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『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻164号)』(転載)

二木立

発行日2018年03月01日

出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。


目次


お知らせ:

「安倍政権の『高齢社会対策大綱』は前政権の大綱とどう違うか?」『日本医事新報』3月3日号に掲載します(「深層を読む・真相を解く」(73))。論文は「ニューズレター」165号(2018年4月1日配信)に転載する予定ですが、早く読みたい方は掲載誌をお読み下さい。


1. 論文:在宅での看取りの推進で医療介護費の抑制は可能か?
(「深層を読む・真相を解く」(72)『日本医事新報』2018年2月3日号(4893号):20-21頁)

マスコミの終末期ケア(費用)についての報道が最近また増えています。私も、昨年来「全国紙」2紙の取材を受けました。この種の取材は2000年前後から受けていますが、今回は新たに、在宅訪問医が在宅での看取りにより、医療介護費の削減が可能と報告していることについての見解を求められました。代表的な論者は、金城謙太郎医師(第16回日本在宅医学会大会,2014)、村上典由医師(第17回日本在宅医学会大会,2015)、小笠原文雄医師(『なんとめでたいご臨終』小学館,2017)等です。

本稿では、まず3氏の言説とその妥当性を検討します。次に、最近、自宅死亡割合が一進一退であり、今後それを大幅に増やすことが困難と私が判断している理由を述べます。

公的費用に限定すると安い?

実は、自宅での看取りは入院医療に比べて大幅に安上がりとの主張は、厚生労働省も小泉政権時代の2005年8月に行いました。同省は、食道がん術後で「癌性疼痛、癌性発熱等の症状悪化」のある患者を自宅で看取った場合の最期の1か月間の医療費は57.7万円であり、入院での看取り115万円の約半分と推計しました(「終末期の医療費・制度別実効給付率について」)。ただし、これは極めて重症な例外的患者をモデルにした机上の計算で、しかも訪問看護・介護費用等は含んでいませんでした。

それに対して、上記3医師の検討は、実際に在宅で看取った患者を対象とし、しかも医療・介護の両方の費用(以下、公的費用)を含んでいます。しかも、金城・村上氏は対照群として入院死亡した患者の医療費も示しています。

その結果、金城氏と村上氏は、在宅群の公的費用は入院群に比べてそれぞれ約16%、約20%低いと報告しています。小笠原氏は緩和ケア病棟に入院したとの仮定と比べ、27%安かったとしています。

在宅ケアの費用はどのようなケアが行われるかにより相当異なり、入院と同レベルの「ハイテク在宅ケア」が行われた場合の医療費は在宅と入院とで同水準との報告もあります(濃沼信夫・他:『高齢者の退院支援と在宅医療』メジカルビュー社,2006,210-217頁)。

それに対して、3氏の報告は、「在宅ホスピス」的ケアでは、在宅ケアの公的費用は入院よりも安いことを示唆しているように見えます。ただし、公的費用に限定しても、以下の2点に留意すべきです。

3氏の報告では、在宅群の死亡前1か月間の公的費用が60万~75万円と相当高額であり、入院群と比べて2~3割少ないだけです。このことは、上述した厚生労働省のモデル計算の非現実性を示しています。もう一つは、この費用は、介護保険施設で看取った場合の費用(もっとも高額の介護療養病棟でも約40万円)より、相当高いことです。

「リンゴとオレンジの比較」

実は私は3氏の報告をみて、既視感にとらわれました。それは、1980年代以前の在宅ケアの費用効果分析で、在宅ケアの方が施設ケア(入院ケアを含む。以下同じ)に比べて安上がりとの諸報告です。しかし、その後1990年代に欧米で行われた厳密な実証研究により、それは否定されました。最近では、OECDが重度障害者では在宅ケアの費用は施設ケアよりも高いことを示しています(Tachling Wasteful Spending on Health, 2017,p.208)。

なぜ、在宅ケアが安上がりに見えたのか?大きな理由は2つあります。1つは、費用を公的費用に限定し、私費サービスと家族等によるインフォーマルな介護費用を除外していたからです。もう1つは、在宅群と施設群との重症度を揃えていなかったからです。一般的に言えば、在宅群は施設群に比べて、医学的重症度が軽く、社会経済的条件も恵まれているのです。ある研究者は、両群の単純な比較を「リンゴとオレンジの比較」と揶揄していました(Hughes SL: Health Services Research 20(4):461-488,1985)。

そのために、現在の医療の費用効果分析では、①公私の社会的総費用で比較すること、②2群の患者の重症度を揃えること(ランダム化試験または「ケース・コントロールスタディ」等により)が鉄則になっています。上記報告はこの2つを怠っています。

実は、金城氏は「家族による介護[を含まなかったこと-二木]が費用抑制効果の一つ」と、村上氏も「家族介護などのインフォーマルサービスについても更に詳細な調査・検証の必要性がある」と認めています。それにもかかわらず、在宅群の「費用抑制効果」を主張するのは無理があります。

自宅死亡割合は上昇していない

ただし、公的費用(社会保障給付費)抑制の視点からは、在宅での看取りを促進する方が一見「効率的」にみえます。しかし、最近の死亡場所の変化を検討するとそれが困難なことが分かります。

日本では長年続いていた自宅死亡割合の減少は2005-06年の12.2%を底にして、その後微増に転じ、2008年には12.8%になりました(厚生労働省『人口動態統計』)。しかし、その後一進一退となり、直近の2016年は13.0%です。しかも、この「自宅」には、近年急増しているサービス付き高齢者向け住宅(実態的には多くが施設)での死亡も含まれており、これを除いた「マイホーム」での死亡割合は減少している可能性もあります。

それに対して、医療機関での死亡割合は2005年の82.4%(これがピーク)から2016年の75.8%へと11年間で6.6%ポイントも低下しましたが、老人施設(老人ホーム(有料老人ホームを含む)+老人保健施設)での死亡割合は同じ期間に2.8%から9.2%へと6.4%ポイントも増加しました。つまり、医療機関での死亡を代替したのは自宅死亡ではなく、老人施設での死亡なのです。

そのために、今後の死亡場所の選択肢は「在宅(自宅)と入院」の二者択一ではなく、「在宅と入院と施設」の三者となっています。厚生労働省も、塩崎恭久大臣(当時)の指示により、昨年4月、従来の「在宅医療等」(介護施設を含む)という誤解を招く表現を、「介護施設・在宅医療等」に変更しました。しかも、厚生労働省は「在宅医療の推進」を掲げつつ、実際にはそれを絶対視せず、「時々入院、ほぼ在宅」、「居宅生活の限界点を高める」ことを強調しています。以上を踏まえると、終末期ケアでの在宅と入院との二者択一論は的はずれと言えます。

しかも、今後、単独世帯・夫婦のみ世帯、および高齢者の独居率が高まることを考えると、たとえ診療報酬と介護報酬で自宅死亡増加の誘導が行われても、自宅死亡割合が大幅に上昇するとは考えられません。例えば、「日本の世帯数の将来推計(全国推計)-2018年推計」(国立社会保障・人口問題研究所)によれば、2015~2040年の間に、①[単独世帯+夫婦のみ世帯]の割合は54.7%から60.4%へと5.7%ポイント上昇し、②65歳以上独居率は、男で14.0%から20.8%へと6.8%ポイント、女でも21.8%から24.5%へと2.7%ポイント、上昇します。しかも家族介護のないと、公的費用に限っても自宅死亡の方が高くなる可能性が高いと思います。

超高齢社会の死亡は「ゆっくり死」との事実誤認に基づいて、「在宅ひとり死」を精力的に提唱している上野千鶴子氏は「家族がいなくても独居者の在宅看取りは可能」としつつ、「現状ではまだまだハードルが高い。看取りの司令塔となってくれる人々-親しい友人や、非常に強いコミットメントをしてくれるカリスマ的な医師や看護師、ケアマネさんや介護職-そうした人的資源に恵まれた人だけが、独居の看取りが可能という状況」と認めています(『ケアのカリスマたち』亜紀書房,2015,339頁)。

私もこれはリアルな認識だと思います。今後の終末期ケアで求められているのは、一般の長期ケアと同様に、当事者の選択を尊重した上での「在宅・病院・施設ケアのベストミックス」です。

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2. 日本のソーシャルワーク・社会福祉領域で常用されている概念・用語に対する私の3つの疑問と意見

(日本ソーシャルワーク教育学校連盟(ソ教連)のホームページに2018年1月28日「特別寄稿論文(個人論文)」として掲載:http://www.jaswe.jp/。「二木教授の医療時評(157)」『文化連情報』2018年3月号(480号):11-17頁に転載)

はじめに

私は医師出身の医療経済・政策学研究者です。1972年に東京医科歯科大学医学部を卒業後、東京都心の地域病院(代々木病院)に13年間勤務し、脳卒中患者のリハビリテーションと医療問題の研究に従事しました。ちなみに同病院のリハビリテーション・チームには最初からソーシャルワーカーが参加し、「入院当日患者・家族面接制」を、おそらく日本で最初に始めました(1)。1985年に日本福祉大学(社会福祉学部)に赴任し、33年間勤務した後、2018年3月に定年退職します。

日本福祉大学では、研究対象を医療・リハビリテーションから、介護保険、地域包括ケアへと徐々に広げました。2006年~2017年の10年間、日本学術会議連携会員を務め、社会福祉学分科会に所属し、2007年の日本学術会議シンポジウムでは、当時の医療制度改革に関わらせながら「有能な医療ソーシャルワーカー養成のための社会福祉教育の新しい課題」について問題提起しました(2)

2015年に日本社会福祉教育学校連盟会長になり、それ以来、社会福祉(学)の本や論文を本格的に勉強するようになり、政府・厚生労働省の福祉政策や他の福祉系団体の文書を分析したり、他団体の役員等と交流する機会が増えました。そして2017年には「福祉改革」についての初めての著書を出版しました(3)

このような勉強と経験を通して、日本のソーシャルワークや社会福祉の領域(学界、業界)で常用されている概念・用語の一部に疑問を持つようになりました。幸い2018年2月10日に愛知県医療ソーシャルワーク学会で基調講演「近年の医療・福祉改革とソーシャルワーカーの役割」をする機会を得たので、講演資料の「おわりに」で、私の疑問を3つにまとめました。本稿はそれに大幅に加筆したものです。いずれの疑問についても、自分で調べるだけでなく、多くの方と意見・情報の交換を行い、「独断と偏見」に陥らないように努めました。ただし、私はソーシャルワーク、社会福祉については「新参者」ですので、思わぬ誤解があると思います。率直なご指摘・御批判をいただくようお願いします。

1.対象をクライエント本人(個人)のみに限定する「バイステックの原則」を日本でそのまま使うのは無理ではないか?

