文献プロムナード(11)
「はたらきかけ」
野村拓
発行日2005年10月05日
アクション・リサーチ
社会調査などの場合、調査者の「はたらきかけ」 によって動かされない状態で「対象者」を把握すべきであり、これこそ科学的な社会学の客観性を保障するものだ、という考え方がある時期まで有力であった。多数の人に質問する場合にも電子音のように、同じトーンで質問するべきだ、というのである。
しかし、ヒトラーが政権を取り(1933)、ほしいままに権勢を強化する過程を、ただただ客観的にとらえるだけでいいのか、ヒトラー時代のドイツの社会(心理)学者、クルト・レヴィン(Kurt Levin、1890-1947)が「アクション・リサーチ」を提唱するに至ったのは、このような背景があった。
彼はナチに追われる形でアメリカに渡り、1944年ごろ、「アクション・リサーチ」の概念を定立したといわれる。簡単にいえば「はたらきかけ」を通じて社会システムについての知識を植えつけ、よりよい方向にシステムを変えるための調査という意味である。
『医療と社会ケアのためのアクション・リサーチ』
☆Elizabeth Hart 他: Action Research for Health and Social Care(1995)The Open Univ. Press.
には、レヴィンの没後に公表された論文も含めての紹介がなされている。また医療分野に限定して、教科書的にまとめたものとして、
『医療におけるアクション・リサーチ』
☆Alison Morton-Cooper : Action Research in Health Care.(2000)Blackwell.(2005年版の翻訳が出されている)がある。
1985年から2002年にかけて国立病院再編成問題をめぐって、北は稚内、弟子屈から南は九州まで「現地調査」をやった。調査団の結団式のとき
「団長! これは調査ですか、闘争ですか」という質問が出て、団長の私は苦しまぎれに
「これは『圧力調査』である」
と答えたが、いまなら「アクション・リサーチ」と答えるだろう。
介護保険法の中身を知らない人が9割で、しかも賛成が8割という状況で実施されてしまった「悔悟保険法」を持つ国、日本では「アクション・リサーチ」は特に必要である。ただし、「アクション・リサーチ」は原則として、国の政策と国民的選択をめぐる問題でなされるべきで、1組織、1経営内での「アクション・リサーチ」は労働者の尻を叩くリサーチになりかねない。「アクション・リサーチ」の歴史に「フォード・テイラー・システム」を加えた本もあるからである。古い本だが
『組織発展と病院でのアクション・リサーチ』
☆David E. Cope : Organization Development and Action Research in Hospital.(1981)Gower.
などは「尻叩き」の方に近い。
コミュニケーション術
本の主題としてではなく、部分的に「アクション・リサーチ」にふれた本には、それなりの面白さがある場合が多い。例えば
『医師・患者・グループ』
☆Enid Balint 他: The Doctor, the Patient and the Group.(1993)Routledge.
では、「ユートピアでは、スペシャリストはGP(一般医、家庭医)の補助員」というような卓越した指摘がある。
「アクション・リサーチ」のアクションとは、まず「知らせる」「知ってもらう」はたらきかけを意味するが、「はたらきかけ」について、ユーモラスなイラストをまじえて解説した本が
『はたらきかけの支援』
☆Etienne Beaudoux 他: Supporting Development Action.(1992)Macmillan.
である。
少し古い本で、医療職に必要な「コミュニケーション術」(communication skill)を取り上げたのが
『医療職のコミュニケーション術』
☆D. a. Dikson 他: Communication Skills Training for Health Professionals.(1989)Chapman &
Hall.
で、ここでは「コミュニケーション術」の試験の採点基準が示されている。5段階評価で「3」以上が合格だが、「3」のところでは「ユーモアのセンス」(sense of humour)が挙げられている。
「4」や「5」は「ユーモアのセンス」に加えて、明快な発音、適切な音量などが求められる。
要するに「ユーモアのセンス」がないと落第ということになるが、短期間にこれを身につけて追試験に合格することは難しいから、「ユーモアのセンス」のないものは医療職には向かないということになる。
『健康で良い生活の条件』
☆Gordon Edlin 他: Essentials for Health and Wellness. 2版.(2000)Jones & Bartlett.
