『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター』17号(2006年1月号)(転載)
二木立
発行日2006年01月01日
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1.拙論:「より悪い医療制度にしないために」-経済財政諮問会議民間議員吉川洋氏との公開ディベイトから
(「二木教授の医療時評(その21)」『文化連情報』2006年1月号(334号):32-36頁)
公的医療費の大幅抑制の急先鋒となっている吉川洋経済財政諮問会議民間議員・東大教授と、昨年末「公開ディベイト」を行う機会がありました。それは12月3日の北海道医師会医政講演会で、吉川氏と私がそれぞれ1時間講演した後、1時間論争しました。私は、10年前の介護保険制度創設時には、「条件付き反対派」の立場からなんどか公開論争に参加しましたが、医療制度改革について政権中枢に参画している研究者と公開論争するのは初めてであり、得がたい経験でした。以下、当日の資料とメモに基づいて、私の側からみた、それの概要を紹介します。
吉川洋氏の公的医療費抑制論
吉川氏の講演テーマは「よりよい医療制度を目指して-改革の方向性と課題」でした。吉川氏は、講演の前半で、日本の平均寿命・受療率の長期的推移を示した上で、「戦後日本の医療制度は全体として優れた制度である。とりわけ国民皆保険制度は優れた制度であり、守らなければならない」と指摘しました。他面、後半では、医療費[国民医療費・総医療費-二木補足。以下同じ]と公的医療費を区別した上で、「私は医療費を抑制しなければならないと言ったことは一度もない。医療費がGDPの伸びを上回って伸びるのは自然、健全、なんの不思議もない」と明言する一方、財政の視点から、医療費のうち「公的医療費は抑制しなければならない」と主張しました。
吉川氏は、国民が望んでいれば公的医療費を引き上げることも理論的には考えられるが、国民が消費税率や保険料の引き上げに強く反対している以上、現実論としてそれはなく、その結果「公的医療保険が今の財政では持たない以上、カットするしかない」、「公的医療保険を財政に合わせるしかない」、「無い袖は振れない」と繰り返しました。
さらに、「医療保険は保険なのだから、金がないときは、大きなリスク[重い病気]は皆で支え合いつつ、マイナーな部分[軽い病気]は自己負担を増やすしかない」として、保険免責制の導入を提案しました。
吉川氏の主張は『エコノミスト』誌昨年12月6日号の「『皆保険』の持続に向けてやらなくてはならないこと」に詳しく書かれており、この論文は会場でも配布されました。ただし、私からみると吉川氏の講演は、「財政論」に終始し、氏の考える「よりよい医療制度」についてはまったく触れず、「看板に偽り」でした。
私の考える「よりよい医療制度」とそれを実現する道
次に、私は「より悪い医療制度にしないために-小泉政権の医療改革の批判的検討」と題して、次の3本柱で講演しました。(1)私の考える「よりよい医療制度」とそれを実現する道、(2)厚生労働省「医療制度構造改革試案」の批判的検討、(3)経済財政諮問会議(民間議員)と規制改革・民間開放推進会議の主張の批判的検討。このうち、(1)と(3)の概要は、以下の通りです。(2)については、前号の「医療時評(20)」[本「ニューズレター」16号]で詳述しましたので、省略します。
まず、第1の柱。私の考える「よりよい医療制度」を目指した改革は、日本の医療制度の2つの柱(国民皆保険制度と民間非営利医療機関主体の医療提供制度)を維持しつつ、医療の質と医療の安全を向上させ、あわせて医療情報の公開を進めることです。その際、「社会保障として必要かつ充分な…最適の医療が効率的に提供される」ことが不可欠です。これは私の主観的願望ではなく、2003年3月の閣議決定「医療保険制度体系及び診療報酬体系に関する基本方針」で決定された、いわば小泉政権の公約です。
このような改革を進めるためには、公的医療費の総枠拡大が不可欠です。その根拠は、日本は、総医療費水準(対GDP比)が主要先進国(G7)中最下位な反面、患者負担割合(対総医療費)は主要先進国中もっとも高いという、歪んだ医療保険制度を持つ国になっていることです。そのための主財源は社会保険料の引き上げであり、補助的に、たばこ税、所得税、消費税の適切な引き上げも行うべきです。
