『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻99号)』(転載)
二木立
発行日2012年10月01日
出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。
目次
- 1.論文:私はなぜ「医療は永遠の安定成長産業」と考えているのか?
(『日本医事新報』連載「深層を読む・真相を解く(16)」2012年9月8日号(4611号):28-29頁)
- 2.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(通算82回.2012年分その7:6論文)
- 3.私の好きな名言・警句の紹介(その94)-最近知った名言・警句
お知らせ
論文「『平成24年版厚生労働白書』をどう読むか?」(「深層を読む・真相を解く」(17))を『日本医事新報』2012年10月6日号に掲載します。本論文は、「ニューズレター」100号(2012年11月1日配信)」に転載予定ですが、早く読みたい方は『日本医事新報』掲載論文をお読み下さい。
1.論文:私はなぜ「医療は永遠の安定成長産業」と考えているのか?
(『日本医事新報』連載「深層を読む・真相を解く(16)」2012年9月8日号(4611号):28-29頁)
民自公三党が共同提出した「社会保障制度改革推進法」は、消費増税関連法として、8月10日に成立しました。本連載(14)(7月7日号)で述べたように、私はこれにより「小泉内閣時代の厳しい社会保障・医療費抑制政策が復活する危険」があると危惧しています。しかし、それにもかかわらず、私は、医療は長期的には「永遠の安定成長産業」であると判断しています。国民医療費が今後もGDPの伸びを上回って伸び続けるのは確実だからです。
私は、いつもこのような複眼的評価をしているのですが、最近、ある有力な医師会長から、次の疑問を呈されました。「今後国民医療費がGDPの伸びを上回って伸びたとしても、公的医療費が厳しく抑制され、私的医療費だけが大幅に伸びる結果、国民全体が良質な医療を享受できなくなるのではないか?」。
本稿では、先ず私が「医療は永遠の安定成長産業」と判断するようになった経緯と理由を簡単に紹介し、次に私が現在もその判断を変えない根拠を説明します。
1988年から「安定的な成長産業」と主張
私が初めてこう主張したのは、1988年、『リハビリテーション医療の社会経済学』(勁草書房)においてです。1980年代には、中曽根内閣等が推進した厳しい医療費抑制政策により、医療機関の経営が悪化した結果、医療界では「医療冬の時代」という悲観的見方が一般的でした。それに対して、私は、厚生省「高齢者対策企画推進本部報告」(1986年)が、社会保障費中の「医療等」の対国民所得比が1986年の7.5%から2000年には9.0~11.5%になると予測していたことに注目し、「医療は決して衰退産業ではない、医療は今後も安定的な成長産業」であると主張しました(7頁)。
その後、『90年代の医療』(勁草書房、1990)、『複眼でみる90年代の医療』(同、1991)、『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』(同、1994)等でも、同じ主張をしました。最後の本では、「人口構成の高齢化や医療技術の進歩等のために、医療費の水準(国民所得に対する割合)は、公的医療費に限定しても、漸増することは確実である」と書きました(141頁)。
さらに小泉政権が厳しい医療費抑制政策を実施していた2004年に出版した『医療改革と病院』(勁草書房)では、「医療費(総医療費、公的医療費とも)が中期的に増加することは確実」であり、「破局シナリオが起きない限り、医療は『永遠の成長産業』と言える」と主張しました(89-91頁)。当時は、小泉政権による性急な不良債権処理と財政再建策により、日本の金融・財政システムが破綻する可能性がゼロとは言えなかったのです。
「社会保障国民会議」「社会保障・税一体改革」とも私的医療費割合は一定と推計
今後も、国民医療費総額と同様に公的医療費も増加し続け、私的医療費(自己負担)は急増しないことは、福田・麻生自公政権でも、民主党政権でも公式に認められています。
麻生内閣の「社会保障国民会議における検討に資するために行う医療・介護費用のシミュレーション」(1998年10月)では、国民医療費中の自己負担割合は2007年、2025年とも13%と推計されていました。菅内閣の「社会保障・税一体改革」案の「医療・介護に係る長期推計」(2011年6月)では、この割合は2011年の15%から2025年には13~14%に微減するとされていました。ただし、それは制度改善によるものではなく、自己負担割合が低い高齢者数が増加するためです。
私的医療費割合が激増することはないと判断する根拠
社会保障制度改革推進法は「負担の増大」の抑制や「療養の範囲の適正化」を掲げていますが、それで公的医療費のみが抑制され、私的医療費が急増するとは考えられません。