では「ユーモア・セラピー」が取り上げられているから、ユーモアに欠けることは、医療職としての有力な手掛かりが欠落していることになる。
医療職のコミュニケーション術については、第2回で紹介した『e-療法』、『看護婦のテレ・コミュニケーション』の他に、次のような本が出されている。
『医療職のコミュニケーション戦略』
☆Peter G. Northouse 他: Health Communications,Strategies for Health Professionals. 3版.(1992)
Appleton & Lange.
『医療職のコミュニケーション術』
☆Gwen van Servellen: Communication Skill for the Health Care Professional.(1997)Aspen.
『看護婦のコミュニケーション』
☆April Sieh 他: The Nurse Communications.(1997)W. B. Saunders.
『医療職種のコミュニケーション』
☆Laurel L. Northone 他: Health CommunicationStrategies for Health Professionals(1998)Appleton & Lange.
『医療コミュニケーション・ハンドブック』
☆Teresa L. Thompson 他編: Handbook of Health Communication.(2003)Lawrence Erlbaum Associates
Pub.
『医師のコミュニケーション』
☆David Woods 編: Communication for Doctors.(2004)Radcliffe Pub.
もの書き
「コミュニケーション術」は「はたらきかけ」 の有力な一環であるが、その主要部分は「語りかけ」である。
個別的、直接的「語りかけ」の他に「もの書き」という出版物(媒体)を通じての多数を対象とした「はたらきかけ」もある。これは間接的ではあるが持続力のある「はたらきかけ」と言うことができる。話ならできるけど「書くのはちょっと…」という人の話は論理性に欠ける場合が多い。「おはなし」と「書くこと」との落差を自覚させるものとして、次のような本が出されている。
『論文の書き方と出版法』
☆P. Paul Heppner 他: Writing and Publishing Your Thesis, Dissertion and Research.(2004)
Thomson.
『医学論文の書き方』
☆Shane A. Thomas : How to Write Health Sciences Papers, Dissertation and Thesis.(2000)Churchill
Livingstone.
『看護婦のもの書き術』
☆Marilyn H. Oermann : Writing for Publication in Nursing.(2002)Delmar.
原稿を見ずに相手(聴衆)の顔を見ながら話せることは、どこかで書いたことの組み合わせになる場合が多いし、私のような老人の記憶の総量は、生涯通算で書いた量を少し割り引きしたものではないか、と考えている。同世代で「記憶の貧しい人」を見ると、「書かなかった人」をイメージせざるを得ない。
「書く」ことによって、自分自身の認識のあいまいさや、わかったつもりだったことが実はわかっていなかったことに気づく、これは重要なことである。いいかえれば、書くことによって、自分自身も変りうる、ということである。
医療職種の本来的な仕事は語りかけ、はたらきかけであるが、大事なことは、はたらきかけることを通じて、はたらきかける主体も変りうることであり、この点を指摘したのが
『はたらきかけと理性的選択』
☆Joseph Heath : Communicable Action and Rational Choice.(2001)The MIT Press.
である。
また、いろんなはたらきかけの工夫、説得力の強化などは、生き方の自信につながる場合が多いので、次の2点もあげておきたい。
『看護婦の自信術』
☆Carolyn Chambers Clark : Holistic Assertiveness Skills for Nurses.(2003)Springer.
『看護婦・売り込みテクノロジー』
☆Genny Dell Dunne : The Nursing Job Search Handbook.(2002)Univ. of Pennsylvania Press.