ここで、重要なことは、「国民が負担可能な範囲」の医療給付費の伸びは固定的ではないことです。この点に関しては、吉川氏も10月4日の経済財政諮問会議で次のように明言しています。「国民がどれぐらい公的な負担を許容するのか。許容するのであれば、もちろん給付の方があがっていってもいいわけだが、それについてどのように国民的コンセンサスが得られるのかがポイント」。
と同時に、私は、国民・患者の医療不信が強いことを考慮すると、すぐに公的医療費を大幅に拡大することは不可能に近いとも考えています。この点では、吉川氏の国民意識の理解と大きな違いはありません。他面、それだからこそ、公的医療費の総枠拡大についての国民的理解を得るには医療者の自己改革が不可欠だと考え、個々の医療機関レベルの3つの自己改革と個々の医療機関の枠を超えた、より大きな3つの改革を提案しています(拙著『21世紀初頭の医療と介護』序章(勁草書房、2001)と『医療改革と病院』第2章(勁草書房、2004)参照)。
このような私の考える「よりよい医療制度」からみると、小泉政権の医療改革-特に経済財政諮問会議(民間議員)と規制改革・民間開放推進会議の主張-がそのまま実施されると、逆に「より悪い医療制度」になってしまうと危惧しています。ここで注意しなければならないことは、政府は医療改革については一枚岩ではなく、特に厚生労働省と経済財政諮問会議(民間議員)や規制改革・民間開放推進会議との間には相当のズレ・対立があることです。そこで、以下、第2の柱として厚生労働省「医療制度構造改革試案」の批判的検討を行い、第3の柱として経済財政諮問会議と規制改革・民間開放推進会議の主張の批判的検討を行います(上述したように、第2の柱は省略)。
公的医療費総額の伸び率管理制度の非現実性
第3の柱「経済財政諮問会議(民間議員)と規制改革・民間開放推進会議の主張の批判的検討」では、次の3点を指摘しました。第1点は、2001年6月の経済財政諮問会議「骨太の方針」(閣議決定)に含まれていた3つの新自由主義的医療改革は部分的に認められたものの、実効性はほとんどないことです。第2点は混合診療全面解禁をめぐる論争の本質と全面解禁論者の幻想です。第3点は、経済財政諮問会議の新たな主張である公的医療費総額の伸び率管理制度の導入が非現実的なことです。これらのうち、第1点については拙著『医療改革と病院』序章と拙論「後期小泉政権の医療改革の展望」(『社会保険旬報』2004年10月21日号)で、第2点については拙論「混合診療問題の政治決着の評価と医療機関への影響」(『月刊/保険診療』2005年2月号[本「ニューズレター」6号])で詳細に論じていますので省略し、以下、講演で初めて包括的に論じた第3点の概要を紹介します。
公的医療費総額の伸び率管理制度について、まず指摘しなければならないことは、経済財政諮問会議が、今年に入って3つの方針転換を行なっていることです。具体的には、2001年に閣議決定された経済財政諮問会議「骨太の方針」では、(1)「医療費総額の伸びの抑制」が決められ、さらに経済財政諮問会議(民間議員)は(2)名目GDPの伸びを指標として、(3)単年度ごとに医療費抑制策を実施することを求めていました。それに対して、2005年前半に、経済財政諮問会議(民間議員)は、(1)国民医療費ではなく「公的医療費の伸びを抑制」するために(2月15日)、(2)「高齢化修正GDP」を用いて(4月27日)、(3)「荒っぽいキャップ制」ではなく、「数年に一度…チェックする必要がある」(6月1日)と、なし崩し的に軌道修正しました(カッコ内は経済財政諮問会議の会議日)。しかし、民間議員はこれらの軌道修正の理由について、十分に説明責任を果たしていません。
このような方針転換の「スポークスマン」が吉川洋氏で、その代表的な発言は以下の通りです。「医療費には国民健康保険などの公的医療保険の給付費と、患者が病院などの窓口で払う自己負担を含んだ国民医療費があり、区別して考えないといけない。問題は、公的給付費をどうするか。/私たちが指標を作って伸びを抑えなければならないと言っているのは、この公的給付費の部分だ。これからは公的給付費と国民医療費が乖離しうることをきちんと認め、公的給付費の範囲を見定めていくべきだと考えている」(「朝日新聞」2005年6月24日朝刊)。
