『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター』2005年15号(転載)
二木立
発行日2005年11月01日
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1.拙論:高齢者を直撃する、小泉政権最後の医療費抑制政策(『世界』2005年12月1日号(第745号):3~6頁)
九月の総選挙で地滑り的大勝を収めた小泉政権は、臨時国会で郵政民営化関連法を一気に成立させた後、財政再建を次の政策課題としている。その中心は社会保障給付費の抑制であり、しかも大半を医療給付費の抑制で捻出しようとしている。
実はすでに総選挙前の八月に閣議決定された来年度予算の概算要求基準(シーリング)で、厚生労働省は社会保障関係の義務的経費の自然増八〇〇〇億円のうち、二二〇〇億円の削減を求められていた。しかし、総選挙後は、経済財政諮問会議や財務省から一段の医療費抑制(特に医療費総額の伸び率指標の導入)の圧力が強まっている。厚生労働省も、それに対応して、一〇月一九日に「医療制度構造改革試案」(以下、「試案」)を発表した。これは政府決定ではなく「国民的議論のたたき台」にすぎないが、経済財政諮問会議等の求める厳しい医療費抑制策も盛り込まれており、今後の医療費抑制策の出発点になる。
小論では、この「試案」を中心に、任期満了まであと一年足らずとなった小泉政権の医療費抑制政策を検討したい。
●政権内路線対立-医療改革の3つのシナリオ
「試案」の検討に入る前に、政府・体制内での医療改革の路線対立について簡単に触れておきたい(詳しくは、拙著『医療改革と病院』勁草書房、二〇〇四、参照)。
一九九〇年代半ばまでは、政府・旧厚生省の医療政策は、国民皆保険制度の枠内での医療費総枠の抑制で一致していた。しかし、九〇年代末からは、経済戦略会議(経済財政諮問会議の前身)や経済官庁(旧通産省等)、およびそれに連なる一部の経済学者が、医療分野にも全面的に市場原理を導入し、究極的には国民皆保険制度を解体して、アメリカ型の医療制度に転換する、新自由主義的医療改革を主張するようになった。
それに対して、厚生労働省は、国民皆保険制度の大枠は維持した上で、公的医療費の伸び率を抑制するために、公的保険の給付範囲と水準を引き下げ、それを超える部分を私費(全額自費または民間保険)とする医療保障制度の公私二階建て化を目指す一方、国民皆保険制度の解体につながる新自由主義的医療改革には正面から反対している。
これに、公的医療費の総枠を拡大して医療の質の向上を目指す医師会・医療団体等を加えると、二一世紀初頭の医療改革には「3つのシナリオ」があることになる。私は、医療改革の今後の方向を正確に予測するためには、この分析枠組みが不可欠だと考えている。
二〇〇一年四月に成立した小泉政権では、新自由主義的改革派の勢いが増し、同年六月に閣議決定された経済財政諮問会議「骨太の方針」には、政府の公式文書としては初めて、新自由主義的医療改革方針(株式会社の医療機関経営の解禁、保険診療と自由診療との「混合診療」の解禁等)が盛り込まれた。ただし、「骨太の方針」の医療改革方針全体が新自由主義的改革なのではなく、厚生労働省の伝統的な医療費抑制政策との折衷案である。
当時は小泉政権の支持率は八〇%を超えていたためもあり、(私を除く)医療関係者の大半は、「骨太の方針」に批判・疑問を感じつつも、それに沿った「抜本改革」が実現すると予測していた。その後、小泉政権内では、医療改革をめぐって、経済財政諮問会議、規制改革・民間開放推進会議と厚生労働省の間で、激烈な論争が行われたが、二〇〇四年末までには、一連の閣議決定や首相の裁断により、新自由主義的医療改革の全面実施は否定され、厚生労働省寄りの限定的実施の妥協が成立した。例えば、株式会社による病院経営は、医療特区内で高度な医療を自由診療で行うことに限定して解禁された。
これには経済的理由がある。それは、新自由主義的改革を実施すると、企業の新しい市場が拡大する反面、医療費(総医療費と公的医療費の両方)が急増し、医療費抑制という「国是」に反するからである(「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」)。
その結果、二〇〇五年に入ると、医療改革の焦点は新自由主義的医療改革から、医療費抑制の程度と手法に移行した。経済財政諮問会議等は、医療費の伸び率を経済成長の伸び率の範囲内に収める「管理指標」の導入を求めたのに対して、厚生労働省は医療費の抑制そのものには同意しつつ、医師会や医療団体の後押しもあり、機械的な数値目標の設定には反対し続けた。その結果、本年六月の「骨太の方針2005」では、それは見送られた。