それには2つの理由があります。1つは、「負担の増大」の抑制とは、医療費絶対額の抑制ではなく、伸び率の抑制を意味するからです。実は小泉政権も、社会保障費の絶対額の抑制ではなく、伸び率の抑制(自然増分を毎年2200億円抑制)を行いました。その結果、国民医療費中の公的医療費(公費+保険料)割合は2001年の86.5%から2006年の85.6%へと0.9ポイントの減少にとどまりました。
次に、私的医療費を激増させることが困難な理由を述べます。今後、導入される可能性が高いのは、70~74歳の高齢者の患者負担割合の1割から2割への引き上げと「受診時定額負担」です。これが低所得患者の受診を選択的に抑制することは確実ですが、国民医療費レベルでみると総額は多くありません。
「保険給付の対象となる療養の範囲の適正化」は、保険外併用療養費制度の拡大と一体で行われる可能性が大きいのですが、同制度の「先進医療」には長期的には医療費抑制効果はありません。なぜなら、それに採用された医療技術は、効果が確認され、しかも一定程度普及したと判断された段階で、保険適用されるルールがあるからです。
このルールを破棄し、先進医療技術や画期的新薬をいつまでもその制度の枠内にとどめることは、政治的にきわめて困難です。患者・国民サイドからみると、それは貧富の差により受けられる医療が変わることを意味しますが、日本国民の8割は平等な医療を支持しているからです(日医総研「日本の医療に関する意識調査」第1~4回)。
さらに医療機器・医薬品企業サイドからみても、先進医療制度の下では、価格設定が自由化され、高い値付けが可能になる反面、高価格のため、利用する患者数が増えず、企業が期待した利益額を確保することは困難です。野田内閣の「日本再生戦略」(7月31日閣議決定)では、医薬品・医療機器産業の強化が「ライフ・イノベーション」の中心ですが、このためには効果が確認された革新的医療技術・医薬品の速やかな保険適用が不可欠です。
この矛盾を解決するためには、中・高所得層を対象にした私的医療保険の普及が不可欠です。しかしOECD調査により、私的医療保険は医療利用を誘発する結果、公的費用・総費用も増加すること、および私的医療保険を含めて複数の保険者が存在する国では医療費抑制が困難なことが確認されています(Private Health Insurance in OECD Countries, OECD, 2004,196頁)。つまり、私的医療保険に依存して、私的医療費のみを選択的に拡大し、公的医療費を抑制することは不可能なのです。
以上が、今後、厳しい医療費抑制政策が復活した場合にも、医療は長期的に見て「永遠の安定成長産業」と私が判断する根拠です。
2.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文
(通算82回.2012年分その7:6論文)
※「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。
○医療アクセスの保証-ドイツは[医療]提供構造を改革し不平等と取り組む
(Ozegowski, S, et al: Ensuring access to health care - Germany reforms supply structures to tackle inequalities. Health Policy 106(2):105-109,2012)[政策研究]
ドイツの連立政権は最近、議会に「医療構造法案」[医療提供構造改善法案]を提出した[同法は2011年末に成立し、一部を除いて2012年1月1日から施行]。同法は、外来医療構造の改善、意思決定の分権化、診療所・病院間の連携促進、医療部門におけるイノベーションの強化を目的としている。これらを達成する手段として、医師への診療報酬によるインセンティブの改革、意思決定の地方レベルの組織への移譲、高度専門医療への新しい支払い方式の創設等が示されている。連邦議会野党とほとんどの医療利害関係者は改革が目指す方向には同意しているが、同法に対する評価はさまざまである。医師を代表する組織(「保険医協会」)は同法が全体としては正しい方向をめざしていると見なしているのに対して、野党や、疾病金庫、患者団体、大半のドイツ州政府は同法が医療提供面での不平等や診療所・病院間の壁に適切に対処していないと感じている。このような懐疑には相当の根拠があるように思われる。医師を医療ニーズが高い(医師不足の)地域に誘導しようとする改革には大きな欠陥があるし、診療所と病院間のバリアを克服する方策は不十分である。さらに、革新的な治療方法を疾病金庫の給付リストに含めるための新しい方式は、国際標準に照らすと不十分である。