この第1の疑問は、私が日本福祉大学で大学院生の博論指導をしていた2015年に持ち、拙著『地域包括ケアと福祉改革』所収の空閑浩人『ソーシャルワークにおける「生活場モデル」構築』の書評の「イントロ」で、以下のように書きました(3:91頁)

<私が指導している大学院生のなかには現役MSWが少なくなく、彼らの研究テーマの多くは入院患者の退院支援・居所選択に関わるものです。退院支援では患者だけでなく家族への支援も不可欠であり、しかも、患者本人と家族は一体ではなく、特に障害が重度の場合、退院先に関して葛藤・緊張が生まれるのが普通です。この現実を反映し、医療ソーシャルワークの教科書は、MSWは「患者と家族の関係」への配慮が必要と書いています(田中千枝子『保健医療ソーシャワーク論』勁草書房,2008,34-35頁)。

しかし、社会福祉・ソーシャルワークの原理論の研究書で、このことを正面から論じたものはほとんどありません。例えば、児島亜紀子氏(「誰が『自己決定』するのか」『援助するということ』2002,有斐閣,第4章)は、自己決定について多面的に検討していますが、それを行うのはクライエント本人のみと前提し、家族は、援助専門職、医療関係者等とまとめて「ケアラー」としています。ソーシャルワーク・対人援助の教科書も、「クライエントを個人としてとらえる」「バイステックの7原則」を(私からみると)無批判に紹介しているだけです。そのために、あるMSWの院生から「自分は患者と家族の両方を支援しているが、これはバイステックの原則に反しているのでしょうか?」と質問されたこともあります。[その院生=MSWは、患者の当初の意向に反して施設入所になる事例に関わった際に、「自分は患者の意向に沿うことができず、大学で習ったバイステックの7原則の『クライエントの自己決定を促して尊重する』に反しているのではないか」と罪悪感を感じたことがあるそうです。-今回補足]

そんな折りに、教え子のMSW出身の研究者から、空閑氏が本書で、「日本人の生活や文化に根ざしたソーシャルワークのあり方」=「生活場モデル」を構想し、「『生活場』として『家族』へのアプローチ」を正面から論じていると教えてもらい、本書を熟読しました。>(引用終了)

『地域包括ケアと福祉改革』を出版後、全米ソーシャルワーカー協会(National Association of Social Workers)のホームページに掲載されている「倫理綱領(the code of ethics)」(2017年新版)をみたところ、"Clients" is used inclusively to refer to individuals, families, groups, organizations, and communities"と明記されていました。これはアメリカのソーシャルワーク=個人モデルという私のそれまでのイメージとは異なるので、新版で修正されたのかと思いましたが、「倫理綱領」の旧版(1996)の日本ソーシャルワーカー協会訳でも、次のようにまったく同じ表現が使われていました。「『クライエント』という用語は、個人、家庭、グループ、および地域社会の総称である」(4)。なお、「日本社会福祉士会の倫理綱領」(2005)では「利用者」という表現が頻繁に使われていますが、その定義・範囲は明記されていません。しかし、前後の文脈から「利用者本人」に限定されていると読めます。

バイステック『ケースワークの原則』の記述を再確認

私のこの疑問に対して、複数のベテラン医療ソーシャルワーカーから、「バイステックの原則は援助関係を形成する上での基本的な考えや態度であり、クライエントは本人や家族と捉えている」、「クライエントは当事者と当事者を取り巻く家族や関係者を含めたクライエント・システムと捉える必要がある」等のご意見をいただきました。バイステックの「クライエント」が「援助していくべき個人や、その家族」を意味すると解説している教科書もあります(5)

そこで、バイステックの『ケースワークの原則』を精読したところ、バイステックが「クライエント」をケースワーカー(ソーシャルケースワーカー)の援助対象である「一人の個人」、「独自性を持つ『特定の一人の人間』」に限定し、その個人の家族は含んでいないこと、およびクライエントが居住する地域にも言及していないことを再確認しました(6)。このことは、原則6「クライエントの自己決定を促して尊重する(クライエントの自己決定)」でも同じです。さらに「クライエントに関する知識」(原則2。71頁)にも、「援助におけるコミュニケーション」を規定する事柄(原則3。75頁)にも、「自己決定の制限(原則6。175頁)」にも、「秘密保持を求めるクライエントの権利の限界」(原則7。201頁)にも、家族への言及はありません。本書には10の事例が示されていますが、家族との面接はほとんど書かれていません。第5事例(173頁)は今流に言えば「退院計画」の事例ですが、患者本人以外は登場しません。

そのためか、『ケースワークの原則』に収録されている「英語版への序言」(アイリーン・ヤングハズバンド氏)は、「本書においては、人々の行動が、家族関係と社会的義務に関する文化的諸仮定によって、また文化的価値の差異によって、どの程度影響を受けるか(中略)については何ら言及することがない」と婉曲に批判しています(5:223頁)

「ケースワーク」だから家族を無視してよいとは言えない

私の疑問に対しては、ソーシャルワークの複数の研究者から、バイステックはソーシャルワークでなく「1対1の対人援助を想定しているケースワーク」の原則を論じているだけとの説明も受けました。私も、この本が書かれた1950年代には、アメリカではケースワーク、グループワーク、コミュニティーワークの「分業」が主流だったことは知っています。しかし、ケースワークだから家族は無視して良いとは言えないと思います。ましてや、現代のソーシャルワークが上記3つの領域を統合していることを考えると、バイステックの原則には大きな「適用限界」があると言えます。ちなみに、私の友人の厚生労働省関係者は、日本のソーシャルワーカーにバイステックの原則を墨守して、クライエントを個人と捉える考えが浸透していることが、ソーシャルワーカーの地域社会での活躍を自ら阻んでいるのではないかとの厳しい指摘をしています。

実は、バイステックの「訳者あとがき」で尾崎新氏は、バイステックの「主張を鵜呑みにして、それだけに頼っても、さまざまな臨床場面に対応することは困難です」と警告し、「原則に加えて、臨機応変で柔軟な思考や判断が求められます」と書いています(6:235頁)。上述したように、ベテランのソーシャルワーカーは「臨機応変で柔軟な」実践をしています。ただし、クライエントに家族を加えるのは、原則そのものの修正になると思います。

小括:私は「バイステックの原則」の多くが現在でも有用とは思いますが、大学での講義やソーシャルワークの研修会でそれの解説を行う際は、バイステックが援助対象をクライエント個人に限定し、家族等を含んでいないという大きな歴史的限界を持っていることを強調する必要があると思います。そうでないと、冒頭に紹介した私の院生のように、無用な不安や罪悪感を持つことになってしまいます。言うまでもありませんが、クライエントに家族等を加えることは、本人と家族を一体視したり、本人より家族の意向を優先することは意味せず、あくまでクライエント本人の意向をもっとも尊重するのは当然です。

なお、大谷京子氏は、バイステックを含めた初期のソーシャルワーク研究者のソーシャルワーク関係は、「ほとんどがワーカー側の態度に特化した概念」であり、「パターナリスティックな援助関係を前提とした場合に成立する議論」であるとの重要な批判・問題提起をしています(7)

2.「ソーシャルワーク(社会福祉)の価値」は「…価値観(価値規範、価値基準)」等に変えるべきではないか?