しかし、経済財政諮問会議等は総選挙での小泉政権の圧勝を追い風に、それの復活を執拗に求めている。このような動きを背景に、厚生労働省は「試案」を発表したのである。
ここで見落としてならないことが一つある。それは、経済政諮問会議が抑制を主張している「医療費」とは、国民医療費から私費負担分を除いた「公的な医療費、つまり保険料あるいは税金の投入(以下、「医療給付費」)」(吉川洋議員)であり、私費負担分医療費については逆に拡大を主張していることである。
●「医療制度構造改革試案」の概略
「試案」は、医療費(正確には「医療給付費」。以下同じ)適正化=抑制のために、「医療費の伸び率を徐々に下げていく中長期的な方策」と「公的医療保険給付費の伸びを直接的に抑制する短期的な方策」の二本柱から成っており、診療報酬制度改革、医療保険制度改革(再編統合)・新たな高齢者医療[保険]制度の創設、医療提供制度改革等を網羅的に提起している。従来のいわば単発的な「医療制度改革」との違いを強調するために、「医療制度構造改革」との大上段の名称を付けたと思われる。ただし、個々の制度改革は粗い骨格が示されているにすぎず、実現可能性は不透明である。私は、少なくとも来年度一気に各法の改正・創設を行うのは不可能と判断している。
医療費抑制策については、現行制度をベースにすると基準年(二〇〇六年度)二八・三兆円(対GDP比五・四%)の医療給付費(国民医療費から患者負担分を除いたもの)は二〇年後の二〇二五年には五六兆円(同七・七%)になるのに対して、中長期的方策と短期的方策を行うことにより、それより七兆円少ない四九兆円(同六・七%)になるとしている。医療費抑制の中長期的方策としては生活習慣病対策と平均在院日数の短縮が、短期的方策としては、高齢者自己負担の引き上げ、高額療養費制度の見直し、入院患者の食費・居住費の保険外し等があげられている。
しかし、これは経済財政諮問会議が求めている四二兆円(同五・八%)への圧縮とは七兆円の差があり、これを実現するためには、さらに保険免責制度の創設(外来一回受診当たり千円~五百円)や診療報酬の大幅引き下げが必要としている。なお、「試案」には書かれていないが、厚生労働省が本年三月に発表した「医療制度改革について」では、「医療給付費の伸びを名目GDPの伸びに抑制した場合」、二〇二五年の国民医療費の患者負担割合は約四五%に達する(現在は約一五%)と推計されていた。
●中長期的方策は実効性なく、短期的方策は高齢者を狙い撃ち
次に、厚生労働省の「試案」の検討を行う。結論的に言えば、中長期的な方策の医療費抑制効果はまったく証明されておらず、短期的な方策は高齢者を狙い撃ちにした不公正な負担増である。なお、「試案」に補足的に含まれている、経済財政諮問会議の要求に沿った医療費抑制策は、上述したように患者負担割合を現行の三倍に増やすものであり、とても「国民的な合意が得られる」とは考えられず、検討は省略する。
まず、「試案」は、中長期的な方策のうち「総合的な生活習慣病対策の実施」により、「中長期的には健康寿命の延伸と医療費の伸びの抑制に至る」としているが、私の知る限りそれを実証した研究は存在しない。「試案」はその根拠として、健診で異常が多数見つかった者の一〇年後の医療費は見つからなかった者に比べて三倍も高いとの「政府管掌健康保険における検診・医療費データの分析結果」を示しているが、これは自然経過の比較にすぎず、特定の対策・介入の効果ではない。
もう一つの中長期的な方策である「平均在院日数の短縮」の医療費抑制効果は医療経済学的にほぼ否定されている。なぜなら、厚生労働省も上述した「医療制度改革について」で認めているように、在院日数の短縮を図るためには、「急性期の入院患者に対し、必要な医療資源が集中的に投入されるように」することが不可欠であり、それに伴い一日当たり入院医療費が急増する。しかも、これによる医療費増加は在院日数短縮による医療費削減効果を上回る可能性が高いため、入院医療費総額も増加するのである。
短期的方策は、多岐にわたるが、実質的には大半が高齢者負担増である。具体的には、高所得高齢者の患者負担の三割負担化(現在二割)、六五~七四歳の高齢者の二割負担化(同一割)、高齢者が大半である療養病床入院の食費と居住費の保険給付の廃止、新たな高齢者医療保険の創設による保険料の徴収(介護保険の保険料と合わせ一人月一万円)等である。さらに六五歳以上の高齢者全体の患者負担を二割とする「別案」も示されている。