しかし、このような公的医療費(医療給付費)の伸び率の厳しい抑制は、中長期的には混合診療の際限のない拡大、ひいては国民皆保険制度の空洞化につながります。これは決して大げさではなく、厚生労働省も、経済財政諮問会議の要求通りに、「医療給付費の伸び率を名目GDPの伸びに抑制し…給付費の縮小分を自己負担増のみで賄うとした場合」には、「自己負担率を45%程度とする必要があ」るとの試算を発表しています(厚生労働省「医療制度改革について」2005年3月18日)。吉川洋氏も、診療報酬を「名目成長の伸び率とリンクするマクロ経済スライド方式の導入が、「いわゆる混合診療の問題とも絡む論点である」と明言しています(2005年2月15日経済財政諮問会議)。
本間正明氏(経済財政諮問会議民間議員)は、さらに踏み込んで、「国民の側からすると、公的保険が不十分なら民間保険に入るという選択ができる」と主張しています(「毎日新聞」2005年11月14日朝刊)。これは、その「選択」ができない低所得の国民は「不十分な」医療しか受けられないことを当然視するものであり、保険証1枚あれば「いつでも、どこでも、誰でも」適切な医療を受けられるとする国民皆保険制度の理念を否定するものです。
ここで強調したいことは、(医療)経済学的には、医療費の水準・伸び率を一義的に決めるのは誤り・不可能なことです。実はこの点をもっとも明快に述べているのは、吉川洋氏の恩師の宇沢弘文氏です。「国民医療費がGNPの何%が『適正な』あるいは『望ましい』水準であるかという問題は、経済学的な基準に基づいて導き出されるものではない…。(中略)むしろ医学的ないし医療的な観点からみて望ましい医療サービスが公正に人々に供給され、同時に人的ならびに物理的資源の蓄積と新しい医学、医療技術の発展とが可能なかぎり速やかなテンポで行われるような状況を経済的な観点から可能なものにするというのが、ここで経済学的分析というときの基本的視点である。すなわち、医学的な観点から最適であると考えるような医療制度を運営し、それが円滑に機能しうるために必要な経済的費用が最適な国民医療費の概念でなければならない」(宇沢弘文編『医療の経済学的分析』日本評論社、1987、はしがき)。
これは、「規範的考察」ですが、マクロ医療経済学の膨大な実証研究により、総医療費の水準(対GDP比)と1人当たりGDPとの関係は固定的ではなく、前者の伸び率が後者の伸び率を上回る傾向にあること(1人あたりGDPが増えると、医療費水準は上昇すること)は、疑問の余地無く証明されています。
最近(最近11月22日)、経済財政諮問会議(民間議員)は、公的医療費の抑制目標をさらに厳しくして、「『集中改革期間』[今後5年間]においては、医療給付費の対GDP比・対国民所得比を現在よりも引き下げることを目指すべき」と主張していますが、これは全く現実性がなく、ファンタジーかつクレージーです。なお、厚生労働省の将来医療費の推計は過大推計の疑いが強いのですが、実は、それによっても、今後総医療費が急騰して医療保険財政が破綻するとの経済財政諮問会議の主張は否定されています(「医療制度改革について」2005年3月18日)。具体的には、同省の総医療費(OECDベース)の将来推計(対GDP比)によると、「2015年度の総医療費の対GDP比は10.5%で、現在のドイツ(10.8%)と同水準」、「2025年度には総医療費の対GDP比は12.5%となるが、現在のアメリカ(13.9%)よりも低い」のです。
ディベイトの焦点は公的医療費の抑制
吉川氏と私の講演後、2人で1時間公開ディベイトを行いました。全体として議論は平行線をたどりましたが、私にとっては新しい発見もあり、それなりに有意義でした。
ディベイトで吉川氏が繰り返し強調したことは、講演と同じく、「国民医療費と公的医療費を分けて考えなければならない」ことでした。私にとって興味深かったのは、吉川氏が、従来政府内でも、国民医療費と公的医療費が混同され、抑制すべきは国民医療費か公的医療費かがアイマイであったため、同氏が各方面に「個人的キャンペーン」を行なった結果、最近では「抑制すべきは公的医療費」であることが理解されるようになったと述べたことでした。このことは、「[厚生労働省の医療制度構造改革]『試案』から国民医療費が消え、医療給付費[公的医療費と同義]にほぼ一本化されたことは、厚生労働省が『医療費適正化』の基本概念・用語面で、経済財政諮問会議に迎合・屈服したと言える」との私の判断(先月号の「医療時評(20)」)を裏付けるものと言えます。
