『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻86号)』(転載)
二木立
発行日2011年09月01日
出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。
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目次
- 1.論文:国民皆保険50年-「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の来歴を探る
(「二木教授の医療時評(その94)」『文化連情報』2011年月9月号(402号):26-35頁)
- 2.論文:受診時定額負担・免責制は保険の原点か?-吉川洋氏の主張とその問題点
(「深層を読む・真相を解く(5)」『日本医事新報』2011年8月20日号(4556号):33-34頁) - 3.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(通算69回.2011年分その6:5論文)
- 4.私の好きな名言・警句の紹介(その81)-最近知った名言・警句
お知らせ
『日本医事新報』2011年9月17日号(4560号)に論文「医療ツーリズムの新種『病院輸出』は成功するか?」(連載「深層を読む・真相を解く」の第6回)を掲載します。医療ツーリズム批判論文の第3弾で、経産省が東日本大震災後強調し始めた医療ツーリズムの新種「病院輸出」政策が、従来の「外国患者の受入れ」政策の失敗を糊塗するものであること、およびそれが成功する条件はないことを指摘します。本「ニューズレター」87号(10月1日配信)に転載予定ですが、早めに読みたい方は同誌掲載論文をお読み下さい。
1.論文:国民皆保険50周年-「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の来歴を探る
(「二木教授の医療時評(その94)」『文化連情報』2011年9月号(402号):26-35頁)
1.論文:国民皆保険50周年-「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の来歴を探る
(「二木教授の医療時評(その94)」『文化連情報』2011年9月号(402号):26-35頁)
はじめに
本年は日本に国民皆保険制度が成立して50周年の記念すべき年です。そして「いつでも、どこでも、だれでも(または誰でも)」(良い医療を受けられること)は、「世界に誇る」国民皆保険制度の基本理念・標語として広く用いられています。しかし、この標語がいつ、誰によって初めて用いられたかについて語られることはありませんし、私自身も知りませんでした。そこで、今回は、この標語の来歴を探訪します。
現時点で分かったことは以下の6点です。(1)「いつでも、どこでも、だれでも」という標語(以下適宜、この標語)は1961年の国民皆保険達成時および1960年代には用いられていませんでした。(2)この標語は1970年代前半に、革新政党や医療運動団体が政府の医療政策を批判し、それに対置した医療のあるべき理念として、「無料医療」と一体に用い始めました。(3)1990年代には、全政党、厚生大臣、日本医師会、すべての全国紙もこの標語を国民皆保険制度の理念として用いるようになりましたが、「無料医療」とは切り離されました。(4)国会でこの標語を最初に用いたのは、(意外なことに)厚生官僚です(1970年)。ただし、厚生(労働)省はこれ以降、公式文書でも幹部発言でも、この標語をまったく用いていないと思います。(5)この標語は医療分野の専売特許ではなく、1950年代から、様々な分野で用いられていました。特に生涯教育(学習)分野では、1980年代以降、現在に至るまで、政府の公式文書でも常用されています。(6)この標語を構成する3語の語順は多様です。1970年代から現在に至るまで、医療分野でも、その他の分野でも、「いつでも、どこでも、だれでも」がもっともよく用いられていますが、それに収斂はしていません。
以下、この結論に至る調査プロセス、試行錯誤を含めて、説明します。
著書での初出は1970年代前半、『厚生白書』には記載なし
まず最初に、『厚生白書』(昭和35年度版~昭和50年版)と医療・社会保障の理念・歴史・現状分析のいずれかの記載のある著書約40冊(大半は1960~1980年代の出版)を対象にして、「いつでも、どこでも、だれでも」(この3語の順番は問わない。以下同じ)という標語の記載の有無を調べました。その結果、『厚生白書』にはこの標語またはそれに近い表現はまったく書かれておらず、それが記載されていた著書も4冊しか見つけられませんでした(注3で示した徳田虎雄氏の著作を含めると5冊)。しかも、そのいずれも、この標語の初出は記載していませんでした。
私が今回調べた範囲では、1973年2月に出版された川上武・中川米造編『医療保障(講座・現代の医療 3』で、小坂富美子氏(薬剤師。医師・医事評論家の川上武氏の共同研究者)が以下のように用いたのが最初です。「医療費の支払い方式はいろいろあるが、医療はその性格上、だれでも、いつ、どこででも受けられるものでなければならない。そのためには、医療機関の配置・医師の分布などの問題とともに、医療費が無料になることが望ましいのは当然である。だが、これだけでは十分ではなく、高い水準の医療が常に提供されることも必要である」(1)。これは現在の用法に近いと思います。
次に、松尾均氏(社会保障研究者。「医療社会化推進会議」代表)が1974年に以下のように用いました。「[現行医療体制改革の諸原則の-二木補足。以下同じ]第2は、経営基準転換の原則である。すなわち、医療は商品ではない、住民主体の原則を貫けば、『いつでも、どこでも、だれにでも、無料で的確な医療を』ということになり、営利主義の医療は成立する余地はない」(2)。松尾氏はこの標語を「医療社会化論」(実態的には医療公営化論)の視点から用いており、「以上の3原則[他の2原則は略]をふまえた医療機関の形態は、公的病院であり、なかでも自治体病院である」と主張しました。
第3に、吉田秀夫氏(社会保障研究者)は1976年に以下のように述懐していました。「国民医療の危機を打開するための労働者や国民大衆の素朴なねがいを表わす言葉に"いつでも、どこでも、だれでも良い医療を"というのがいつのまにかここ数年のあいだに定着しはじめてきた」(3)。
第4に、井上英夫氏(金沢大学法学部教授)は1991年に以下のように述懐していました。「日本の医療保障運動の大きな成果は、『いつでも、どこでも、だれでも、安心して医療が受けられる』という平易なスローガンを生み出したことである」(4)。
以上の結果は、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語は、1970年代前半に医療保障運動で用いるようになったことを示唆しています。
なお、雑誌論文にはこれよりも古い用例があるかもしれないと考え、『社会保険旬報』(1969~1972年)の掲載論文・記事、CiNii(国立情報学研究所提供の論文データベース)で「老人医療費無料化」、「患者運動」等をキーワードにして検索した論文(合計36本)もチェックしましたが、見つけられませんでした。
革新政党・医療運動団体も1970年代前半に用い始めた
1960年代末から1970年代前半は、革新政党(日本社会党、日本共産党)や医療・社会保障運動団体、患者団体主導で、老人医療費無料化運動や医療保険の給付改善運動が高揚した時期です。この標語はその運動の中で生まれた可能性が大きいと考えました。そこで次に、1970年前後の革新政党の各種公式文書や、医療・社会保障運動団体の機関誌・各種記念誌等の中に、「いつでも、どこでも、だれでも」の標語がないか、調査しました【注1】。
その結果、政党では日本共産党が1972年12月に発表した医療政策中の「日本共産党がめざす医療保障の諸原則」の冒頭で、初めて次のように用いていました。「『だれでも、いつでも、どこでも、医学の進歩の成果を反映した十分な医療』が保障されることは、国民の痛切な要求です」(5)。同党は、1977年に発表した医療政策の「改訂版」でも、まったく同じ表現を用いていました(6)。