「ソーシャルワーク(社会福祉)の価値」はソーシャルワーク・社会福祉の学会・業界のもっとも基本的な用語・概念の1つであり、厚生労働省の審議会や社会福祉士国家試験関連の文書でも常用されています。「ソーシャルワーク(社会福祉)の価値・知識・技術」とのいわば三位一体的表現も繁用されています。

私が「価値」という表現に違和感を持つ2つの理由

しかし私は、次の2つの理由から、この用語に違和感を感じています。第1の理由は、福祉学界以外の社会科学分野では、「価値自由」(マックス・ウェーバー)に代表されるように、「価値」は特定の価値判断を意味し、論者によって異なることが前提となっているからです。私はそのものズバリ「価値判断」を用いています。そのため、このように理解している研究者は、私を含めて、社会福祉のみが(普遍的)「価値」を強調することには、特定の価値判断を押しつけるのではないか?等の違和感、あるいは「壁」を感じるのです。

第2の理由は、ソーシャルワーカーが今後連携を強める必要がある、保健医療専門職や地域住民には「ソーシャルワーク(社会福祉)の価値」はまったく理解されないからです。厳密に言えば、医学医療界でも、まれに「医学(看護)の価値」が使われますが、それは「医学(看護)の重要性」という意味で、ソーシャルワーク・社会福祉の「価値」のように、特定の価値観は意味しません。保育界でも事情は同じ同じと聞いています。多職種協働や地域共生社会づくりが求められている時代に、ソーシャルワーカーが他職種や地域住民には理解されず、逆に壁を作りかねない用語・用法に固執するのは非生産的だと思います。

実は、ソーシャルワークや社会福祉学の著作でも、「価値」という用語は「据わりが悪い」ようで、多くの場合、他の用語と併用されるか、他の用語に置き換えられています。例えば、『社会福祉学事典』では「『価値』は、ソーシャルワーカーが目指すべき理想、信念であり、人や社会をどのように見るべきかという人間観、社会観を表したものである」と説明されています(8)。空閑浩人氏も、「『価値』とはその[ソーシャルワークの-二木]基本となる思想や理念のこと」、「価値とは、ソーシャルワーカーが利用者を援助する際に、常にもっていなければならない思想・信念や、援助の方向となる指針、あるいは願いなどを示すも」と説明しています(9)

私はこのような説明に賛成ですが、それなら他領域の研究者や他職種には理解できない「価値」は用いず、ソーシャルワーク・社会福祉の思想、理念、原則、信念等とストレートに表現した方が誤解を招かないと思います。

Valuesの適訳は「価値」ではなく「価値観」「価値基準」

私は、最近、社会福祉領域の「価値」の原語は、values(複数形)であることに気づきました。そこで、複数の英和辞典を調べたところ、どの辞書でも、value(単数形。不可算名詞)は「価値」等、values(複数形)は「価値基準、価値観」と訳されていました。世界的に権威のあるオックスフォード英語辞典の説明も同じでした:(values) Principles or standards of behaviour; one's judgement of what is important in life (Definitiion of values in English by Oxford dictionaries.ウェブ上に公開)。この点については、日本福祉大学の英語担当の教員からも「お墨付き」を得ています。

第3の疑問で述べる「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」の原文(英語:Global Definition of Social Work)のvalue(s)の用法を調べたところ、複数形(values)は6回使われていましたが、単数形(value)はまったくありませんでした。日本語訳ではvaluesは2個所で「価値観」(2-3頁の「競合する価値観」と3頁の「独自の価値観」)と訳されており、他は「価値」でした。しかし私は、valuesは、前後の文脈からも、複数形であることからも、「価値基準」または「価値観」と訳す方が適切と感じました。

驚いたこと、かつたいへん嬉しいことに、上述した全米ソーシャルワーカー協会の「倫理綱領」旧版(1996)の日本語訳でも、value(s)はすべて「価値観」と訳されていました(4)。上述したバイステック『ケースワークの原則』の訳書では、valuesおよびそれとほぼ同義のstandardsはほとんど「価値基準」、「価値判断の基準」、「価値観」と訳されていました(6:147-151頁)。standardは単数では基準、標準を意味しますが、複数のstandardsには「(道徳的)規範」というvalues(複数形)とほぼ同じ意味があります(Oxford Dictionary等)。

なお、全米ソーシャルワーカー協会の「倫理綱領」を参考にしたと思われる「日本社会福祉士会の倫理綱領」は「倫理と価値」と表記しています。私は、同会が「価値」として掲げている、人間の尊厳、社会正義、貢献、誠実、専門的力量の5つはいずれも重要と思いますが、それらの「価値」は、ソーシャルワーカー固有のものではなく、保健医療福祉職を含め、対人支援に関わる専門職に共通しているとも感じています。

小括:私は「ソーシャルワーク(社会福祉)の価値」は「価値規範」または「価値基準」に代えるのが適切だし、現実にも合うと考えます。英和辞典的に言えば「価値観」がポピュラーですが、それだと個人の考え、個人によって異なると誤解される危険もあるからです。ちなみに、私は日本福祉大学学長時代の毎年の入学式「学長式辞」で、「社会福祉の価値・知識・技術」という定番表現を敢えて言い換え、「広い意味での『ふくし』の精神と知識と技術を身につけて下さい」と話しました。

3.「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」の「日本における展開」から「最低限度の」は削除すべきではないか?

この第3の疑問は昨年、「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」の「日本における展開」(日本語、英訳)を読んだときから感じています。
「日本における展開」は「日本におけるソーシャルワーク」として「重要視する」取り組みのトップで、以下のように書いています。「ソーシャルワークは、人々と環境とその相互作用する接点に働きかけ、日本に住むすべての人々の健康で文化的な最低限度の生活(the minimum standards of wholesome and cultured living)を営む権利を実現し、ウェルビーイングを増進する」。

しかし私は、この「最低限度の生活」という限定に強い違和感、「古さ」を感じます。日本のソーシャルワーカー、福祉関係者は「健康で文化的な最低限度の生活」は憲法25条の規定だと一応理解・了解できると思いますが、そのような背景知識がない外国のソーシャルワーカーは、英訳に"the minimum standards"という限定的規定が付けられていると、日本はアジア諸国でもっとも豊かな国の一つであるにもかかわらず、日本のソーシャルワークは「最低限度の生活を営む権利を実現」することしか目ざしていないのか?と誤解する危険があります。

「最低限度の生活を保障」は生活保護法だけ

「最低限度の生活を保障」という表現は、憲法25条第1項を具体化したとされる生活保護法(第1条)にはありますが、社会福祉法、介護保険法、社会福祉士及び介護福祉士法等にはありません。政府の審議会・委員会文書でも、すでに1995年に、社会保障制度審議会勧告「社会保障制度の再構築」が、1950年勧告以降の「社会保険制度の改善により、今日の社会保障体制は、すべての人々の生活に多面的にかかわり、その給付はもはや生活の最低限度ではなく、その時々の文化的・社会的水準を基準と考えるものとなっている」との認識を示し、「社会保障制度の新しい理念とは、広く国民に健やかで安心できる生活を保障することである」と提唱しています。これ以降の政府・厚生労働省関連文書では、社会保障・社会福祉について、「最低限度の生活を営む権利を実現する」等の限定表現はまったく用いられていません。

現実の政策でも、事情は同じです。医療保障制度を例に取ると、21世紀初頭に厳しい医療・社会保障費抑制政策を断行した小泉純一郎政権ですら、2003年3月の閣議決定「医療保険制度体系及び診療報酬体系に関する基本方針について」で、「社会保障として必要かつ十分な」「最適の医療が効率的に提供される」としました(10)。それに対して、医療分野に市場原理の導入を主張する勢力は医療保険の給付水準は「最低水準」に限定すべきと主張しています。

それにもかかわらず、「日本における展開」に「最低限度の」という記述を残しておくと、それを真に受けた経験不足のソーシャルワーカーが、低所得以外の人々の支援はソーシャルワークではないと錯覚したり、支援の範囲を「最低限度の生活」レベルに狭める危険があると思います。

上述したように、「日本における展開」には「最低限度の生活を営む権利を実現」と「ウェルビーイングを増進する」が並記されています。このウェルビーイングは、憲法13条の「幸福追求権」を反映しているのかとも思いましたが、志村健一氏による、ワーキンググループでの「日本における展開」作成についての詳細な経過報告を読む限りでは憲法13条についての議論は一度もされていませんでした(11)

小括:現代日本のソーシャルワーク、社会福祉の対象が「生活困窮者」だけでなく、「すべての国民」に拡大していることを踏まえると、「日本展開案」が「ソーシャルワークは、…健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を実現」と規定しているのは、国内的にも、国際的にも不適切で、「最低限度」は削除すべきと思います。

第3の疑問への補足:社会保障・社会福祉の憲法上の根拠は25条と13条

社会保障・社会福祉の憲法上の根拠として、かつては25条の生存権規定(のみ)があげられることが多かったのですが、私が調べた範囲では、現在では、社会保障の憲法的基礎として25条と13条の両方をあげるのが「共通理解」または「多数派」になっています。この視点からも、「日本における展開案」から「最低限度の」は削除すべきと思います。以下、主な言説を簡単に紹介します。

社会保障法解釈の定番書と言える堀勝洋『社会保障法総論』は「社会保障法制定の根拠を憲法25条のほか、13条、14条に求める考え」として、佐藤進『社会保障の法体系[全]』(勁草書房,1990,149頁)小川政亮「社会的人権思想の展開(沼田稲次郎他編『現代法と社会保障』総合労働研究所,1982,131頁)の2つをあげ、「憲法13条の規定も社会保障法制定の根拠になり得る」としています(12)同書第2版(2004)では、両文献の例示は削除されましたが、論旨は維持されています]。

社会福祉士国家試験の定番参考書と言える『新・社会福祉士養成講座⑫社会保障』は、社会保障各法の法源として、憲法第25条と並んで、憲法第13条も、以下のように説明しています。「また、第13条も、社会保障関係の法制度の法源の一つとして理解されている。この規定は、個人の幸福追求権を定めたものであるが、各個人が人間としての尊厳を維持し、主体的に幸せな人生を送ることができるようにするための条件整備として社会保障関係の法制度の整備を位置づけることができる。」(13。執筆は増田雅暢氏)。