しかし、このような負担増は、高齢者の有病率と受診頻度が高く、その結果一人当たり医療費も若年者に比べて多くなるという「高齢者の心身の特性」を踏まえて実施されている高齢患者の負担軽減の慣行を否定し、きわめて不公正である。そのために、これらの方策が来年度一気に実施されるとは考えにくい。特に、新しい高齢者医療保険制度は、保険者間の利害対立が大きいこともあり、そもそも成案がまとまる可能性がきわめて低い。
●日本医療費水準は主要先進国中最下位
最後に、「試案」に書かれていない重要な事実を述べたい。それは、日本の医療費水準(OECD基準の総医療費の対GDP比)は、昨年度から主要先進国(G7)中最下位になっていることである。実は、G7中医療費水準が最下位の国は長らくイギリスであったが、ブレア政権が二〇〇〇年度から医療費増加政策に転じた結果、昨年逆転したのである。その結果、日本はG7諸国中、医療費水準は最低な反面、医療費中の実質患者負担割合はもっとも高いという大変歪んだ医療保障制度を持つ国になっている。
その上、イギリスの医療費増加政策は少なくとも二〇〇七年度まで継続されることになっている。そのため、今後日本の医療費抑制政策がさらに強化された場合、日本の医療費水準は他の主要先進国よりはるかに低い水準に固定されることになる。その場合、イギリスがかつて経験し、現在もそれからの離脱に悪戦苦闘している医療の質の低下や医療の荒廃が日本でも再現する危険があるし、現にその徴候は現れている。
「医療制度構造改革」と銘打つ以上、医療費抑制の選択肢ばかりではなく、医療費増加の選択肢も加え、国民の判断を待つべきであろう。
2.拙講演録:日本の介護保険制度と病院経営-保健・医療・福祉複合体を中心に(別ページ参照)
これは、10月23日に韓国・ソウル市で開催された大韓リハビリテーション医学会2005年度秋期学術大会での同名の講演に加筆補正したもので、韓国語版は同学会の学会誌『大韓リハビリテーション医学誌』に掲載予定です。要旨は以下の通りです。
<本稿では、まず、日本の介護保険制度について、制度の本質、制度創設の目的、制度創設後5年間の変化、2005年の法改正の特徴について、述べる。次に、日本と韓国の病院制度の簡単な比較を行い、両国の制度は先進国(OECD加盟国)中もっとも類似しているが、違いも少なくないことを指摘する。第3に、日本で介護保険制度創設前後から急増している保健・医療・福祉複合体について、それの定義、実態、出現した制度的理由、功罪、介護保険制度が複合体への強い追い風になる理由、および複合体の新たな展開形態について述べる。最後に、介護保険制度下の医療機関の2つの選択とリハビリテーション医療施設・専門職の責務について、問題提起する。本稿では、日本の介護保険制度と保健・医療・福祉複合体のプラス面だけでなく、マイナス面も述べる。>
3.「高齢者ケアの日韓比較シンポジウム」(11月26日)のご案内
- 主催:日本福祉大学21世紀COEプログラム、共催:社会政策学会保健医療福祉部会
- 日時:11月26日(土)午後1時半~5時半
- 会場:キャンパス・イノベーションセンター(東京・JR田町駅徒歩1分)
- 構成:
- <第1部 韓国からの報告>
- 金道勲(韓国健康保険公団研究員、日本福祉大学COE奨励研究員)
「韓国における高齢化と高齢者ケアの課題」 - 李奎植(韓国・延世大学校教授):指定発言
- 金道勲(韓国健康保険公団研究員、日本福祉大学COE奨励研究員)
- <第2部 日本からの報告>
- 武川正吾(東京大学大学院人文社会系研究科教授)「ソーシャルガバナンスの日韓比較」
- 二木立(日本福祉大学社会福祉学部教授)「医療提供システムと『複合体』の日韓比較」
- <第1部 韓国からの報告>
お申し込み・お問い合わせ先:日本福祉大学COE推進室(担当:秋田、横田)
(電話:052-242-3082,ファックス:052-242-3076、e-mail:coe@nihonfukushi-u.ac.jp)
4.私の好きな名言・警句の紹介(その11)ー直感と感性、論争についての自戒
※訂正:前号(14号22頁)で紹介した、バルビコーリ「若いときは過激な方がいい。…」は、バルビローリの誤りです。
(0)最近知った名言・警句
- 有馬朗人(物理学者・俳人)「失敗はいろいろあるが、最大のものは、研究以外の色々な事をやり過ぎたことだ。(中略)日ごろ若い人に忠告しているのは、いくつかのことに取り組むのはいいけれど、どれか一つに焦点を合わせるべきである、もっと一芸に徹するべきであるということだ」(「日本経済新聞」2005年10月24日朝刊「私の苦笑い」)。
