『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター』2005年5号(転載)
二木立
発行日2005年02月01日
( 出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、無断引用は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見等をいただければ幸いです)
1.拙小論「混合診療問題の政治決着を複眼的に評価する」
(「二木教授の医療時評(その7)」『文化連情報』2005年2月号(323号):26-28頁)
※ 「混合診療問題の政治決着の評価と医療機関への影響」を包括的に検討した拙論を『月刊/保険診療』2月号(2月10日発行)に掲載予定で、これはそれのサワリです。
昨年9月10日に小泉純一郎首相が、混合診療について「年内に解禁の方向で結論を出」すよう指示してから3カ月間、混合診療の「全面解禁」を求める規制改革・民間開放推進会議や経済財政諮問会議と、それに反対する厚生労働省や日本医師会をはじめとする医療団体との激しい攻防が続きました。その結果最終的には、昨年12月15日、尾辻秀久厚生労働大臣と村上誠一郎規制改革担当大臣が、現行の特定療養費制度を「保険導入検討医療(仮称)」と「患者選択同意医療(仮称)」という「新たな枠組みとして再構成する」ことに合意し、それを小泉首相が了承することで、政治決着が行われました。
私は、本時評(その2)(本誌昨年10月号)で、次のような予測を行いました。「私は、最終的には、政府内で、昨年[2003年]前半の一連の閣議決定通り、特定療養費制度の拡大で合意・妥協が成立すると予測しています。どの程度拡大するかは、今後の運動にかかっています」。今回の政治決着は大枠でこの予測通りと言えますが、私も特定療養費制度が廃止され、新制度に再構成されるとまでは考えていませんでした。それだけに、今回の政治決着を複眼的に評価する必要があると感じています。
評価すべき2点と功罪相半ばする1点
今回の政治決着でもっとも評価すべき点は、いうまでもなく、混合診療の「全面解禁」が、一昨年の一連の閣議決定に続いて、改めて否定されたことです。規制改革・民間開放推進会議は、昨年8月の「中間とりまとめ」で、「一定水準以上の医療機関において、新しい検査法、薬、利用法等を、十分な情報開示の原則の下で、利用者との契約に基づき、当該医療機関の判断により、『混合診療』として行うことを包括的に認める」ことを要求していました。しかし、これは否定され、現在の特定療養費制度を拡充して、新しい医療技術ごとに、個別に評価・承認した上で、個別の医療機関ごとの届け出制とすることとされました。特定療養費制度(管理された限定的混合診療)と異なり、混合診療「全面解禁」が公的保険給付の引き下げ(究極的には「最低水準」化)を目的としていることを考えると、「全面解禁」が否定された意義はいくら強調しても強調しすぎることはないと思います。
もう一つ評価すべきことは、現行特定療養費制度の問題点とされていた、新薬(国内未承認薬)や先進技術の保険適用または特定療養費化の遅さが改善され、特定療養費化と「将来的な保険導入のための評価」が迅速に行われることになったことです。これにより、現行制度の不備を指摘し、「部分的な混合医療[診療]を認めてほしい」としていたがん患者団体の切実な願いが実現しました。なお、規制改革・民間開放推進会議は、患者団体の要求を混合診療「全面解禁」の大義名分にしていましたが、政治決着の直前に、患者団体の代表者は相次いで「完全解禁は望みません。医療に貧富の差がついたり、安全でない薬が使われるのは違うと思うからです」(「癌と共に生きる会」事務局長加藤久美子氏)等と表明し、「全面解禁」に固執する規制改革・民間開放推進会議とは一線を画しました(「混合診療にだまされるな」『サンデー毎日』昨年12月19日号)。
他面、高度先進医療以外の「必ずしも高度ではない先進技術を含めて」、「医療技術ごとに医療機関に求められる一定水準の要件を設定し、該当する医療機関は、届出により実施可能な仕組みを新たに設ける」とした点は、功罪相半ばすると思います。プラス面は、従来よりも多数の先進技術が多数の医療機関(約100技術、約2000医療機関)で提供される結果、「保険導入の適否」の検討が迅速化される可能性があることです。マイナス面は、従来直接保険診療に組み込まれていたような「必ずしも高度ではない先進技術」までもが、いったん必ず「保険導入検討医療(仮称)」の対象にされるようになり、従来より保険導入が遅くなる危険があることです。
もっとも危険な点と今後の火種になる点