かつて25条のみを根拠にしてい左派研究者の大半(日野秀逸氏、井上英夫氏、岡崎祐司氏、伊藤周平氏等)も、21世紀に入ってから、異口同音に13条の意義も認めるようになっています(14-17)。私の調べた範囲ではその例外は、里見賢治氏だけだと思います(18)

菊池馨実氏は、2000年前後に、13条を根拠規定とし、25条の役割を軽視する「自由基底的社会保障理論(観)」を主張しましたが、2011年には「社会保障法とは『憲法25条を直接的な根拠』」とし、「根源的には、憲法13条に根拠をおく『個人の自律』に価値をお」くと軌道修正しています(119,20)

社会福祉では憲法25条だけでなく、13条も重要であることを最初に主張したのは大橋謙策氏です。氏は日本社会事業大学最終講義で、1960年代からフランス革命の「博愛」思想と関連づけて、13条の重要性について考えるようになった経緯を語っています(21)。ただし、現時点で、氏がこのことに最初に言及したと確認できる文献は『月刊福祉』1977年1月号論文です(22)。氏は、同論文で「三つの視点から社会教育が必要」とした上で、「第二に、憲法一三条、二五条を中心にした人権感覚の豊かな定着と社会福祉制度の理解度を進めること」をあげました。

引用文献

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3.インタビュー:薬価制度改革案と費用対効果評価導入をどう読むか
(『国際医薬品情報』2018年1月29日号(1098号):26-29頁)

医薬品の費用対効果評価の導入を巡っては、中医協の専門部会で5年前から議論が続けられてきたが、目標とした18年4月の本格導入には至らず、難航を極めている。その要因として日本オリジナルの制度の組み立てにおいて、個々のパーツに様々な疑問点が投げ掛けられていることが挙げられる。今回、医療経済学の専門家である日本福祉大学の元学長の二木立先生に、薬価制度抜本改革と費用対効果評価導入を巡る議論・過程への率直な印象を伺った。

―― 費用対効果評価の試行的導入は、薬価制度の抜本改革案にも盛り込まれました。まずはこの抜本改革案に対する評価からお聞かせください。

二木 厚生労働省が提示した「薬価制度の抜本改革について」は、2016年12月の政府決定(「薬価制度の抜本改革に向けた基本方針」)を受けたかなり網羅的な改革案となっている。その改革案を見ていくと、①新薬創出加算・適応外薬解消等促進加算制度の抜本的見直し:革新性の低い品目も加算対象となっていることを指摘しており、対象を限定する方向だ。②長期収載品の薬価の見直し:これは見直しという名の引き下げである。具体的には後発品置換率80%以上では後発品の薬価まで、置換率80%未満でも後発品薬価の1.5倍まで、段階的に引き下げると明記している。③外国平均価格調整の見直し:当初、米国のリストプライスは流通価格との乖離が大きいとして米国を外す方向だった。それがメディケア・メディケイドで用いられる価格リストの参照で落ち着いたのは米政権や米製薬団体との妥協点といったところか。確かにメディケア・メディケイドはリストプライスよりは低いが、そこからディスカウントが入るので実勢価格はさらに低くなっている。

そして④費用対効果評価の導入である。極端な高薬価を予防する効果はあるだろう。しかし、医療経済評価の重鎮である久繁哲徳氏によると、経済評価の世界的リーダーであるドラモンド(Drummond)は、経済評価の導入により医療システムが効率的に機能するようになったとの根拠は認められていないと明言している(1)。医療経済評価に関しては、東京大学大学院の五十嵐中特任准教授の指摘も興味深い。製薬企業や医師会は英国を例に医療経済評価の導入は医薬品アクセスを悪化させると主張するが、五十嵐氏は英国の医薬品アクセスはNICE導入以前から日本に比べて遙かに悪く、NICEが悪化させたわけではないというものだ(2)

私は経済評価の第一義は政策決定プロセスの透明化にあり、二義的に極端な高薬価の予防であると考えている。だから費用対効果評価だけを取り上げて口角泡を飛ばすよりは、改革案全体を通した影響を見るべきであり、私は大枠としては合理的かつ現実的であると評価している。

―― 改革案は官邸主導を色濃く反映しており、政府は薬剤費抑制に本腰を入れているとみえます。

二木 政府・官邸が本気で薬剤費抑制を目指していることは間違いない。その目標は2000年代以降漸増してきた国民医療費中の医薬品割合を、1980~90年代の水準にまで戻すことだと思う。中医協資料「医療機関の費用構造の推移」を見ると、人件費の割合は2000年の50.2%から2013年度の46.4%へと3.8%ポイントも低下しているが同じ期間に、医薬品の割合は19.6%から22.3%へと2.7%ポイント上昇している。非正規雇用の人件費が経費として扱われることには注意が必要だが、それを差し引いても人件費割合減、医薬品費割合増の傾向が続いていることが読み取れる。

昨年以降の薬価・医薬品費引き下げのすさまじい攻勢を見ていて、恩師の故川上武先生が1970年代の医療問題の新しい特徴として提起した「総資本と製薬資本との対立」という視角がまた有効になっていると感じた。具体的には、先生は、1972年出版の『現代の医療問題』(東京大学出版会)で、1970年代の医療(費)問題の1960年代には見られなかった新しい特徴・違いとして、1960代に総医療費が急増し、しかもそれに占める医薬品費の比率の割合が上昇したことを背景にして、「総資本(国家独占)の医療費問題に対する関心・姿勢が非常に強化されたこと」(55頁)を指摘された上で、「総医療費の圧縮を意図する(中略)国家独占[総資本-二木]と製薬資本が、医療費という局面では明らかに厳しい矛盾に直面した。両者が資本の論理の枠内で共存するためには、医薬業界の合理化・寡占化の進行以外にはない」と強調された(90頁)。

医薬品の価格は歴史的にも、また世界を見ても、医療政策の影響を受ける従属変数というのが常識であり、自由に動く独立変数ではない。オプジーボ亡国論は2016年大きな議論を巻き起こしたが、独立変数を前提とする無意味なものであったことも明らかになった。先日の日本医療政策機構の専門家会合ではこの点について相も変わらず「いや今回は違う」との発言が出たので思わず、「今回は違う、とこの50年繰り返していますよ」と返した。

このタイミングで再読をお勧めしたいのが、慶應義塾大学大学院の中村洋教授が16年5月、この誌面に寄せた提言である(3)。中村氏は高薬価型新薬の研究開発のみに依存したビジネスモデルの限界を指摘し、薬剤費上昇抑制策に対する耐性を持つ企業への脱皮を提言していた。16年11月にオプジーボが市場拡大再算定の特例ルールの緊急的な適用を受けたことは、まさに彼の想定した「更なる衝撃」と言えよう。今後は患者数の少ない疾患への適応で申請し高薬価を獲得したのちに患者数の多い疾患に適応拡大させるという戦略は採れなくなるだろう。同時に彼は製薬業界の政治力の弱さを突いていたことも見逃せない。先駆的な論文だった。

―― 改革案提示に先立つ10月25日、費用対効果評価専門部会・薬価専門部会・保険医療材料専門部会合同部会で費用対効果評価の試行的導入のための価格調整の方向が固まりました。

二木 費用対効果評価の結果を医薬品の保険償還の可否には使わない旨が確認されたことで、参照価格問題、混合診療問題も、取りあえずは棚上げにされた。もし保険償還の可否に使うとなれば当然混合診療と連動するため、患者の経済力(支払い能力)による医療格差を認めることになる。この件では健保連側の感度の悪さ、厚労省の見識の深さを認識した。費用対効果評価に基づいて高額医薬品の薬価を調整するのも賛成だ。しかし医療経済評価には莫大な費用を要することが想定される。評価そのものの費用対効果を勘案すれば、その対象は当然一般診療にまで広げるべきではなく、極端な高額医薬品に止めるべきである。

合同部会で示された価格調整の考え方は▼ICERが一定程度低い品目について価格調整を行わない▼ICERに応じて連続的できめ細かい価格調整を行う▼ICERが相当程度高い品目については、今後定める価格調整幅の上限を用いた価格調整を行う-というものだ。

そしてこの考えに基づいて、以下の3領域:①価格調整を行わない領域②ICERに応じた価格調整に応じて価格を変動させる領域③一定の引き下げ幅(価格調整の上限)での価格調整を行う領域-が設定された。その上で、領域①と②の境界となる基準額は、白岩健氏等の日本人を対象にした2010年の支払い意思額調査の結果と英国の評価基準を参考にして500万円とすること、および領域②と③の境界となる基準額は1000万円を採用することとされた。

私はICERを用いることについても、閾値を500万円とすることについても評価している。費用対効果評価専門部会が発足した2012年の時点で、私は「余命1年延長当たり費用」(の閾値、上限)としては血液透析の年間費用約500万円が目安になると考えていた。その理由は①標準治療で効果が確認されていること②まさに1年の延命をもたらすこと③30万人超の患者が受けている(普及している)こと等だ。なお医療ではないが、介護保険の要介護5(約60万人)の支給限度額も年間430万円である。これら500万円、430万円という数値は経験的なもので理論的根拠はないけれど、この点は英NICEが用いる基準(1QALYあたり2万~3万ポンド)についても同じだ。元来どんな閾値にも理論的根拠はない。そして英国でも基準を超える医薬品が推奨されることもあるし、そもそも閾値を設定しないと明示している国もある。

