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私の研究の視点と方法・技法(転載)

-リハビリテーション医学研究から医療経済・政策学研究へ

二木立(日本福祉大学教授・大学院委員長)

発行日2006年03月01日

『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』第113号(2006年3月31日発行))

(出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見等をいただければ幸いです)

本「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/ )


目次


はじめに

私は1972年に大学医学部を卒業後13年間、東京都心の地域病院で脳卒中早期リハビリテーションの診療と臨床研究に従事した後、1985年に日本福祉大学(以下、本学と略す)に赴任しました。それ以降、21年間、医療経済学と医療政策研究(医療経済・政策学)の視点から、政策的意味合いが明確な実証研究と医療・介護政策の分析・批判・提言の「二本立」の研究・言論活動を行ってきました。しかもこの間継続的に学部教育と共に大学院教育を担当し、教育方法と内容の改善を行ってきました。

ここで、「医療経済・政策学」とは、「政策的意味合いが明確な医療経済学的研究と、経済分析に裏打ちされた医療政策研究との統合・融合をめざし」た造語・新語です(勁草書房『講座 医療経済・政策学』刊行の言葉。この講座は全6巻で、2005~2006年に刊行中)。

本稿では、このような研究と大学院教育のプロセスをふり返りながら、私の研究の視点と方法・技法について、具体的に述べます。読者が、これを通して、研究の意義と面白さ、および厳しさを理解し、自分なりの研究の視点と方法・技法を身につけるヒントを得ることを期待しています。ただし、紙数の制約のため、私の研究技法については詳しく述べられません。これについては、拙論「資料整理の技法と哲学」(『月刊/保険診療』2003年11月号~2004年3月号)を参考にしてください。

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1.私の職業歴と研究歴

まず、私の職業歴と研究歴について述べます。私が「自分史」に触れる理由は2つあります。

1つは、私が研究方法論を身につけたプロセスを具体的に語ることにより、若手研究者や大学院生がそれを身につけるためのイメージを持てるようにするためです。もう1つは、どんな社会科学研究も、それを行う個々の研究者の職業歴・研究歴と価値判断に大きく規定されるからです。

私は、少なくとも社会科学研究については、「価値自由」な(価値判断を完全に除いた)研究はありえないと思っています。この点について、アメリカの医療政策研究の泰斗ローマー教授は以下のように述べています。「医療制度のような社会現象の分析は常に研究者の視点に影響される。私は、得られる諸事実がすべてしかも誠実に示されている限り、その解釈が特定の社会的又は倫理的価値判断に基づいている場合にも、これを『偏っている』とみなすべきだとは考えない」(Roemer MI: "National Health System of the World Volume 1," Oxford University Press, 1990,p.ix)。

(1)東京都心の地域病院での臨床医時代の13年

私の自分史は、東京都心の地域病院(代々木病院)での臨床医時代(1972~1984年度の13年間)と日本福祉大学に赴任してからの21年(1985~2005年度)に2分できます。まず前者について述べます。

私は、1972年3月に東京医科歯科大学医学部を卒業した「団塊の世代」で、学生運動中心の学生生活を送りました。そのため、医学部在学中も、医学書より社会科学書や哲学書を読みふけり、読書ノートをつけていました。

当時は、医学部卒業直後の新卒医師の8割が大学病院に残っていました。しかし私はそこには残らず、大学卒業直後の1972年4月、患者の立場に立った医療改革を志して東京都渋谷区の公益法人財団代々木病院(現・医療法人財団東京勤労者医療会代々木病院)に就職しました。同病院で2年間内科研修を行った後、東大病院リハビリテーション部(上田敏先生)に1年間「国内留学」しました。翌1975年7月、代々木病院に戻ってリハビリテーション科(当初は理学診療科)を開設し、さらに1977年にリハビリテーション病棟開設に参加しました。

<脳卒中早期リハビリテーションの診療と臨床研究>

このようにして1975年度から10年間、上田先生の指導を受けながら、脳卒中早期リハビリテーションの診療と臨床研究に従事しました。1970年代には日本の脳卒中リハビリテーションは主として慢性期患者を対象とする温泉病院で行われ、都市部の病院で早期リハビリテーションを行っている病院はごく限られていました。しかもその経験をきちんとまとめて学会発表する医師はほとんどいなかったため、それを励行した私はいつのまにか「都市型リハビリテーションの旗手」(上田先生の評価。『総合リハ』17(2):130,1989)となりました。

私の臨床研究の出発点は事例研究(質的研究)でした。最初は日本リハビリテーション医学会の地方会(1975年)で、次いで全国大会(1977年)で研究発表しました(それぞれ、「奇異性歩行または歩行失行症の3例」、「発症後1年以上後に著名な回復をみた純粋失読症例」)。

その後、「第一線病院での日常診療の指針となるようなリハビリテーション医学研究」(量的研究)に取り組むようになりました(『リハビリテーション医学全書第14巻』月報,1980)。ただし、量的研究といっても、個々の症例を積み重ねた「顔の見える」研究で、その代表作は「脳卒中リハビリテーション患者の早期自立度予測」(『リハビリテーション医学』19:201-223,1982)です。この論文では、量的研究(統計的検討)と質的研究(例外的患者の事例調査)を組み合わせて、発症後早期からリハビリテーションを実施した個々の脳卒中患者の最終自立度(発症後6カ月時の歩行能力)を早期から予測する種々の基準を作成しました。手前味噌ですが、これは「二木の基準」として、現在でも一部の病院や雑誌で使用・引用されています。ちなみに、この論文は『リハビリテーション医学』史上最長の論文(全23頁)で、同誌の規定枚数を大幅に超過したため、20万円を超える掲載料を支払いました。

この間、東大病院リハビリテーション部の医局勉強会(リハビリテーション医学の専門雑誌・専門書の輪読会や学会発表の予行演習等。週1回夜3時間)にほぼ皆出席しました。また、1979年から6年連続、日本リハビリテーション医学会学術集会で研究発表し、国際学会でも3回研究発表しました。

私と上田先生との共著『脳卒中の早期リハビリテーション』(医学書院,1987)はその集大成であると同時に、リハビリテーション医学分野でのEBM(根拠に基づく医療)の先駆けとなりました。具体的には、脳卒中患者の早期自立度予測、脳卒中患者の障害の構造、脳卒中リハビリテーション病棟の運営、脳卒中医療・リハビリテーションのシステム化と費用効果分析等について、代々木病院での実証データに基づいて、包括的に論じました。

本書は、旧厚生省が「国民医療総合対策本部中間報告」(1987年6月)で脳卒中患者の「発症後早期のリハビリテーション」を初めて提起したとき、担当者の「バイブル」にされたと聞いています。

<病院の管理業務への参加>

病院勤務が長くなるに従って、診療に従事するだけでなく、徐々に管理者的な立場に移りました。具体的には、リハビリテーション科医長、研修委員長、病棟医療部長、救急医療部長、財団理事(最年少)になりました。

それに伴い、リハビリテーション病棟の運営だけでなく、病院全体の運営と経営の近代化にも参加しました。その最大の成果(功績)は、稲田龍一院長の下、病棟医療部長として、病院全体の平均在院日数の短縮に務め、1976年まで40日を超えていたものを1983年には21.8日へと、7年間で半減させたことだと思います(『医療経済学』医学書院,1985,第6章Ⅱ病院経営と医療管理,220頁)。このような管理業務をする上では、次に述べる医療問題・医療経済学の勉強と研究が大いに役立ちました。と同時に、この活動を通して、病院「経営改善を医療内容と切り離して考えるのではなく逆に医療内容の向上と結合した病院経営の改善を追究することの必要性を痛感」し、「医療経済学への関心が加速」されました(『医療経済学』あとがき,278頁)。

<医師1年目から医療問題研究家になるための勉強>

私は、上述したように学生運動を通して社会科学の面白さに目覚めていたため、代々木病院就職時から将来医療問題研究家になるための「2年間のプラン」を立てていました(1972年5月7日の日記カードより)。

そのために、研修医になったばかりの1972年4月から、医師国家試験の受験勉強のために1年間中断していた社会科学の勉強をすぐ再開・継続するとともに、主な本の読書ノート(B5判、1冊約50頁)書きを励行しました。これは、代々木病院勤務医時代の13年間継続し、合計31冊(約1500頁)に達しました。これと平行して、病院内で「唯物論研究会」を組織しましたが、これは2年で休止してしまいました。

実は、私は研修医1年目は、「個別的」な医療問題の研究よりも、「普遍的」な哲学・科学論の方に興味を持っており、2年間の研修終了後は勤務医を続けながら東京都立大学哲学科(夜間)に進学することも考えていました。そのためもあり、研修医1年目に一番精読した本は、岩崎允胤・宮原将兵『現代自然科学と唯物弁証法』(大月書店,1972)とヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)でした。