日本社会党は、1969年に発表した同党政策審議会医療問題対策特別委員会「医療政策の課題と方向」で、「すべての国民大衆に等しくよい医療を保障し、その負担の軽減をはかる」と宣言しました(7)。これは「いつでも、どこでも、だれでも」の先行的表現とも言えますが、この標語そのものはこの文書だけでなくその後の同党の公式文書でも用いられていませんでした【注2】。ただし、社会党と友好関係にあった「医療社会化推進会議」は、先述したように1974年にこの標語を使っていました(それ以前から用いていた可能性もありますが、今回は同組織の機関誌『医療の社会化』(1971年創刊)は調査できませんでした)。
なお、社会党の上記文書を収録していた社会保障研究所編『日本社会保障資料II』は、1966~1973年に医療保険「抜本改革」が議論された当時の諸組織(社会保障制度審議会、社会保険審議会、日本医師会、日本病院会、日本社会党、総評等)の公式文書を多数収録していましたが、どの文書でもこの標語は使われていませんでした。ただし、同書には、日本共産党や保団連(全国保険医団体連合会)、民医連(全日本民主医療機関連合会)、医労協(日本医療労働組合協議会。現・日本医労連)、社保協(社会保障推進協議会)、全生連(全国生活と健康を守る会連合会)等の医療・社会保障運動団体の資料は掲載されていませんでした。
これらの団体のなかでは、保団連が1973年1月に発表した医療政策のなかで、次のようにこの標語とほぼ同じ表現を用いていました。「医療の基本的なあり方として、(1)医療はあらゆるものに優先して実施されねばならない。(2)医療は社会的な貧富の差なく誰にでも行われなければならない。(3)医療は何時、いかなるところでも実施されなければならない」(8)。
民医連は、1978年2月の第23回総会の特別決議で、この標語を以下のように初めて用いたそうです(莇昭三元会長より情報提供)。「いま、国民は、日進月歩する医学・医療の成果が、いつでも、どこでも、誰でも安心して適用される医療制度の確立を強く望んでおり、わたしたち医療従事者は積極的な役割を果たす責任を感じます」。
全国レベルの患者団体・運動が初めてこの標語を用いたのも同じく1978年です。この年の4月に全国51の患者団体は「ゆたかな医療と福祉をめざす全国患者・家族集会」という名称の歴史的な集会を医療従事者などの協力を得て開催したのですが、その際、「いつどこでも、だれでもがどんな病気になっても十分な医療をうけられるようにするために、地域ごとに医療供給体制をつくろう」が行動方針とされました(9)。
以上から、この標語は、1970年代前半に一部の革新政党や医療運動団体が使いはじめ、その後1970年代後半には、多くの医療・社会保障運動団体、患者団体の間で共有されるようになったことを確認できました。
この調査の過程では、革新政党や医療・社会保障運動団体(保団連、民医連、社保協、医労連等)の元・現幹部や社会保障研究者10人に、この標語の使用経験・初出についてお聞きしました。その結果、多くの方から、この標語は1970年代前半からそれぞれの団体で使い始めた記憶があるが、初出は不明である、おそらく草の根的に使われ始めたと思う、少なくとも特定の研究者が発案したのではないという趣旨の回答を得ました。
さらに、鈴木勉氏(佛教大学教授)からは、次のような「仮説」をいただきました:「太平洋ベルト地帯が、いわゆる革新首長に占められる時期がありましたが、老人医療費無料化運動が、自治体革新とつながって展開され、革新系候補の選挙スローガンに、このフレーズが使われ、広がったのはないか」(私信)。そこで、1971年の(いっせい)地方選挙での革新統一候補(社会党、共産党等が選挙協力を結んで擁立した候補)の政策を探し、愛知県知事選挙(2月)と東京都知事選挙(4月)のものを入手できましたが、この標語は用いられていませんでした。
国会論戦で用いられ始めたのも1970年代前半
第3に、視点を変えて、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語が、国会論戦でどのように用いられたのかを調べました。そのために「国会会議録検索システム」を用いて、「いつでも」「どこでも」「だれでも」という3つの単語が用いられている発言を検索したところ、1947年から2011年5月まで311件がヒットしました。これらの発言を古い順に一つ一つチェックし、医療・国民皆保険について、「いつでも、どこでも、だれでも」がワンセットで用いられている発言を拾い出しました。
この用語が医療・国民皆保険について初めて用いられたのは1970年4月7日の参議院文教委員会であり、しかも発言者は意外なことに厚生省の医務局医事課長(竹内嘉巳氏)でした。「厚生省の立場としてはいつでもだれでもどこでもよい医療が得られるようにということが基本的な目的になるわけでございます」。これは直接には医師不足に関連した発言でしたが、国民皆保険との関わりにも触れていました。
ただし、厚生(労働)省幹部が国会論戦でこの標語を用いたのはこれが最初で最後です。上述したように1960~1975年の『厚生白書』でこの標語は使われていませんでしたし、それ以降の厚生(労働)省の公式文書や幹部の発言でもこの標語が用いられたことはないと思います(ただし、網羅的に調査したわけではありません)。
この例外的発言を除けば、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語が、国会論戦で初めて本格的に用いられたのは1972~1973年で、しかもすべて革新政党の議員等が用いていました(社会党2人、共産党・革新共同5人、野党側参考人1人、合計8人)。
まず1972年2月1日の衆議院本会議における代表質問で、大原亮議員(日本社会党)が以下のように発言しました。「日本社会党は、今国会に医療保障基本法を出して、よい医療をいつでも、どこでも、だれでもが受けられるような総合的、抜本的な改革案を用意いたしております」。
次に1973年3月27日の衆議院本会議での代表質問で、金子みつ議員(日本社会党)は以下のように述べました。「日本社会党は、すべての国民は、『だれでも、いつでも、どこでも、よい医療を無料で』というのが基本的方針でありまして、『保険から保障へ』を提唱しているのであります」。
同じ日の同じ本会議の代表質問で、田中美智子議員(日本共産党・革新共同)も次のように述べました。「日本共産党が、民主的な医療運動とともにかねてから主張してきたように、いつでも、どこでも、だれでも安心して十分の医療が受けられることを目ざして、医療機関の整備や、医師、看護婦などの養成をはかるために、国の責任で年次計画を早急につくり、根本的な対策を立てるべきだと思いますが、この点について総理の見解を要求いたします」。
これら3議員以外の5人の発言は省略しますが、いずれも、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語を、健康保険法改正による患者負担引き上げに反対し、それに対置したあるべき医療の理念として用いていました。しかも、この標語を「無料医療」と一体にして用いていました。当時、少なくとも革新政党の間では、日本の医療保障制度(国民皆保険制度)は患者負担割合が高く保険給付範囲も限定的であり、先進国に比べて立ち後れているという認識が一般的であり、そのためにこの標語を国民皆保険制度の理念としては用いなかったのだと思います。
革新政党の議員が国民皆保険制度を高く評価し、しかもこの標語を国民皆保険の「大原則」と述べたのは1977年の安恒良一議員が最初でした(11月15日参議院社会労働委員会)。「国民皆保険という医療のシステム、これは私はわが国は世界に誇れるシステムだと思います。(中略)私は、国民皆保険下の医療というものは、いつでも、どこでも、だれでも、よい医療が受けられることが大原則であらなければならないと思うのであります」。