しかし支払意思額(WTP)調査は実施すべきではないと思っている。

―― WTP調査を巡る専門部会の議論は紛糾し、17年度中に実施するはずが一転、新たな調査は行わないことで落ち着きました。先生がWTP調査を用いることに反対なさる理由を伺えますか。

二木 確かに2017年8月の専門部会では「新たな調査は行わない」ことになったが、これは試行期間中(2017年度中)は行わないという意味で、来年度以降に実施される可能性があることに注意しなければならない。

WTPは個人がある財やサービスに対して支払っても良いと思う上限金額のことで、個人の所得や価値観などに依存する、いわば自由主義下の市場メカニズムを前提とした概念である。米国の新古典派経済学者ポーリー(Pauly)は、WTPは富裕層と貧困層で違っていて当然だと述べている(4)。突き詰めて言うと、WTPで見れば命の価格すら富裕層と貧困層では違うということになる。富裕層が高級車に乗り、貧困層は軽自動車あるいは車を持たないことに対して文句を言う人はいないだろう。米民間保険もこの前提に立っている。こうした市場メカニズムにおける概念を公的医療保険に持ち込もうというのは相当無理がある。

WTPは純学問的にはそれなりに興味深い。けれどもこの概念はまだニューフェイスで発展途上にある。しかもWTP調査は、調査結果のバラツキが非常に大きく、信頼性に欠けるなど問題が多い。それが私が反対する最大の理由だ。

例えば、医療の経済評価の世界最高峰の教科書である『保健医療の経済評価 第4版』の第6章は、WTPを離散選択実験等と共に、伝統的手法に対する「代替の尺度」として紹介しているが、「保健医療におけるWTP研究の総説は、どのような質問を、誰に、どのように尋ねるという点について、大きなバラツキがあることを明らかにしている。したがって、WTPをどのように測定すべきか、また、どのようにこうした指標を経済評価に組み込むことができるのか、ということに関しては意見の不一致がある」と極めて否定的に評価している。さらに同書の第4章は、WTP調査に基づく「健康の消費価値の推定値が、健康を改善するために必要な資源の額よりも高いことが観察」されることが多いとして、単純にこの推定値を用いて、現行の予算制約の下での公的医療費支出について判断することは「不適切」としている(5)

2017年9月に翻訳が出版されたばかりの『誰の健康が優先されるのか-医療資源の倫理学』は、医療資源の希少性を根拠にして、医療への費用効果分析の全面的導入を主張し、第2章で、EQ-5D、「基準的賭け法」、「時間的得失法」について詳しく説明しているが、WTPについてはまったく触れていない(6)

国際的に見ても、WTP調査に基づいて医療の費用対効果評価の閾値を設定している国はない。専門部会資料でこの点が初めて明記されたのが2017年9月というのは随分遅い印象だ。ともあれ医療の経済評価では「後進国」にとどまる日本が、「先進国」でも全く実施されていないWTP調査に基づきICERの閾値を決めようとするのは無謀としか言い様がない。

―― ICER計算における効果指標としてはQALYの改善が用いられています。QALYは適切な指標として評価されますか。

二木 2003年から導入されたDPC(診断群分類)が成功したのは優秀な技官と優秀な研究者が奇跡的にタッグを組んだからだ。世界を見ても日本が一番緻密だ。情報公開もしており、DPC導入後、日本の医療政策研究は英語論文も増え、非常に進んだ。このDPCは自然科学の論理に基づいて設計できる。一方医薬品の経済評価は経済学(社会科学)の論理に基づくもので、実証的側面と規範的側面がある。WTPはもちろん、QALYにも価値判断が入ることに関して、厚労省側も研究者も、あまりに無自覚ではないか。実証研究を行えばすぐに政策に活かせるかのように錯覚しているのではないだろうか。

すべての健康状態を0~1で(一見定量的に)表現するQALYが純学問的に魅力的であるというのは私も理解できる。一方でこれは命や健康状態の価値付けを行うことでもあり、国民感情として受け入れることができるだろうか。権丈善一氏はQALYによる効用値の測定等に対する「違和感」を述べた際に、「QALYが政策に適用されれば、QALY基準で不利な目にあった人たちがQALYに反対する政治活動を行うというような、社会的な摩擦が生じることが予測される」と指摘し、そのような「計算[を]している人たち自身が、自分の計算が社会システムにどのような影響を与えるのか、自分の研究が、社会システムのなかでどのような位置づけにあるのかということも、考えてもらえればと思います」と述べている(7)。厚労省の担当者にも専門部会委員の研究者にもこの警告をしっかりと受け止めてもらいたい。

QALYは確かに学問的には医療経済評価でよく使われている効果指標だが、フランスではLY(生存年)も併用している。私は、費用対効果評価を行う場合、効果指標として「QALYよりはLYを基本とするべき」と思っている。ただし、これはあくまで「基本」、要は「延命を目的とする医薬品等の費用対効果を計算する際」の話である。抗がん剤の効果はLYで評価すればよい。けれど延命効果はあまりなくても大きなQOLの向上をもたらす医薬品等の場合にはQALYを用いるのは当然とも思っている。その具体例は、医薬品では関節リウマチ治療薬である。また、画期的な認知症治療薬が開発され、認知症の進行が予防でき、家族の介護負担が大きく軽減される場合は、それもなんらかの形で効果に含めるべきだと思う。介護負担軽減の指標としては、「要介護度」の低下または悪化の予防が適切と思う。その理由は2つある。①要介護度は1日当たりの必要介護時間のタイムスタディに基づいて作成されており、しかもこの基準の統計学的な妥当性も確認されているので、新たに(多額の費用と時間をかけて)介護負担の軽減の調査をする必要がない。②要介護度に基づく支給限度額が公的に定められ、それに対応した給付は権利として認められているので、画期的な認知症治療薬による要介護度の低下または悪化の予防が証明されれば、それに対応する給付額の減少を、同薬のICERの基準額として用いやすい。これは、血液透析の費用を、延命効果のある新薬のICERの基準として用いるのと同じロジックだ。

そのために、費用対効果評価専門部会で確認されている「倫理的・社会的考慮要素」の③「重篤な疾患でQOLは大きく向上しないが生存期間が延長する治療」は、「重篤な疾患で生存期間は大きく延長しないが、QOLが大きく改善するか家族の介護負担が軽減される治療」に変えるべきだ。

QALYは万能ではない。その感覚を持ち合わせたオールラウンドの人材の活用を期待したい。

(インタビュー実施日:2017年11月27日)

文献

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4.論文:地域包括ケアと医療者の役割
(『日本臨床内科医会会誌』32巻4号:590-593,2017年12月1日)

はじめに-私の研究の視点・心構え

私は、以下の3つの視点・心構えに基づいて、医療経済・政策学研究を行っている。①医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究する。②事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断の3つを峻別するとともに、それぞれの根拠を示して「反証可能性」を保つ。この視点から、医療・介護政策の光と影を「複眼的」に検討する。③フェアプレイ精神(私の事実認識や「客観的」将来予測に誤りがあった場合は、潔く訂正する)。

本稿でもこの視点から、本年[2017年]4月に出版した拙新著とその後に発表した3論文をベースにして、地域包括ケアの最新の政策動向、それのプラス面とマイナス面を述べる(1-4)。最後に地域包括ケアを推進する際の地域医師会と診療所医師の役割について問題提起する。

1.地域包括ケアと地域医療構想

地域包括ケアシステムについて私がもっとも強調したいことは、それの実態は「システム」ではなく「ネットワーク」であり、全国一律のモデルはなく、具体的あり方は地域によって異なることである。このことを大前提とした上で、拙新著をベースにして、地域包括ケアと地域医療構想の関係等について5点述べる(1)

第1:地域包括ケアと地域医療連携は法・行政的には同格・一体である。地域包括ケアは2003年に公式に提起された時、介護保険制度改革として提起され、介護(サービス)が中核とされた。しかし、その後、地域包括ケアの範囲は徐々に拡大し、現在では病院が含まれるようになった。地域包括ケアは、2013年社会保障改革プログラム法と2014年医療介護総合確保推進法により法的定義がなされたが、その際地域包括ケアと医療提供体制(現・「地域医療構想」)は同格・一体とされた。実態的にも両者は同格・一体である。厚生労働省は地域医療構想により、2025年に病院病床を約20万床削減することを目ざしているが、その大前提は地域包括ケアの推進により、現在は病院に入院している患者のうち約30万人を「在宅医療・施設」に誘導することである。逆に言えば、地域包括ケアが整備されなければ、病院病床の大幅削減は困難である。

第2:地域包括ケアには医療を含まないものもある。上述したように、地域包括ケアは介護保険制度改革の一環として提起されたこともあり、地域包括ケアの源流には、保健医療系だけでなく、(地域)福祉系のものもある。後者は、各地域の社会福祉協議会や地域活動に熱心な社会福祉法人(ほとんどが特養を開設)が主導している。ただし、今後は、医療・福祉の垣根を越えることが求められている。

第3:地域包括ケアシステムに含まれる病院は多様である。今では信じられないことだが、地域包括ケアが最初に提起された時には、それに含まれる医療は診療所・往診に限定され、「看取り」も「急変への対応」も想定されていなかった。それに対して、現在では、地域密着型の中小病院(概ね200床未満)も含むことが想定されている。ただし、この点についての法的規定はなく、地域によっては大規模病院も地域包括ケアに積極的に参加している。例えば、私の地元の愛知県では、全国最大規模の大学病院を有する藤田保健衛生大学が地域包括支援センターを直営するなどして、地域包括ケアに積極的に参入している。