しかし、東京都立大学への進学準備も兼ねて参加したある民間の哲学研究会で、講師がテキスト(レーニン『唯物論と経験批判論』の日本語訳)の解釈に終始し、私の素朴な質問・疑問にまともに答えられないほど「頭が悪い」ことに驚き、以下のような「悟り」を開きました。哲学者で、新しい思想・理論を生み出せるのは天才だけであり、それ以外の哲学者は天才が生みだした理論の解釈をするだけだ。自分は秀才ではあるが、天才ではないので、新しい思想・理論を産み出すことはできない。それに対して、医療問題の研究は、天才でなくても、コツコツと努力すれば、何か新しい発見ができる。最後の1文は、次に述べる川上武先生の若手医師・研究者指導時の口癖でもありました(私の哲学者に対するこのような「偏見」は、日本福祉大学教員になってから、ますます強まりました)。

そのために、勤務医2年目の終わり頃には「臨床医の視角から医療問題の研究をする」という「基本姿勢」を確立しました(1974年3月18日の日記カードより)。

順序が逆になりましたが、私の社会科学の勉強・修行で決定的だったことは、研修医1年目から、医師・医事評論家の川上武先生が主催していた医学史研究会関東地方会(毎月例会を開催)に参加したことです。現在と異なり、当時は医療問題について系統的に著作を発表していた研究者は全国的に見ても川上先生だけでした。そのために、医学生運動の経験者はほとんど全員が、先生の著作(特に『日本の医者』勁草書房,1961)の読者であったと言っても過言ではありません。しかも私は、学生時代に2回、先生にお願いして講演をしていただいていました(1967年の東京医科歯科大学教養部自治会の講演会、1971年の全国医学生ゼミナールの講演)。

医学史研究会への参加が契機となり、若手研究者(の卵)の発掘・育成を重視されていた川上先生の御厚意で、研修医1年目に論文「医療基本法」を執筆させていただきました(『医療保障』日本評論社,1973年2月所収)。これは、私にとって最初の文章修行の場になりました。今でも忘れられないのは、先生から、「唯物論的に書け」(言葉を上滑りさせるな)と徹底的に叩き込まれたことです。当時の私には、学生運動の経験を通して身につけた「観念的に書く」(運動を盛り上げるために、意識的・無意識的に、大げさに書く)癖がしみついていたのですが、先生の指導でそれがだいぶ矯正されました。

これ以後、医学史研究会と川上先生との少人数勉強会(それぞれ月1回開催)に参加しながら、社会科学と医療問題の勉強を継続しました。元来の数学好きもあり、特に医療の経済的分析に興味を持つようになりました。私の経済学の勉強に弾みがついたのは、1974年に川上先生との少人数勉強会に、市川洋先生(筑波大学教授。故人)に講師として来ていただき、西川俊作『計量経済学のすすめ』(毎日新聞社,1970)をテキストとする系統的な講義(全8回)を受けてからでした。

<医師6年目で「臨床医脱出5か年計画」-2つの大学院で演習を聴講>

このような勉強を通して、医療の実態を反映した医療経済学の本格的な研究を志すようになり、1977年(8月31日)に「臨床医脱出5か年計画」を立てました。

当初は病院勤務医を辞めて経済学系の大学院に入学しようと考え、その準備も兼ねて、1978年度に会計学の権威だった明治大学商学部山口孝教授の大学院演習を、1979年度には医療経済学の第一人者だった一橋大学経済研究所江見康一教授の大学院演習(ただし、演習のテーマは財政学・公共経済学)を、それぞれ週1回聴講し、日本語・英語の専門書の読解と討論に参加しました。これは、私にとって会計学と財政学・公共経済学、広くは経済学のまたとない「義務教育」の場になりました。独習や経済学の非専門家どおしの少人数勉強会だけでは、どうしても勉強や理解の偏りが避けられないからです。

また、両教授や院生との日常的交流を通して、医療分野と社会科学分野の常識と発想の違いを知り、カルチャーショックを受けました。さらに自分の文献・英語読解力や論理的思考力は現役院生と比べても遜色なく、しかも問題意識ははるかに鮮明であることが分かり、将来、医療経済学研究者としてやっていける自信を持てました。これは私の独断ではなく、1980年にオランダのライデン市で開催された世界医療経済学会では、校務で参加できない江見先生に依頼されて、先生の報告の代読を行いました。

しかし、その後、私の場合は、勤務医を辞めて大学院に入学するのは、時間的にも経済的にも非効率と判断しました(当時は、現在と異なり、社会人のための働きながら学べる夜間大学院は存在しませんでした)。そこで、勤務医を続けながらリハビリテーション医学の研究業績を積み重ねて医学博士号(論文博士)を取得するのと平行して、医療経済学の勉強・研究も継続し、社会科学系大学の教員に転職する「戦術」に転換しました。

これは、上田先生の次のような助言によるものでした。「医者を辞めるためにこそ、医学博士号をとる必要がある。医学博士号は、医学部だけでなく、他学部の教員になる場合にも必ず役に立つ」。私は学生運動世代で、しかも卒業後大学医局に残らず、地域病院にすぐに就職したため、医師として生きる上で博士号の取得が必要だと考えたことはまったくなく、むしろそれに抵抗感すら持っていましたので、この助言は新鮮でした。

そこで1981年度から東大の研究生となり、上田先生と津山直一先生(整形外科学教室教授兼リハビリテーション部長)の指導を受けながら、正味2年で博士論文を書きあげました(1983年。「脳卒中患者の障害の構造の研究」『総合リハビリテーション』11巻6-8号)

<博士論文執筆の過程で推測統計学と英語を本格的に勉強>

この博士論文執筆の過程で、推測統計学と英語を本格的に勉強しました。

実は私は1972年に医学部を卒業後、社会科学・医療問題の勉強を始めた当初から、元来の数学好きのためもあり、社会統計学の本を何冊も読み、それを論文執筆に活かしていました。例えば、ある研究者から、「統計学の方法論を学ぶ上での必読文献」として推薦されたレーニン『ロシアにおける資本主義の発展』を読んで感銘を受け、自分なりに「レーニンの統計利用法」をまとめた上で、川上先生の指導を受けながら、その方法を私的医療機関の階層分化の分析に応用しました(「戦後医療機関の変遷」『医学史研究』No.43,1974)。

しかし、推測統計学はそれまできちんと勉強していませんでしたので、次の3つの方法で1981~83年の3年間に集中的に勉強しました。

(1)統計学の本を入門書から専門書まで系統的に読み、しかも社会科学書の場合と同じく、詳細な読書ノートをつけました(合計10冊)。

(2)代々木病院の脳卒中患者のデータを用いて、まずは電卓で簡単な統計処理を行い、次いで東大病院電算室で当時最新鋭の統計解析ソフトSPSS(「社会科学のための統計パッケージ」)を用いて高度な統計解析を行いました(これは、現在でも、この分野の定番ソフトです)。この解析を行う際には、東大病院電算室の開原成允先生と東京医科歯科大学の佐久間昭先生の個別指導も受け、統計処理(特に多変量解析)の意義と限界、落とし穴を学びました。その際、重回帰分析では、投入する「変数の組」を少し変えるだけで、結果がガラリと変わることを嫌というほど体感しました。この経験を通して、統計計算の結果よりも「医学的判断を優先する」視点が身につきました。

(3)統計学の本格的な講習会・勉強会に参加しました(日本科学技術連盟主催の「臨床試験(CT)における統計入門セミナー」、同「多変量解析セミナー」等)。

博士論文執筆を通して身につけた統計学の知識と統計処理能力は、その後、医療経済・政策学の実証研究をする上でも大変役立ちました。

博士論文の執筆と平行して、大学所属の研究者として不可欠な英文読解力を身につけるための勉強を強めました。医学や医療経済学の専門文献はそれ以前からそれなりに読んでいましたが、これ以降は、英語の推理小説(ペーパーバック)読みとNewsweek誌の定期購読を行うようになりました。これは、上田先生から、研究者に必要な英語力とは英会話ではなく読解力であり、そのためには語彙(vocabulary)を増やすことと速読の技術を身につける必要があると教えられたからです。速読の技法は松本道弘『速読の英語』(プレジデント社,1980.改訂新版,1997)で学び、それを上記Newsweek誌を読む際に適用しました。

さらに、「他流試合」として、1980年からほぼ毎年、国際学会等で英文での研究発表を行い、英語でのディベイト能力(正確にはそれの前提となる「度胸」)を身につけました。

私の医療経済学の最初の著作は、医師になって7年目に出版した川上・二木編著『日本医療の経済学』(大月書店,1978)です。日本福祉大学に赴任した直後に出版した初めての単著である『医療経済学』(医学書院,1985)は、臨床医時代の勉強・研究の「中間報告書」と言えます。