自民党議員では中山太郎議員(医師)が1978年にこの標語を初めて用いましたが、革新政党の議員とは逆に、きわめて否定的に用いました(1978年3月8日参議院予算委員会)。「国民の方が欲求が過大になって、どこでもだれでもいつでも医療は無料でやってもらいたい、こういうふうな欲望が国民に浸透しておる」。
1990年代からは厚生大臣も用いるようになる
革新政党の議員が、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語を医療・国民皆保険制度の理念として、いわば専売特許的に用いる状況は1983年まで約10年間続きました。それの唯一の例外は、1979年に自民党の戸沢政方議員(元厚生省事務次官)が、自民党議員として初めてこの標語を肯定的に用いたことです(6月5日衆議院社会労働委員会)。「私がいつも言うように、いつでも、どこでも、だれでも、必要にして十分な医療が給付されるということが、医療保障の一番根本的な命題ではないかと思います」。
その後、1984年からは民社党議員が、1985年には公明党議員も、この表現を用いるようになりました。自民党議員も1984年に、1979年以来5年ぶりで用いました。
1990年代になると、厚生大臣もこの標語をあるべき医療や国民皆保険制度の理念として用いるようになりました。最初に用いたのは、山下徳夫大臣で、1992年3月10日の衆議院厚生委員会で、次のように述べました。「高齢社会においては、いつでもどこでもだれでもひとしく医療を受けられるという立場から、医療保険制度を確立していくということであります」。次に(やや意外なことに)小泉純一郎大臣は、1997年8月26日衆議院厚生委員会で次のように述べました。「だれでもいつでもどこでも良質な医療サービスを受けられる国民皆保険制度である。この良質な医療サービスをだれでも受けられるという国民皆保険制度を堅持していきたい」。最近では、舛添要一大臣が、同様の発言をしました(2009年2月18日衆議院予算委員会)。
なお、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語は用いずに、国民皆保険制度を最初に「世界に誇る」制度と高く評価したのは自民党の橋本龍太郎議員です(1969年7月12日衆議院本会議。「昭和36年には国民皆保険という、世界に向かってみずから誇るに足る制度を創設」)。厚生大臣で同様の評価を最初にしたのは津島雄二大臣です(1990年5月24日衆議院社会労働委員会。「国民健康保険は世界に誇る国民皆保険制度の基礎」)。
ただし、この標語が現行の国民皆保険制度を高く評価する視点から用いられるようになるに伴い、本来この標語と一体だった「無料医療」への言及は影を潜めるようになりました。それどころか、自民党の稲垣実男議員(1984年7月13日衆議院本会議)や小泉厚生大臣(上述)は、この標語を逆手にとって、患者負担増(健康保険法改正)を国民皆保険を維持するためと合理化しました。
日本医師会は1990年代後半から用い始めた
日本医師会は、武見太郎会長時代(1957~1982年)には国民皆保険制度を必ずしも評価していなかったためもあり、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語を長らく用いませんでした(日本医師会編『国民医療年鑑』昭和59年版|~平成8年度版で確認)。上述した1978年の中山太郎議員(医師)の発言も、当時の武見会長の意向を反映しているのかも知れません。
日本医師会がこの標語を公式文書で初めて用いたのは坪井栄孝会長時代の1997年で、同年7月に発表した「医療構造改革構想(第2版)」の「総論的事項」で次のように述べました。「21世紀を迎えて今こそ国民の望む医療とは何かを考えねばならない。それは、(1)誰でもいつでもどこでもかかれる医療、アクセスのよい国民皆保険体制の維持、(2)良質で適正な医療の提供、この2点に集約できる」(10)。このような記載は、同年5月に発表された「医療構造改革構想(第1版)」にも、前年11月に発表された「21世紀に向けての医療保険制度改革」にもなく、「医療構造改革構想(第2版)」で初めて登場しました。
「いつでも、どこでも、だれでも」または「いつでも、どこでも」という標語は、その後発表された一連の「グランドデザイン」(2000~2009年)でも踏襲されましたが、最近は、その「原則が崩れつつある」(2007年版)、「失われてしまうという危機感」(2009)が強まっています(2007。共に唐澤祥人会長の「はじめに」)。
なお、上述した国会会議録検索システムによると、国会に参考人として出席した日本医師会幹部でこの標語を最初に用いたのは1984年の吉田清彦常任理事でしたが、それは国民健康保険に限定したものでした(5月9日社会労働委員会)。
全国紙も1990年代から使い始めた
文献・情報検索の最後に、全国紙4紙(「朝日新聞」、「毎日新聞」、「読売新聞」、「日本経済新聞」)で、この標語がいつから用いられているかを調査しました。そのために、「日経テレコム21」を用いて、1960年以降の記事を対象にして「いつでも」「どこでも」「だれでも」「医療」が用いられている記事を検索しました。
その結果、4紙ともこの標語が初めて記事に登場した時期は比較的新しく、「朝日新聞」は1986年(2月23日朝刊の徳田虎雄氏インタビュー[注3])、「毎日新聞」1994年、「読売新聞」2001年、「日本経済新聞」1997年でした。しかも「日本経済新聞」以外の3紙は、現在に至るまで、この標語を肯定的に用いています。
「朝日新聞」と「毎日新聞」は、最近、以下のようにこの標語を社説で用いました。「朝日新聞」2007年2月17日社説「希望社会への提言:14 医療の平等を守り抜く知恵を」:「いつでも、どこでも、だれでも医者に診てもらえる。『皆保険』は安心の基盤である」。「毎日新聞」2005年11月28日社説「医療改革 国と地方 対立乗り越え改革競争を」:「いつでも、だれでも、どこでも医療を受けることができる。これが国民皆保険制度である。これを崩さないためにも、医療改革を早急に進めていく必要がある」。
「日本経済新聞」も1997年には、「日本の医療保険制度は世界に冠たるものだと思う。いつでも、どこでも、だれでも、どんな病気でも診療を受けられる皆保険制度は、誇るべき日本の公共財だ」(5月11日朝刊、無署名記事「News反射鏡」)と高く評価していました。しかし、2002年には、国民皆保険制度におけるこの理念の持続可能性に疑問を呈し、民間保険の拡大に期待するトーンに変わりました(4月30日朝刊、「『公』に不安、民間保険拡大」)。しかも、他の3紙と異なり、「日本経済新聞」はその後この標語をまったく用いなくなりました。
教育分野でも広く用いられている
以上、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の医療分野での用法に限定して、検討してきました。しかし、この標語は医療以外の分野でも幅広く使われています。
私がこのことに最初に気づいたのは国会会議録検索システムを用いた検索を行ったときで、医療で初めて用いられた1970年より14年も早い1956年3月8日の参議院文教委員会で、参考人(東京都立新宿高校の勝村満氏)が以下のように、(定時制)教育の理念として用いていました。「定通教育がわが国の教育基本法第二条にうたってあります通り、『教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。』という趣旨と、同じく第三条で、『すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない』という、この教育の機会均等の精神を最もよくこの定通教育が実現している…。(中略)教育というものが時間と空間と資力を超越して、いつでも、どこでも、だれでも受けることができるということになりまして、教育の民主化、教育の社会化というのはこの定時制定通教育によって実現したのでございます」。
