民主主義にまつわる公開性は、価値観形成ができていないことが、市場の有効な働きを阻害している価値観の乱れを是正させる。公共的議論の〔価値観を形成する〕力は、民主主義の枠の中だけで働くのではなく、議論の場を拡大することで、民主主義が機能する枠そのものを広げることもできるのである。

民主主義の必要を強調することは大事であるが、同時に民主主義的プロセスを確固たるものにする条件や環境を整えることも忘れてはならない。民主主義の価値とは、社会的機会の供給源としての価値(特にアジアにおいては〔開発には〕強力な防御手段が必要であることの認識)である。民主主義の可能性を理解するためにも、民主主義をうまく機能させるにはどうしたらよいかという考察も必要である。社会正義の達成は、(民主主義の規約を含む)制度形態ばかりでなく、有効な実践次第である。この問題こそ、今の我々が次世代に向けて取り組むべき大きな課題である。思い起こせば、1999年10月17日(日曜日)午後3時から、ケンブリッジ大学トリニティカレッジにおいてアマルティア・セン学長と日本労協連の理事長永戸祐三氏と副理事長菅野正純氏、そして私とでお会いしました。話し合いは「1時間」と言われましたが、1時間40分ほどまで議論してくださいました。その中でも私の"心に強く残った課題"は「高齢者と労働者協同組合」でありました。高齢者となった今、私は「単なる福祉の消費者」ではなく、「対話のパートナーシップ(協同・協力・仲間)」でもありますので、「生活の質の向上」を忘れないよう思考しています。

思い起こせば、1999年10月17日(日曜日)午後3時から、ケンブリッジ大学トリニティカレッジにおいてアマルティア・セン学長と日本労協連の理事長永戸祐三氏と副理事長菅野正純氏、そして私とでお会いしました。話し合いは「1時間」と言われましたが、1時間40分ほどまで議論してくださいました。その中でも私の"心に強く残った課題"は「高齢者と労働者協同組合」でありました。高齢者となった今、私は「単なる福祉の消費者」ではなく、「対話のパートナーシップ(協同・協力・仲間)」でもありますので、「生活の質の向上」を忘れないよう思考しています。

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