両著出版の中間の1980年に、二木・上田『世界のリハビリテーション-リハビリテーションと障害者福祉の国際比較』(医歯薬出版)を出版しました。これは、1978年に国際リハビリテーション医学会参加とヨーロッパ諸国の代表的なリハビリテーション施設見学のツアー(上田先生が団長)に参加した折りに、各国の統計書等を買い漁り、帰国後にそれの紹介を『総合リハビリテーション』誌に連載したものを一書にまとめたものです。これにより、私はしばらくの間「国際通(派)」との評価を受けるようになりました。

<「修業時代」の5つのキーワードまたは教訓>

以上のような私の13年間の「修業時代」から、研究者になるための5つのキーワードまたは教訓が得られます(ただし、これらがどこまで一般化できるかは、私自身も分かりません)。

第1は、「継続は力」です。特に強調したいのは、(1)専門に偏らない幅広い勉強(私の場合は医学と経済学を中心とした社会科学の勉強)と(2)英文読解力を身につけるための勉強、および(3)主な本については読了後に読書ノートをつけることです。

第2は、少人数勉強会または「寺子屋教育」を続けることです。知識だけでなく論理的思考・発言能力を身につけるためには、多人数で受ける一方的な講義・研修は限界があり、参加者どおしで率直に意見交換できる少人数勉強会が不可欠です。私にとって特に力がついた勉強会は以下の4つです。(1)東大病院リハビリテーション部医局勉強会(これは最初は上田先生、江藤文夫先生<前・東大リハビリテーション部教授>と私の3人だけでした)、(2)医学史研究会関東地方会例会とその二次会(参加者はほとんど10人前後)、(3)川上先生グループの少人数勉強会(主として川上先生と上林茂暢先生<柳原病院内科医。現・龍谷大学教授>の3人。日本語の社会科学書や医療経済学の英語文献中心)、(4)上田先生(リハビリテーション医学だけでなく社会科学・社会医学の造詣も深い)との2人だけの社会科学書中心の勉強会。私にとっては、これらが大学院での演習(ゼミ)の代替的役割を果たしました。これら(への参加)はいずれも、私が1985年に日本福祉大学教員になってからも、相当長期間継続しました(特に(3)は1974年~1995年の22年間継続)。

第3は、第2とも重なりますが、「良い指導者」につく必要です。独習のみでは、知識は増えても、研究方法論は身につかないからです。この点について、社会人出身の本学大学院生(末田邦子さん)は、「研究方法論が身につかなければ、知識は生かされず、時間の経過とともに知識は知識でなくなる」と述懐しています。

私は、幸いなことに、医学部卒業直後から、医療問題・社会科学の勉強と研究については川上武先生、リハビリテーション医学の勉強と研究については上田敏先生という、両分野の最高峰の先生から、継続的に個人指導を受けることができました。両先生からは、研究者としての心構えと問題意識の持ち方、実践的でしかも学問的にも意味がある研究テーマの探し方、論文執筆の作法を含めたさまざまな知的生産の技術を学びました。さらに上田先生からは、博士論文を含めて、ほとんどすべての医学論文に対して、原稿が真っ赤になるほど徹底した添削指導を受けました。

「良い指導者」の資質にはいろいろありますが、私は広い意味での研究方法論を身につけており、しかもそれを論文指導を通して教えられることが一番大事だと思っています。「教わる相手を選別する能力もないと、プロの世界では生きていけない」(「日本経済新聞」1996年2月3日夕刊「鐘」。野村克也選手評)。なお、船曳建夫『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣,2005)の第1章ゼミの風景からは、「よい先生」について多面的に考察しており、一読に値します。

第4は、「他流試合」の必要性です。これは日本学術会議会長の黒川清先生(医師)の口癖で、先生は若い医師に対して、出身大学以外の大学・病院で研修・修行することを奨励されています。私は医学部卒業直後に母校(東京医科歯科大学)の大学病院に残らずに地域病院(代々木病院)で初期研修をしただけでなく、リハビリテーション医学の研修も母校ではない東大病院で行ったため、他流試合の効用がよく分かります。私は、若手の研究者や大学院生の場合には、大学・職場外の勉強会や研修会への参加や学会発表等も「他流試合」になる、と考えています。これにより、所属組織外の「人脈」を形成することもできます。

第5は、「この世は業績」です。具体的には、自己の研究や仕事をまとめ、学会で積極的に発表し、すぐに論文化することです。学会発表は、まずは地方会で「腕試し」を行ってから、全国レベルの学会での発表に挑戦するのが安全です。私は、このような業績づくりは、大学に所属していない在野の研究者や研究者志向の専門職業人でこそ必要だと考えます。大学所属の医師・研究者と違い、在野の医師・研究者が社会や学会で一人前の研究者として認められるただ1つの道は、高水準の学会発表や研究論文を発表し続けることだからです。

ちなみに、ある大学院生のレポートによると、私の大学院演習・講義での口癖は、「この世は金だ」、「この世は信頼(関係)だ」、「この世は業績だ」、「この世は教養だ」の4つだそうです。ただし、最初の「この世は金だ」はホリエモン流の金儲けの奨めではなく、この世を動かしている最大の要因は経済・金だ、あるいは「恒産なくして恒心なし」(孟子)、という意味です。

(2)日本福祉大学での21年

大変幸いなことに、私が博士号を取得した翌1984年に本学社会福祉学部教員の公募があり、教授として採用され、1985年度から赴任しました。1977年に立てた「臨床医脱出5か年計画」よりは2年遅れましたが、概ね計画通りと言えます。

公募に応じた研究者の中では、私が研究の質量両面で他を圧倒していたと思います。しかし、まだ教員としては若手(当時37歳)で、しかも教育経験がごくわずかしかなかった私が、民間中規模病院の勤務医から、講師・助教授を飛び越えて「三段跳び」で教授に採用されたのはきわめて異例であり、間違いなく東大の博士号があったおかげです。当時に比べて、現在では博士号の希少価値はやや低下していますが、それでも博士号を取得していると、教員採用時に圧倒的に有利な事情は変わりません。

<「専門を問題にするな、勤務地にこだわるな」>

ただし、私の採用科目は、私が得意とは言えない「障害児の病理と保健(リハビリテーション医学を含む)」でした。当時学部長だった児島美都子先生は、学部教育改革の一環として、社会福祉教育の枠を拡大するために「リハビリテーション医学」科目の新設を構想されておられたのですが、当時はまだ合意が得られず、苦肉の策として、養護学校教員免許取得のための必須科目である「障害児の病理と保健」で公募しつつ、カッコ内に「リハビリテーション医学を含む」を挿入されたそうです。

しかも、東京人からみると、愛知県に行くのは「都落ち」のイメージがありました。さらに現在と異なり、当時、日本福祉大学は東京ではほとんど無名の大学で、私の友人医師の大半は東京にある日本社会事業大学と混同していました。

そのため、当初は公募に応じることに少し逡巡しましたが、川上・上田両先生から異口同音に「教職に就ける最初のチャンスを絶対に逃すな」と叱責されました。本学赴任後数年してベストセラーになった鷲田小弥太『大学教授になる方法』(青弓社,1991,89-94頁)には、大学教員になるためには、「『専門』を問題にするな」、「勤務地にこだわるな」と書かれており、両先生の判断の正しさを遅まきながら確認しました。

教職志向の若手研究者や大学院生が、勤務地はともかく自己の専門にこだわるのはある意味で当然とも言えます。しかし教職を志望している場合、自分の専門に完全に一致する採用科目での公募に過度にこだわると、教職に就くチャンスを自分で狭めることになるのも事実です。また、私に限らず、採用科目=教育担当と個人的研究領域・テーマがずれている教員は少なくありません。

日本福祉大学に赴任して驚いたことが2つあります。1つは、大学教員は「理性の人」ではなく、「生身の人間」あるいは「感情の人」であることです。教授会の議論を聞いていて、昔のことにいつまでもこだわって感情丸出しの発言を延々とする教員が少なくないことに驚きました(さすがに、最近はこのような教員は少なくなりました)。

もう1つ驚いたことは、大学教員の多くは研究業績(outcomes)が驚くほど少ないことです。本学が毎年公開している「専任教員研究業績調査票」によると、長年、量的には私が最多でした。教員の中には、「研究は量より質が大事」と豪語(弁解?)している方もいますが、本学に赴任してから21年間の私の経験では、毎年の研究業績が継続的に極端に少ない教員で、全国リーグで通用する研究を発表している方はほとんどいません。

<毎年1冊著書を出版すると決意し実行>

そのためもあり、私は、本学赴任直後に、毎年1冊著書(単著かそれに準じる本)を出版する決意をしました。その実績は以下のように21年間で17冊で、うち2冊は学会賞等を受賞しました。ただし、最近は加齢のためか、あるいは大学の管理業務に継続して就いているためか、2年に1冊のペースに落ちています。