私はこの発言を発見した直後は、この標語はもともと教育分野で慣用句として使われていたものが、1970年代前半に医療(保障)分野でも「借用」されるようになったという「仮説」を立てました。しかし、国会論戦でこれが教育分野の標語で用いられる頻度は医療分野で用いられるよりもはるかに少なく、1956年の後は、20年後の1976年まで用いられませんでした。1977年には海部俊樹文部大臣等が放送大学について集中的に5回用いましたが、翌年以降はまた使用頻度が減りました。
国会会議録検索システムでの検索後、1960~1980年代に出版された社会教育・生涯教育の理念や歴史についての著作10冊を調査しましたが、この標語は用いられていませんでした。
それに対して井上講四氏(琉球大学教育学部教授)は、2007年の生涯教育(学習)についての研究論文で、「生涯教育(学習)の理念…が『いつでも、どこでも、誰でも、(何でも)、(どこからでも)学べる』という、かの著名なキャッチフレーズを流布させたのでもある」と述べ、この部分の注には1971年の社会教育審議会・中央教育審議会の答申を示していました(11)。しかし、それらにはこのキャッチフレーズ(標語)はありませんでした。
私が調べた範囲では、この標語を最初に用いた答申は、1986年の社会教育審議会社会教育施設分科会報告「社会教育施設におけるボランティア活動の促進について」だと思います(「だれもがいつでもどこでも学習できるいわゆる『学習社会』の方向を目指す動きが最近とみに顕著になってきた」)。臨時教育審議会第1次~第4次答申(1985~1987年)にも類似の表現がありました。この標語は、その後、現在に至るまで、生涯学習審議会、中央教育審議会の各種答申で常用されていました。なお、井上講四氏によると、国の施策として生涯教育が最高の盛り上がりを見せ始めたのは1988年頃で、当時は、誰もが、「いつでも、どこでも、だれでも」というキャッチフレーズを講演会や研修会の席上等で用いていたそうです(私信)。
以上から、この標語はまず教育分野で用いられ、その後医療分野で「借用」されるようになったという私の仮説は棄却されたと言えます。しかし、文部科学省が、厚生労働省と異なり、現在に至るまでこの標語を公認・常用していることは注目に値します。
医療・教育以外の分野でも広く用いられている
国会会議録検索システムを用いた検索では、この標語は、過去も、現在も、医療、教育以外の分野でも幅広く使われていることも分かりました。この標語は、昭和30~40年代(1955年~1974年)の20年間に20回使われていましたが、医療分野で使われていたのは12回(集団検診、国立療養所での療養を含む。国民皆保険への言及はない)で、残りの8回はそれ以外の多様な分野で使われていました(用いられた順に、教育、自動車事故、役人の心得、簡易保険、タクシー、密漁、原子力研究、消費者保護)。
直近の1年半(2010年~2011年6月)でみても14回使われていましたが、うち国民皆保険関連は6にとどまり、残りは8分野に関連して使われていました(用いられた順に、少年団、法律、スポーツ、高校教育、働くこと、郵政、消費者相談、利便性)。この標語を国民皆保険関連で用いた6人は全員が肯定的に用いており、しかも超党派で用いていました(自民党3人(うち、舛添要一厚生労働大臣が2回)、民主党1人、公明党1人、共産党1人)。
「いつでも」、「どこでも」、「だれでも」の3語の語順をみると、医療分野でも、それ以外の分野でも、「いつでも、どこでも、だれでも」が最もよく用いられていましたが、それへの収斂傾向はありませんでした。医療分野についてみると、1955年~1974年の20年間にこの標語を用いた12人中6人が「いつでも、だれでも、どこでも」の語順で用い、直近1年半でも6人中3人がこの語順でした。
おわりに
以上、「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の来歴を、現在入手可能な文献・資料・データベースを可能な限り詳しく調べて、探究してきました。この標語は、1970年代前半に、医療・社会保障運動団体、革新政党が、当時の医療費無料化運動等の医療保障運動の高揚を背景にして、あるべき医療の理念・原則として、国会内外で用い始めたことはほぼ間違いないと思います[注4(校正時追加)]。
その標語が、語呂の良さも相まって、1990年代からは、国民皆保険制度の理念に転換・拡大して、自由民主党を含む全政党、厚生大臣、日本医師会、全国紙も、いわば「超党派」で用いるようになったと言えます。ただし、厚生(労働)省だけは、1970年の国会での例外的発言を除いて、現在に至るまで、公式にはこの標語を用いていないと思います。
ここで見落とせないのは、1970年代前半にはこの標語は「無料医療」と一体に用いられていたが、1990年代以降はそれと切り離されるようになったことです。
[注1]調査した革新政党、医療・社会保障運動団体の諸文書
本文で引用した2文書以外に、調査した諸文書は以下の通りです。日本社会党「医療問題に対するわが党の態度」(1969)、同「医療基本法要綱:医療社会化の推進と医のモラル確立のために」(1971)。日本社会党・公明党・民社党「医療保障基本法案」(1972)。全国保険医団体連合会編『戦後開業医運動の歴史 1945~1995』(労働旬報社,1995)。日本医労連結成50周年記念誌編集委員会『日本医労連 たたかいの50年 1957-2007』(2007)。『民医連の20年 第1回大会から第20回総会[1972年]運動方針集』(1973)、『民医連新聞縮刷版(第2,3分冊)』(1968~1973年分)、『民医連医療』7号(1968年)~20号(1972年)。全国厚生農業協同組合連合会編『協同組合を中心とする日本農民医療運動史』(1968)、同『五十年の歩み-全国厚生連五十年史』(2001)。『日本生活協同組合連合会医療部会50年史』(2007)。中央社会保障推進協議会編『人間らしくいきるための社会保障運動:中央社保協50年史』(大月書店,2008)。『月刊生活と健康』(全国生活と健康を守る会連合会編)(1972~1975年)。
[注2]「いつでも、どこでも、だれでも」という標語の国際的源流
西村秀一氏(愛知県保険医協会事務局長)と加藤孝夫氏(愛知民医連元事務局長)によると、国際的に見ると、1970年代前半に革新政党や医療・社会保障運動団体が用いたこの標語の源流としては、次の2つの国際文書が考えられるそうです。世界労連提唱『国際社会保障会議議事録』(1953年)の「社会保障の原則」:「無料医療は、無料で包括的な国民健康保険をつくることで、全国民にまで拡大されなければならない」。第5回世界労連大会で採択された「社会保障憲章」(1961年)の「社会保障の原則」:「国家的保健制度あるいは社会保障制度によって、すべての働く人々とその家族の成員に対して、全額無料の医療が保障されなければならない」。
[注3]徳田虎雄氏も1970年代後半から使用
徳田虎雄氏は、「朝日新聞」のインタビューで既存の医療と医師会を強く批判し、「いつでも、どこでも、だれでも、最善の医療がうけられるという、患者のためのほんとうの医療になっていない」と述べていました。これに触発されて、徳田虎雄氏の著作を読み直したところ、最初の著書『生命[いのち]だけは平等だ』(1979年)のなかで、この標語が用いられていました。「私たちは、『いつでも、どこでも、だれでもが、治療費などに心配せず、安心して最善の医療が受けられる』社会にすることが理想である。『いつでも、どこでも、だれでもが』ということは、金持ちでも庶民でも、大都会でも農村・離島でも、先進国でも発展途上国でも、ということだ」(1979年4月の神奈川県・茅ヶ崎徳洲会病院の地鎮祭でのあいさつ)(12)。徳田虎雄氏は1970年代に、本文で紹介した既存の医療運動団体とは一線を画して独自の「医療革命」を推進しました。そんな徳田氏もこの標語を用いていたことは、すでに1970年代後半には、それが既存の医療(保障)制度を批判しその改革をめざす団体・個人の間で広く共有されるようになっていたことを示しています。
[注4]「いつでも…」の初出は1968年?
