総研いのちとくらし
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『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻41号)』(転載)

二木立

発行日2008年01月01日

出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。

本「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/)。


目次


1.論文:混合診療禁止は違法?東京地裁判決をめぐる空騒ぎ

(「二木教授の医療時評(その51)」『文化連情報』2008年1月号(358号):22-25頁)

東京地方裁判所は、昨年11月7日、混合診療を行った場合、保険診療部分を含む診療行為全体を保険適用外とする厚生労働省の法運用には「理由がない」とする判決を言い渡しました。これは、神奈川県在住の清郷伸人氏が2006年3月に起こした、腎臓がん等に対するインターフェロン療法(本来は保険給付)と活性化自己リンパ球移入療法(自由診療)の併用療法を受けた際、治療費用全額を自己負担すべきとされたのは違法・違憲であり、インターフェロン療法については「療養の給付[保険給付-二木補足。以下同じ]を受けることができる権利を有することの確認を求めた」訴訟に対する判決です。

ただし、この判決はあくまでも法解釈についてのものであり、混合診療解禁を容認したものではなく、逆に「法解釈の問題と、差額徴収制度による弊害への対応や混合診療全体の在り方等の問題とは、次元の異なる問題である」と明言しています。

翌11月8日、新聞各紙は、この判決について「『混合診療』禁止は違法」(「読売新聞」、「朝日新聞」)等と、大きく報じました。ただし、「日本経済新聞」の「[混合診療]認めぬ国に転換迫る」、「[判決は]混合診療を一括して認めるよう明示した」との報道は、不正確です。「日本経済新聞」は、その後も、11月9日の「社説-混合診療で患者の選択広げよ」や「混合診療禁止、誰を救うか」(大林尚記者。12月2日朝刊)等、混合診療の全面解禁を求めるキャンペーンを行っています。

以前から混合診療の全面解禁を求めてきた規制改革会議も、この判決を受けて、11月15・27日に混合診療解禁を求める公開討論会を開催し、12月中に福田首相に提出する「第二次答申」では、5月の「第一次答申」では断念した「混合診療の全面解禁」を盛り込むことを決めました。同会議の松井道夫委員は、「厚生労働省と妥協するつもりはない。最終的には政治判断になる」との、強気の味方を示したと報じられています。

そのためもあり、ジャーナリストや医療関係者の中には、今後、混合診療全面解禁の議論が再燃すると危惧(または期待)している方が少なくありません。私自身、東京地裁の判決直後に、ある医療ジャーナリストから、「混合診療の原則禁止を維持したいのであれば、厚生労働省は何をすべきなのか」という先走った質問を受けましたし、拙新著『医療改革』(勁草書房)を読まれたある高名な社会保障研究者からは、「混合診療解禁の動きが再び強まっていますが、二木さんの[本の第2章第1節混合診療解禁論争とその帰結の]見通し通りにいきますでしょうか」と率直な疑問を投げかけられました。このような質問や疑問に対して、私は、それぞれ、「厚生労働省がすべきは東京高等裁判所への控訴だけです」、「混合診療解禁の動きが再び強まっていますというのは誤解です」と回答しました。私がこう判断する理由は、以下のように3つあります。

1989年に東京地裁で混合診療禁止適法の判決

第1の理由は、混合診療の適法性をめぐる判決は今回が初めてではなく、今回と同じ東京地裁が1989年2月に混合診療禁止を適法とする逆の判決を出し、しかもそれが確定しているからです。この判決は、原告(患者)が歯科診療での混合診療禁止を違法であるとして国を訴えたものでしたが、その判決の事実認定部分では、今回の判決と同じく、混合診療禁止を「直裁に定めた明文の規定は、法にも療担規則にも存しない」としつつも、「法の趣旨及び目的、健康保険制度の沿革、立法の経緯等をも含めて総合的に考察しなければならない」ので、「混合診療禁止の解釈及び…本件行政指導は適法なもの」と判断しました(1)。

混合診療禁止に限らず、下級審の判決が分かれた場合、国は上級審(高裁または最高裁)の判断を仰ぐのが当然であり、「日経」が上記社説で「厚生労働省は控訴を断念すべきである」と主張したのは、法治国家のルールを無視しています。

しかも、一般に、上級審の判決は国の政策を追認する傾向が強いため、私は、混合診療禁止についても、控訴審で、今回の判決が覆される可能性が高いと思います。この問題がわが国の健康保険制度の根幹にかかわることを考えると、少なくとも、今回の判決のように、国の主張がことごとく退けられる可能性はほとんどないと言えます。万が一、今回の判決が維持された場合にも、上述したように、「法解釈の問題と…混合診療全体の在り方等の問題とは、次元の異なる問題」ですから、混合診療禁止を明文化した健康保険法等の改正が行われることで決着が図られるはずです。小泉政権下の2004年12月の臨時国会で、全会派一致で「混合診療解禁反対、国民皆保険制度を守る決議」が採択されていることを考えると、このような法改正は十分現実味があります。

私が奇異に思うのは、11月7日の東京地裁判決の各紙の報道では、1989年の東京地裁判決に触れたものが皆無であることです。これは、一般紙に限らず、『週刊社会保障』や『社会保険旬報』のような専門誌でも同じです(ただし、『日本医事新報』だけは11月17日号で正確に報道しました)。その反面、「朝日」以外の全国紙は、今回の判決を「国の政策を違法とする初めて」の判決(「毎日」)等と報じています。しかし、これでは一般の読者は、混合診療禁止についての初めての判決で違法との判断が下されたと、誤解ししてしまいます。