これらの著書のうち、私のライフワークと言えるのは『保健・医療・福祉複合体』です。これは、個人研究ではありますが、全国の延べ1644の個人・施設・組織の協力を得た大規模研究です。しかも単なる量的研究ではなく、特徴のあるグループ名も示した「顔の見える」研究となっています。そして、私が初めて概念を確立し全国調査を行った「保健・医療・福祉複合体」(略称は複合体)は今や、医療・福祉関係者の間で「一般名詞」になっています。

<本・論文の執筆についての私の美学と信念>

ここで、本や論文の執筆についての私の美学と信念を4つ紹介します。ただし、これらは私の独断であり、普遍性はありません。

第1は、教科書・啓蒙書は書かないことです。私は、代々木病院勤務医時代から、何らかの新しい知見を書く研究論文には意欲が湧く反面、自分にとって分かり切ったことを書く啓蒙的論文を書くのは大の苦手で、依頼があってもほとんど断っていました。本学に赴任した直後も、その延長で、若いうちは研究に専念したいと思い、それを21年間実行してきました。ただし、最近は、教科書・啓蒙書を書く能力もない(意欲がどうしても湧かずに書けない)ことに気付いています。

この部分を読んで、私が研究偏重で教育を軽視していると誤解しないように願います。私は、大学院の講義(医療経済学特講等)でも、学部の講義やゼミでも、最新の情報・データ、論文を入れた「講義資料集」を作成し、しかもそれを毎年改定しています。学生・大学院生の授業評価の結果からも、この方法は強い支持を得ています。

第2は、原則として単著を書き、本の分担執筆や編集は極力断ることです。

第3は、論文を書くときも、常に後日、本(論文集)に収録することを念頭に置いて書くことです。逆に、本に収録できない啓蒙的論文やすでに書いたことの焼き直し論文は極力書かない(依頼があっても断る)ようにしています。この流儀は川上先生に教えていただいたのですが、本(論文集)を効率的に出版する上で非常に有効です。

第4は、社会科学の研究業績は、自然科学と異なり、論文ではなく、本(単著)で評価されることです。論文は、本(単著)を出版するための1ステップと言えます。そのためもあり、私は、「50歳以上で単著のない教員は研究者と言えない」と公言しています。ただし、最近は、文部科学省の科学研究費の審査や、各大学(特に国公立大学)の教員採用や教員昇格の審査では、社会科学分野でも、単著よりもむしろレフリー付きの論文が重視される傾向にあるのも事実です。

<「二本立」の研究-名は体を表す>

はじめにで述べたように、私は本学に赴任してから21年間、医療経済学の視点から、政策的な意味合いが明確な実証研究、および医療・介護政策の分析・批判・提言の「二本立」の研究・言論活動を継続してきました。

あわせて、2004年4月まで19年間、古巣の代々木病院で週1日診療(リハビリテーション専門外来と往診)を継続し、愛知と東京での、大学教員と非常勤医師との「二本立」生活をしてきました。当初代々木病院での診療は、後任のリハビリテーション科医の育成・指導のために数年間に限って行う予定でした。しかし、古くからの患者(「急患」ならざる「旧患」)の診療継続の強い要望があっただけでなく、私にとっても診療を続けることで医療の「現実感覚」(リアリティ)を保てるため、思いもかけず長期間継続することになりました。

ちなみに私の姓名には2つの特徴があります。1つは「二本立」に類似していること、もう1つは左右対称で裏表がないことです(縦書き時)。共に名は体を表すと言え、親に感謝しています。

ただし、1999年度以降は大学の管理業務(大学院社会福祉学研究科長→社会福祉学部長→大学院委員長)を継続しているためもあり、本格的な実証研究は残念ながら休止中です。しかし、医療・介護政策の分析・批判・提言は継続して行っています。

なお、私の美学の1つは、「忙しい」とは絶対に言わないこと、および職場で依頼された仕事は原則として断らないことです。阿部謹也氏(一橋大学元学長)が喝破しているように、「学者は忙しいと思った瞬間ダメになる」と思います(「朝日新聞」1999年12月17日夕刊)。

<アメリカ留学の効用>

私は、1992年8月~1993年8月の1年間、アメリカUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)公衆衛生学大学院に留学し、(新古典派)医療経済学の勉強と日米医療の比較研究に従事しました。

それを通して、「アメリカ(医療)という『窓』を通してみると、日本にいるときには気づかなかった、日本の医療と医療政策の特質がよく見えてきました。と同時に、わが国医療の良さを保持しつつ、医療の質を引き上げるためには、『世界一』厳しい医療費抑制政策の見直し・転換が不可欠なことを、実感しました」(『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』1994,あとがき。ただし、ですます調に変更)。

実は、アメリカ留学前の私は、実証研究に重点を置き、医療改革や「あるべき医療」についての発言はやや抑制していました。しかし、アメリカ留学後からは、公的医療費の総枠拡大を実現するための具体的改革提案を積極的に行うようになりました。

アメリカ留学では、日本とアメリカの医療制度はまったく異なるため、単純な日米医療の比較研究は意味がないことにも気付きました。さらにアメリカで主流の新古典派医療経済学(市場原理に基づく資源配分を絶対化)は、少なくとも日本の医療問題・政策の分析には、無力なことを発見しました。その理由は、医療サービス価格が公定価格である日本の医療制度を、医療でも市場原理(価格メカニズム)が働くことを前提とした新古典派理論(モデル)で分析するのは、原理的に無理があるです。

現実にも、私はアメリカ留学帰国後から現在に至るまで、新古典派理論(モデル)を用いた医療経済学研究で、日本の現実の医療問題の認識を深めたり、医療政策の分析に寄与した研究をみたことがありません。ただし、新古典派の研究者が、新古典派理論(モデル)に依拠せずに行った実証研究(医療サービス研究)の中には、わが国の医療問題の認識を深めた研究が少数存在します。

なお、「医療サービス研究」(health services research)とは、特定の理論モデルを前提とせずに行われる医療分野の実証研究の総称で、その多くがなんらかの経済的分析を含んでいます(『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』193頁。学会による公式の定義は、Lohr KN, et al: Health services research. Health Services Research 37(1):7-9,2002参照)。

アメリカ留学の効用はもう1つあります。それは、アメリカ留学を通して、もともとあった「左翼(左派・革新派)ナショナリスト」の傾向がより強まり、日本医療の改革は日本医療の歴史と現実から出発しなければならないと確信するようになったことです。私はアメリカに限らず、どこの国であれ、特定の国を礼賛する「出羽の守」は、現実の改革には無力だと考えています。

なお、一般には「ナショナリスト」=右翼・右派・保守派というイメージがありますので、私は敢えて「左翼ナショナリスト」と自称しています。最近までこれは私の造語だと思っていたのですが、The Economist誌(イギリスの総合週刊誌)を読んでいると、英語にも"leftist nationalist"という用語があるようです(例えば、2005年2月25日号の記事での、南米ベネズエラのチャベス大統領の形容)。

<読みやすい文章を書けるようになった3つの要因>

手前味噌ですが、私の論文・文章は明快で読みやすいと褒められることが少なくありません。ただし、私は高校時代までは、数学が大得意で国語は大嫌いな典型的な理系人間でした。そのため、医学部在学中に学生運動のビラを書くときも、なかなか良い文章が浮かんでこず四苦八苦していました。そんな私が、曲がりなりにも読みやすい文章を書けるようになった要因は、以下の3つだと思っています。

第1は、駆け出しの研修医の時代から、論理的に思考・執筆する2種類のトレーニングを積んだことです。1つは、自分なりに、知的生産の技術や論文の書き方の本を沢山読んだことです。もう1つは、上述したように、川上先生と上田先生から、論文の書き方を継続的に(添削)指導していただいたことです。特に上田先生からは、(1)基本用語の定義を明確にすること、(2)調査結果(事実)を分かりやすく正確に書くこと、(3)調査結果の解釈(考察)で飛躍を行わないことの3つを、いつも指導されました。

第2は、本学に赴任して以来21年間、学部学生・大学院生のレポート・論文の添削指導を徹底的に行ってきたことです。例えば、学部3年のゼミ生には、年7回レポートを課し、毎回個別に添削すると共に、できのよいレポートを公開添削しています。同4年生に対しては、卒論草稿を月1回のペースで7回提出させ、毎回個別添削しています。大学院生の修論指導も同様です。添削時には、文章表現の誤り(テニオハの乱れ等)のチェックに加えて、定義が曖昧な用語や論理の飛躍のチェックを行っています。

このような徹底した添削は、学生・院生からも「力がつく」と好評ですが、それにより、知らず知らずのうちに論文の書き方が血肉化するとともに、「言葉に対する感覚の鋭さ」が身につきました(尾形裕也氏による拙著『医療改革と病院』の書評。『社会福祉研究』No.91:122,2004)。代々木病院勤務医時代からの知り合いの雑誌編集者からは、本学に赴任してから私の文章が「クリアになった」とほめられたこともあります。まさに、情けは人のためならず(の原義)です。