本稿脱稿後、河野すみ子氏(医療・福祉問題研究会)から、本文でも文献(3)を紹介した吉田秀夫氏が別の著書(『日本の医療保障』1974年)で、「この言葉[いつでも、どこでも、だれでもよい医療を]のおこりは、…昭和43年春、主として労働組合側の提案があったそのなかに使用された」と述懐されていることを教えていただきました(13)。そこで改めて、総評(医療問題対策委員会)、日本医労協等の資料を見直しましたが、該当する「提案」は見つけられませんでした。この件は、今後の課題としたいと思います。
なお、吉田氏は、同じ個所で、「昭和40年代[1965~1974年]に入って、"いつでも、どこでも、だれでも良い医療を"ということが、あたりまえのことのように使われるようになった」とも書かれています。1960年代後半から1971年の間に、この標語が「草の根」的に使わ始めた可能性は否定できませんが、「あたりまえ」に使われるようになったのは、日本社会党、日本共産党、保団連、医療社会化推進会議が、国会内外で公式に用い始めた1972~1974年以降と思います。
謝辞
貴重な文献・情報をご教示いただいた以下の各氏に感謝します(アイウエオ順。敬称略)。莇昭三、伊藤たてお、井上講四、井上英夫、大山正夫、加藤孝夫、亀谷和史、小池晃、河野すみ子、鈴木勉、鍋谷州春、西村秀一、牧野忠康。
- (1)小坂富美子「医療費の支払い方式」。川上武・中川米造編『医療保障(講座・現代の医療 3)』日本評論社,1973,111頁。
- (2)松尾均『社会保障論:運動論序説(現代社会保障叢書 6)』至誠堂,1974,209頁。(初出は、医療社会化推進会議「医療体制の矛盾と転換の原則」『月刊労働問題』1974年6月号(197号):31頁)。
- (3)吉田秀夫「地域医療と医療経済」。益子義教・野村拓編『地域医療(Ⅰ):国民のための地域医療を』新日本出版社,1976,31頁。
- (4)井上英夫「健康権と医療保障」。朝倉新太郎・他編『現代日本の医療保障』(講座 日本の保健・医療)』労働旬報社,1991,113頁。
- (5)日本共産党「国民のいのちと健康をまもるために(案)-医療保険、医療制度を根本的に改革する日本共産党の提案」「赤旗」1972年12月3日。
- (6)日本共産党「国民のいのちと健康をまもるために-医療保険、医療制度を根本的に改革する日本共産党の提案」「赤旗」1977年7月5日。
- (7)日本社会党政策審議会医療問題対策特別委員会「医療政策の課題と方向」1969年。社会保障研究所編『日本社会保障資料Ⅱ』至誠堂,1975,215頁。
- (8)全国保険医団体連合会「医療制度・医療保障制度改革に関する構想(案):医療はいかにあるべきか」『全国保険医通信』1973年1月20日(号外)。
- (9) 長宏「下からの医療改革運動」。菅谷章編『現代の医療問題』有斐閣,1982,327頁。
- (10)日本医師会「医療構造改革構想」。『国民医療年鑑平成9年度版』春秋社,1998,39頁。
- (11)井上講四「生涯教育(学習)政策・研究の今日的状況とその諸相」『琉球大学生涯学習教育センター研究紀要』1(1):1-28,2007。
- (12)徳田虎雄『生命だけは平等だ-わが徳洲会の戦い』光文社カッパブックス,1979,16頁。
- (13)吉田秀夫『日本の医療保障』井上経営経済研究所出版部,1974,136頁。
2.論文:受診時定額負担・免責制は保険の原点か?-吉川洋氏の主張とその問題点
(「深層を読む・真相を解く(5)」『日本医事新報』2011年8月20日号(4556号):33-34頁)
政府・与党社会保障改革検討本部が6月30日に決定した「社会保障・税一体改革成案」には、高額療養費制度の見直しとワンセットで「受診時定額負担」(初診・再診時100円を想定)が盛り込まれました。
受診時定額負担に対しては、日本医師会等の医療団体が強く反対していますし、7月20日の社会保障審議会医療保険部会でも異論が続出しました。普段は政府・厚生省の改革案を中立的に報道している『週刊社会保障』も「定額負担などは医療保険給付設計の根本に関わる話であり、これを『効率化』と呼ぶには相当の異論が出る」と異例の疑問を呈しています(6月6日号「時鐘」)。
受診時定額負担と免責制は吉川洋氏が主導
実は、社会保障に関する集中検討会議でも受診時定額負担を積極的に主張したのは吉川洋氏(同会議幹事委員)だけでした。
吉川氏は第1回会合(2月5日)で早々と、次のように主張しました。「医療保険の場合、ビッグリスクをみんなできちっと支え合うが、中所得以上の人はスモールリスクは自助努力で賄うということも一つの考えである。(中略)これは、原理としては多くの人が経験している火災保険や自動車の損害保険と共通するところがあり、きちっと説明すればほとんどの国民は理解すると思う」。氏は同じ主張を第7・8回会合でも繰り返しました。
私はこの主張を読んで、6年前を思い出しました。当時、吉川氏は、小泉純一郎政権の経済財政諮問会議民間議員として、今回と同じロジックで、保険免責制の導入を主張したからです。「軽度・低額医療の取扱い等についても保険給付の範囲の見直しが行われてもいいのではないか。つまり、軽い風邪のようなものについては、保険免責ということもありうるのではないか」(経済財政諮問会議2005年第20回会合)。「公的医療保険の役割についても原点に立ち返って考えてみる必要がある。医療保険は火災保険や自動車保険と同じように、病気という『リスク』に対する『保険』である」、「保険なのだから『小さなリスク』は広く薄く自己負担し(ただし所得分配上の影響には配慮する必要がある)、『大きなリスク』を皆でしっかり支え合うという理念を徹底する必要がある」(『エコノミスト』2005年12月6日号)。
吉川氏は6年前と異なり、今回は保険免責制には言及していません。厚生労働省担当者も「定額部分を保険給付外とする」免責制と「医療全体を保険給付の対象とした上で、定率の負担に加えて定額負担を保険給付の中から控除する」受診時定額負担との違いを強調しています(7月21日医療保険部会での武田俊彦保険局総務課長の説明)
しかし受診時定額負担が導入された場合、高額療養費制度の充実を大義名分にして、それが段階的に引き上げられれば、事実上保険免責制と同じ機能を果たすようになります。ちなみに、6年前に、吉川氏は1回500円または1000円の免責額を提案していました。
しかも吉川氏は2009年の社会保障国民会議議長時代にも、次のように主張しており、免責制の「確信犯」です。「私がもし制度を決めるのだとしたら、私は自己負担のところには免責制のようなものを入れて、そこで浮いた財源を高額療養費制度をさらに充実させるために使うだろう」(『日本医師会平成20年度医療政策シンポジウム報告集』72頁)。
国民皆保険の理念を否定し、公的保険の特性を無視
吉川氏の「スモールリスク」と「ビッグリスク」を対比させる主張は直感的には常識的にみえるせいか、最近では、大塚耕平厚生労働副大臣も同様の主張をしています(『日経ヘルスケア』7月号)。しかし、この主張には以下の3つの重大な問題点があります。
第1は、もし医療保険が「ビッグリスク」しか給付しないことになったら、患者(特に低所得患者)は病状が悪化するまで医療機関受診を控えることになり、「いつでも、どこでも、だれでも」よい医療を受けられるという国民皆保険制度の根本理念が崩れてしまうことです。この理念は、吉川氏がかつて支えた小泉純一郎首相も、厚生大臣時代に高く評価していました。「だれでもいつでもどこでも良質な医療サービスを受けられる国民皆保険制度である。この良質な医療サービスをだれでも受けられるという国民皆保険制度を堅持していきたい」(1997年8月26日衆議院厚生委員会。詳しくは『文化連情報』9月号掲載予定の拙論参照)。
第2の問題点は、吉川氏が社会保障制度の一環である公的医療保険には、自動車保険等の民間保険にはない、以下の特性があることを無視していることです:(1)強制加入、(2)財源には保険料だけでなく多額の公費が投入されている(国民医療費の約3割)、(3)保険料は所得比例で所得再分配の要素が含まれる。