2006年の法改正で混合診療は部分解禁

第2の理由は、混合診療は「原則禁止」されているわけではなく、2005月12月の厚生労働大臣と規制改革担当大臣との「いわゆる『混合診療』問題に係る基本合意」と、それに基づいて行われた2006年の健康保険法等改正により、すでに「部分解禁」されているからです。

今回の判決の報道では、この点を見落として、現在でも、混合診療は原則禁止されているかのような解説が少なくありません。「基本合意」に触れたものでも、「『原則禁止』を維持する代わりに、例外の範囲を拡大するという政治決着が図られた」と解説していますが、これは不正確です。

なぜなら、2006年の法改正前は、混合診療は「原則的には禁止し、その例外として特定の保険適用外の医療サービスを提供するときにのみ保険診療と併用することを認める(特定療養費)こととしていた」のは事実ですが、上記「基本合意」により、「『必要かつ適切な医療は基本的に保険制度により確保する』という国民皆保険制度の理念を基本に据え、一定のルールの下に保険診療と保険外診療の併用を認めるとともに保険導入手続きを制度化する」こととされ、これに沿って2006年に法改正が行われたからです(2)。

当時、小泉純一郎首相や厚生労働省高官は、公式に、これにより混合診療を「実質解禁」したと答弁していました。ただし、私はこれはいわばリップサービスであり、正しくは「一定のルールの下」の「部分解禁」と呼ぶべきと判断しています。

このような「部分解禁」により、「必ずしも高度でない先進技術を含め、新規の医療技術について医療機関からの届出がなされてから原則3か月以内に、大臣設置に係る専門家会議において科学的評価を行い、支障のない場合に実施可能とする」(2)ことになったのです。これによって、少なくとも制度的には、規制改革・民間開放推進会議(当時)が、あげていた混合診療に関する具体的要望については、おおむねすべてに対応することが可能になったのであり、だからこそ「基本合意」が成立したのです。

ちなみに、今回の裁判で原告が受けていた、インターロイキン2を用いた活性化自己リンパ球移入療法は1996年から高度先進医療の適用を受けていましたが、その後有効性が明らかでないとされ、2006年1月の中医協総会で承認を取り消されています。私は、この療法を患者に推奨する医師には、まずその有効性を科学的に証明する道義的責任があると思います。しかし、この点に触れた新聞報道も皆無です。

なお、「日経」の混合診療についての「クイックサーベイ(ネット調査)」によると、混合診療の全面解禁に対する賛成は71%(賛成26%、どちらかといえば賛成45%)に達している反面、8割の人が「未承認薬や先進技術などについてその部分だけを保険外とする例外的な制度」[保険外併用療養費制度]があることを知らなかったそうです(「日経」2007年12月9日朝刊)。厚生労働省と新聞を中心としたマスコミおよび医療団体は、この面で国民の知る権利に十分に応えていないことを反省すべきと思います。

混合診療全面解禁を主張しているのは規制改革会議と「日経」だけ

第3の理由は、東京地裁判決後も、混合診療全面解禁を主張している組織や団体は、規制改革会議と「日経」だけであり、2004年9月の小泉首相による混合診療解禁の検討指示を契機として、がん患者団体を含め、多くの組織・団体がそれを支持した当時とは、状況がまったく異なるからです。

まず、2004年には、経済財政諮問会議民間議員は、規制改革・民間開放推進会議と一体となって、混合診療の全面解禁を主張しましたが、今回はこの問題についてまったく発言していません。東京地裁判決後、本稿執筆時点(12月10日)までに、経済財政諮問会議の会議は4回開かれ、11月14日の会議には民間議員が「診療報酬の見直しに向けて」と題する資料を提出しましたが、混合診療全面解禁にはまったく触れていません。

なお、上述したように、規制改革会議の松井委員は、この問題は「最後は政治判断になる」と発言しており、そのこと自体は正しいのですが、小泉首相(当時)ですら「無条件で解禁したら、混乱が生じます」(「毎日新聞」2004年12月16日朝刊)と明確に否定した混合診療の全面解禁を、福田首相が「政治判断」することはありえません。この点で、松井委員は政治的にKY(空気が読めない)と言えます。

次に、2004年には、すべての全国紙が混合診療解禁に理解を示す社説を発表したのと異なり、今回は「社説」で混合診療の全面解禁を主張しているのは「日経」だけです。東京地裁判決を受けて、「毎日」は「社説-国の説明は患者に届いてない」、「産経」は「主張-混合診療 患者のため改めて議論」を、ともに11月9日に発表しましたが、ともに「これを機会に混合診療の是非と在り方を改めて議論すべき」(「産経」)といった当たり障りのないものであり、全面解禁は主張していません。2004年には、小泉首相が混合診療の全面解禁を指示したとの誤報を繰り返し、「日経」と同一歩調をとった「読売」ですら、今回は記者の記事でも、全面解禁は主張していません。逆に、2004年には混合診療解禁の急先鋒だった本田麻由美記者は、今回は「『混合診療』全面解禁には疑問」と主張を変えており、注目されます(11月16日「がんと私(85)」)。

第3に、がん患者団体は、2004年には、一時、緊急避難的に混合診療の拡大を求めましたが、同年末には「完全解禁は望みません。医療に貧富の差がついたり、安全でない薬が使われるのは違うと思うからです」と表明しました(『サンデー毎日』2004年12月19日号)。今回も、日本難病・疾病団体協議会は、次のような見識ある見解を発表しています。「原告の気持ちは痛いほど分かるが、安全性や公平性を考えれば、必要な医療は国が責任を持って保険診療で行うべきだ。混合診療を解禁するのではなく、安全で治療効果のある新薬や最新治療を早く承認して保険を適用してほしい」(「読売」11月17日朝刊)。