第3は、論文を書くとき、「一切のタブーにとらわれず、事実と本音を書く」ことに徹していることです(この表現は、『90年代の医療』勁草書房,1990の「あとがき」で初めて用いました)。逆に、特定の個人や組織に遠慮して書くと、どうしても、アイマイな文章になってしまいます。ちなみに、そのような「悪文の標本」が、政府・省庁の各種審議会・委員会の意見書や答申だそうです。それらでは、「利害関係の調整を図りながら、意見を提出」するために、「文章は長いし、場合によってはどうにでも取れる玉虫色の表現をすることもある」からです(小山路男「文章のむずかしさ」『週刊社会保障』No.1019:27,1979)。

<19年間大学外の組織の委員になったことがなかった>

私が他の同世代の多くの医療経済・政策学の研究者と異なることは、本学に赴任してから2004年6月までの19年間、厚生労働省、日本医師会等、大学外のどんな組織の審議会・委員会の委員にもなったことがなかったことです(日本リハビリテーション医学会の評議員や社会保障等委員会委員は除く)。理由は単純で、依頼がないからです。ある病院団体幹部(故人)によると、「二木さんを厚生省の審議会の委員に推薦したが、担当者が『二木先生が入ると報告書がまとまらない』と言って拒否した」とのことです。

ちなみに佐和隆光氏は、審議会委員選任の内幕を次のように述べています(『経済学への道』岩波書店,2003,112~113頁)。各省は、政府の審議会の委員を選ぶときに、「『省益』にかなう発言をする学者」だけでなく、日ごろ、「省益に反する発言をしている学者」でも「言うことや書くことが粗雑な学者を選りすぐるのである。そして、論理的にか、データを用いてか、学者の反『省益』的言説を、完膚無きまでに官僚が反証してみせる。反省益派の代表を自認する学者は、こうして無条件降伏を余儀なくされる」。これによれば、私は、官僚から「言うことや書くことが粗雑」ではなく、「無条件降伏」もしないと評価されていることになり、上述した病院団体幹部から得た情報と一致します。

ただし、佐和氏のこの指摘がどこまで一般化できるかは分かりません。私の友人の研究者にも、この指摘に賛同する方と「極端にすぎる」と批判的な方の両方がいます。

他面、私は、厚生労働省を含めて、主要団体の幹部や中堅・若手職員とは、随時、非公式に意見・情報交換しています。2004年6月からは日本医師会病院委員会委員(任期2年)に就任しましたが、これは代々木病院勤務医時代を含め、初めての勤務先外の役職です。理由は、依頼があったためと、植松治雄新会長の社会保障拡充と医師会の自浄努力の方針に共感したためです。

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2.私の研究の心構え・スタンスと福祉関係者・若手研究者へ忠告

次に、「自分史」を踏まえて、私の医療経済・政策学の研究の心構え・スタンスと福祉関係者・若手研究者への忠告、および「研究者とあたま」についての私の独断を述べます。

(1)私の研究の3つの心構え・スタンス

私の医療経済・ 政策学の研究の心構え・スタンスは以下の3つです。

第1は、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究を行うことです。リアリズムだけでは現状追随主義に陥るが、リアリズムを欠いたヒューマニズムでは観念的理想論になってしまうからです。上田先生のお言葉を借りると、「現実主義的理想主義」です(『リハビリテーションを考える』青木書店,1983,44頁)。ただし、リアリズムとヒューマニズムとの間には緊張関係があり、両者のバランスをどうとるか、いつも腐心しています。

第2は、事実とその解釈、「客観的」将来予測と自己の価値判断(あるべき論)を峻別するとともに、それぞれの根拠を示して「反証可能性」を保つことです。ここで「客観的」将来予測とは、私の価値判断は棚上げして、現在の諸条件が継続すると仮定した場合、今後生じる可能性・確率がもっとも高いと私が判断していることです。事実とその解釈の峻別の「ルーツ」は、リハビリテーション医時代の臨床研究(実証研究)で、上田先生から調査結果と考察を峻別することを叩き込まれたことです。

「客観的」将来予測と自己の価値判断の峻別は、『複眼でみる90年代の医療』(勁草書房,1991)から励行しています。実はその前年に発表した『90年代の医療』(勁草書房,1990)で90年代の医療の包括的予測を行ったときは「客観的」将来予測に徹し、それに対する自己の価値判断を書くことは意識的に禁欲しました。ところが、これでは私がその将来予測を支持していると誤解する読者が少なくないことに気付きました。そこで『複眼でみる90年代の医療』以降は、このような誤解を予防するためにも、「客観的」将来予測と自己の価値判断(あるべき論)を対比させながら書くようになりました。

さらに『21世紀初頭の医療と介護』(2001)からは、事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断に3区分するようにしています。厳密に言えば、この3区分は、事実と事実の解釈を区別していないという不備があります。しかし、私が事実の解釈を厳密に行い、それに自己の価値判断を混入させないことは広く認められていますので、そのような批判を受けたことはありません。また、客観的事実は存在しないという社会構築派からの不毛な批判を予防するためにも、あえて事実認識という用語を用い、「客観的」将来予測の客観的にカッコを付けています。

手前味噌ですが、この3区分を励行すると、医療政策の分析と叙述が非常にスッキリするとともに、他の研究者やジャーナリスト等との建設的対話も促進されます。例えば、価値判断(あるべき医療についての考え)が対立する方とも、事実認識や「客観的」将来予測については共通の土俵に立てます。ただし、自然科学と異なり、社会科学では、これらの区別は相対的・概念的です。

なお、事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断の3区分は、医療政策についての時論(時評、評論)を書く場合のものです。それに対して、実証研究論文を書くときは、調査結果(事実)とその解釈(考察)を主とし、「客観的」将来予測や私の価値判断はまったく書かないか、チラリと書くにとどめています。逆に、実証研究論文の「考察」の部分で、得られたデータから言える範囲を超えて、自己の価値判断を延々と述べると、論文全体の信頼性が低下してしまいます。

第3フェアプレイ精神です。具体的には、次の3つを励行しています。(1)実証研究論文だけでなく時論でも、出所・根拠となる文献と情報はすべて明示する。(2)政府・省庁の公式文書や自分と立場の異なる研究者の主張も全否定せず、複眼的に評価する(ましてや、黙殺はもっての他)。(3)自己の以前の著作や論文に書いた事実認識や判断、将来予測に誤りがあることが判明した場合には、それを潔く認めるとともに、大きな誤りの時にはその理由も示す。なお、この第3の心構え・スタンスは私にとっては当たり前すぎて今まで自覚していなかったのですが、本学大学院生の山本美智予さんから指摘されて、私の特徴の1つだと気付きました。

(2)福祉関係者・若手研究者への忠告と「研究者とあたま」についての独断

次に、研究のスタンスについての福祉関係者・若手研究者への2つの忠告を述べます。

<リアリズムを欠いたヒューマニズムは研究の敵-学問の本質は分析>

第1の忠告は、福祉関係者・研究者に多い「リアリズムを欠いたヒューマニズム」は研究の敵だということです。私は、特に、研究業績も社会的影響力もない若手研究者や大学院生は実証研究(事実の分析)に徹して、自己の価値判断の表明はできるだけ控えるべきだと思っています。私はこれを「論より実証」と称しています。

ましてや、彼らの政策提言や将来予測は無意味・無力です。実は、これは、学問の本質論に関わることです。田中滋氏(慶應義塾大学教授)が明快に述べているように、「学問の本質は『提言』ではなくて『分析』がメインになります。それが学者が他の人より強いところであって、[政策]提言は社会科学者の主目的ではない」のです(水野肇・川原邦彦監修『医療経済の座標軸』厚生科学研究所,2003,192頁)。なお、田中氏のこの発言は、濃沼信夫氏(東北大学教授)の「利害を抜きにした『学』による政策提言」という主張への反論として行ったものです。

若手研究者や大学院生が自己の価値判断の表明を控えるべきことには、世俗的理由もあります。それは、特定の価値判断・イデオロギーを前面に出すと、それに反対する(大物)研究者の感情的反発を招くことです。それにより、大学教員の採用審査時に不利な扱いを受けることすらあります。ただし、これはあくまで研究論文に関してであり、彼らが一市民として自己の思想信条や信念に基づいて、社会活動や社会的発言を行うのは自由です。

私は、研究業績・社会的影響力のある研究者が、自己の専門の立場・視点から、積極的に政策批判や政策提言を行うことは社会的にも大きな意味があると考え、私自身もそれを励行しています。しかし、上述したように、その場合もそれと事実認識を峻別する必要があります。