この特性のために、公的医療保険には、民間保険の大原則とされている「[保険料総額と保険給付総額の]収支相等の原則」や「給付反対給付均等の原則」は純粋な形では成立しません(堀勝洋『社会保障法総論[第2版]』東大出版会,2004,第1章第4節)。これらを無視して、「医療保険は火災保険と自動車保険と同じ」とする主張はあまりに乱暴・粗雑です。
第3に、民間保険に限定しても、保険が「ビッグリスク」のみをカバーし、「スモールリスク」をカバーしないことは自明の「原理」とは言えません。実は、私は当初、吉川氏の主張は民間保険の原理を公的医療保険に機械的に適用したものだと思いました。そこで、日本の保険学の草分けである庭田範秋先生の一連の著作を含めて、保険学(論)の主要な研究書や教科書13冊を調べたのですが、吉川氏のような主張は発見できませんでしたし、免責制に触れた著作もごく限られました。庭田範秋『新保険学総論』(慶應通信,1995,94頁)には、「小損害不担保」、「被保険者一部負担」等、免責制と同義の用語が載っていましたが、それらは保険の「原理」ではなく、「保険金支払いの諸工夫」とされていました。
視点を変えて、国民皆保険解体を主張している著書を5冊調べたところ、免責制の全面導入を主張していたのは八代尚宏氏だけでした。しかも八代氏は自動車保険を例にあげてこう主張していました。「一定額までは全額負担で、さらにその上の一定額までは比例負担のようなドラスティックな改革」(『現代日本の病理解明-教育・差別・福祉・医療の経済学』東洋経済,1980,204頁)。吉川氏の主張はそれの30年ぶりの復活と言えます。
3.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文
(通算69回.2011年分その6:5論文)
※「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。
○社会サービスの民営化:スウェーデンの高齢者ケアにおける[公私事業者の]質の差
(Stolt R, et al: Privatization of social services: Quality difference in Swedish elderly care. Social Science and Medicine 72(4):560-567,2011)[量的研究]
最近数十年間の世界の主要な趨勢の1つは社会サービスの民営化である。この趨勢は、医療・社会サービス部門にかつては私的事業者がほとんどなかった福祉国家スウェーデンでも生じている。この傾向は高齢者ケア領域(ホームヘルプサービスと施設サービス)で顕著であり、私的事業者のシェアは1990年の1%から2010年の16%へと急増しており、しかもその約90%は営利企業である。2007年の全国データを用いて、公私事業者の高齢者ケアの質を横断的に比較したところ、民営化はケアの質に差を生んでいることを確認できた。利用者1人当たり職員数等の構造的質要素を比較すると、私的事業者では公的事業者より9%低かった。他面、ケアプランに参加している高齢者の割合、夕食と朝食と間隔が十分に離れている高齢者の割合、食事選択できる高齢者の割合は、いずれも私的事業者の方が高かった(公私の差はそれぞれ、7%、15%、26%)。この結果は、私的事業者は良質のケアとして、構造的要件(人員配置)よりケアのサービスの側面に注力していることを示している。
二木コメント-高齢者サービスの民営化の影響をていねいかつ「複眼的」に評価しています。
○公立病院の民営化、企業化、自律性および説明責任についての問いはいつか解決されうるか?
(Braithwaite J, et al: Can questions of the privatization and corporatization, and the autonomy and accountability of public hospitals, ever be resolved? Health Care Analysis 19(2):133-153,2011)
[文献レビュー、質的研究]
医療サービスの民営化と企業化については長い国際的論争があるが、この種の改革の根拠付けの方法についての体系的分析はほとんど行われていない。そこで民営化と企業化が公立病院に与える影響、特に病院の自律性と説明責任に与える影響を明らかにするために、民営化・企業化の賛否両論の「語り」(narrartives)に注目した文献レビューを行った。具体的には、民営化や企業化等をキーワードにして、Medline等5つのデータベース、主要雑誌、グーグルから2319の英語論文の要約を収集し、グラウンデッド・セオリー・アプローチに基づき、Leximancer(テキスト分析を自動的に行うソフト)を用いて、主要鍵概念を抽出して概念地図を作製し、その結果に解釈を加えた。結論的に言えば、民営化・企業化の賛否の主張は根拠に基づくと言うよりイデオロギー的であった。それの支持者はそれにより病院のマネジメントに対する政府の関与が減り、効率化、サービスの質の向上、患者の選択の拡大が生まれると主張していた。反対者は、民営化により、平等の低下、効率の歪み、質の低下等、有害なアウトカムが生じると主張していた。しかし、両者の主張を裏付ける根拠はしばしば弱く、時には矛盾していた。民営化・企業化は実施が難しく、しかも肯定・否定両面の混じった結果を生むため、評価は結果そのものよりも、評価者の動機に依存する。これは、イデオロギー的にのみ解決されうる種類の論争である。
二木コメント-グラウンデッド・セオリー・アプローチを用いて、医療政策の文献レビューを行った珍しい論文です。大変な分析作業を行ったことは分かりますが、ほとんどのグラウンデッド・セオリー・アプローチを用いた研究と同じく、結論は陳腐です(So what? Et alors?)。また論文全文ではなく要旨のみを用いて、Leximancerを用いたテキスト分析を行ったのは安直かつ機械的と思います。
○質調整生存年1年[延長]に対する支払い意志[額]:意思決定には1つの閾値で充分か?[中国の2都市の]慢性前立腺炎患者[と一般住民]対象の調査結果
(Zhao FL, et al: Willingness to pay per quality-adjusted life years: Is one threshold enough for decision-making? Results from a study in patients with chronic prostatitis. Medical Care 49(3):267-272,2011)[量的研究]
中国国民の質調整生存年1年延長に対する支払い意志額(以下、WTP/QALY)を推計し、それが慢性前立腺炎患者と一般住民とで異なるかを2009年に調査した。対象は経済的・人口学的条件が異なる北京市(北部)と雲南省昆明市(南部)の2都市の2つの大病院から募った268人の慢性前立腺炎患者と一般住民から募った364人である。中国版のEuroQoL、SF-6Dを用いて、患者と一般住民別にWTP/QALYを計算したところ、4700~7400米ドルとの結果が得られた。これは、当地の1人当たりGDPの下限に近かった。一般住民のWTP/QALY(4711、5012ドル)は、慢性前立腺炎患者のそれ(7308、7306ドル)より有意に低かった。
二木コメント-質調整生存年1年延長に対する支払い意志額(WTP/QALY)は決して普遍的ではなく、各国の1人当たり所得水準に規定されることを示唆した面白い研究と思います。本「ニューズレター」73号(2010年8月)で紹介した「追加的QALY1年に対する支払い意志(WTP)についての国際調査:費用対効果の閾値はいくらか?」(Health Economics 19(4):422-437,2010.対象は日本、韓国、台湾、イギリス、オーストラリア、アメリカの6カ国・地域)の結果と比べると、概ね10分の1です。ただし、本論文の表題はもちろん、英文要旨にも対象が中国本土の患者・住民であることは書かれておらず、逆に調査結果を「アジア的環境」に普遍化(?)しています。
○医療介入の優先順位決定に関するイギリス国民の選好を理解する:得られる健康便益は重要か?