以上3つの理由から、私は、厚生労働省がすべきは東京高等裁判所への控訴だけであり、今後、混合診療全面解禁の動きが再び強まることはないと、判断しています。規制改革会議と「日経」がしばらく混合診療全面解禁のキャンペーンを続けても、それが「空騒ぎ」に終わるのは確実です。

なお、『日経ヘルスケア』の庄子育子記者は、今回の東京地裁判決の意味と今後の見通しを、1989年の東京地裁判決との異同を含めてていねいに解説しており、一読に値します(3)。また、遠藤久夫教授(中医協委員)は、「法律論とは切り離して混合診療禁止の意味」を包括的かつ説得的に考察しており、一読をお薦めします(4)。私は、遠藤教授の、混合診療の「無制限な解禁[全面解禁]」は弊害が大きく、「現行制度の改善を軸に、よりよい医療の仕組みを構築するのが望ましい」との主張に全面的に賛成です。なお、私も拙新著『医療改革』第2章第1節「混合診療解禁論争とその帰結」で、混合診療解禁をめぐる論争の本質や2004年の政治決着の複眼的評価等を行っていますので、あわせてお読み下さい。

文献

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2.談話:診療報酬本体プラス改定の意味 行き詰まる医療費抑制政策 負担増路線の登場も

(『週刊東洋経済』2007年12月29日・2008年1月5日号:146頁)

2008年の診療報酬改定は、医療サービスに直結する「本体部分」が0・38%と小幅ながら8年ぶりのプラス改定で決着した。薬価を含む診療報酬全体では4回連続の引き下げだが、後発医薬品への変更促進など未知数の部分が含まれており、実際のマイナス幅は縮まる可能性もある。

個別項目では、病院勤務医の労働条件改善に重点を置き、救急や産科、小児科に手厚く配分することがうたわれている。医師不足が全国的に拡大しているだけに、どこまで踏み込んだ対応ができるかがカギで楽観は禁物だ。ただ、本体のプラス改定が医療従事者の士気に及ぼす影響は大きく、率直に評価できる。また、06年の大幅マイナス改定の際に一部の人々があおり立てた「病院大倒産時代」が到来することはなかったし、今回もそうなる可能性はない。

今回の改定には、来るべき衆議院選挙を前に、政府与党が医療界に配慮した側面もある。総選挙勝利のために、医師会等の支持が是が非でも欲しいからだ。その点で、プラス改定は高齢者医療費の負担増先延ばしとも共通点が多い。要は小手先の対応にとどまり、医療政策の転換には至っていない。

シーリング遵守は困難 医療政策転換の兆しも

私は繰り返し述べているが、医療政策の転換には、二つの閣議決定見直しが必要だ。一つは小泉政権の置きみやげである、06年の閣議決定、すなわち、「骨太の方針2006」に盛り込まれた社会保障費の自然増の削減(5年間で1兆1000億円、年換算2200億円削減)を見直すこと。もう一つは、「医師養成数の抑制を継続する」とした1997年の閣議決定の見直しだ。後者については06~07年にかけて、暫定的とはいえ、医学部定員増が打ち出されたことは注目される。

前者の見直しは97年の閣議決定見直し以上に容易でなく、医療だけでなく社会保障全体にかかわる課題だ。ただ、舛添要一厚生労働大臣に加えて、多くの厚労省幹部が「2200億円削減のシーリング(上限枠)を守ることはもはや困難だ」と表明している。政府管掌健康保険の国庫負担の肩代わりを健保組合に求めたのも、筋がよくないとはいえ、シーリング遵守が限界に来ているとの厚労省のメッセージにほかならない。

小泉首相のプレッシャーに押される形で厚労省が医療費抑制を狙って打ち出した「医療費適正化計画」は08年4月からスタートする。だが、その2本柱である(1)メタボリックシンドロームに着目した特定健康診査を通じた生活習慣病対策、(2)平均在院日数短縮による長期入院是正策はともに効果が乏しく、早晩見直しが不可避だ。

メタボ健診はむしろ治療の必要が乏しい患者の掘り起こし=医療費増につながる。長期的に見ても、医療費抑制効果はない。平均在院日数短縮の切り札とされた療養病床の削減は、厚労省が“願望"として打ち出していた「15万床(への削減)」という数字自体が、閣議決定や厚生労働白書など公式文書から削除されている。急性期病院で平均在院日数を無理に短縮すると、治癒する前に退院を迫られる「医療難民」が続出するため、慎重な対応がなされるだろう。

隠れた医療費抑制の手段として4月にスタートする75歳以上を対象にした後期高齢者医療制度でも、一般患者とは別建ての新たな診療報酬体系や患者による医療機関の選択を制限する登録医制は導入されない。後期高齢者医療制度は、そう遠くないうちに財源の制約から制度の見直しを迫られる可能性が高い。

このように見ていくと、医療費抑制政策が限界であることは明らかだ。最近の動きからは、わずかだが、医療政策転換へ向けての「希望の芽」を見つけることができる。政治情勢いかんでは、医療など社会保障財源を増やすための負担増路線が登場してくるだろう。

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3.学会報告:医療・介護政策の研究と論争の経験に基づいて研究と政策との関連を中心に考える