それに対して、社会福祉学の論文や本には、理念先行で、事実認識と価値判断が渾然一体化したもの、あるいは自己の価値判断・主観的願望があたかも事実や「客観的」将来予測であるかのように述べているものが少なくありません。しかし、事実認識と価値判断を峻別し、しかも基本的用語・概念の定義を明確にしない限り、価値観が違う人間・研究者が建設的な対話・論争を行うことは不可能です。

<研究を現場・実践と直結させない>

研究のスタンスについての第2の忠告は、研究と現場・実践を直結させないことです。

私の経験では、他の社会科学(経済学、社会学等)と異なる社会福祉学研究の大きな特徴は、現場や実践が非常に強調されることです。社会福祉研究の評価基準として、「現場の社会福祉実践に役立つ(寄与する)」ことがあげられることも少なくありません。私自身も、少なくとも社会科学では、「研究のための研究」ではなく、現実となんらかの形で接点を持った研究が望ましいと思っていますし、はじめにで述べたように、私の実証研究も「政策的意味合いが明確な」ことをモットーにしています。

と同時に、私は、理論研究にせよ実証研究にせよ、研究の王道は「現実の認識を深める(できれば認識枠組みを変える)ことに寄与する研究」(上述の田中滋先生流に言えば、「分析」)であり、「実践に直接寄与する研究」ではないとも思っています。原理的に言えば両者は対立するものではありませんが、現実には両者をともに満たす研究はきわめて例外的です。

そのために、無理に研究と現場・実践を直結させようとすると、「結論先にありき」の歪んだ研究になる危険があります。そして、「現場出身」の社会人院生には、自己の現場経験・実践やそこから得た課題意識を絶対化して、それを確認・証明するために論文を書こうとする方が少なくないため、私はいつもそれらを相対化する(対象化する)ように指導しています。

突き詰めると、私は、研究者は、実践・運動から一歩引かないとマトモな研究はできないとすら考えています。「現場」出身の教員の中には、実践・現場を神聖視している方が少なくありませんが、医療や福祉の現場には矛盾が満ちあふれており、とても美化できません。しかも矛盾の多くは、現在の政策を前提にする限り、どんな「実践に直結する研究」を行ってもすぐには解決できません。さらに、たとえ利用者の立場に立った医療・福祉団体でも、経営・組織を維持するために、既得権を維持したり、政策的対応をすることが不可欠ですが、それを正直に語る団体やリーダーは極めて稀であり、建前的主張が横行しています。それだけに、私は研究者が「一切のタブーにとらわれず、事実と"本音"を語る」必要があると思っています。

<「同時期に研究者と政治スタッフの兼業を試みるな」>

研究(者)と現場・実践を直結させる危険については、医療経済学者のフュックス教授が、「医療経済学研究者への助言」として、「同時期に研究者と政治スタッフの兼業を試みるな」と、次のように述べていることが参考になります。「政治スタッフ(player)とは、党派的、政治的過程に積極的に参加している人を指す。研究者は、何事も恐れることなく、好き嫌いも抜きにして、物事の理解を深めようと努めている人である。両方の役割とも社会的に重要であるし、同一人物が時期を違えて両方の役割を果たすこともできる。しかし、同時期に有能な政治スタッフと一流の研究者を兼務することは不可能である。政治スタッフ、研究者として成功するための共通の要素も少しはあるが、2つの役割を果たすために必要な能力と美徳は異なっている」(拙訳「医療経済学の将来」『医療経済研究』8号,2000,101頁)。

実は私自身も、今から約10年前(1995~1996年)、介護保険論争に批判的立場から積極的に参加していたときに、「同時期に研究者と政治スタッフの兼業」に近いことを行って、大失敗をしかかったことがあります。当時、私は、厚生省や老人保健福祉審議会の公式文書が発表されるたびに、間髪を入れずに批判論文を執筆・発表していたのですが、ある時、原稿を入稿した直後に、厚生省の発表データを読み違えて自分の立論を組み立てていることに気づき、校正時にあわてて訂正して、ことなきを得たのです。しかもこれは単なるケアレスミスではなく、厚生省を批判しようとするあまり、無意識のうちに、自分に都合のよいように数字を誤読していたためでした。

この失敗以来、私は、政策批判論文を書くときには、今まで以上に、熱くならないように自戒し、しかも自己の事実認識と価値判断の区別を徹底するようになりました。「敵を憎むな判断が狂う」(映画「ゴッドファーザー・パート3」1991年公開)。

(3)「研究者とあたま」についての独断と2つの留保条件

この項の最後に、研究領域と研究者の頭との関係についての私の独断を述べます。私は、長年の経験を通じて、理論研究は「頭の良い」研究者でないと研究業績はあげにくいが、実証研究は「頭の悪い」研究者でもコツコツと続ければある程度の業績は出せる、歴史研究はその中間だと考えています。なぜなら、先に述べた哲学の場合と同じく、理論研究ではよほど「頭のよい」研究者でない限り、先人や指導教員の研究の解釈・追従(epigonen)にとどまる危険が強いからです。実は私は、以前は、理論研究と歴史研究を同次元でとらえていましたが、現在は、歴史研究はそれほど頭がよくなくても、10年単位でコツコツと努力を続ければ、ある程度はものになると思うようになりました。ここで、「頭が良い」とは、(受験・基礎)学力が高いだけでなく、思考力・構想力があり、しかもセンスが良いことを意味します。

ただし、この独断には2つの留保条件があります。1つは、頭が「良い」、「悪い」は天性のものだけでなく、もともと頭の良い人でも使わなければ悪くなるし、それほど頭が良くなくても使い続ければそれなりに良くなることです。この点でも、「継続は力」です。寺田寅彦は、「科学者とあたま」と題する名随筆で、頭の良い人は、先の見通しがきくだけに努力を怠り、「批評家」で終わってしまうことが多いと警告しています(『寺田寅彦随筆集第4巻』岩波文庫,1948,202-207頁)。なお、この随筆で寺田寅彦は、「頭が良い人」と「悪い人」の利点と欠点を多面的に比較検討した上で、科学者(研究者)は「頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならない」と結論づけており、これは至言と思います。

もう1つの留保条件は、この独断はあくまで「研究」についてのものであり、理論と歴史の「勉強」は実証研究を行う上でも不可欠なことです。私自身、医学生時代から現在に至るまで、教養を身につけるため、あるいは趣味として、社会科学の理論と歴史の勉強を継続しています。逆に、理論と歴史の教養・素養・センスのない研究者が書いた実証研究論文は、論文の形式は整っているが、問題(問い)の設定が陳腐またはピント外れであり、しかも調査結果の解釈が平板で無味乾燥になりがちです。これを英語で言えばSo what?、フランス語で言えばEt alors?です(渡辺淳一『エ・アロール』角川書店,2003)。

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3.私の研究領域と研究方法の特徴

3番目に、私の医療経済・政策学の研究領域と研究方法の特徴について述べます。

(1)研究領域の限定-医師出身である「比較優位」を生かす

はじめにでも述べたように、私は、政策的意味合いが明確な実証研究と医療・介護政策の分析・批判・提言の「二本立」の研究・言論活動を行ってきましたが、いずれの場合も、医師出身である「比較優位」を生かすために、研究領域を意識的に限定しています。具体的には、医療保障制度(改革)の研究よりも、医療提供制度(改革)の研究を重視しています。ちなみに、上述した医療経済学者のフュックス教授が行った医療経済学研究者への5つの助言のトップは「あなたのルーツを忘れるな」です。

これと相通じるものに、ヘーゲルの次の名言があります。「何か偉大なことをしようとする者は、ゲーテが言っているように、自己を限定することを知らなければならない。これに反して、何でもなしたがる者は、実は何も欲しないのであり、また何もなしとげない」(松村一人訳『小論理学』岩波文庫、上242頁)。私は、研修医1年目に『小論理学』を読んだとき以来、これを座右銘の1つにしており、『複眼でみる90年代の医療』(勁草書房,1991)のあとがきでも引用したことがあります。

(2)日本医療についての神話・通説の実証研究に基づく批判

私の医療経済・政策学の実証研究には、他の研究者にはあまり見られない特徴があります。それは、日本医療についてのさまざまな神話・通説をデータ・根拠に基づき批判し、一般には知られていない真実の姿を明らかにすることです。それには、以下の2つの手法があります。

<官庁統計の独自の分析>

1つは、官庁(例えば厚生労働省保険局や老健局)が発表する数字を鵜呑みにせず、官庁統計(例えば厚生労働省統計情報部が発表する一次資料)を独自に分析して、日本の医療(主として医療費)についての神話・通説の誤りを示すことです。