他面、私が、吉川氏のように、「国民医療費がGDPの伸びを上回って伸びるのは自然、健全」としつつ、公的医療費を厳しく抑制した場合には、私的医療費(患者負担)が急増することになる、具体的には2025年には国民医療費中の患者負担割合が4~5割に達することになるが、それが可能だと思っているのか?と何度も質問したにもかかわらず、吉川氏は言を左右にして答えてくれませんでした。
さらに、経済財政諮問会議(民間議員)は、抑制すべき医療費を「総医療費」から「公的医療費」に変えただけでなく、抑制目標を「名目GDPの伸び率」→「高齢化修正GDPの伸び率」(名目GDPの伸び率より多少高い)→「対GDP比を現在よりも引き下げる」とクルクル変えているが、その理由を説明していないと私が批判したことに対しても、吉川氏は回答してくれませんでした。
また、吉川氏は、私が講演で公的医療費の総枠拡大が不可欠な根拠としてあげた、「日本は総医療費水準(対GDP比)が主要先進国(G7)中最下位な反面、患者負担割合(対総医療費)は主要先進国中もっとも高いという、歪んだ医療保険制度を持つ国になっている」点には、特にコメントしませんでした。
逆に吉川氏は、「公的医療費を引き上げよという主張は無責任な議論であり、その場合にはスウェーデンと同じような高負担を主張すべきだし、スウェーデンが導入している国民総背番号制にも賛成すべきだ」と私を批判しました。それに対して、私は公的医療費の総枠を拡大するためには、社会保険料と税の引き上げが必要だと講演の第1の柱で明言した、および私は日本がスウェーデン並みの高福祉国家になるべきと主張したことは一度もなく、医療費水準をヨーロッパ平均に引き上げるべきだと控えめに主張しているに過ぎない、と回答しました。この点については、吉川氏も率直に「誤解」を認めました。
なお、ケインジアンである吉川氏は、持続的な経済成長のためには「需要創出型の構造改革」が必要であることを強調しており、「今後飛躍的に伸びると期待される需要」の1つとして、「遺伝子治療等、新しい医療の実現」を上げ、それが10年間で6.9兆円も増加しうると予測しています(『構造改革と日本経済』岩波書店、2003、156頁)。吉川氏の講演は公的医療費の抑制一本槍で、この点には触れなかったため、私がそれを指摘し、このような大幅な医療費増加を私的(患者負担)医療費のみで賄うことは不可能であり、公的医療費の拡大が不可欠ではないかと質問しましたが、やはり答えはありませんでした。
もう一つの論点は混合診療
公開ディベイトでは、混合診療についても議論しました。吉川氏は、昨年、経済財政諮問会議が規制改革・民間開放推進会議と歩調をあわせて混合診療の全面解禁を主張したことには触れずに、現行の特定療養費制度の問題点を指摘し、「混合診療を拡大した方がいい」、しかし「なんでもかんでも混合診療とは思っていない」と主張しました。それに対して私は、昨年の混合診療論争では、経済財政諮問会議はそれの「全面解禁」を主張していたことに触れないのはフェアではない、および吉川氏が指摘した問題点は昨年末の「いわゆる『混合診療』問題について」の両大臣合意で決着済みであると指摘しました。
この点に関連して、司会者(赤倉昌巳北海道医師会副会長)から、両大臣合意についての私の評価を聞かれましたので、それが混合診療の全面解禁を否定した点は評価できるが、「制限回数を超える医療行為については、適切なルールの下に、保険診療[と保険外負担]との併用を認める」とされたことは、将来「制限診療」の復活につながる危険もあると答えました。
私にとって意外だったのは、吉川氏が、混合診療を解禁すると公的医療費も増加する可能性があることを率直に指摘したことです。氏によると、これを言ったら「[財務省]主計局には嫌な顔をされた」そうです。実は、私も、講演の第2の柱中の「混合診療全面解禁論者の幻想」の項で、混合診療導入により公的医療費を抑制し私的医療費を増やすために、私的医療保険の加入を促進すると「私的医療保険が医療利用を誘発し、公的医療費・総医療費が増加することは国際的常識」と触れていました(OECD: Private Health Insurance in OECD Countries, OECD, 2004,p.196)。これは、公的医療費を抑制するという吉川氏の根本的主張と矛盾するはずなのですが、氏はなぜかそのことには触れませんでした。
2.拙講演録:より悪い医療制度にしないために-小泉政権の医療改革の批判的検討 (別ファイル『北海道医報』掲載予定原稿(準備中))