(『社会福祉学』第48巻3号:125-128,2007。 2007年3月18日(日)、東洋大学白山キャンパスで開かれた、日本社会福祉学会第4回政策・理論フォーラムでの指定発言。ただし、学会誌には未収録の、フロアからの質問に対する回答と4人の報告に対するコメントも掲載。)

私はパワーポイントは用いず、お配りした裏表2頁のレジメのみを用いてお話します。私の指定発言のタイトルは「研究と政策との関連を中心に考える」ですが、栃本さんのように理論的に考えるのではなく、医療・介護政策の研究と論争の経験と体験に基づいた、ボトムアップのお話をします。

本題に入る前に自己紹介と新著の宣伝をします。私はリハビリテーション専門医出身の医療経済・政策学研究者で、この視点から、政策的意味合いが明確な実証研究と医療・介護政策の分析・予測・批判・提言の二本立ての研究・言論活動をしています。医療経済・政策学という言葉には馴染みのない方が多いと思いますが、「政策的意味合いが明確な医療経済学的研究と、経済分析に裏打ちされた医療政策研究との統合・融合を目指した学問」で、勁草書房から同名の全6巻の本(講座)を出版中です。私は、最近、政策研究についてまとめた2冊の本を出版しました

1冊めは『医療経済・政策学の視点と研究方法』(勁草書房,2006)で、以下のお話は主としてこの本の第4章に基づいています。興味のある方は後からでもお読みください。もう1冊は『介護保険制度の総合的研究』(勁草書房,2007)です。

本日は、次の4つの柱を立ててお話しします。1番目は、政策研究する場合、どんな心構え・スタンスが必要か。2番目は、政策研究を含めた学問の本質は何かという、ちょっと構えた議論です。3番目は、新しく提起された医療・介護政策を評価する際のスタンス。4番目に、私の医療経済・政策学研究者としての2つの特徴(自己評価)についてごく簡単にお話しします。いずれについても、抽象的な議論ではなく、私自身の経験と立場を述べます。

1.私の医療経済・政策学研究の3つの心構え・スタンス

私の医療経済・政策学研究の心構え・スタンスは3つあります。第1は、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究を行うことです。リアリズムだけでは現状追随主義に陥るが、リアリズムを欠いたヒューマニズムでは観念的理想論になってしまう。これは、皆さんもよくご存知のイギリスの経済学者マーシャルの「冷静な頭脳をもち、しかし、温かい心をも兼ね備えた」視点と同じです。この名言は、日本では一的には「冷静な頭脳と温かい心」と訳されていますが、それは誤訳です。頭脳と心を繋いでいるのはandではなくbutです。常識で考えても分かりますが、冷静になると温かい心を失いがちです。冷静「だけれども」温かい心、ここがポイントです。

第2は事実とその解釈、「客観的」将来予測と自己の価値判断(あるべき論)を峻別するとともに、それぞれの根拠を示して「反証可能性」を保つことです。ここで「客観的」将来予測とは、私の価値判断は棚上げして、現在の諸条件(政治・経済・社会的条件)が継続すると仮定した場合、今後生じる可能性・確率がもっとも高いと私が判断していることです。『21世紀初頭の医療と介護』(勁草書房,2001)からは、事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断に3区分するようにしています。3つに分けることによって、価値判断が違う人間、研究者同士の冷静な討論ができると考えています。

第3は、フェアプレイ精神で、次の3つをモットーにしています。(1)出所・根拠となる文献と情報はすべて明示する。(2)政府・省庁の公式文書や自分と立場の異なる研究者の主張も全否定せず、複眼的に評価する。(3)自己の以前の事実認識や判断、将来予測に誤りがあることが判明した場合は、それを潔く認める。

第3のフェアプレイ精神との関わりで、政策評価について強調したいことは、医療改革の価値判断を行う際、改革の内容そのものの適否と、改革手続きの適否を峻別することです。具体的には、改革の「手続き民主主義」(due process)を重視し、「大事なのは内容(だけ)だ」、「手続きはどうでもいい」などといった、目的のためには手段を選ばずという立場は取りません(例えば、療養病床の再編・削減方針の評価)。私は自称「形式民主主義者」です。

2.医療経済・政策学を含む「学問の本質は『提言』ではなくて『分析』がメイン」

2番目に述べたいのは、医療経済・政策学を含む「学問の本質は『提言』ではなく『分析』がメイン」であることです。これは、慶応義塾大学の田中滋さんが主張されていることで、私も同じ立場です。田中さんは、濃沼信夫さん(東北大学教授)が、学者は「利害を抜きにした『学』による政策提言」をすべきだと主張したときに、彼を批判してこう主張されました(『医療経済学の座標軸』厚生科学研究所,2003,192頁)。

私の研究のモットーは「論より実証」、19世紀の有名な社会運動家の言葉を借りると、「原理からではなく、事実から出発する」です。誤解のないように言っておきますが、私も研究者ですから、理論そのものや、分析の理論的枠組みを否定するわけではありません。しかし、「もし現実が本質的な点で理論と乖離していることが分かれば、理論を修正しなければならないし、それが出来なければ、現実によって否定された理論を放棄せざるを得ない」(森田常夫訳『コルナイ・ヤーノシュ自伝』日本評論社,2006,78頁)と考えており、理論にしがみつくことはしません。

具体例をあげますと、私は、21世紀初頭の医療政策の実証分析をしていて、それまで一枚岩的だった政府・体制の改革方針が、新自由主義的な改革方針と厚生労働省の伝統的な改革方針に分裂していることに気づき、医療改革の分析枠組みとして、1990年代まで用いていた「2つのシナリオ(政府・厚生労働省対医療機関・国民)」説を放棄し、新たに「3つのシナリオ(上記2つプラス公的医療費総枠の拡大シナリオ)」説を提起するようになりました(『21世紀初頭の医療と介護』勁草書房,2001,序章)。