二木コメント-ドイツの最近の医療保険制度改革についての研究論文は少なくありませんが、医療提供構造を改革する法とそれをめぐる論争について簡潔に論じた英語論文は珍しいと思います。著者(3人)はいずれもベルリン工科大学医療マネジメント学部所属です。なお、渡辺富久子「【ドイツ】医療供給構造を改善する法律」(『外国の立法』2012年4月号。(PDF)ウェブ上に全文公開)は、この法律のうち、過疎地域における医師不足の克服と医療サービスの改善策(大胆な診療報酬によるインセンティブの導入等)に焦点を当てて解説しています。土田武史「ドイツにおける医療供給体制の改革」(『週刊社会保障』2012年8月27日号:36-37頁)」は、この改革の全体像をコンパクトに紹介しています。
<アメリカのメディカル・ホームの評価(2論文)>
○[アメリカの]患者中心のメディカルホームは機能しているか?患者中心のメディカルホームと患者関連アウトカムについての文献の批判的統合
(Alexander Jeffrey, et al: Does the patient-centred medical work? A critical synthesis of research on patient-centred medical homes and patient-related outcomes. Health Services Management Research 25(2):51-59,2012)[文献レビュー]
アメリカとほとんどの西ヨーロッパ諸国の医療制度は患者ケア、特に慢性疾患を有する患者のケアの連携(coordination)と統合という課題に直面している。この課題に取り組むために、患者中心のメディカルホーム・モデル(以下、メディカルホーム)に対する関心がアメリカでは最近強まり、全米で多様なモデル事業が行われている。このような熱狂にもかかわらず、メディカルホームが医療の質・アクセス関連のアウトカムに与える影響を実証的に検討した論文は少ない。本論文では、PubMed等から抽出した、メディカルホームの効果を検討した実証研究論文61を対象にして、文献レビューを行い、それらの方法論的・概念的問題を批判的に検討した。多くの論文はメディカルホームがさまざまな効果があると主張しているが、それらには方法論や効果測定に問題があることが分かった。
二木コメント-メディカルホームは、最近、アメリカ(の一部?)で注目されている医療改革モデルで、「医療のプロセスとアウトカムを改善するようデザインされたプライマリケアの総合的、チームアプローチ・モデル」と定義されています。しかし、今までの大半の医療改革モデルと同じく、「熱狂」先行で、厳密な意味での「効果」はまだ証明されていないようです。
○連邦政府が資金を負担した保健センターでの患者中心のメディカルホーム評価と運営費との関連
(Nocon RS, et al: Association between patient-centered medical home rating and operating cost at Federally funded health centers. JAMA 308(1):60-66,2012)[量的研究]
患者中心のメディカルホーム(以下、メディカルホーム)と位置づけられた保健センターの評価と費用の関係についてはほとんど知られていない。アメリカ医療資源サービス庁が資金を負担している全保健センター(1009)のメディカルホーム評価と費用の関係を明らかにするために、2009年データを用いて横断分析を行った。以下の6領域での個別評価に基づいて、保健センターを総合評価した(最低は0点、最高は100点):アクセス/コミュニケーション、ケアマネジメント、外部組織との連携、患者の追跡、検査/紹介の追跡、質の改善。費用は医療資源サービス庁に同一基準で提出された。
詳細なデータを得られた669保健センターを対象にして、一般化線形モデルを用いて、両者の関係を検討した。アウトカム(被説明変数)は、常勤換算医師1人当たり運営費、患者1人・1月当たり費用、1回受診当たり医師診察費とした。保健センターの平均評価は60点であった(最高90、最低21)。平均的保健センターについてみると、評価の10点上昇は、患者1人・1月当たり費用2.26ドル(4.6%)の増加と関連していた。他のアウトカムでも、個別評価の大半でも、同様の関連が見られた。この結果は、保健センターの高い評価は高い運営費と関連していることを示している。
二木コメント-メディカルホームに関しても「高かろう、良かろう」の関係があることが確認されたと言えます。
<医療の経済評価(3論文)>
○費用効果分析は公平についての関心を統合できるか?体系的文献レビュー
(Johri M: Can cost-effectiveness analysis integrate concerns for equity? Systematic Review. International Journal of Technology Assessment in Health Care 28(2):125-132,2012)[文献レビュー]