(Mason H, et al: Understanding public preferences for prioritizing health care interventions in England: Does the type of health gain matter? Journal of Health Services Research and Policy 16(2):81-89,2011)[質的研究]
医療予算は有限であるため、どの医療介入を提供し、どれを提供しないかを決める必要がある。本研究の目的は、イギリス国民が医療介入の優先順位を決定するさいに、重視する医療介入の特性(得られる健康便益の種類も含む)とその理由を調査することである。Q技法(Q methodology.質的標本抽出技法の一つ)を用いて、北東イングランドの住民52人を対象に選び、36の医療介入間の優先順を付けてもらった。設問では、各医療介入の説明だけでなく、QOL改善、余命の延長、質調整生存年延長の有無と程度も示した。その結果に因子分析を行ったところ、以下の5つの因子を抽出できた。「健康成果を最大化するための救命」、「誰もが生きるチャンスを持っている」、「(潜在的な)自己の便益」、「最少の費用で最大の便益」、「QOLと社会的責任」。どの介入を優先すべきかについて異なった見解があった。回答者は介入により得られる健康便益の種類だけでなく、健康便益の規模、だれがそれを得るか、および各自の個人責任も考慮して判断していた。この結果に基づいて、著者は、医療介入の優先順位についての国民の見解を引き出す際には、健康便益以外の側面も考慮すべきだと結論づけている。
二木コメント-医療政策決定の基礎作業として質的調査(Q技法)を用いた(私にとっては)珍しい研究です。結論は妥当(または常識的)と思いますが、設問が「即物的」なのには驚かされました。例:設問5「スタチン(慢性心疾患)、血中コレステロール濃度を低下させる、QOLは改善しない、余命を延長する、QALYについての情報はない」。
○[アメリカにおける]精神疾患を持つ人々の超過死亡を理解する-全国代表標本を用いた17年間の追跡調査
(Druss BG, et al: Understanding excess mortality in persons with mental illness: 17-year follow up of a nationally representative US survey. Medical Care 49(6):599-604,2011)[量的研究]
アメリカでは精神疾患を持つ人々の早期医療死亡(premature medical mortality)についての懸念が増大しているが、全国代表標本を用いてそれの程度や他の要因との関連を定量的に検討した研究はほとんどない。そこで、1989年の国健康面接調査精神衛生補足調査と2006年の全国死亡指数調査をリンクしたデータベースを作成し、Cox比例ハザード回帰モデルにより、人口学的要因を調整後の精神疾患を持つ人々のそれ以外の人々に対する死亡ハザード比(危険率)、およびそれと社会経済的要因、医療制度的要因、健康状態に関する要因との関連を検討した。社会経済的要因には連邦貧困線以下の所得等5要因、医療制度的要因には医療保険加入等の3要因、健康状態に関連した要因にはBMI(肥満度)等3要因を含んだ。
その結果、精神疾患を持つ人々の余命はそれ以外の人々より平均8.2年短く、彼らの超過死亡のハザード比は2.06に達していた。死亡原因の95.4%は疾病であった。このモデルに社会経済的要因を加えると、ハザード比は1.77に低下した。医療制度的要因を加えると、それは1.80に低下した。健康状態に関連した要因を加えると、それは1.32に低下した。これら3要因すべてを加えると、ハザード比は1.19に低下し、統計的に有意ではなくなった(p=0.053)。この結果は、精神疾患を持つ人々の死亡原因の複雑さを示している。
二木コメント-精神疾患を持つ人々の超過死亡の相当部分が社会経済的要因と医療制度的要因によって説明できることを定量的に示した貴重な実証研究と思います。
4.私の好きな名言・警句の紹介(その81)-最近知った名言・警句
<研究と研究者のあり方>
- 屋名池誠(東京女子大学教授、日本語学)「そこで知ったのは、ありふれたものほど残らない、ものとして残るものはまだよい、特に当時の人のもっていた『常識』や『イメージ』は残らないということだった。残らないものを仮説で補った。仮説を立てることで、それまで雑然とした事実の集積にすぎなかったものが、一挙に整然とした秩序を見せて、あれよあれよという間に時代順に収まるべき所に収まってしまった時の爽快感はすばらしかったが、やりすぎて読み取るべきでないものまで読み込んでしまったかもしれない」(『横書き登場-日本語表記の近代』(岩波新書,2003,201頁。「おわりに」で、日本語の縦書き・横書きの歴史を明らかにするため、徹底的に事実の掘り起こしを行う過程で知ったことを、こう述懐)。二木コメント-私も、本「ニューズレター」86号の第1論文執筆のため、「いつでも、どこでも、だれでも」(よい医療を)という標語の来歴を調べる過程で、これと似た経験をしました。
- E・F・シューマッハー(経済学者・経済思想家。1911年生-1977年没)「短期の予想…未来について健全な判断を下すときに役立つのは、予想の技術ではなく、現状のよりよい把握である。(中略)/したがって、私としては全力をあげて現状を把握し、『異常』で1回限りの要因を見つけ出し、また必要とあればそれを取り除いて現状を理解することが必要だと信じている。これさえ行えば、予想の方法はいくら大ざっぱでも、まずさしつかえない。(中略)/次に、5年ないしそれ以上の期間を対象とする長期の予想に移ろう。変化は時間の関数だから、長期は短期よりも予言しにくいのは明らかである。事実、すべての長期予想は、その内容が一般的すぎて自明のことをいっているだけか、さもなければ多少なりとも自信過剰で、合理的とはいいかねる」(小島慶三・酒井懋(つとむ)訳『スモールイズビューティフル-人間中心の経済学』講談社学術文庫,1986(原著1973.引用個所は1961年の講演)302,303,306-307頁)。二木コメント-「現状のよりよい把握」、「全力をあげて現状を把握」することにより、短期予測が可能との主張に大いに共感しました。私も、「医療政策の短期的(数年)かつ定性的予測のみを行い」、それの「長期的・定量的予測は学問的に不可能であり、趣味的になってしまう」と考えています(『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,27頁)。なお、「毎日新聞」2011年7月1日朝刊、西川恵「金言:40年前の『予言』」は本書を「人類の直面する課題をえぐっている。その鋭さはいささかも色あせていない」と高く評価しています。それに惹かれて、以前拾い読みしただけの本書全体を読み、特に第2部第4章「原子力-救いか呪いか」は西川氏の指摘通りと感じました。