実証研究についてもう1つ強調したいのは、「実証研究の限界」、つまり実証研究のみでは政策の妥当性は評価できないことです。医療経済・政策学分野の若手研究者の中には、医療分野への市場原理導入の是非をめぐる厚生労働省と規制改革・民間開放推進会議の「神学論争」を批判して、実証研究で共通の土俵、共通の言語を示せば改革の議論が理性的・合理的になると主張している方もいますが、それは幻想です。政策判断の是非では、最後にギリギリの価値判断が問われるからです。そのために、研究者は、研究課題の設定においても、研究結果の解釈においても、自己の価値判断を明示する必要があります。

私は、発展途上の若手研究者、院生などには政策提言はするなと助言していますが、自立した研究者が、自己の研究と価値判断に基づいて、政策批判と政策提言を行うことは社会的意義があると考え、励行しています。その場合、理想論、あるべき姿を言うだけでなく、それに加えて実現可能性のある「ソフトハート&ハードヘッド」な対案を提示する必要があると思っています。

例えば、10年前、介護保険論争が沸き起こったとき、「公的介護保険を少しでもマシな制度にするための5つの改善提案」をしました。当時私は公費負担方式のほうが合理的だと思っていたのですが、政治的力関係で社会保険方式の可能性も全否定はできないと考え、このような提案をしました。手前味噌ですが、この提案は、当時まだ厚生省にいらした栃本さんを含めて、多くの方から厚生省案に対する唯一の包括的対案だとほめられました。

3.研究者が新しく提起された医療・介護制度改革を評価する際のスタンスと2つの戒め

3番目に、研究者が新しく提起された医療・介護制度改革(政策)を評価する際のスタンスと2つの戒めについて述べます。政策評価は、研究者以外にも、政策・行政担当者、あるいは社会運動家(アクティビスト)もしますが、研究者はどういう立場から評価すべきかについて述べます。

私は、研究者は、新しい政策の「光と影」(積極面と否定面)を複眼的に評価し、それが実現した場合、何が変わり、何が変わらないかを予測することが大事だと思っています(『複眼で見る90年代の医療』勁草書房,1991)。

新しもの好きの研究者は、新しい政策がでるたびに世の中がガラッと変わるように主張しますが、それはウソです。とくに医療・福祉分野の政策は一気に変わると犠牲者が出ますから、それを予防するために必ず激減緩和処置がとられ、一見大きな改革のように見えても意外に連続性が強いのです。

ここで、政策評価に関して、私の好きな2つの名言・戒めを紹介します。1つは「同時期に研究者と政治スタッフの兼業を試みるな」という、私の敬愛する医療経済学者フュックスの教えです。研究者と政策スタッフは、両方大事ですが役割が違うのです。

もう1つは「敵を憎むな、判断が狂う」です。これはマフィアの一代記を描いたコッポラ監督の映画『ゴッドファーザーIII』に出てくる言葉です。
私は、研究者が中途半端に政治に絡むとロクなことがないと思っています。政府の審議会委員になると、どんな政策にも、いい面と割る意面の両面があるはずなのに、学会の場ですらいい面しか報告しないという情けない研究者になってしまう危険があります。逆に、厚生労働省を「悪の帝国」とみなして、すべての政策を全否定するアクティビスト研究者もいます。しかし、政策の一面しか見ていないという点で、「両極端は同じ」です。研究者としては、常に、政策の光と影の両面をみて、何が変わり、何が変わらないかを分析的に検討すべきだと思います。

4.私の医療経済・政策学研究者としての2つの特徴

4番目に、私の医療経済・政策学研究者としての特徴の自己評価を簡単に述べます。

私の研究には2つの特徴があります。1つは日本医療についての神話・通説を実証研究に基づいて批判すること、もう1つは現状分析だけではなく「客観的」将来予測にも挑戦し続けていることです。

前者について、政府や厚生労働省の発表する公式文書をそのまま鵜呑みにしないことは研究者の常識ですが、厚生労働省の発表するデータは信用し、論文にそのまま引用する研究者が多いと思います。しかし、データにも相当の作為が入っているので、公式文書だけでなくデータも疑う必要があります。

私は、10年前の介護保険論争時に、厚生省のある人からこう言われたことがあります。「厚生省統計情報部の発表するデータは100%信用できます。しかし、本省の各部局が発表するデータは特定の政策意図に基づいて加工されていますから信用しないでください」。当事者がこう言っているのですから、疑わなければいけないのです。

後者の「客観的」将来予測については、社会福祉分野の研究者で挑戦している方はほとんどいないと思います。一方で政府の計画・発表をそのままオウム返しに繰り返している方、他方で自分の考えるあるべき姿があたかも実現するようにアオリ行為をする方が少なくない気がします。例えば、政策を冷静に分析すると、医療福祉士の国家資格ができないことは明らかなのに、それが可能だと主張する方もいます。それだけに、社会福祉分野でも「客観的」将来予測に挑戦する方が出てくることを期待しています。以上で、私の指定発言を終わります。