逆に、今回の政治決着でもっとも危険なことは、「制限回数を超える医療行為については、適切なルールの下に、保険診療との併用を認める」とされたことです。政治決着の関連文書(厚生労働省「いわゆる『混合診療』問題について」)では、それの具体例として「腫瘍マーカー検査や追加的リハビリテーション」があげられています。私は、2002年診療報酬改定でリハビリテーションの回数に1月当たりの上限が導入されたときに、次のように判断したことがあります。「今回のリハビリテーション回数の上限設定は、保険給付はこの上限以下に厳しく抑制する反面、上限を超えるリハビリテーションは全額自費で認めるという、リハビリテーション医療の公私二階建て医療(公私混合診療)化の布石と言える。もしそうなった場合には、リハビリテーション(医療)が目指している『全人間的復権』が、患者の支払い能力により制約を受けることになる」(拙著『医療改革と病院』勁草書房、2004、201頁)。不幸にして、この予言が部分的にせよ現実化してしまいました。
しかも、保険給付の制限とそれを超える部分の自由診療化の対象は、将来大幅に拡大され、かつての「制限診療」(財政的理由による保険給付範囲の制限。武見太郎会長に指導された日本医師会の強力な運動により、1962年に撤廃。有岡次郎『戦後医療の50年』日本醫事新報社、1997、217頁)が復活する危険も否定できません。この点では、今回の政治決着は混合診療「実質解禁」につながる危険を有しているとも言えます。ただし、今回の政治決着では、それに「適切なルールの下に」、および「医学的な根拠が明確なものについては、保険導入を検討する」という歯止めも加えられていますので、これにより一気に混合診療が拡大し、国民皆保険制度が空洞化することはないとも判断しています。
最後に、今後の火種となりうるのは、規制改革・民間開放推進会議が要求していた「国の基準を超える医師、看護師等の手厚い配置(基準を超える部分の人員サービス分)」の混合診療が「今後検討」とされたことです。この点について、厚生労働省が、上記文書で、「患者が保険外負担として多額の差額を求められていた付添看護の廃止前の状態に戻ることが危惧されることから、慎重な対応が必要」との正論を述べているのは評価できます。他面、規制改革・民間開放推進会議側からの圧力に加えて、私立医科大学協会が2003年2月に、中医協に対して、DPC方式の導入に対応して、「入院時特定療養費(仮称)を新設し、入院患者から毎日定額の料金を徴収できるようにする」要望書を提出したことを考慮すると、「今後高機能の急性期病院の経営困難の救済策として、承認される可能性は十分にある」と危惧しています(上掲『医療改革と病院』33頁)。
それだけに、日本医師会をはじめとした医療団体は、来年予定されている「医療保険制度全般にわたる改革法案」に、混合診療の実質解禁につながる条文が密輸入されないよう厳重に監視する必要があると思います。
2.西村周三氏と私との対談「医療制度改革の何が問題なのか」(『月刊/保険診療』1月号:3-13頁)のご案内
論点は、(1)日本の医療費抑制政策、(2)高齢者医療制度、(3)診療報酬の包括化、(4)混合診療の4つです。拙論には書いていないことも含めて、率直に語りあっていますので、お読みいただければ幸いです。
3.最近出版された医療経済・政策学関連図書(洋書)のうち一読に値すると思う4冊の紹介
○『[新規医療技術の公的]医療保険導入の決定-国際比較研究』("Health Care Coverage
Determinations -An International Comparative Study" Ed. Jost TS, Open University Press,
2005)
わが国で昨年9~12月に行われた混合診療解禁論争では、新規医療技術の保険導入のあり方が1つの焦点になりました。このことを国際比較的視点から考える上で、たいへん参考になる本が出版されました。
それが、新規技術の公的医療保険(保障)導入の制度、手続き、基準について、8カ国の詳細な「事例研究(case study)」を行った本書です。その8カ国とは、オーストラリア、カナダ、ドイツ、オランダ、スペイン、スイス、アメリカ(メディケア)、およびイギリスです。事例研究では、特にこの政策決定過程で利益集団(interest groups)や国民の関心が果たす役割を検討しています。さらに、4種類の新規技術の医療保険導入についての8カ国の違いとその理由を検討しています(PET、高圧酸素療法、慢性骨髄性白血病の新薬、インフルエンザの新薬)。その結果、各国とも新規技術の保険導入では根拠に基づいた科学的評価を重視しているが、保険導入には政治的考慮も関係し、特に利益集団が大きな影響力を有していることを確認しています。最後に、本書は、国民の利益を増す視点から、技術評価(technology assessment)を新規医療技術の保険導入の決定に際して「慎重に」用いることを提唱しています。編者のJost教授はアメリカの医療分野の法学研究者、他の執筆者は各国の医療経済学、医療政策学等の研究者です(以上は裏表紙のサワリ+α)。
