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シチズンシップ再考

「理事長のページ」 研究所ニュース No.40掲載分

中川雄一郎

発行日2012年12月31日


私は以前2度ほど「理事長のページ」でシチズンシップに関わる拙文を書かせていただいた(2010年7月31日付「『シチズンシップと地域医療』補遺」2011年5月20日付「原子力発電(原発)のリスク認識とシチズンシップ」)。前者は、アマルティア・セン教授(現在はハーバード大学教授)の「新自由主義批判」と「人間の安全保障」の基本認識は「福祉を基礎とする社会」を形成していくための「人間的な経済と社会にとっての中心的戦略」であり、「社会的平等と公正の確立と普及に貢献し、広く人間的な経済と社会の発展に役立つ運動を展開する」シチズンシップに基づく協同のアプローチである、とのことに言及した内容である。

後者は、2011年5月13日付の朝日新聞(「オピニオン欄」)に「原発事故の正体」と題されて掲載された、著名なドイツ人の社会学者であるミュンヘン大学のウルリッヒ・ベック教授へのインタビュー記事である。そのなかでベック教授は「これはとても重要なことですが、近代化の勝利そのものが私たちに制御できない結果を生み出しているのです。そしてそれについてだれも責任を取らない。組織化された無責任システムができあがっている。こんな状態は変えなければならない」と強調し、また「原発を受け入れてきた政治家たちに責任を取らせることなど期待できないのではないか」とのインタビュアーの質問を受けて、こう答えている。「ドイツには環境問題について強い市民社会、市民運動があります。緑の党もそこから生まれました。近代テクノロジーがもたらす問題を広く見える形にするには民主主義が必要だけれども、市民運動がないと、産業界と政府の間に強い直接的な結びつきができる。そこには市民は不在で透明性にも欠け、意思決定は両者の密接な連携のもとに行われてしまいます。しかし、市民社会が関われば、政治を開放できます」。この時私はベック教授のこの言葉を「市民による参加の倫理」に基づく「シチズンシップの実践力」と理解した。そしてベック教授はこう締めくくった。「産業界や専門家たちにいかにして責任を持たせられるか。いかにして透明にできるか。いかにして市民参加を組織できるか。そこがポイントです。産業界や技術的な専門家は今まで、何がリスクで何がリスクでないのか、決定する権限を独占してきた。彼らは普通の市民がそこに関与するのをのぞまなかった」、と。彼のこのような主張こそ、「自治・権利・責任・参加」をコアとするシチズンシップの真髄を表現しているのである。

ところで、年の瀬も押し迫ってきた12月16日に投票が行われた衆議院議員選挙であるが(同時に行われた東京都知事選挙については別の機会に譲ることにする)、周知のような結果に終わった。「シチズンシップの目」から見ると、この選挙結果は政治的、経済的それに社会的に大きな危険性を内包した議会構成と政府の登場だということである。というのは、私が見るところまた聴くところからすると、この議会の3分の2を構成する議員の―すべてではないが―多くは、自由主義が平等と個人の権利を擁護することによって市民の権利の侵害や不公正に異議を申し立てる「シチズンシップの理念」の及ぶ範囲を広げていった「自由主義の理想」など到底語りえないと思えるからである。むしろ彼らは、シチズンシップが内包する社会包摂的性格を「排他的アイディア」に基づいた権威主義的性格に代えてしまったり、シチズンシップの民主主義的特質を単なる多数決や道具主義に基づいた競争的な「原子論的性向」に代えてしまったりするかもしれないのである。したがって彼らは、市民の権利と政治的コミュニティの密接な関係、すなわち、「政治的コミュニティが権利を支えてくれるが故に、市民は自らの権利を行使する」とか、あるいは「市民の権利は政治的コミュニティの利益に欠くことができない」とかいう意味を理解し得ないかもしれない。だがもし彼らがこれらのことを理解し得るのであれば、彼らは―ベック教授が述べているように―市民社会が、すなわち、「健全な政治形態には積極的で活動的な一般市民」が必要とされることに気づくかもしれない。そうであれば、彼らはまた、権利と責任は対立するのではなく、相互に依存し支え合うことに気づくかもしれない。しかし、そうなるのには彼らは依然として市民的、政治的な想像力に欠けている、と私には思われる。

「市民の責任」の目的の一つは「個々の人たちを結びつける紐帯を強固にすること」であり、そうすることによって「自由主義の原子論的性向を相殺すること」である、としばしば言われるが、しかし、現代の自由主義社会は、シチズンシップを行使する機会があっても、そうすることができない組織構造―もっと言えば、社会構造―になってしまっているのである。この点についてはヨーロッパ諸国での「政治的参加」についての研究が示唆しているが、例えば、「小選挙区制」の下では「市民の責任」が果たせない、という声に見られるように、市民がその政治システムや代議制に対して次第に信頼を失っていき、投票率も年々下がってきているし、政党もその党員数を減らしてきている大きな要因になっているのである。とりわけ若者の投票率の低さについて各国政府はその対策を急いでいる。

EU(ヨーロッパ連合)加盟国ではそのために「シチズンシップ教育」を小学校高学年と中学生には必修教科(高校生には準必修科目)としているそうである。何のための「シチズンシップ教育」かと言えば、若者が「政治文化を変えていく」役割を果たすためである。だが、この「政治文化を変える」という主張の背景には「差し迫った脅威」があるのだ。それは、社会の高齢化に伴ってますます明らかになる「世代間の衝突」という現象である。G. エスピン‐アンデルセンがその著書『アンデルセン、福祉を語る:女性・子ども・高齢者』(京極高宣監修/林昌宏訳、NTT 出版)で述べているように、「平均的有権者が高齢化するにつれて、選挙民はますます退職者の利益のために投票する。実際に、ヨーロッパの平均的有権者はすでに50歳代に近づいている。高齢な市民ほど政治活動に関心があるとすれば…政治状況は明らかに高齢者の政治圧力団体に有利になる。…子ども、学校、家族に対する投資は控えて…高齢者には寛大な政策を施すというシナリオである」。もっとも、橋下徹大阪市長は「若者(子供、学校、家族)にも高齢者にも徹底して冷たい」ようであるが、今回の総選挙の投票率はアンデルセンの言葉に一層の信憑性を持たせるかのようである。

すなわち、(1)投票率は戦後最悪の59.32%(先回69.28%より約10%減)、(2)全有権者数・約1億396万人、(3)投票者数・約6167万人、したがって(4)投票棄権者数・約4229万人、(5)全有権者に占める20 歳代と30歳代有権者の割合と有権者数:約31%、約3223万人((6)このうち何%が投票したかの統計結果はまだ出ないが、先回の約56%に合わせてみると投票者数・約1800 万人、棄権者数・1420 万人となるが、したがって投票率が10%減の今回は1800万人より少ないだろう)となる。形式的にはマスコミは「自民党と公明で3分の2の安定多数を確保」と言うのであるが、約4229万人もの市民が投票する権利、政治的意思決定の権利を棄権したこの状態をマスコミも「安倍内閣」もどう説明するのだろうか。「世代間の衝突」を避けるために日本でも「シチズンシップ教育」を実行することが求められるのである。

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