第4:後期高齢者急増でも急性期医療ニーズは減らない。最近では、今後急増する後期高齢者に求められているのは「治す医療」ではなく「支える医療」であるとの主張もなされている。例えば、上野千鶴子『おひとりさまの最期』(朝日新聞出版)は、超高齢社会における死は「予期できるゆっくり死」、「老衰死」と主張している。しかし、アメリカのGill等による、地域居住高齢者(当初はADLが自立)10年以上の大規模追跡調査により、死亡の1年前から日常生活の制限のあった高齢者は2割にすぎないことが明らかにされている。大半の高齢者は、非高齢者の場合と同じく、急性疾患に罹患し、急性期治療を受けた後に死亡している。そのため、2013年の「社会保障制度改革国民会議報告書」は「治す医療」から「治し・支える医療」への転換を提唱している。地域包括ケアの理念・概念整理と政策形成を主導してきた「地域包括ケア研究会」(座長:田中滋慶應義塾大学名誉教授)も2015年度報告書で、「人生の最終段階の医療や介護のあり方を含め、『治し・支える医療』が求められている」と指摘している。そもそも、日本の高齢者の健康水準は世界最高水準であり、大多数の健康高齢者が急性疾患になった場合、「治す医療」をせずに、最初から「支える医療」のみをすることはありえない。

第5:地域包括ケアにより医療・介護費用が低下することはない。1980年代以降、日本と世界で行われた地域・在宅ケアの経済評価・費用効果分析で、次の2つが実証されている。①家族の介護費用を含めた「社会的費用」は地域・在宅ケアの方が施設ケアよりも高い。②重度の要介護者では、「公的(医療・福祉)費用」に限っても、地域・在宅ケアの方が高い。そのため、厚生労働省の公式文書、担当者、元大臣も、地域包括ケアで費用が下がるとは主張していない。ただし、医療・介護の実態を知らない経済官庁や政治家には、地域包括ケアで費用が抑制できるとの誤解・幻想が残っている。

2.改正介護保険法と地域包括ケア

次に本年5月に成立した改正介護保険法(地域包括ケアシステムの強化のための介護保険等の一部を改正する法律)について、地域包括ケアとの関連を中心に2点述べる(2)

第1:地域包括ケアは強化されるが法的定義は変えられない。私は、次の3つの改正を高く評価している。①介護保険法の「国及び地方公共団体の責務」に、介護サービスに関する施策等を推進するに当たっては「障害者その他の者の福祉に関する施策との有機的な連携を図るよう努めなければならない」との条文が付け加えられた(第五条第四項)。②それの具体化として、高齢者と障害児・者が同一事業所で訪問介護、通所介護等の居宅サービス等を受けやすくするため、「共生型居宅サービス事業者の特例」が設けられた。③「地域力強化検討会中間とりまとめ」(2015年12月)に概ね沿った形で、社会福祉法が地域共生社会の実現に向けて改正された。

他面、高齢者に対象を限定した社会保障改革プログラム法等の地域包括ケアシステムの定義は変えられなかった。塩崎厚生労働大臣(当時)は、『平成28年版厚生労働白書』の巻頭言で、地域包括ケアを「高齢者の施策の問題にとどめることなく、すべての住民のための仕組みに深化させたい」と述べていたが、国会論戦では、「地域包括ケアシステムそのものが高齢者向けのことであるということは変わらない」と明言した(4月5日衆議院厚生労働委員会)。

第2:高齢者の尊厳の保持を欠いた「自立支援等施策」偏重の危険。私はこれが改正介護保険法の最大の問題だと判断している。その理由は以下の通りである。

2000年に施行された介護保険法は、当初、高齢者の自立支援のみを規定していたが、2005年の改正により、それに高齢者の尊厳の保持が加わえられた。これは、2003年「2015年の高齢者介護」(堀田力座長)の次の提起を踏まえての改正であった。「これからの高齢社会においては『高齢者が、尊厳をもって暮らすこと』を確保することが最も重要」とされ、今後の高齢者介護では「『高齢者の尊厳を支えるケア』の実現を目指すことを基本に据えた」。2015年の介護報酬改定でも、身体機能に対する機能回復訓練に偏重していた訪問リハビリテーションの評価が見直され、ICF(国際生活機能分類)の視点に基づいて、「活動と参加に焦点を当てたリハビリテーションの推進」が目指されるようになった。

しかし、今回の法改正は高齢者の「尊厳の保持」や「自己選択」には触れず、市町村に、「被保険者の地域における自立した日常生活の支援、要介護状態等となることの予防又は要介護状態等の軽減若しくは悪化の防止及び介護給付等に要する費用の適正化」を目的とした「自立支援等施策」を行うことを義務化し、その実施について「適切な指標による実績評価」を行うと共に、「財政的インセンティブの付与」を与えることになった。厚労省の「法律案のポイント」でも、「先進的な取組を行っている和光市、大分県では●認定率の低下、●保険料の上昇抑制」が生じたことを示している。この施策は未来投資会議での安倍首相の次の発言・指示に基づいて導入された(2016年11月10日)。「予防・健康管理と自立支援に軸足を置いた新しい医療・介護システムを2020年までに本格稼働させる、そのために介護でもパラダイムシフトを起こし」、「介護は要らない状態までの回復をできる限り目指していく」。

この施策がこのまま実施されると、各市町村は、介護給付費抑制のために、高齢者の尊厳を保持する視点を欠いた「認定率の低下」や「保険料の上昇抑制」の競争を強いられる結果、要介護高齢者に対する自立の強制や恣意的な認定審査等が行われるようになり、国民・高齢者の介護保険や市町村への不信が強まる危険が強い。

3.「地域包括ケア研究会2016年度報告書」と「地域力強化検討会最終とりまとめ」

第3に「地域包括ケア研究会2016年度報告書」(本年5月発表)と「地域力強化検討会最終とりまとめ」(本年9月発表。座長:原田正樹日本福祉大学教授)について述べる。ただし、紙数の制約のため、積極面(プラス面)に限る。マイナス面については、拙論を参照されたい(3,4)

まず、「地域包括ケア2016年度研究会報告書」 は、次の2点で、上述した介護保険法とは異なる。第1は地域包括ケアの対象拡大である。「地域包括ケアシステムは、本来的に高齢者や介護保険に限定されたものではなく、障害者福祉、子育て、健康増進、生涯教育、公共交通、都市計画、住宅政策など行政が関わる広範囲なテーマを含む『地域づくり』である」。第2は高齢者の「尊厳」と「自立支援」を同格に扱っていることである。「自立支援は心身機能の改善ではなく、高齢者の尊厳の保持のためにある」。「自立を狭く理解し、『自分でなんでもできる状態』のようにとらえれば、支援プログラムは、本人の意思に基づいたものではなく、単なる強制的なトレーニングのような介入になってしまうだろう」。

次に、「地域力強化検討会最終とりまとめ」は、次の3点で高く評価できる。第1は、地域を美化せず、リアルに認識していることである。「『我が事』の意識は、誰かに押し付けられるものではない。『共生』は『強制』されることで画一的になってしまう。従来の封建的な側面を残した地域に縛り付けるものでもない。個人の尊厳が尊重され、多様性を認め合うことができる地域社会をつくり出していくこと。それは住民主体による地域づくりを高めていくことである。/しかし、実際の地域の状況は複雑であり、お互いの価値や権利が衝突し、差別や排除が起こるのも地域である」。第2は、障害者福祉分野で確立している新しい自立観を明示していることである。「自立ができたら社会に参加するのではない。自立のあり方は多面的であるが、自立は個人で完結するものではなく、社会への参加を通して自立が促されることは共通している。他者とのつながりのなかで自立していくためのつながりの再構築こそが求められている」。第3は、「地域包括ケア研究会2016年度報告書」と同じく、地域包括ケアの対象を拡大していることである。「高齢期の支援を地域で包括的に確保する『地域包括ケアシステム』の構築が進められてきたが、この『必要な支援を包括的に提供する』という考え方を、障害のある人、子ども等への支援にも普遍化すること、高齢の親と無職独身の50代の子が同居している世帯(いわゆる『8050』)、介護と育児に同時に直面する世帯(いわゆる『ダブルケア』)など、課題が複合化していて、高齢者に対する地域包括ケアシステムだけでは適切な解決策を講じることが難しいケースにも対応できる体制をつくることは、地域共生社会の実現に向けた包括的な支援体制の構築につながっていく」。

今後、医療者が各地域で地域包括ケアを実践する場合、以上に述べた最新の政策動向を理解した上で、プラス面を促進し、マイナス面を可能な限り抑制することが望まれる。

おわりに-地域医師会と診療所医師の役割

最後に、地域包括ケアを推進する際の地域医師会と診療所医師の役割について、簡単に2点問題提起したい。

第1は、医療者と福祉関係者が「垣根」を超え、多職種連携で地域包括ケアを推進することである。その際、医療者(医師)の一部にある福祉関係者への「上から目線」を捨てることが不可欠である。第2は、「地域ケア会議」等に地域医師会や診療所医師が積極的に参加することである。これは、各市町村に介護給付費抑制のための「認定率の低下」を強行させないための歯止めにもなる。