感性の大切さ
今度は立場を変えて、人からはたらきかけられる場合を考えてみよう。理路整然と攻め立ててくる人間と、感性豊かに訴えてくる人と、どちらによって「ぐらり」とさせられるだろうか。おそらく後者の方だろう。やはり、はたらきかける側の感性の豊かさが効果を左右するのではないか。
『感情の表出芸術史、音楽史、医学史の新しい関係』
☆Penelope Gouk 他編: Representing Emotions -New Connections in the Histories of Art, Music
and Medicine.(2005)Ashgate.
という本が出された。医学史を1本の線とすれば、美術史も1本の線であり、その間に面ができる。 ミケランジェロもレオナルド・ダ・ヴィンチも、人間をよりダイナミックに描くために解剖学を勉強したが、それらはこの面に収まる事項である。フェルメールと顕微鏡学派の関係やレンブラントの解剖講義の絵なども同様である。これにもう1本、音楽史という線が加われば、立体としての三角柱ができあがる。この立体(三角柱)こそは「感性」の基地というべきものであり、音楽療法における「モーツァルト効果」などはこの三角柱を介して理解するべきものである。
音楽療法や芸術療法については、「第6回医療職種」でふれたが、それ以外の文献をあげれば次のようになる。まず音楽療法。
『音楽療法のケーススタディ・デザイン』
☆David Aldridge : Case Study Designs in Music Therapy.(2005)Jessica Kingsley.
『地域音楽療法』
☆Mercedes Pavlicevic 他編: Community Music Therapy.(2004)Jessica Kingsley.
ここで「地域」が出てくるのも「相互ケア」(mutualcare)という視点に立っているからである。
次は芸術療法。
医療における革命として芸術療法をとりあげたのが
『芸術療法医療における革命』
☆Phil Jones : The Arts TherapiesA Revolution in Healthcare.(2005)Brunner-Routledge.
でドラマ療法をテーマを中心に据えたものとして
『芸術療法研究』
☆Roger Grainger : Researching the Arts Therapies-A Dramatherapist’s Perspective.(1999)JessicaKingsley.
が出されている。また、特にドラマ療法を意識したわけではないが、医療全体をドラマ仕立てとし
て脚本風に書いたのが
『医療劇場』
☆Todd L. Savitt 編: Medical Readers’ Theater.(2002)Univ. of Iowa Press.
である。
『子どもの医療的芸術療法』
☆Cathy Malchiodi 編: Medical Art Therapy with Children.(1999)Jessica Kingsley.
は「お絵かき」中心の療法を紹介したものだが、
「医療的ダンス・運動療法」をテーマとした本
『医療的ダンス・運動療法』
☆Sharon W. Goodill : An Introduction to Medical Dance/Movement Therapy(2005)Jessica Kingsley.
にも、芸術療法、音楽療法、ドラマ療法についての説明がある。
「第6回・医療職種」で、「園芸療法士」(アメリカ)を紹介したが、播かれた種が土を持ち上げて地上に顔を出すときの小さな生命力に対する感動が治療効果をもたらすのではないだろうか。少し、変ったところで、日本の「箱庭療法」を取りあげたのが
『アートとしてのカウンセリング』
☆Samuel T. Gladding : Counseling as an Art. 3版(2005)American Counseling Association.
欧米のsand play に加えて「小さなfigure」を使うところがミソなのだろう。いろんなセラピーが試みられているが、医療全体での位置づけということになれば、次の書名が示すようなことではないだろうか。
『補助的・代替的治療』
☆Kathleen R. Wren 編: Complementary and Alternative Therapies.(2003)Saunders.
ネガティブなはたらきかけ
しかし、補助的であれ、代替的であれ、これらは「生の肯定」を前提とした「はたらきかけ」であることは間違いない。
これに対して、生を否定する自殺や安楽死の「おすすめ」の本も出されている。
『医師が支援する死』
☆James M. Humber 他: Physician-Assisted Death.(1994)Humana Press.
『医師幇助死亡』
☆Timothy E. Quill 他編: Physician-Assisted Dying.(2004)The Johns Hopkins Univ. Press.