例えば、『現代日本医療の実証分析』(医学書院,1990)の第2章Ⅰ(1980年代の国民医療費増加要因の再検討)では、厚生省「国民医療費」等を用いて、1980年代の人口高齢化の医療費増加寄与率は2割にとどまり、医療費増加の主因ではないことをわが国で初めて実証しました。ただし、OECDの報告書("Aging Population"1988)等により、1980年代後半から、「人口の高齢化そのものが、国民医療費増加の主因ではないということは、国際的な常識になって」おり(33頁)、私の研究は、それを日本のデータを用いて再確認したにすぎません。さらに、『日本の医療費』(医学書院,1995)の第1章Ⅰ(人口高齢化は医療費増加の主因か?)では、厚生省「国民医療費」と厚生省人口問題研究所「日本の将来推計人口」を用いて、2025年まで30年間の人口高齢化による年平均医療費増加率を推計し、当時の通説とは逆に、それは2000年以降低下することを示しました。

同じく、『日本の医療費』の第1章Ⅱ(老人の「社会的入院」医療費の推計)では、厚生省「患者調査」と同「社会医療診療行為別調査」を用いて老人の「社会的入院」(6カ月以上入院)医療費の推計を行い、それは1991~1993年で毎年9000億円台であり、厚生省サイドの2兆円との発表は過大であることを示しました。さらに、同書の第2章Ⅲ(技術進歩は1980年代に医療費水準を上昇させたか?)では、「社会医療診療行為別調査」等を用いて、通説とは逆に、「医療技術」(投薬・注射、画像診断・検査、処置・手術等)の総医療費(正確には、医科医療費)に対する割合は1970年代以降一貫して低下し続けていることを明らかにしました。

ごく最近の例では、昨年の介護保険法「改正」の目玉とされた新予防給付(介護予防サービス)の長期間の健康増進効果と介護費用抑制効果はまだ証明されていないことを、厚生労働省自身が効果の根拠として公表した学術文献集の検討に基づいて示しました(第47回日本老年医学会学術集会シンポジウム。「新予防給付の科学的な効果は証明されているか?」「同(その2)」『文化連情報』2005年7,8月号)。これは、官庁統計の独自な分析ではありませんが、官庁発表の独自な分析と言えます。

私は、かつて複数の厚生省関係者から、異口同音に次のように言われたことがあります。「厚生省統計情報部の発表するデータは[調査のプロが作成し、しかも担当者の恣意で歪められることがないので]100%信用できます。しかし、本省[各局]が発表するデータは、[政策担当者により]すべて特定の政策意図に基づいて加工されていますから、信用しないでください」(『公的介護保険に異議あり』ミネルヴァ書房,1996,126頁。[ ]は今回補足)。これらの研究・経験を通して、彼らの指摘が正しいことを実感しました。

<独自の全国調査-私の「3大実証研究」>

日本の医療についての神話・通説の誤りを示す実証研究のもう1つの手法は、官庁統計の空白(盲点)を埋める独自の全国調査を実施することです。手前味噌ですが、私の「3大実証研究」は以下の通りです。

第1は、病院チェーンの全国調査です(『現代日本医療の実証分析』医学書院,1990,第3章)。この研究では、日本医療法人協会の15年間(1969~1984年)の「会員名簿(正確には、全医療法人名簿)」等を用いて日本の病院チェーンを1つ1つ拾い出し、日本の病院は小規模・単独との通説を否定し、医療法人の病院病床の2割以上が病院チェーンであることを初めて明らかにしました。その後、他の病院名簿も用いて、この調査を拡張し、1988年時点で、私的病院全体では病院チェーンの病床チェアは3割に達していることを明らかにしました(『90年代の医療と診療報酬』1992,Ⅲー8)。

第2は、老人病院等の保険外負担の全国調査です(『90年代の医療と診療報酬』勁草書房,1992,Ⅲー7)。この研究では、全国の医療ソーシャルワーカー等の協力を得て、個々の老人病院の保険外負担(お世話料等)を調査した上で、その結果を積み上げ、現実の保険外負担の全国平均値は1991年度で6.6万円に達し、厚生省調査の2.3万円の3倍であることを明らかにしました。この調査結果は「朝日新聞」の社説(1992年6月30日)で取りあげられ、国会でも複数の野党議員がこれを用いて政府・厚生労働省を追及しました。

第3は、保健・医療・福祉複合体の全国調査(1996~1998)です(『保健・医療・福祉複合体』医学書院,1998)。上述したように、これは、全国の延べ1644の個人・施設・組織の協力を得た大規模研究で、医療機関の保健・医療・福祉複合体化(保健・福祉分野への進出)の全体像を初めて明らかにしました。例えば、特別養護老人ホームの3割は私的医療機関母体であること、病院・老人保健施設・特別養護老人ホームの「3点セット」を開設している私的保健・医療・福祉複合体が全国に約260グループもあること(1998年)等です。

この研究は、結果的には、厚生労働省の政策形成・政策転換にも寄与したと言えます。具体的には、厚生労働省は、介護保険制度開始時には独立した医療・福祉施設間のネットワーク形成を予定していたのですが、『保健・医療・福祉複合体』出版後、複合体の育成に方針転換しました(『21世紀初頭の医療と介護』勁草書房,2001,145-147頁)。

手前味噌ですが、これらの3研究は日本の医療(政策)についての「認識枠組み」を変えた歴史に残る実証研究であり、先述したように『現代日本医療の実証分析』は吉村賞を、『保健・医療・福祉複合体』は社会政策学会奨励賞を受賞しました。『日本の医療費』も社会学会奨励賞に内定したのですが、「(学会)会員歴の不足によって選考対象からはずされ」ました(「社会政策学会Newsletter」8号,1996)。

<独自の全国調査が成功した3つの理由>

私は、これらの独自の全国調査が成功した理由は3つあると思っています。

第1は、研究課題の設定が適切だったことです。突き詰めると、研究で一番大切なのは問の設定であり、しかもそれを生むのは経験と学識に裏打ちされた直感・ヒラメキと言えます。

ここで、私の好きな2つの名言を紹介します。「正しい質問には正しい答えが含まれている。迷うのは、問の立て方が間違っているからだ」(映画「AIKI」2003年公開。合気柔術の師範・平石の主人公への助言)。「答えが与えられる前に問が発せられなければならない。問はいやしくもわれわれの関心の表現であり、それらは根底において価値判断である」(ミュルダール『経済学説と政治的要素』。権丈善一『再分配政策の政治経済学』慶応義塾大学出版会,2001,141頁より重引)。

なお、自然科学・医学研究と異なり、社会科学研究では、研究課題の設定だけでなく、文献の収集や引用や論文の叙述に関しても、経験・記憶の集積が決定的に重要です。そして、この「経験」には、学問上の経験だけでなく、豊かな人生経験・教養も含みます。この点では、著名な経済学者である伊東光晴氏の、経済学者の資質についての次の指摘は、社会科学研究者一般に当てはまると思います。「経済学者というのはコモンセンスがなければだめです。異常な、極端な性格の人間は芸術家としては成功するけれど、社会科学者としてはだめです。」(『世界』2002年5月号,138頁)。この点に関しては、年をとるのも悪いことではありませんし、逆に若いうちから焦る必要もありません。

第2は、基本的用語・概念の定義を明確にして調査を行ったことです(病院チェーン、老人病院の保険外負担、保健・医療・福祉複合体)。これの重要性はいくら強調してもしすぎることはありません。極論すれば、私は基本的用語・概念がアイマイ・多義的な実証研究は「ゴミ」だと考えています。しかも、谷岡一郎氏が指摘しているように、「『社会調査』はゴミがいっぱい」であり、それの最大の生産者が研究者と大学院生なのです(『「社会調査」のウソ』文春新書,2000,24頁)。

私の経験では、社会福祉学の論文では、用語の定義をきちんと行わずに(説明せずに)、本人や同じグループ以外の読者には意味不明な用語・概念、時には本人さえ良く理解していないビッグワードを多用する「言葉が踊っている」論文が特に多いと思います。経済学や社会学等他の社会科学分野と異なり、社会福祉学では、理念の重要性が(過度に)強調されるため、美しいが実態のない言葉や文章が許容される「甘えの構造」があるのではないでしょうか。

さらに私が最近気になっているのは、社会福祉学分野の若手研究者の一部が、欧米で流行している概念に飛びついて、それの歴史や論争、意義と限界をきちんと勉強することなく、安易に実証研究につなげようとすることです。それらは、「犬の実験を猫で繰り返すにすぎない」(ある先輩研究者から30年前に聞いた表現)だけでなく、結論が最初から決まっている研究になりがちです。私は、「自前の概念装置」(内田義彦『読書と社会科学』岩波新書,1985)を作り上げる努力をせずに、既成の概念を実証研究の単なるツールとみなす考え方には大いに疑問をもっています。

しかし、このやり方だと研究の見かけの生産性(業績)が上がるのも事実です。私の友人の権丈善一氏(慶應義塾大学教授。制度派医療経済学)も、計量経済学分野では、若手でも論文を量産でき見かけの業績が増えるので困るとこぼしていました。私は今までは、新古典派経済学の若手研究者は歴史を知らないと思っていましたが、歴史(歴史そのものと研究史の両方)を知らないのは、どの分野の若手研究者にも共通しているようです。