なお、地域医師会が地域包括ケアを推進する際に最良の指針になるのは大阪医師会介護・高齢者福祉委員会が本年8月にとりまとめた「答申」である。これは、同医師会のウェブ上に公開されているので、一読をお勧めする。

文献

[本稿は2017年10月9日に大阪市で行った第31回日本臨床内科医会での講演を整理・要約したものです。]


5.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(通算
144回)(2017年分その13:8論文)

論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。

○ソーシャルキャピタルの影の側面:ソーシャルキャピタルの健康への否定的影響の体系的文献レビュー
Villalonga-Olives E, Kawachi I: The dark side of social capital: A systematic review of the negative health effects of social capital. Social Science & Medicine 194:105-127,2017[文献レビュー]

ソーシャルキャピタル(社会的つながりを通してアクセスされる資源と定義)の健康への効果を示す文献が増加している。しかし、ソーシャルキャピタルは「諸刃の剣」であるとも理解されており、それの健康への影響は常に肯定的わけではない。ソーシャルキャピタルと健康アウトカムとの否定的(有害な)関係を認めた研究の体系的文献レビューを行った。我々の目的は、Portes(1998)が最初に提案した枠組みに沿って、ソーシャルキャピタルの否定的影響を分類することである。

Pubmed,Embase及びPsychInfoで文献検索を行い、3530文献を同定した。それらをチェックした後、最終的に44文献を本レビューに含んだ。ソーシャルキャピタルの否定的影響にはPortesが提起した4つの他に、少なくとも次の2つが存在する:不健康な行動の伝染及び、社会的凝集と個人特性間のクロスレベルの交互作用。ソーシャルキャピタル概念を健康増進・介入のために利用する場合には、研究者はソーシャルキャピタルの健康アウトカムに対する潜在的な「マイナス面」を考慮する必要がある。

二木コメント-ソーシャルキャピタルのマイナス面についての初めての体系的文献レビューで、しかもソーシャルキャピタル研究第一人者のイチロー・カワチ氏が共著者です。ソーシャルキャピタル研究者必読と思います。私の印象では、イチロー・カワチ氏は従来、ソーシャルキャピタルのプラス面を強調していたので、本論文はそれの「軌道修正」なのかもかもしれません。「序」では、ソーシャルキャピタルにはプラス面とマイナス面の両面があることを指摘し、同一のメカニズムが両側面を生んでいる可能性があるとしたうえで、次のように述べています:「ソーシャルキャピタルの影の側面を理解することは、地域連帯、地域コントロール、集団的拘束力を健康関連問題を解決する万能薬と見なす罠にはまるのを避けるうえで重要である」(106頁)。私はこのスタンスに大賛成ですが、本論文ではソーシャルキャピタルという用語・概念が極めて多義的であり、それがさまざまな混乱を生んでいることには触れていません。

○賢い選択キャンペーン:それを知っている[アメリカの]医師には価値があるが、認知度は2014~2017年に上昇していない
Colla CH, et al: choosing wisely campaign: Valuable for providers who knew about it, but awareness remained constant, 2014-2017. Health Affairs 36(11):2005-2011,2017.[量的研究]

「賢い選択」キャンペーンは、諸専門医組織と共同し、医療サービスのうち疑問があり患者と話し合うことを推奨するガイドラインを作成している。このキャンペーンを主導しているABIM財団は2014年と2017年に、このガイドラインで価値が低いとされている医療サービスに対する態度と認知度についての医師調査(電話調査)を行った。この調査は、価値の低い医療を利用する動機、それの利用について患者と話すことについての満足度、および賢い選択への医師の暴露についての質問を含んでいた。継続して広報が行われ、医師団体が普及に努力しているにもかかわらず、2014年と2017年で、医師のキャンペーンに対する認知度(各21%、25%)及び価値の低いサービスを避けることについて患者に話すのが困難だと感じている医師の割合(同42%、46%)に有意の変化はなかった。「賢い選択」キャンペーンの推奨実施に対する障壁には、医療過誤訴訟の懸念、患者の要求と満足、およびもっと情報を得て不確実性を減らしたいとの医師の希望があった。医師・患者に対する個別教育やフォローアップやフィードバックを通してガイドラインの実施を促進するための多面的な介入、およびそれらと併せた経済的動機づけを、価値の低いサービスの利用を抑制するために行うべきである。

二木コメント-「賢い選択」キャンペーンの発祥の地であるアメリカでも、医師の認知度は向上していないこと、及びそれの普及の障壁が大きいことが分かります。このことは、このキャンペーンによる医療費抑止効果が期待されているほど大きくはないことを示唆しています。

○病院で死ぬこと:イングランドにおける社会経済的不平等の趨勢
Barratt H, et al: Dying in hospitals: socioeconomic inequality trends in England.Journal of Health Services Research & Policy 22(3):149-154,2017.[量的研究]

本論文の目的は、イングランドのNHSで終末期ケアの質改善努力が継続的に行われていた時期における、病院死亡の割合の社会経済的不平等の趨勢を検討することである。2001/2012年度~2011/2012年度のイングランドの全死亡者5,260,871人を対象にして、「小地域縦断研究」を行った。不平等の主な指標は「不平等勾配指数」であり、これはイングランドでもっとも貧しい(most deprived)地域ともっとも豊かな地域(5区分)とのギャップを推計する。今回用いる小地域の人口規模は約1500人である。

死亡者総数では病院死亡の割合は、2001/2012年度の49.5%から2004/2005年度の52.0%に増加した後、減少に転じ2011/2012年度には43.6%になった。しかし、豊かな地域と貧しい地域との病院死亡割合には相当の不平等が存在し、もっとも貧しい地域の病院死亡の割合はもっとも豊かな地域より、2011/2012年度で5.95%ポイント高かった。調査期間中、病院死亡の割合は縮小したが、この格差に有意の縮小はなかった。以上から、イングランドでの病院死亡割合の減少努力は全体としては成功したが、この面での不平等は減らせなかったと結論づけられる。

二木コメント-小地域縦断研究により、死亡場所の社会経済的格差の趨勢を検討した初めての調査だそうです。残念ながら病院以外の死亡場所(自宅、長期療養施設)の変化は検討されていません。日本でも死亡場所に社会経済的要因が影響しているか否かについて、追試が待たれます。

○[アメリカの]退院後の地域ヘルスワーカーの介入がセイフティネット[医療]システムの医療費に与える長期的影響
Galbraith AA, et al: Long-term impact on a postdischarge community health worker intervention on health care costs in a safety-net system. Health Services Research 52(6):2060-2068,2017.[量的研究]

患者ナビゲーター地域ヘルスワーカー:非専門職の地域住民で、患者と言語・文化を共有し、支援を必要とする患者に関わり、彼らを地域資源に繋げると期待され、一定の訓練を受けた人々)は、病院退院後の移行期ケアを改善し、再入院を減らす費用効果的戦略である可能性がある。そこで患者ナビゲーターの介入が、セイフティネット医療システムから退院した再入院リスクの高い患者の退院後180日間のシステム費用に与える影響を検討した。大規模セイフティネット医療統合システム(ケンブリッジ医療連合:2教育病院、3救急医療部、10地域保険センターで構成。患者の多くが低所得者)の一次・二次データを用いて、ランダム化比較対照試験を行った。2011年10月~2013年4月の退院患者のうち再入院のリスクファクターを1つ以上有している患者を対象にして、患者ナビゲーターの支援を受けた介入群(448人)と通常のケアを受けた対照群(527人)とで、1人当たりの医療利用と費用を、総数および年齢階級別(60歳以上、60歳未満)に比較した。患者ナビゲーター(3人)は患者が入院中から患者・家族と面接し、退院後は毎週患者に電話し、必要に応じて患者の外来受診を手配した。患者ナビゲーターは有給で、常勤換算で年間給与は50,000ドルであった。介入群の退院後180日間の患者1人当たり総費用(入院・救急・外来医療費、患者ナビゲーター費用、電話代の合計)は、60歳以上では対照群に比べて有意に低かった(5676ドル対7640ドル。p=0.03)。60歳未満、総数でも介入群の方が低かったが、有意ではなかった。以上から、患者ナビゲーターによる介入は、セイフティネット医療システムの特定グループの患者の移行期ケアを改善し、かつ費用を抑制できる可能性があると結論できる。

二木コメント-保健医療福祉の専門職ではなく、地域住民から選抜された「患者ナビゲーター」よる介入であることが新しいと思います。総費用に、保険等から償還される医療費だけでなく、患者ナビゲーターの費用と電話代を加えているのも適切です。ただし、患者ナビゲーターの費用は過少な気がします(60歳以上の患者1人当たり、131ドル。同電話代は312ドル)。

○[アメリカの入院]作業療法による入院医療費増加は再入院率減少と関連している
Rogers AT, et al: High hospital spending on occupational therapy is associated with lower readmission rates. Medical Care Research and Review 74(6):668-686,2017[量的研究]