などである。また「テレビ安楽死」をとりあげた
『医療とメディア』
☆Lester Friedman 編: Cultural SuturesMedicineand Media.(2004)Duke Univ.Press.
も出されている。当然のことながら、医師の自殺支援には反発が強く
『自殺支援に反対』
☆Kathleen Foley 他: The Case against Assisted Suicide.(2002)The Johns Hopkins Univ. Press.
は「そのこと」だけを取りあげて1冊にまとめたものである。
医師の自殺支援には反対が強いが、安楽死については、それなりの歴史があるので、その賛否は
微妙である。
『近代アメリカの安楽死運動』
☆Ian Dowbiggin : A Merciful EndThe Euthanasia Movement in Modern America.(2003)Oxford Univ. Press.
『安楽死・モラル・法律』
☆Kumar Amarasekara 他: Euthanasia, Morality and the Law.(2002)The Johns Hopkins Univ.Press.
などが出されているが、イギリス安楽死協会が1935年、ニューヨーク安楽死協会が1938年、いずれもヒトラーの時代である。これらの安楽死運動
は、ヒトラーの「国家にとって価値なき者に安楽死を」という政策とは一線を画しているつもりだろうが、ノーベル賞受賞医学者アレクシス・カレル(フランス系アメリカ人)の主張を中間項とすれば、両者はつながってしまう。すなわち、カレルは1935年の著書で、犯罪性のある精神障害者を「人間的、経済的に適切なガスを供給する安楽死施設に入れること」を主張したのである。この医学者による手工業的なガス室安楽死の主張が6年後のアウシュヴィッツにつながったと考えること
ができる。
メリハリのある歴史認識で
やはり、「はたらきかけ」は、このようなネガティブなものではなく、生きていればなにかがある、という「生の肯定」につながるものでなければならない。安楽死運動や自殺のすすめは時代状況の暗さと結びつく場合が多いのではないか。そして、時代状況を暗くした元凶、ヒトラー政権の下で、大量の安楽死(という名の苦悶死)が強制されたのである。
状況を人間の末期に限定して論ずるのではなく、メリハリのある歴史認識をふまえて論ずるべきであり、これは安楽死問題に限らず、すべての問題に共通することである。その意味では、医療者の「はたらきかけ」の歴史もとらえなおすべきであり、
『戦闘的医療-社会変革の闘い』
☆Ellen Bassuk : The Doctor Activist -PhysiciansFighting for Social Change.(1996)Plenum Press.
『社会主義医師協会(英)の歴史』
☆John Stewart : The Battle for Health -A Political History of The Socialist Medical Association,
1939-51.(1998)Ashgate.
などが参考になるだろう。
medical-history という言葉には2通りの意味がある。ひとつは医学史、医療史という意味であり、もうひとつは患者の病歴である。だから、予診・問診のことをhistory-taking という。
どのような場合であれ、「はたらきかけ」はhistory-taking を踏まえて相手の心にひびくものでなければならない。平べったい「お題目」を唱えることではなく、相手の生活史のなかに共感点をとらえるものでなければならない。
もちろん、「はたらきかけ」自体の善悪が問われる場合もある。医学、特に精神医学領域では、「はたらきかけ」に対する価値判断が交差、対立する場合もある。単純化すれば「ハッパをかける」ことによって自殺に追いこむケースもありうる。 また「アクション・リサーチ」が労務管理に応用され、労働強化をもたらす場合もありうる。しかし、ここでは、おおまかに「市民的善意のはたらきかけ」と考えることにしたい。
「はたらきかけ」は外に向かうものだけではなく、現代人が陥り易い無気力、無力感に対する内的な「はたらきかけ」、つまり、みずからの心に問いかけ、きいてみることも含めて考えるべきである。そして、「はたらきかけ」が決して空しくなかったことを、個人の発達史、人類史、歴史を通じて明らかにしていかなければならない。