本書は全11章(本文265頁)で構成されています。第1章では、まず、先進諸国は医療費の急増に直面しており、その主因の1つは、既存技術に比べて高額であることが多い新規医療技術の継続的な開発と普及にあるという認識が示された後、分析の方法論が公共選択理論(規制制度を市場と同様に扱う)を中心に示されています。第2~9章は8カ国の事例研究です。第10章では事例研究が総括されると共に、それから得られる教訓が8点あげられています(252-255頁)。この8点は、わが国における新規技術の保険導入や「混合診療」部分解禁について考える上で、特に参考になります。例えば、第1の教訓は、技術評価は当初医療費抑制のために用いられると恐れられていたが、ほとんどの国では、現在でも新規技術の保険導入に際しては費用よりも効果の方が重視されていること、特に重篤な疾患の救命技術は保険導入されやすいこと(「救命ルール」)です。また第6の教訓は、新規技術がいったん私的保険や研究機関に限定して導入されると、そのことが公的保険への導入に対する強い圧力となることです。最後の第11章(結論)では技術評価が新規医療技術の保険導入で果たしている役割が検討され、それの今後の改善点が示されています。
なお、私は、少なくともわが国では、医療費増加(正確には医療費水準=医療費の対GDP比の上昇)の主因が技術進歩であるとは言えないと判断しています(拙著『日本の医療費』医学書院,1995,第2章III技術進歩は1980年代に医療費水準を上昇させたか?)。
○『医療政策と経済学-機会と課題』("Health Policy and Economics - Oppotunities and Challenges" Ed. Smith PC, et al. Open University Press, 2005)
本書は、今やヨーロッパにおける医療経済学研究のメッカとなったヨーク大学医療経済学センター(1983年開設)の創立20周年記念カンファランスがベースになった本です。3人の編者はいずれもヨーク大学所属の医療経済学研究者です。医療経済学が医療政策にどのように寄与できるかを示すことを目的として、先進国の医療制度が共通に直面している一般的政策課題を検討しています。ただし、分析の焦点はイギリスの医療政策です。
全14章(本文279頁)で、マクロレベルからミクロレベルまでさまざまなテーマを扱っています。主なものは、費用効果的な治療の決定法、医療の公正な分配、組織と労働者の成果測定とインセンティブ、医療制度の分権化と国際化等です。最後に編者は、経済学的視点がすべての医療制度の効果、効率と公正を改善する上で中心的な役割を果たすと主張しています(以上は裏表紙と第1章のサワリ+α)。
本書は医療経済学の初級教科書でも、単なる研究論文集でもなく、「医療経済・政策学」の中級教科書です。市場志向の強いアメリカの医療経済学と違い、政策志向の強いイギリスの医療経済学はわが国の医療政策を検討する上でも参考になるため、難しいが挑戦しがいのあるある本と言えます。
○『医療経済・政策学(第3版)』("Health Economics and Policy Third Edition" by Henderson JW, South-Western Educational Publishing, 2005)
医療経済学の基礎理論と医療政策の経済分析を統合したユニークな教科書の最新版です。全5部18章(本文466頁)の大著ですが、アメリカの教科書としては平均的厚さです。第1~3部(保健・医療の経済学の適切性、需要側の考慮、供給側の考慮)は通常の医療経済学教科書と同じですが、第4部ではアメリカの医療費を増加させる特殊要因(confounding factors)、第5部では医療提供の公共政策が検討されており、文字通り「医療経済・政策学」と言えます。
アメリカの大半の医療経済学教科書が医療技術を正面から論じていないのと異なり、本書の第4部第13章医療における技術(Technology in Medicine)では、医療技術の包括的な経済分析が行われています。それは、医療技術の普及、臓器移植技術の事例研究、製薬産業の3本柱で、第1の柱では、「技術進歩の経済学」、「技術の諸レベル」、「技術の普及における保険の役割」が簡潔に説明されています。
本書のもう1つの魅力は、各章の最後に高名な医療経済学研究者の簡潔なプロフィルが付けられていることであり、これらだけでも一読に値します(アロー、ポーリー、フェルドスタイン、ラインハルト、シュワルツ、ベッカー、スローン、フュックス、ダンツオン、ニューハウス、イグルハート、ゴドマン、カリヤー、エントーベン)。