本研究の目的は、根拠に基づくと同時に、価値にも基づいた医療技術評価アプローチを促進することである。そのために、公平を考慮する方法を明示している費用効果分析の体系的文献レビューを行った。そのために、PubMedとEMBASEによる検索を行うとともに、専門家に相談したり、得られた論文の引用文献をチェックした。研究の質の評価は行わなかった。検索した695論文から、最終的に51論文をレビューの対象とした。経済評価で公平の関心を定量的に評価する方法としては、主に以下の3つが用いられていた:(1)公平の重み付けと社会厚生関数により分配上の関心を統合する、(2)数学的プログラミングにより代替的政策の機会費用を計算する、(3)多基準(multi-criteria)意思決定分析。本レビューにより、現在は費用効果分析に公平の関心を統合するいくつかの実行可能な技法(記述的方法~定量的方法)が存在することが分かった。ただし、それらを用いて意思決定を行うためには、次の2つの規範レベルでの障害があった:(1)公平という名目で検討されている概念と価値の多様性、(2)論争のある諸価値の選択を基礎づけるための広く受け入れられている規範的基準の欠如。公平概念を明確にし、手続き的公平に注意すれば、医療技術評価の意思決定で、このような諸技法が広く用いられるようになるかもしれない。
二木コメント-このテーマについての体系的文献レビューは、10年ぶりだそうです。ただし、英語・内容ともかなり難解です。なお、この論文の「費用効果分析」には費用便益分析等も含み、日本での「経済評価」に近いと思います。
○現実世界の対象人口を対象とした介入の(費用・)効果の計算:RCTと観察データの両方の強みを結合する可能性
(Neyt M, et al: Calculating an intervention's (cost-)effectiveness for the real-world target population: The potential of combining strengths of both RCTs and observational data. Health Policy 106():207-210,2012[評論]
経済評価では、ほとんどの場合、ランダム化比較試験(RCT)の結果を用いて、効果モデル作る。RCTから得られた絶対的治療効果を現実世界の対象人口に無分別に応用すると、介入の便益の非現実的推計に陥ってしまう危険がある。対象人口の基準リスクは、RCTの対象人口のそれとは異なる可能性がある。この問題を処理する1つの方法は、観察データとRCTの結果を結合することである。信頼性の高い業務データや登録データを用いれば、現実世界の基準リスクを推計できる。適切に行われたRCTから得られた相対的治療効果と結合することにより、適切な対象人口に対する絶対的便益を推計できる。この方法を用いる場合、等相対的治療効果(constant relative treatment effect)の推計の妥当性については慎重であらねばならない。
二木コメント-私自身も、少なくとも医療サービス研究ではランダム化比較試験(RCT)には実施と結果の一般化の両面で限界があると感じていたので、多いに納得しました。
○統計的生命価値の推計は誇張されているか?
(Doucouliagos C, et al: Are estimates of the value of a statistical life exaggerated? Journal of Health Economics 31(1):197-206,2012)[理論研究・量的研究]
統計的生命価値の大きさは、多くの保健医療・安全施策を評価する上で決定的に重要である。現在まで、大規模で頑健な統計的生命価値研究では出版選択バイアス(有意でないか、マイナスの統計的生命価値が出版される確率は低い)の影響を明示的に調整していない。本研究ではこの調整が必須であることを示す。ヘドニック賃金方程式を用いた統計的生命価値の諸推計では、選択バイアスを修正すると平均的統計的生命価値は70-80%も低下する。メタ回帰分析により、既存の統計的生命価値の推計に大きな格差があるいくつかの理由を示す。
二木コメント-「統計的生命価値」法とは仮想評価法等に基づいて、統計的死亡リスクを回避するための個人の支払い意思額を推計する方法です。本「ニューズレター」95号(2012年6月)で紹介した「アメリカの医療費のヨーロッパに比べた高さは癌医療では価値があるかについての分析」(Philipson T, et al: An analysis of whether higher health care spending in the United States versus Europe is "worth it" in the case of cancer. Health Affairs 31(4):667-675,2012)のコメントでも、この方法に対する疑問を述べましたが、やはりこの方法で得られた数値を使うのはアブナイようです。本論文は、統計的生命価値の出版選択バイアスの大きさを定量的に示したことに意義があると思います。
3.私の好きな名言・警句の紹介(その93)-最近知った名言・警句
<研究と研究者のあり方>