【以下、学会誌未掲載】

フロアからの質問に対する回答

<二木氏> 北星学園大学の米本さんからいただきました。「レジメにある『客観的』将来予測という言葉の『』付きはどういう意味ですか?」という質問です。私の「客観的」将来予測の定義は、「私の価値判断は棚上げして、現在の諸条件が継続すると仮定した場合、今後生じる可能性・確率が最も高いと私が判断していること」です。哲学的な議論になりますが、社会学、あるいは社会福祉学でも最近有力になっている社会構築主義の立場では、客観的真理・事実は存在しない、すべてが社会的に構築されたものとされています。私は社会構築主義ではありませんが、「 」をつけないと、無益な言葉尻をとらえた批判を受ける危険がありますので、「 」をつけたのです。“いわゆる"という意味です。

フォーラム第1部「海外の福祉政策動向から日本の現状をとらえなおす」の4人の報告に対するコメント(4人の報告は『社会福祉学』第48巻3号;94-114,2007)

<二木氏> 先ほどの指定発言では医療政策についてのみ述べました。指定発言者の役割には主報告に対するコメントもあるということなので、4人の方々に1点ずつコメントします。議論を面白くするため、敢えて挑発的にお話します。

最初に津崎哲雄さんの「子ども家族政策」にコメントします。私は、現在日本福祉大学のCOEプログラムの一環として、日韓比較研究を多面的に行っていますので、報告には大変興味をもちました。しかし敢えて言葉尻をとらえますが、津崎さんは「韓国のほうが[日本より-二木補足]欧米的に論理的にスジが通っている。ただし財源は[日本とは]比較にならない、少ない」と発言されましたが、国際比較をするときには、制度比較だけするのではなく、財源・財政規模の比較とセットにしないといけないと思います。私の専門は医療経済学ですから、院生にはいつも「この世は金だ」といっています。社会福祉の研究者は金のことを言わない人が多いですから。

例えば、韓国と日本の医療保険制度を比較する場合にも、制度だけをみると韓国のほうがずっと合理的です。日本みたいな既得権益があるバラバラの制度ではなく、全国で一本化されたスッキリした制度ですから。しかし韓国は日本に比べるとまだ貧しく、1人当たり所得は3分の1くらいですから、給付水準はすごく低いのです。日本の医療保険制度を支えている高額療養制度に類似した制度もつい最近できたばかりで、大病したら大変な負担になります。

このように制度の美しさだけで議論するのはおかしいのです。韓国の制度が合理的であるのはその通りですが、同時に実態的にみると財源が限られているからいろんな問題があるという両面をみないといけないと思います。私は児童養護のことは細かく分かりませんが、津崎さんがいうように財源が比較にならないくらい少ないなら、いろんな歪みがあるはずで、制度だけが素晴らしいというのは止めてほしい。

次に宮本みち子さんの「成人期への移行政策」にコメントします。止めてほしいのは欧米という言葉を使いすぎることです。いまどき社会保障分野で、欧米という言葉は使いません。アメリカとヨーロッパ諸国がいかに違うかは常識です。このことは以前は研究者の常識でしたが、最近はイラク戦争のおかげで政治のレベルでも違うことを国民みなが知るようになりました。そもそもアメリカ人も、ヨーロッパ人も、欧米という言い方はしません。いかにアメリカとヨーロッパが違うかと言いますから。私は、どの分野でもアメリカとヨーロッパは違うので、欧米という言葉は禁句にすべきだと思っています。

3番目に湯澤直美さんの「社会政策とジェンダー・アプローチ」にコメントします。先に誤解のないように言いますが、私はジェンダーバッシングには反対で、その限りでは湯沢さんの報告に賛成です。

ですが、私は、ジェンダーバッシングを誘発する弱さがジェンダー論者の側にあったと思います。上野千鶴子さんも『当事者主権』(岩波新書,2003)で、「フェミニズムの主たる担い手は、中産階級の女性たちだった」(186頁)と書いているように、ジェンダー論の方々には貧しい女性の視点が欠けていると思います。

私が一番疑問をもったのは10年前の介護保険論争時に、現金給付の是非が問題になったとき、ジェンダー論の方々が、「中産階級の女性たち」の視点から、現金給付はオンナを家庭にしばりつけるから反対と主張したことです。これには当時の厚生省と大蔵省の人たちは大喜びで、結局、現金給付は導入されませんでした。しかし、介護(費)保障を社会保険方式で行う場合は、同じリスクに対して同じ給付をするのが大原則です。しかも日本の介護保険は家族介護の補完であり、制度設計の段階で家族介護を残すことが前提でしたから、当然、現物給付と現金給付の両方を行うことは十分あり得ることでした。そのために両者をどう組み合わせるかの議論をするべきだったのに、樋口恵子さんや上野千鶴子さんが現金給付を理念的につぶしてしまいました。これは1例ですが。ジェンダー論の人たちは自らがバッシングを誘発しているのではないか。100%のいわれなきバッシングではなく、10%くらいは自己責任があるのではないかと感じています。

最後に埋橋孝文さんの報告「新しい福祉ガバナンスの視点」にコメントします。報告は面白かったです。時間を厳守したのもよかった。1点質問があります。障害者の問題で、日本での就労・雇用率が高いわけではない、まだ高める余地があるとおっしゃいましたし、私も高める余地はあると思います。しかし、障害者の定義が、日本とヨーロッパで違うのではないか。私は1980年に『世界のリハビリテーション』(医歯薬出版)という本を出版し、主要先進国の障害者の定義を調べて、障害者の出現率を国際比較したことがあります。そのとき、日本の障害者の定義は非常に狭かった。逆に、ヨーロッパでは障害者の定義が広く、軽い障害者が入りますから、当然就労率は高くなります。私は当時何度かヨーロッパで障害者職業リハビリテーション施設の見学をしましたが、「重度の障害者ががんばってます」といわれる施設でも、日本人的感覚では軽度の障害者ばかりと感じたことがあります。