○『政策過程を理解する-福祉の政策・実施の分析』("Understanding the Policy Process -Analysing Welfare Policy and Practice" by Hudson J and Lowe S, John Hudson & Stuart Lowe, 2004)
主としてイギリスを対象にして、福祉国家の公共・社会政策の立案・実施過程分析(「政策分析」)の代表的理論と実際を包括的に扱ったユニークな中級教科書です。著者は2人ともヨーク大学社会政策・ソーシャルワーク学部所属の政治学者で、本書は同大学の学部・大学院での講義をベースにしてまとめられているそうです。
本書は全3部14章(本文254頁)で構成されています。第1部はマクロレベル分析、第2部はメゾレベル分析、第3部はミクロレベル分析です。ここでメゾレベル分析とは、政策過程のマクロレベル分析とミクロレベル分析とを橋渡しするもの(アメリカの社会学者のマートンが提唱した「中範囲の理論」に対応)であり、主として制度分析を行うとされています。
本書の第1章序論と各章冒頭の「概観(Overview)」とそれにより興味を持った章を拾い読みするだけでも、さまざまな知識と教養が身につきます。ただし、残念ながら、医療政策についてはまったく触れられていません。
4.ニューズレター1~4号の記載の訂正・補足
- 1号(1頁):Health Affairsの2004年増刊号(「[医療費]地域差の再検討」(Web-Exclusive Collection 2004)は「すべて同誌のホームページから無料で閲覧できます」と書きましたが、これは1年前の話で、現在は要旨しか閲覧できません。
- 1号(1頁):「医療の所有形態(営利・非営利)に対するアメリカ国民の期待・判断」への「二木コメント」の追加-この論文では、アメリカ国民は「非営利の病院や医療保険は、営利の病院や医療保険と比べて、より信頼でき、より公正で、より人間的だが、質は落ちると考えている」とされています。しかし、「最近の一連の大規模で精緻な研究や『メタ分析(諸研究の統合)』の大半は、営利病院を含めて、営利医療組織の医療の質が、非営利組織よりも低いとする結果を得てい」ます(拙著『医療改革と病院』勁草書房,2004,pp135-137)。
- 2号(2頁):「私的負担はどのように公的医療制度に影響を与えるか?」の「二木コメント」で紹介した権丈善一『再分配政策の政治経済学』の出版社「契合…」は「慶応」義塾大学出版会の誤りです。
- 2号(3頁):「ナーシングホームの規模の経済」中の、メディケアの急性期後ケアの「最適規模は約4000人年」は、「年間在院患者延数(patient days annully)の最適規模は約4000人」の誤りです。1日当たり平均在院患者数の最適規模は約7人となります。これはずいぶん小さい数字ですが、ナーシングホーム入院患者のうち、メディケアの急性期後(日本の「亜急性期」に近い)ケア受給者はわずか7.0%にすぎないため、このような結果になります(メディケイドの生活ケア受給者が38.4%、私費で急性期後ケアまたは生活ケアを受けている患者が54.7%)。
- 3号(2頁):4番目の○の「偽のまたは劣悪な製品」は、前頁の最後の○の「劣悪な粉ミルク」のことです。
5.私の好きな名言・警句の紹介(新設コーナー)
※私は1972年に社会人(病院勤務医)になって以来30年余り、その時々に心に響いた名言・警句をB5判カードにコピーまたは転記し、「名言ファイル」に保存しています。その情報源は、新聞記事、雑誌論文・記事、単行本、テレビ番組や諸会議での発言のメモ等、さまざまです。これらは、大学院教育(演習や講義での「イントロ」)にも用いています。本号から、主として最近知った名言・警句を紹介します。これらは私の好みで選び、そのほとんどが「医療経済・政策学関連」ではありませんので、悪しからず。
(1) 最近知った名言・名句
- 東谷暁(『日本経済新聞は信用できるか』著者)「<粘り強く根源的に書いていくことができる秘密は?>結局人柄が悪いからかもしれない。裏切られたり、裏切ったり、正しいと思っていたことが間違っていたり、押しつけられてイヤだったことが正しかったり…。そんな経験をしてきたからでしょうね。ほかの方々はみなさん人がよすぎますよ」(「中日新聞」2005年1月30日朝刊)。
- 藤巻幸夫(元伊勢丹のカリスマバイヤー。福助社長)「好きになれない人間とつきあう必要がある場合?どんな人間だっていいところは必ずあるはずなので、それを探す。それでも好きになれないなら一生会わない」(「朝日新聞」2005年1月29日朝刊)。