- ボビー・バレンタイン(31年ぶりのパ・リーグ優勝に導いたロッテ監督)の「ボビー・マジック」をある選手が評して「選手に能力以上のものを要求しないこと」(「毎日新聞」2005年10月18日朝刊「ひと」)。二木コメント- 私も、「人権・人間の尊厳は平等だが能力は不平等の人間観に立って、各人の能力を最大限に伸ばす」ことを、「教育信条」の1つにしています(「ニューズレター」14号23頁参照)。
- G・F・ケナン(アメリカの冷戦戦略の構築者)「敵と似た者となるな」(五百旗頭真神戸大学教授「時代の風-テロとの戦いと米国」「毎日新聞」2005年10月9日朝刊より重引)。二木コメント-これは、ケナンがソ連との冷戦時に、米国社会を諭した言葉だそうで、五百旗頭氏は結びで、「他国の粗暴を見るにつけ、自らの高き品位に自信を深め、『敵と似た者となるな』と言い交わそうではないか」と呼びかけています。私はこれは、(粗暴な相手と)論争する場合にも、常に自戒すべき言葉だと思います。実は私は元柔道部(現日本福祉大学柔道部顧問)で、「フェアプレイ」をモットーにしています。
- 山下泰裕(国際柔道連盟教育理事)「ぼくはね、未来を見つめて、いまをひたむきに生きるのが好きなんですよ」(「しんぶん赤旗日曜版」2005年10月23日号「ロス五輪金メダル秘話」)。二木コメント-私が一番好きな山下選手の名言は、「男の勝負に言い訳はいらない」(『現代』1984年10月号の同名インタビュー,148~154頁)です。ただし、先日、この「ニューズレター」読者の大学院の教え子から、「未来とか、希望にこだわるのは、団塊の世代の特徴ではないですか?」と冷やかされました。
- 野元学二(38歳で年収3000万円の弁護士を辞めて役者になった)「好きだからとしか言いようがない。自分の胸によく聞いてみたら本当にやりたいことがあったんです。気がつくのに少し時間がかかったけれど」(「朝日新聞」2005年10月2日朝刊「ひと」)。二木コメント-私も37歳で、まったく同じ気持ちから常勤医(リハビリテーション医)を辞めて大学教員になりました。
- 村上春樹(作家。最新刊は『東京奇譚集』。56歳)「以前は、失敗しても次があると考えていた。50歳を超えると、カウントダウンに入って、あといくつ書けるかな、と考えてくる。無駄なものは書きたくない。今あるものを出し切って、深みのあるものを書きたい。掘り下げる場所も、変わってくるのは当然でしょう」(「朝日新聞」2005年10月3日月曜夕刊「村上春樹が語る 上」)。二木コメント-立花隆氏も54歳時に、知的好奇心について同じような発言をしています。「寿命ということだけを考えると僕も80いくつまで生きるのかも知れないけれど、頭が非常にクリアで、自分の満足できる知的レベルの活動を続けていける状態は、あと何年保てるかわからない。(中略)いずれにしても、残り時間が少なくなったという自覚が…そうですね、50過ぎてからかなりはっきりと出てきました。そうなると、やはり時間が残っているうちに、もっともっと知っておきたいという欲求が、若いときにも増してすごく強くなっているわけです」(『ぼくはこんな本を読んできた』文藝春秋,1995,18頁)。
- D・L・サケット他「HARLOT(How to Achieve positive Results without actually Lying to Overcome the Truth:真実をごまかすためにうそをつかずに良い結果を出す方法)」(HARLOT plc. British Medical Journal 327:1442-1445,2003。浜六郎氏が「日本の医学医療と薬害」『科学』2005年5月号:563頁で紹介)。二木コメント-これは、「医薬品試験データのクリーニング請負会社(data laundry)ともいうべき架空の会社」(浜氏)についてのパロディです。私は、統計を扱う研究者、特に本人が「真実」と信じている仮説を証明したいと願っている研究者は、たとえ善意からにせよ、無意識のうちにHARLOTを用いてしまう危険があることを常に自覚すべきと思います。
(1)研究者と直感・感性
- 羽生善治(将棋棋士):「直感の7割は正しい(中略)直感力は、それまでにいろいろ経験し、培ってきたことが脳の無意識の領域に詰まっており、それが浮かび上がってくるものだ。まったく偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではない」(『決断力』角川One テーマ21,2005,58頁)。二木コメント-言うまでもなく、これは直感一般ではなく、「プロの」直感です。
- 北村肇(毎日新聞記者)「『直感』を正しく働かせるためには、『情報』の蓄積、あるいは『知識』が欠かせない」(『新聞記事が「わかる」技術』講談社現代新書,2003,19頁)