第3は、私独自の人的ネットワークを駆使したことです。特に、老人病院等の保険外負担の全国調査では、児島美都子本学名誉教授の教え子の医療ソーシャルワーカーからの情報が決定的でした。しかも、保健・医療・福祉複合体研究を通して、人的ネットワークはさらに広まり、深まりました。この経験を通して、上述したように、私の大学院教育での口癖の1つが「この世は信頼(関係)だ」になりました。

ただし、官庁統計を用いた研究に比べて、非公式な調査・情報による研究は、データ・結果の信頼性に疑問を持たれる危険があります。そのために、調査の方法・プロセスは可能な限り詳細に記述し、結果の考察時も調査結果の信頼性と限界を具体的に述べる必要があります。

(3)医療政策研究のための3種類の研究と調査

次に、私の研究のもう1つの柱である医療・介護政策の分析・批判・提言(以下、医療政策研究)の手法について、簡単に述べます。一般に政策研究というと、政府・省庁の公式文書等の分析が中心と理解されがちですが、私は、分析枠組みを拡げて、以下のような3種類の研究や調査に基づいて、医療政策研究をしています。

第1は、日本医療の構造的変化の徹底的な実証分析です。この分野での私の代表的な調査研究は、上述した病院チェーンの全国調査と保健・医療・福祉複合体の全国調査です。

第2の調査は、自己の臨床経験に即して判断すると共に、それを補足するために新しい動きが注目される医療機関を個々に訪問し、そこから生の情報を得ることです。これはフィールド調査とも言えます。私は、今まで、北は北海道から、南は沖縄県まで、全国100カ所以上の病院や保健・医療・福祉複合体を訪問調査しました。

第3は、政府・厚生労働省の公式文書や政策担当者の講演記録を分析する、いわば文献学的研究です。ただし、政策担当者の講演には、彼らの最大限願望やアドバルーンが含まれているのが普通なので、厚生労働省関係者や医療ジャーナリストと公式・非公式に接触して彼らの「本音」を聞いたり、「裏」をとるようにしています(意見・情報交換のための飲み会。割り勘)。

これらの手法は、『複眼でみる90年代の医療』(勁草書房,1991,4頁)で確立しました。

私の経験では、これら3種類の調査研究は相補的であり、第3の文献学的研究のみでは、特に日本の医療提供制度・政策の全体像は把握できないと考えています。さらに私は、福祉政策に関しても、同じことが言えるのではないか?と感じています。

なお、私の医療政策研究の特徴は、医療政策の現状分析だけでなく、「客観的」将来予測にも挑戦し続けていることです。この点は、紙数の制約のため述べられませんので、「医療政策の将来予測の視点と方法」(『月刊/保険診療』2004年9月号)をお読み下さい。

<実証研究のみでは政策の妥当性は評価できないー価値判断の明示が必要>

この項の最後に、医療経済・政策学の実証研究の限界を述べます。それは、価値中立的実証研究のみで政策の妥当性は評価できず、実証研究に基づいて政策提言する場合にも、自己の価値判断の明示が必要なことです。

若手の医療経済・政策学の研究者の中には、厚生労働省と経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議との間で繰り広げられている、今後の医療改革についての深刻な論争(それは時に「神学論争」と揶揄されるほど激しい)に対して、医療経済学の実証分析や定量的な医療政策評価研究を「共通言語」として示せば、それを出発点にして議論が進むと期待している方もいます。しかし、この論争は両者の価値観の根本的違い(医療分野への全面的な市場原理導入の是非)に根ざしており、実証研究で議論が進むことはほとんど期待できないと私は判断しています(私は21世紀初頭の医療・社会保障改革には3つのシナリオがあると考えています。この点については、拙著『21世紀初頭の医療と介護』(勁草書房,2001)と『医療改革と病院』(勁草書房,2004)参照)

例えば、田中滋氏が座長をつとめた「これからの医業経営の在り方に関する検討会」では、遠藤久夫氏がアメリカにおける営利病院(株式会社立病院)と非営利病院との膨大な比較研究(実証研究)に基づいて、株式会社立病院が当初の期待とは逆に医療費増加をもたらし、その医療の質も高くない(むしろ低い)ことを示しても、株式会社の病院経営解禁を支持する総合規制改革会議寄りの委員は、それを一顧だにしませんでした。

実は私も、16年前(1990年)に『現代日本医療の実証分析』を書いたときは、「いまわが国の医療経済学に求められているのは、原理論的研究ではなく、医療改革の議論の素材を提供する日本医療の実証的な構造分析だ、と考え」、同書が「90年代の医療改革のための建設的論争の共通の土俵になることを願ってい」ました(あとがき)。

しかし、1992~1993年にアメリカUCLAに留学して、医療経済学・医療サービス研究の勉強と日米医療の比較研究をする過程で、アメリカにおける「精緻な実証研究…と絶望的な医療改革との間の落差の大きさ」、「医療経済学・医療サービス研究の『爛熟』と…医療『制度』の荒廃との共存」を知って、上記の願いがまったく甘かったことを知りました。その結果、「『良い(善い)』医療政策の必要条件は、データ・実証研究ではなく、『良い』価値観・価値判断であること。わが国の場合には、憲法25条に規定された、国民の生存権と国の社会保障義務に常に立ち返って、政策立案すること」だと考えるようになりました(『「世界一の医療費抑制政策を見直す時期』192,216頁)。

そのために、1995年に出版した実証研究書『日本の医療費』では、『現代日本医療の実証分析』と同じく、「政策的な意味合いが明確な実証研究」を心掛けるだけでなく、「研究課題の設定においても、結果の解釈においても、前著以上に自己の価値判断を明示」するようにしました(あとがき)。

このような試行錯誤を経て、現在、私は、今後求められる医療政策研究は、「わが国医療の歴史と現実に立脚し、医療経済学の視点を持ち、しかも自己の価値判断を明確にした研究」だと考えています。これは、権丈善一氏が提唱している「政策形成過程における権力の作用や価値判断の問題をも視野に入れながら経済分析を行うという、政治経済学」とも共通します(『再分配政策の政治経済学』慶應義塾大学出版会,2001,6頁)。

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おわりに-本学(社会人)大学院入学のすすめ

最後に、社会福祉学あるいは医療経済・政策学の勉強や研究に興味を持っている社会人に対して、本学大学院入学のすすめを行います。

私の経験では、社会人の大学院入学の3大動機は以下の通りです。(1)自己の仕事・経験を研究(修士論文)にまとめたい、(2)研究方法論あるいは学問的な問題解決能力を身につけたい、(3)修士号を取得して教職等に就きたい(転職したい)。なお、学部卒直後生では、(2)・(3)と「モラトリアム」の3つです。私は、モラトリアムを含めて、大学院入学の動機はなんでも構わないが、入学後シッカリ勉強して、論文執筆法を含めた研究方法を身につけ、一定水準以上の(最低限他人に読んでもらえる)修士論文を書けるようになれば良いと考えています。

私が強調したいことは、社会人が大学院の入学試験に合格する近道・王道は、「研究計画書」をしっかり書くことです。そのための超必読書は、妹尾堅一郎『研究計画書の考え方』(ダイヤモンド社,1999)です。しかもこの本は単なる受験参考書ではなく、大学院入学後は修士論文計画書(草稿)を推敲するための指南書となります。

本学の社会人対象の大学院には、通学課程(福祉マネジメント専攻)と通信課程(社会福祉学専攻)があります。両者にはそれぞれ利点と弱点・制約がありますが、東海地方在住者は、絶対に通学制大学院(福祉マネジメント専攻)に入学すべきです。なぜなら、IT化が進む21世紀こそ、教員・他の院生との日常的接触は「お金では買えないもの」(priceless)だからです。なお、社会人でも、時間的・経済的条件が許す場合は、昼間部の通学課程(社会福祉学専攻)への進学も、選択肢の一つに入れて良いと思います。この場合は、講義・演習の選択肢が飛躍的に広がるからです。

[本稿は、2005年7月16日に第1回日本福祉大学夏季大学院公開ゼミナールで行った同名の講演の講演レジュメに大幅に加筆したものです。その際、拙論「医療経済・政策学の視点から見た21世紀初頭の医療改革」(『社会保険旬報』No.2196,2004)に書いたことも相当加味しました。講演レジュメまたは本稿の草稿に率直なコメントをしていただいた、以下の皆様に感謝します(アイウエオ順。所属を書いていない方は本学の現職教員または大学院生):足立浩、伊藤美樹、岩崎晋也(法政大学)、垣田裕介(大分大学)、加藤悦子、川上武(医事評論家)、金道勲、工藤修一(大分大学)、権丈善一(慶應義塾大学)、児島美都子(本学名誉教授)、近藤克則、末田邦子、杉山章子、長沼建一郎、鍋谷州春、山本美智予。]

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