障害者の定義の違い、ヨーロッパ諸国では障害者の範囲が広いから軽度障害者が多数含まれ、結果的に就労率が高くなっているのに対して、日本では障害者の範囲が狭く重い人にバイアスがかかっているので、就労率が低く出る可能性があるのではないかと思います。これは20年数年前の知識で、しかもその後、日本でも法律改正で前よりは障害者の範囲は広がっていますが、ドラスティックに広がってはいないので、国際を比較する場合、障害者の出現率を調整して評価されたほうがいいのではないかと思います。

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4.論文:小泉・安倍政権の医療改革-新自由主義的改革の登場と挫折

(別ファイル「小泉・安倍政権の医療改革-新自由主義的改革の登場と挫折」(『月刊/保険診療』第62巻第12号113-121頁,2007年12月10日 PDFPDF)

本稿は、2007年10月14日に京都市・龍谷大学で開催された社会政策学会第115回大会共通論題「社会保障改革の政治経済学」での同名の報告に一部加筆したものです。内容の大半は拙新著『医療改革-危機から希望へ』(勁草書房,2007年11月)の第1章第1・3節または他章に書いたことの整理・統合・要約ですが、注1と注3等は新たに書き加えました。


5.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文

(通算30回.2007年分その8:6論文)

「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。

お断りとお詫び:40号では、本号で「医療経営についての注目すべき実証研究約10本をまとめて紹介します」と予告しましたが、42号に延期します。

○[アメリカにおける]持続的で包括的な医療改革の見通しとは何か?(Fuchs VR: What are the prospects for enduring comprehensive health care reform? Health Affairs 26(6):1542-1544,2007)[評論]

持続的な医療改革は無保険者を無くし、医療財政と医療供給の非効率を減らし、医療の質を向上させ、しかも新医療技術の開発を妨害しないで制御しなければならない。改革の第1の障壁は「特殊利益集団(special interests)」が強大なことである。かつては医師会がそう見なされたこともあるが、現在では保険会社が改革反対の先頭に立っている。第2の障壁は、人々が現状維持を好むことであり、これは「改革についてのマキャベリの法則」と呼べる。人々のこの傾向は、カーネマンとトヴァースキが確立した「プロスペクト[予測・見通し]理論」でも確認されている。第3の障壁は医療改革を目指している人々が分裂しており、改革の方法で合意できないことである。

そのために、短期的に見ると、持続的で包括的な医療改革が実現する見通しはほとんどゼロである。1998年の大統領選挙で民主党と共和党のいずれが勝利した場合にも、新政権は外交政策で手一杯であろう。中期的(今後5~10年の単位)に見ても、改革の見通しは五分五分である。ただし、重大な経済的、政治的、社会的、公衆衛生的危機が生じれば、改革の可能性は劇的に高まるであろう。長期的に見ると、大改革は避けられない。なぜなら、どんな国も稀少な資源の医療費への垂れ流しを続けることはできないからである。

二木コメント-フュックス教授の最新評論です。アメリカの大統領選挙では医療改革が焦点になっているとの報道もありますが、教授の短期的見通しは超悲観的です。「長期的に見ると、大改革は避けられない」は教授の数十年前からの信念ですが、残念ながらまだ実現していません。なお、教授は、「プロスペクト理論」が1979年に発表された直後の1983年に、それを医療分析に応用しました(「健康教育と健康増進への優先順位の接近」。江見康一・田中滋・二木立訳『保健医療の経済学』第2章,勁草書房,1990(原著1986))。

○疾病の定義拡大の意味:[アメリカの]骨粗鬆症の事例(Herndon MB, et al: Implications of expanding disease definition: The case of osteoporosis. Health Affairs 26(6):1702-1711,2007)[量的研究(シミュレーション)]

WHOは骨粗鬆症を骨密度のT値-2.5以下と定義しているが、全米骨粗鬆症財団とアメリカ産婦人科学会は、それをT値-2.0以下(特定の条件を満たす場合には-1.5以下)に拡大することを勧告している。本研究では、全米の代表標本を用いて、この勧告が全米で実施された場合の患者数と医療費の増加をシミュレーションした。その結果、定義を変えることにより、治療を奨められる女性は65歳以上で640万人から1080万人に、50~64歳で160万人から400万人に増加し、それによる医療費増加は少なくとも、それぞれ280億ドル(約3兆円)、180億ドル(約2兆円)に達すると推計された。ただし、このように治療対象を拡大しても大腿骨骨折患者数を減らせるか否かはまだ明らかにされていない。

二木コメント-治療効果が不明なまま、疾病の定義を拡大すると、医療費が急増することを厳密にシミュレーションした貴重な研究です。日本でも、大櫛陽一氏が、医学統計的にみて出鱈目なメタボリックシンドロームの基準を用いる特定健診・特定保健指導により、医療費が5~6兆円増加すると警告しています(『メタボの罠』角川SSC新書,2007)。

<医師-ストライキ・過重労働・処分・医療過誤訴訟(4論文)>

○ドイツの医師の「ストライキ」-医師の不満の根源に光をあてる (Janus K, et al: German physicians "on strike" - Shedding light on the roots of physician dissatisfaction. Health Policy 82(3):357-365,2007)[量的研究]