- アインシュタイン「真実を探求する権利には義務も含まれる。真実と認められたものはその一部たりとも隠してはならない」(「毎日新聞」2005年1月日朝刊)。二木コメントー『アインシュタインは語る』(林一訳,大月書店,1997,38頁)によると、正しくは、「真実の探求」ではなく「学問の自由」のようです。「私は学問の自由を、真理を探究し、真理だと自分がみなすものを発表し、教える権利と理解いたします。この権利にはある義務がともないます。真理だと自分が認識しているものを一部分でも隠してはなりません。学問の自由が少しでも制限されれば、知識が人々の間に普及することが妨げられ、それによって一国、一国民の判断と行動が邪魔されることは明白です」(緊急市民的自由委員会の会議に向けた声明。1954年3月13日)。ともあれ、私はこの言葉に啓示を受けて(?)、この「ニューズレター」の発行を思いつき、その日(1月4日)のうちに1号を作成しました。
- 古田敦也(日本プロ野球選手会会長)「30代のはじめに、おかしいことはおかしいと言わなきゃいけない、自分が正しいと思っていないことに反対もしないで、このまま生きていくこと自体、おかしな話しだと思ったんです。…ある程度の年齢になって、与えられた責任というか、僕が言わなきゃいけないよな、という気持ちは強くなりました」(「朝日」2004年12月18日朝刊)。
(2) 医療経済・政策学に少しは関連する有名な名言・警句の誤訳の訂正、出所の探索
- アルフレッド・マーシャルの正確な言葉は「冷静な思考力を持ち、しかし温かい心をも兼ね備えた(cool heads but warm hearts)」("Memorial of Alfred Marshall", Pigou AC (ed), MacMillan, 1925):一般には、「[経済学徒に必要なのは]冷静な思考力と温かい心(cool head and warm heart)」と訳されていますが、原文はand ではなくbutで、しかもhead、heartとも複数形です。昨年11月、YahooUSAでマーシャルの言葉の原文の検索をしていて、and表記 とbut表記の両方があることに気づき、権丈善一氏に慶應義塾大学図書館にある原著でbut表記であることを確認していただきました。権丈氏は、「普通に[経済学の]訓練をすれば、冷静な頭脳と温かい心情は平行して育たない」ため、マーシャルは意図してbutを使ったと解釈しており、私もそれに賛成です。なお、同氏によると、ケインズもandと誤って引用しているそうです(『人物評伝』)。
- ジョーン・ロビンソン「経済学を学ぶ目的は、いかに経済学者にだまされないようにするかを習得するためである」の初出:都留重人・伊東光晴訳『マルクス主義経済学の再検討』紀伊国屋書店,1959,37-38頁)。本書は、1955年2月のインド・デリー大学での講演「マルクス・マーシャル・ケインズ」に加筆したものです。
- マーク・トウェイン「嘘には3種類ある。何でもない嘘、しらじらしい嘘(damned lies)、それに統計だ」の初出:C・ナイダー編、勝浦吉雄訳『マーク・トウェイン自伝』筑摩書房,1984,199頁(原著1959)では、マーク・トウェインはこれをイギリスの政治家ディズレリーの言葉として引用していますが、これは誤りで、正しくは1985年のLeonard H Cortney卿の言葉だそうです(YahooUSAの複数のサイトで確認。例:http//www.phrases.org.uk/meanings/375700.html.2004.6.2)。
- 湯川秀樹「真理は常に少数派とともにあり」の初出:これは、高名な経済評論家の内橋克人氏が好んで引用される言葉です(「読売新聞」1998年11月14日朝刊、同氏著『もうひとつの日本は可能だ』光文社,2003,35頁等)。本年1月、私はこれの初出を知りたく思い湯川博士の主な著作を調べましたが分からなかったため、内橋克人氏に直接お伺いしたところ、電話で以下の回答を得ました「この言葉の出所はすぐには分からないが、湯川博士が日常的に語っていたと、博士の直弟子の武谷三男さんから何度も聞かされた。私は若い頃武谷さんの家にしょっちゅう出入りしていた。そのために、私の『幻想の「技術一流国」ニッポン』(プレジデント社,1982)を1984年に新潮文庫に収録したときに、武谷さんが解説を書いてくれて、そこにこの言葉と同趣旨のことも書いている」。
なお、湯川秀樹『天才の世界<愛蔵版>』(小学館,1982)のアインシュタインの章では、聞き手(市川亀久彌氏)が、湯川博士は天才の定義は歴史家のトインビーが『歴史の研究』の中で明確にしたクリエーティブ・マイノリティ(創造的少数派)が「一番いいのではないかというお考えでありました」と問いかけたのを肯定して、湯川博士が「天才というものは、だいたい最初は創造的少数者としてあらわれてくる。しかし、それが多くの場合、やがて少数派ではなくなる。それがふつうなのです」と発言しています(276,281頁)。ちなみに、トインビーは『歴史の研究』で、「文明の成長は創造的個人または創造的少数者によって成しとげられる事業である」と主張しています(『世界の名著61』中央公論社,1967,205頁)。