- 上村令(徳間書店の児童書の編集者)「[ベストセラー出版は「プロの勘が働いたんですね」と問われて]勘ではありません。地道な情報収集です」(「朝日新聞」1996年9月9日朝刊「舞台裏」)。
- 小林美希「大学時代、ある新聞社の編集局長は言った。『新米記者時代、森永ヒ素ミルク事件を追っていた。担当医に“被害者は何%いたか"と聞いたら、“人の痛みを数字(%)で聞くような記者には教えない"と言われ、ハッとした』-それからは、身近にある私憤を公憤に導くような取材を心がけたという」(『エコノミスト』2005年3月22日号,106頁「編集部から」)。
- ピーター・タスカ(金融証券アナリスト)「努力でアイデア生まれない(中略)高度成長時代には努力・我慢・ガンバルというインプットが評価された。今やアイデアのほうが大事で、これは努力では作れない。企業外の異なる業界の人や文化との接触が知識を深め、アイデアを産み出す。狭いグループ内では知的疲労もたまるんじゃないですか」(「朝日新聞」2000年8月9日朝刊「私のバカンス論」)。
- 朝比奈隆(指揮者。当時90歳。故人)「[現役指揮者の]目標は95歳。それまで感情を老化させないようにしたい。なんとかいけそうな気がしているんですよ」(「読売新聞」1998年12月15日「ひとり語り」)。
- 嶋田豊(哲学者。日本福祉大学名誉教授。故人)「人間の感性がどれほど人間らしいかということをとてもだいじだと考えています。(中略)彼は頭がわるいといわれるよりも、彼はセンスがわるいといわれるほうがずっと人間として恥ずかしいことでしょう」(『嶋田豊著作集3』萌文社,2000,54頁.初出「人間らしさと文化の問題」1978)。
- 二木立「センスは磨け、しかしセンスで勝負するな」。二木コメント-これは私が、今から約30年前(1976年9月12日)に自戒の言葉として、B6判カードに書いたものです。当時私は医学部を卒業して5年目の「中堅医師」でしたが、かつて学生運動のリーダーだった大秀才の先輩医師が、勘の良さだけに頼って、継続的努力を怠り、ほとんど研究業績をあげていないことを反面教師として、こう決意しました。
(2)論争についての自戒…
これらは文字通りの「自戒」で、実行できていないものばかりです。「ニューズレター」11号10頁の「自信過剰の戒め」も参照して下さい。
- 桑原武夫(仏文学者)「論争は大いにけっこう。でも、自分が優勢なときほど相手に退路をつくっておいてやったほうがええなあ。そうしないと恨みが残り、闇討ちにあうかもしれん」(「日本経済新聞」2004年10月18日朝刊。梅棹忠夫「私の苦笑い」より重引。梅棹氏が、25,6歳の頃、学問論争で、相手の逃げ道をふさぎ徹底論破したあとに、桑原氏から諄々と諫められた言葉)。
- 上野千鶴子「相手にとどめを刺しちゃいけません。(中略)その世界であなたが嫌われ者になる。それは得策じゃない。あなたは、とどめを刺すやり方を覚えるのでなく、相手をもてあそぶやり方を覚えて帰りなさい。(中略)議論の勝敗は本人が決めるのではない。聴衆が決めます。相手をもてあそんでおけば、勝ちはおのずと決まるもの。それ以上する必要も、必然もない」(遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房,2000,15頁より重引)。
- 司馬遼太郎「竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。/もし議論に勝ったとせよ。/相手の名誉を奪うだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである」(『竜馬がゆく(3)』文春文庫、伯楽の章、245頁)。二木コメント-私はこの言葉を、谷沢永一『論争必勝法』(PHP出版,2002,258頁)で知りました。この本の最終章「論争に必ず勝つ方法18章」の(18)社会人になって職場に身を置くようになったら論争してはいけない(論争は書生の遊戯である…)の最後に書かれています。
- パスカル「人を有益にたしなめ、その人にまちがっていることを示してやるには、彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら、それは通常、その方面からは真なのであるから。そしてそれが真であることを彼に認めてやり、そのかわり、それがそこからは誤っている他の方面を見せてやるのだ。彼はそれで満足する。なぜなら彼は、自分がまちがっていたのではなく、ただすべての方面を見るのを怠っていたのだということを悟るからである」(前田陽一・由木康訳『パンセI』中公クラッシクス,10頁)。