ドイツでは過去数年間、医学生の退学率が上昇し、医学部卒業生が大幅に減少すると共に、外国で働くか医療以外の分野で働くことを選択する医師が増加している。保健省が行った調査も現行の医学教育および研修期間の金銭的および非金銭的インセンティブ・システムがこのような傾向の主因だと結論づけている。診療を続けている医師も同様の不満を持っており、2006年にドイツの医師は賃金引き上げと労働条件改善を求めて大規模なストライキに立ち上がった。

そこで、仕事満足度に関連した医師の意志決定プロセスを理解すると共に、満足度を向上させる要因を明らかにするために、ハノーバー大学医学部教育病院の常勤医のうち、実働時間の半分以上を診療にあてている全医師839人を対象にして、28項目の質問から成る自記式アンケート調査を行った。質問項目には仕事への満足度、金銭的・非金銭的インセンティブに加えて、仕事関連の交絡因子となりそうなものや社会・人口学的事項も含み、医師にはそれぞれについて5段階評価を求めた。得られたデータを用いて、因子分析と相関分析を行った。その結果、非金銭的要素が医師の仕事満足度の重要な決定因子であり、その重要度はおそらく金銭的要素を上回ることが示唆された。因子分析を行ったところ、7つの主因子が抽出された:(1)意志決定と認知、(2)継続的研修と仕事の安定性、(3)管理的仕事と同僚との関係は医師の仕事満足度に非常に大きな影響を与えていた。(4)高度医療機器と(5)患者関係も有意の影響を与えていた。それに対して、(6)研究と教育、(7)海外との交換研修は有意な影響を与えていなかった。

この結果に基づいて、著者は、今後の医師採用・定着戦略は、「ハード」な金銭的条件重視から、「ソフト」な非金銭的条件重視にシフトする必要があると主張している。

二木コメント-ドイツで行われた医師の仕事満足度についての貴重な実証研究です。ただし、結果・結論は月並みです(So what? Et alors?)。なお、2006年のドイツの医師ストライキは、3月に大学病院クリニックの医師約1.5~2万人が決行し、次いで6月に全国の700の自治体クリニックの医師7万人が決行するという、前代未聞の規模で闘われたそうです(Nowak D: Doctors on strike - The crisis in German health care delivery. New England Journal of Medicine 355(15):1520-1522,2006)。

○[カナダの]医師の過重労働:医師の態度とアウトカムへの影響(Williams ES, et al: Heavy physician workloads: impact on physician attitudes and outcomes. Health Services Management Research 20(4):261-269,2007)[量的研究]

医療の財政・組織・提供方式の改革により、医師の労働密度が上昇していることは、よく知られている。今や医師のストレスが臨界点を超え、医療制度全体に対する重大な政策的問題となっている可能性がある。そこで、カナダのアルバータ州のある地区(住民約86万人)の全医師を対象にして2回の郵送調査を行った(回答者は752人、回答率39.5%)。仕事量と5種類のアウトカム指標が、医師のストレスと満足度により媒介されているとの概念モデルを作成し、構造方程式分析を行った。その結果、ストレスと満足度が媒介しているとする事前に立てた12の仮説中10が有意であった。この調査結果は、医師の仕事量、ストレスと満足度が、診療の質等に重大な影響を与えていることを示唆している。

二木コメント-回答者の週平均労働時間は47時間であり、日本の医師より相当短いことを考慮すると、日本で同種調査を行うと、もっとヒサンな結果が出るのは確実です。

○[医師]処分と常習者[リピーター医師]-[アメリカの]州医師免許委員会による医師懲戒処分の評価(Grant D, et al: Sanctions and recidivism: An evaluation of physician discipline by State medical boards. Journal of Health Politics, Policy and Law 32(5):867-885,2007)[実態調査研究]

1994-2002年の医師処分の全米データベースを用いて、医師が各州医師免許委員会により、どのような処分を受けているかを調査した。具体的には、懲戒処分の頻度と重さ、処分の対象となった罪(offences)、一度処分を受けた医師が将来再び処分を受ける頻度を調査した。このデータベースには5万人の医師(医師総数の5%)に対する延べ15万件の処分が含まれている。年間総処分件数は1992年の3370件から2004年の6265件に急増していた。本調査から得られたもっとも重要な知見は、医師の中には医師免許委員会による処分を繰り返し受ける「リピーター医師」が非常に多いことが明らかになったことである。例えば、重大な処分(severe sanction)を受けた医師の2割が、再び処分を受けていた。

二木コメント-アメリカでは医師処分が日本より桁違いに多いこと、およびそれの全国データベースが完備されているため、「リピーター医師」の実態も明らかにできるのだと思います。

○[アメリカ]ミシシッピー州の医療過誤訴訟と医療費(Roberts B, et al: Malpractive litigation and medical costs in Mississippi. Health Economics 16(8):841-859,2000)[量的研究]

医療過誤訴訟の頻度が地域の医療費に与える影響を明らかにするために、母数モデル(fixed effect model)を用いて、ミシシッピー州メディケア・パートA(医師診療費を償還)の地域(郡)別医療費を説明変数とする重回帰分析を行った。その結果、加入者1人当たり医療費は医療過誤訴訟頻度と有意に関連していた。医療費増加の主因は、当該地域の医師が訴訟リスクを感じて、「防衛医療」に走るためだと推計された。医療訴訟頻度が高いための医療費増加は相当大きく、一部の地域では25%も高くなっていると示唆された。

二木コメント-医療訴訟が医療費に与える影響を直接測定した初めての研究だそうですが、なんともアメリカ的(America only)研究です。

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6.私の好きな名言・警句の紹介(その37)-最近知った名言・警句

<研究と研究者のあり方>

<その他>

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