- ポール・ケネディ(イギリス生まれの歴史学者、現在米イェール大学歴史学部教授)「アラブ世界には、『未来を予測し、それが的中した者は、利口なのではない。非常に幸運なのである』という偉大なことわざがある。(中略)我々は、過去を知らなければ、現在を理解することができない。未来について考え始めることもできないだろう」(山口瑞彦訳『世界の運命-激動の現代を読む』中公新書,2011,まえがき,jv頁)。二木コメント-『医療経済・政策学の視点と研究方法』の第2章「医療政策の将来予測の視点と方法」では、「客観的」将来予測(ただし、「短期的かつ定性的予測」)を行うために必要な「分析枠組み」(21世紀初頭の医療・社会保障改革の3つのシナリオ)といくつかの「予測の技術」を書きましたが、ウッカリして「過去を知らなければ」ならないこと(歴史に学ぶこと)を書き落としてしまいました。そのために、毎年の大学院の講義「医療・福祉経済論」で、この章を用いるときには、いつも「この章には書かれていない重要な視点をあげよ」というQuizを出しています。
- デイヴィッド・オレル(複雑系を専門に研究している応用数学者、サイエンスライター。カナダ出身・イギリス在住)「私はあえて、経済学の教育を受けることは、実は不利だと言いたい(その不利を乗り越えられるような、きわめて才能のある人々もいるが)。私が信じるとおりに経済学がイデオロギーなら、経済学の世界で訓練を受けるということは、結局心を閉ざす道を進むことになる。経済学を生き返らせる新しい思想は、ネットワーク理論、複雑性の科学、心理学、さらにシステム生物学も、というふうに、経済学部で普通に教えられる内容のはるか外にある様々な領域から生まれている。(中略)外にいることによって、自分が若いときに触れ、どうしても擁護しなければと思っている従来の理論を、正当化する必要なく分析できるからだ」(松浦俊輔訳『なぜ経済予測は間違えるのか?科学で問いなおす経済学[原題はEconomyths]』河出書房新社,2011,14-15頁)。二木コメント-オレルの主張は極論のようにみえますが、『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』(山内あゆ子訳、楽工社,2011。カーネマンは行動経済学の創始した心理学者、2002年ノーベル経済学賞受賞)を読むと、的を射ていることが分かります。ただし、オレルが批判している経済学は、「効率的市場仮説」を信奉する原理主義的新古典派経済学です(41頁)。この名言を読んで、次の名言を思い出しました。
- ジョーン・ロビンソン「経済学を学ぶ目的は、いかに経済学者にだまされないようにするかを習得するためである」(都留重人・伊東光晴訳『マルクス主義経済学の再検討』紀伊国屋書店,1959,37-38頁。1955年2月のインド・デリー大学での講演「マルクス・マーシャル・ケインズ」に加筆したもの。本「ニューズレター」2号(2005年2月)で紹介)。
- 寺澤芳男(元野村證券副社長、元参議院議員、経済企画庁長官)「質疑応答にもマナーがある たいていの場合、スピーチが終わった後に質疑応答の時間が設けられている。このときにありがちなのは『質問が三つあります。一つは…』などという言葉で質問を始めることだ。/一見質問内容が整理されていていいと思うかもしれないが、関連する質問ならまだしも、独立した項目で複数の質問を投げかけるのはマナー違反である。一人でいくつも質問をするのはほかの人の質問チャンスを奪うことでもあるからだ。(中略)/質問は一人一つが原則である。/(中略)話し手には質疑応答に振り回されることなく、マナー違反をピシャリと退ける役割もあることを覚えておくといいだろう」(『スピーチの奥義』講談社新書,2011,120-122頁)。二木コメント-本書を読んだ直後に行った講演で、本書の教えに従い、「マナー違反をピシャリと退け」ました。「一人でいくつも質問をするのはほかの人の質問チャンスを奪うこと」という指摘を読んで、手前味噌ですが、私が2003年4月に日本福祉大学社会福祉学部長に就任した時に発表した「学部長マニフェスト」の以下の記述を思い出しました。
- 二木立(当時・日本福祉大学社会福祉学部長)「[教授会での個人]発言は1回3分以内で終わることを原則にしましょう。そのためにも、発言は、(1)簡潔、(2)冷静、(3)建設的にしましょう。私が「発言は1回3分以内」を新たに提起する理由は以下の3つです:(1)できるだけ多くの教員が発言できるようにする(特定の教員が長々と発言することは、他の教員の発言の機会を奪うことです)。(2)短時間で自分の意見を簡潔・冷静・建設的に述べるのは"public speaking"の基本です。(3)発言時間が長くなると、論旨があいまいになり、他の教員が理解できません(特に、「熱い思い」をただ思いつくままにしゃべる場合)(2003年4月17日学部教授会で配布した「学部長マニフェスト」。※大学の役職に就かれているか就く予定の方でこの「マニフェスト」ご希望の方には、ファイルをお送りしますのでご連絡下さい)。
- 近森正幸(高知県・社会医療法人近森会理事長。1984年父の逝去に伴い、37歳で理事長になり、2年後に広報誌「ひろっぱ」を創刊。以後、四半世紀にわたり、ほとんど毎号欠かさずに所感・随筆を執筆)「書くことで自分と向き合い、自身の人間性が養われたように思います」(「ひろっぱ」300号,2011年7月)。
- 小熊英二(慶應大学教授・歴史社会学者。元「世界」編集部)「職場[岩波書店編集部]の男性の先輩に言われた印象的な一言が『自分が100面白いと思っても、ほかの人は10も面白いと思うかどうか』。伝わるのは10分の1程度だから、それだけのエネルギーを発しないと他人は動かせないと」(「日本経済新聞」2011年8月5日朝刊、「学びのふるさと」)。
<その他>
- 三遊亭圓窓(落語家)「夢は大きく、声はもっと大きく」(「NHKラジオ深夜便」2011年2月9日4時台「人の情けを次の世代に(2)」)。
- 新藤兼人(日本映画界最高齢の映画監督。99歳を目前にして「一枚のハガキ」(8月13日より全国公開)を撮りあげた)「生きている限り生き抜きたい」(「NHK総合テレビ」2007年7月25日放送の「クローズアップ現代」で座右の銘と紹介(この時95歳)。『エコノミスト』8月23日号で、あべやすこ氏が「一枚のハガキ」の映画評で引用)。
- パブロ・カザルス(スペイン・カタロニア出身の20世紀最大のチェリスト。1876-1973年)「私がもうたいへん若くはないというのは事実だ。たとえば、私は私が九十歳だったころよりは若くない。歳というのは相対的なものだ。もしも私たちが活動し続け、私たちのまわりの世界の美を自分に取り込むなら、歳を重ねるということは老いぼれるということをかならずしも意味するものではないと気づくだろう。今私は九十代だが、ある種のことは若いころよりも強烈にかんじる。そして人生は日々ますます魅力を増す」(J・L・ウェッバー編、池田香代子訳『パブロ・カザルス 鳥の歌』筑摩書房,1989,210頁。「中日新聞」2011年5月11日朝刊、岡井隆「けさのことば」がゴチック部分を、96歳のカザルスの言葉と紹介)。