病院経営者は費用を抑制しつつ質を改善するようにとの圧力を受け続けている。先行研究は入院医療費総額と質との関連に焦点を当ててきたが、特定のサービスの費用と質との関連にはほとんど注意を払ってこなかったため、限られた資源をどのように配分するかについて、経営者に十分な情報を提供しない。本論文は2009~2012年のメディケアの医療費請求データと部門別費用データを用いて、特定のサービスと心不全、肺炎、急性心筋梗塞の3疾患の退院後30日以内再入院率との関連を検討した。その結果、調査した19部門のうち、追加的費用がこれら3疾患すべての再入院率低下と有意にこ関連していたのは作業療法だけであった。作業療法の費用は入院費用総額のうち0.2~0.4%に過ぎず、しかもこれら3疾患で作業療法を受けた患者は21~29%だった。作業療法のみに効果的があった理由としては、52作業療法が、適切に対処しない場合には患者の再入院の引き金になりうるADLニーズと社会的ニーズに速やかに対応することが考えられる。

二木コメント-やや「出来すぎ」の報告ですが、作業療法のみが3疾患の再入院率低下と関連していることを示した最初の報告だそうです。

○高齢者の転倒予防のための諸介入の比較:体系的文献レビューとメタアナリシス
Tricco AC, et al: Comparison of interventions for preventing falls in older adults: a systematic review and meta-analysis. JAMA 318(17):1687-1699,2017[文献レビュー]

転倒は患者と医療制度にとって重大な重荷になり、しかも世界的な人口高齢化により増加し続けている。本研究の目的は、転倒予防のための諸介入の潜在的効果を評価することである。Medline、Embase、Cochrane対照試験登録等を用いて、65歳以上の高齢者を対象とした転倒予防のランダム化試験を検索し、最終的に、25種類の介入の効果を検討している283のランダム化試験(総参加者159,910人。平均年齢78.1歳、女が74%)を選んだ。

ネットワーク・メタアナリシスにより、以下の諸介入が通常のケアに比べて、傷害を伴う転倒の減少と関連していることが示唆された:運動(オッズ比0.51。信頼区間と絶対リスク差は略)、運動と視力検査・治療との組合せ(同0.17)、運動と視力検査・治療と環境評価・改善の組合せ(同0.30)、臨床レベルでの質改善戦略(ケースマネジメント等)と多面的な評価・治療(包括的高齢者評価)とカルシウム摂取とビタミンD補給との組合せ(同0.12)。転倒による入院についてのペアワイズ・メタアナリシスでは、臨床・患者レベルの質改善戦略と多面的評価・治療の組合せと、通常ケアとの間に有意な関連はなかった(同0.78)。以上から、運動単独、および様々な介入の組合せは通常ケアに比べて、傷害を伴う転倒のリスクを小さくすると結論づけられる。

二木コメント-転倒予防の諸介入の効果の最新の文献レビューとメタアナリシスです。運動単独よりも他の方法と組み合わせた介入の方が効果があること、およびこれらの介入により傷害を伴う転倒は減らせるが、入院するほど重大な転倒は減らせないことが再確認されています。残念ながら、この諸介入の費用対効果は検討されていません。

○チームによるプライマリケアが医療サービスの利用と費用に与える影響:[カナダ・]ケベック州の家庭医グループ
Strumpf E, et al: The impact of team-based primary care on health care services utilization and costs: Quebec's family medicine groups. Journal of Health Economics 55:76-94,2017.[量的研究]

チームによるプライマリケアが医療サービスの利用と費用に与える影響を、カナダ・ケベック州が2002年に導入した「家庭医グループ」(FMGs)のデータを用いて検討した。典型的なFMGsは6-12人の家庭医で構成され、看護師も重要な役割を果たす。登録患者に対しては、時間外も含めて診療する。医師への支払い方式は非FMGsと同じく出来高払いである。先行研究と異なり、本研究ではプライマリケアにおける組織的変更の影響のみを調査した。高齢者と慢性疾患患者の過去5年間の行政データを用いてパネルを作成し、患者はFMGs群か非FMGs群に分けた。患者、医師とも、FMGsへの参加は任意であったので、生じうる選択バイアスにはGPのプロペンシティスコアのマッチングで対処し、差の差モデルで推計を行った。

その結果、FMGsの患者の外来医療の利用と費用は非FMGsに比べて有意に少なかった。患者1人・1年当たりのプライマリケア医受診は11%、専門医受診は6%減少した。費用の減少も大体同水準であった。しかし、FMGsは、入院、入院費用、救急外来受診の費用、およよび総医療費に影響するとのエビデンスは得られなかった。これらの結果は、プライマリケアの組織改革は、医師への支払い方式を変えなくても、医療制度に影響を与えるとの考えを支持する。GP受診の減少がどの程度他のプライマリケア提供者への代替によって生じたかについては、更なる調査が必要である。

二木コメント-チームによるプライマリケアは、プライマリケアの「効率化」をもたらすが、総医療費の削減にはつながらないことを明らかにした貴重な実証研究と思います。

○カナダでのチームによるプライマリケアはアクセス問題および[利用者の]自己評価に基づく満たされないニーズの減少と関連しているか?
Zygmunt A, et al: Is team based primary care associated with less access problems and self-reported unmet need in Canada? International Journal of Health Services 47(4):725-751,2017.[量的研究]

多くの国と同じように、カナダでもプライマリケアの提供は単独開業からチームによるケアへと変容しつつある。カナダではチームによるケアは、一般医が看護師や他の医療職と共に働く形で提供されており、それが医療アクセスの平等を改善すると期待されている。本研究はチームによるケアでは、そうでないケアと比べて、アクセス問題や満たされないニーズを減少させているか、及びアクセス問題と満たされないニーズにおける社会経済的勾配小さくしているかの検証を行う。データは、「2008年カナダ・プライマリケア経験調査」(標本数10,858)から得た。プライマリケアはチームによるものとそうでないものとに二分し、社会経済的状態は所得と教育で区分した。アクセス問題と満たされないニードについて、それぞれ4種類の変数を作り、別々にロジスティック回帰分析を行い、プライマリケアのタイプとの関連を調べた。プライマリケアのタイプはアクセス問題とも、満たされないニードとも統計的に有意な関連はなかった。チームによらないケアを受けている人々では、アクセス問題は教育勾配と有意に関連していた(教育年限が短いほどアクセス問題が多い)。それに対して、チームによるケアを受けている人々では、統計的に有意な社会経済的勾配は存在しなかった。

二木コメント-要旨だけでなく、本文の統計解析も回りくどいですが、結論は単純で、チームによるプライマリケアでは、教育年限によるアクセスの不平等は解消するとのことのようです。


6.私の好きな名言・警句の紹介(その159)-最近知った名言・警句

<研究と研究者の役割>

<その他>


補:「医療・福祉研究塾(二木ゼミ)」開講のお知らせ

○趣旨:私は2018年3月で日本福祉大学を定年退職しますが、幸い健康状態は良好なので、「社会貢献活動」の一貫として、医療・福祉領域の実証研究能力(量的研究、政策研究中心)を身につけるか、磨くことを希望する方を対象にして、定例研究会を開催します。

○日程:2018年4月から、月1回土曜午後1時半~4時半、日本福祉大学名古屋キャンパスで開催。
*2018年度は原則として第3土曜、北館6A教室で開催(日程の例外は下記*)。
*4月21日、5月19日(南館)、6月23日*、7月14日*、8月25日*、9月15日、
10月20日、11月17日、12月15日、1月19日、2月16日、3月23日*
※大学・大学院の公式行事や主要学会が開かれるか、旗日等の第3土曜は避けた。
*期間は限定しない。私の健康状態が許す限り、少なくとも85歳まで続ける予定。

○方法:毎回約3時間、「ゼミ形式」で行う。
*冒頭「1分間スピーチ」(最大15分):面白い文献を見つけたら、A4判1枚で紹介。
& 私からの情報提供(最大15分)。
*第1部(1時間15分):私の著作・論文等の報告と討論。*休憩10分。
*第2部(1時間15分):参加者1~2人が自己の研究計画・学会発表等について報告し討論。
・第1、2部の時間配分の目安:共に、報告30分、私のコメント10分、討論35分。
・2018年度は第1部で『医療経済・政策学の探究』第Ⅰ部所収論文(26論文)を用いる。
・第2部のテーマは各自が選択。実証研究であれば、量的研究や政策研究以外でも可(例:ソーシャルワーク)。
・レポートはA4判3~4枚。私に事前に提出し、私が添削したもののコピーを配布する。

○世話役:日本福祉大学藤井博之教授と林祐介君(4月から同朋大学常勤講師)。

○参加対象:二木ゼミ(学部・大学院)のOB・OG、日本福祉大学の教職員、同大学院の院生・OB・OG、他大学・組織・個人の研究者・実践家等。概ね10~20人を予定。
*参加者の義務:テキストを事前に読み、質問や意見等を考えておく。
研究会では毎回、1分間スピーチ以外に、最低1回発言する。
*参加者の努力義務:毎回~最低限三分の二以上出席するよう努力する。
最低年1回は自己の研究計画等について発表するよう努力する。
単にお勉強するだけでなく、自分で研究論文を書くよう努力する。

○参加費(資料代):1回500円。

○申込み方法:二木(niki@n-fukushi.ac.jp)に直接メールで申し込む。その際、所属と簡単 な自己紹介を書く。希望者は原則として全員受け入れ。
*2018年度分の締め切りは3月15日。
*参考:私の教育信条:①人権・人間の尊厳は平等だが能力は不平等(の人間観に立って、各人の能力を最大限伸ばす、特にレポートの添削指導を徹底)、②来る者拒まず去る者追わず(ベタベタした付き合いはしない)、③形式第一、内容第二(規律には厳しいが、思想や私生活には干渉しない)。

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