- 湯浅誠(社会活動家、反貧困ネットワーク事務局長。「最後の最後では、私は楽観している。日本社会の底力を信じているのだろう。しかし短期では、強い危機感を持っている。だから短期と長期の二正面作戦が必要だ。それは私たちに難しい芸当を強いる。最善を求めつつ、同時に最悪を回避しつつ」(『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版,2012,3頁)。二木コメント-私も医療・社会保障政策を同じ視点から分析しているので、多いに共感しました。本「ニューズレター」の第1論文で書いたように、私は8月10日に成立した「社会保障制度改革推進法」により小泉内閣時代の厳しい社会保障・医療費抑制政策が復活する危険があると危惧していますが、それにもかかわらず長期的に見れば医療は「永遠の安定成長産業」であるとも判断しています。
- 湯浅誠「政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます」(上掲書186頁。初出は「【お知らせ】内閣府参与辞任について」(2012年3月7日。ウェブ上に全文公開)。二木コメント-この発言は、高橋伸彰氏の次の「気づき」と共鳴すると感じました。
- 高橋伸彰(立命館大学国際関係学部教授)「最初から読者の意欲を削ぐような紹介だが、[ケインズ]『一般理論』を手にしてから約40年、ようやくゼミの学生に内容を解説できるようになった私が、遅まきながら気づいたのは『一般理論』が難解なのではなく、複雑で多様な動機を持つ人間が営む経済を一貫した論理で精密に語ることがむずかしいということである」(『ケインズはこう言った-迷走日本を古典で斬る』NHK出版新書,2012,95頁)。
- ケインズ「経済学にはどの程度の精密さが当を得たものなのであろうか。『その本質が、漠然としたものを精密なものとして扱う点にある』スコラ哲学に陥る危険性が存在する。すべてを包摂するような一般化は実行不可能である。経済学における一般化とは、一般化によるのではなく、実例による考察である。機械的な論理を利用することはできない。それは一般的なケースのためにではなく、実例のケースのためにあるにすぎない。数学的な思考ですら、精密な概念によってではなく『ふわふわした灰色の固まり層(fluffy gray lumps)によって行われているのである」(トーマス・K・ライムズ著、平井俊顕訳『ケインズの講義 1932-35年-代表的学生のノート』東洋経済新報社,1993,114頁,1933年11月6日の講義。上掲『ケインズはこう言った』95頁で、ゴチック部分を一部簡略化して引用)。
- アントワーヌ・ダンシャン(フランス・パスツール研究所の生物学者)「モデルの真実は現象の真実ではない。これら二種の真実はとかく混同されがちであり-これが魔術の真髄でもある-、ときにモデル(現実世界の一部とみなされる)を神聖化し、科学者に聖職者の役割を果たさせる」(デイヴィッド・オレル著、大田直子・他訳『明日をどこまで計算できるか-「予測する科学」の歴史と可能性』早川書房,2011,29頁より重引)。
- 中野剛志(当時・京都大学大学院工学研究科准教授、専門は経済ナショナリズム。2012年6月から経済産業省に復帰)「政治や経済や社会は、有機体のようなものです。一部が変わると全体が複雑に変わったり、成長したり、あるいは衰弱したりするのです。(中略)社会科学には、硬直した原理や法則ではなく、柔軟で実践的なプラグラマティズムが求められるのです。(中略)/そして、われわれが最も嫌悪感を覚えるのは、政治哲学の原理原則やら経済理論の数理モデルやらに固執し、『死道理』をこねくりまわす精神です』(藤井聡・中野剛志『日本破滅論』文春新書,2012,10頁)。二木コメント-中野氏のスタンスは、上述した湯浅誠氏、高橋伸彰氏、ケインズに共通すると思います。私は日頃「論理は大好きだが、理論は大嫌い」とダジャレ的に公言しているので、多いに共感しました。
- 中野剛志「金や票に左右されずに、どんなに叩かれても安心して正しいことを言える人たちを制度として確保しておかなければならない。そうしないと民主主義がおかしくなってしまう。それが何かと言えば、一つはもちろん司法制度です。それから官僚制度。そして、大学制度、とりわけ国立大学です。(中略)少数派で世間に逆らっても食いっぱぐれないのは特権です。こんなにいい特権はめったにない。特権というのは行使しなければ意味がないので、私、行使させていただいています」(『日本破滅論』220,222頁)。二木コメント-私も、日本福祉大学の教員として28年間、この「特権」を行使してきたので多いに共感しました。ただ、中野氏が「とりわけ国立大学」と強調しているのは私立大学軽視であり、「存在が意識を規定する」典型と感じました。
- 中野剛志「『ぶれない政治』の危うさ。(中略)党内や国会での議論や調整の結果、方針を変更すると、世論は『ぶれた』と批判する。ちょっと待ってほしい。言論の府で議論した結果、間違いだとわかったなら、ぶれないといけないんです」(『日本破滅論』168頁)。二木コメント-もう一つの「言論の府」である学会・アカデミズムでも、「ぶれない」ことを自己目的化する方が少なくないと思います。ただし、「ぶれる」(考えを変える)場合には、考えを変えたことおよびその理由を明確に示す必要があると思います。私の経験では、かつての主張をコッソリ、取り下げたり、変える方が少なくありません。なお、『日本破滅論』の第3・4章は、ハシズムの背景と問題点・危険性を、鋭くかつ包括的に批判しており、一読に値します。私自身は、特に、「沈黙のらせん理論」が新鮮でした(エリザベート・ノエル・ノイマン氏が、西ドイツの一連の総選挙の世論調査結果の社会心理学的研究に基づいて開発。182-186頁)。この本の第3・4章と上述した湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』は、相補的と思います。
- 児玉聡(東京大学大学院医学系研究科専任講師。倫理学・政治哲学)「わら人形攻撃とは、わら人形に釘を刺すと本人が傷を負うという呪術的な攻撃の仕方を指すのではなく、本人を批判しているつもりで自分がこしらえた全くの別物(わら人形)を批判している事態を指す。つまり、相手の議論を戯画化するあまり、実は誰も採用していないような立場を批判するということだ」(『功利主義入門-はじめれの倫理学』ちくま新書,2012,84頁)。
二木コメント-わら人形攻撃(straw-man argument)は、論理学の非形式的な誤謬の1つとして知られているものだそうで、英語版のWikipediaにも載っていました。私は、この「わら人形攻撃」の典型が、一部の研究者や運動家が「福祉モデル」・「生活モデル」・「障害モデル」等を提唱するときに、それと対比させて批判する「医学モデル」だと思います。ちなみに、WHO「国際生活機能分類(ICF)」は「社会モデル」だと紹介されることがありますが、それは単純な誤読で、ICFは「2つの対立するモデル[医学モデルと社会モデル-二木]の統合に基づいている」、「生活機能のさまざまな観点の統合をはかる上で、『生物・心理・社会的』アプローチを用いる」と明記されています(『ICF 国際生活機能分類』中央法規,2002,18頁)。 - 鈴木邦男(民族派団体「一水会」顧問)「映画監督で作家の森達也氏は『主語が複数になると、述語が暴走する』と言った。まさに至言だと思う。例えば一人の人間が『私はこう思う』と言うなら、発言には責任が伴い、間違った時にはそれを認めて反省することができる。しかし、『私』が『我々』になり、数の力でものを言い始めると、誤りを認めることは容易でなくなり、『我々』は暴走する危険性を持つ」(『SAPIO』2012年8月22/29日号:19頁、「『右翼』から『[ネット]ウヨク』への注文状」)。二木コメント-私も、自己の発言に責任を持つため、「私」という表現を常用しており、「我々」という表現は絶対に使いません。受動態表現も、主語が不明になるので、極力使いません。大学院での講義・演習で最後に提出するレポートの指示にも、「自分の意見を、具体的に書く。『私たち』、『皆』は禁句」と書いています。なお、鈴木邦男『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書,2006)は、愛国心と愛国者についての名著と思います。6年前に読んだとき、にわか愛国者(ネット右翼も含む)の「勘違い」を鋭く指摘し、「愛国心は小声でそっと言うべき言葉」との結論に多いに共感しました。
- マーティン・ファクラー(ニューヨーク・タイムズ東京支局長)「A good journalist
needs a sense of outrage(良いジャーナリストには正義感<=悪に対する人間的な怒り、義侠心>が必要だ)」『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』双葉新書,2012,219頁。著者が、ブルームバーグで記者として働き始めたころ、先輩が教えてくれた言葉)、「私は、日本のメディアがすべて駄目だというつもりはない。日本にも優れた記者はいる。だが総じて知識はあるが、情熱が欠けていることは確かだ」(同163頁)。二木コメント-「ジャーナリスト」、「記者」は(社会科学系)「研究者」と言い換えられると感じました。 - マーティン・ファクラー「なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな『企業広報掲示板』だ」(『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』96頁)。二木コメント-私も、「日本経済新聞」の混合診療裁判についての報道・論評の極端な偏りと事実誤認にあきれて、「『日経』が、少なくとも医療政策の報道については、事実を正確に報道するというジャーナリズムの原則から大きく外れている」と批判したことがあるので、多いに共感しました(『TPPと医療の産業化』勁草書房,2012,60頁)。