1の拙論で紹介した、昨年12月3日の北海道医師会医政講演会での同名の講演原稿で、吉川洋氏の講演録とともに、『北海道医報』に掲載予定です(掲載号は未定)。
これはテープ起こし原稿ではなく、当日参加者に配布した7頁の詳細レジュメに基づいて、書き下ろしました。「公開ディベート」の部分は掲載されないとのことなので、それに言及した2つ補注をつけました。1の拙論では省略した、講演の第2の柱と第3の柱の第1・2点についても書いています。ただし、それらの大半は、1で紹介した別の論文に書いたことの要約です。
3.2005年発表の興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(その6)
※「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。
○「セルフケアを支援するための介入の費用対効果:体系的文献レビュー」(Richardson G, et al: Cost-effectiveness of interventions to support self-care: A systematic review. International Journal of Technology Assessment in Health Care 21(4):423-432,2005) [文献レビュー]
患者による疾患のセルフケアを支援するための介入は、患者の健康状態の改善と医療費削減を目的としているため、政策担当者の関心をひいている。そのような介入の臨床的効果については多少の根拠があるが、その介入が費用効果的か否かについてはほとんど関心が払われていない。本研究では先行研究の費用対効果の根拠の質と量を検討した。
介入の経済的評価を行った39文献を、この文献レビューのために作成した質チェックリストに基づいて、体系的に評価した。大半の研究はセルフケア支援の介入が費用効果的または費用を節減すると主張していたが、経済的評価の質は概して低かった。研究計画で特に目立った欠陥は、関連費用の定義が狭く、追跡期間が短いことであった。著者は、現在得られている根拠に基づけばセルフケア支援の介入が費用効果的であるとの主張は支持できないが、今後の研究がより明快な根拠を出すかも知れない、と結論している。
○「ディジーズ・マネジメントの投資利益率:文献レビュー」(Goetzel RZ, et al: Return on investment in disease management: A review. Health Care Financing Review 26(4):1-19,2005)[文献レビュー]
アメリカでは、ディジーズ・マネジメント(DM)プログラムについての熱狂が生じており、DM産業は急成長している。DMは理論的には医療利用を制限することなく医療費節減と医療の質の向上を達成できると言われているが、現実には費用節減の根拠は十分ではない。そこで、気管支喘息、うっ血性心不全、糖尿病、うつ病、複数疾患(multiple illness)に対するDMプログラムの財政的影響と投資利益率(ROI)を調査した44文献の結果をレビューした。
その結果、うっ血性心不全と複数疾患に対するプログラムからは投資利益を得られることが確認できた。糖尿病については、プログラム費用を上回る費用節減があるとの多少の根拠が得られたが、追加的な研究が必要であった。気管支喘息のDMプログラムについては、文献により結果が異なっていた。うつ病のDMプログラムの費用(医療費)は費用節減額を上回っていたが、プログラムが産み出す生産性向上効果を考慮すれば、費用節減と言えるかもしれなかった。
二木コメント-私の経験では、費用効果分析や費用便益分析の効果・便益に「生産性効果・便益」を含めると、ほとんどすべてのプログラムが費用効果的になります。その極端な例が「薬物治療の『技術的評価』(1988年)です(これの批判的検討は、拙著『日本の医療費』医学書院,1995,213-215頁参照)。
○「医療の質[改善]のための事業を正当化する根拠は不十分」(Kilpatrick KE, et al: The insufficiency of evidence to establish the business case for quality. International Journal for Quality in Health Care 17(4):347-355,2005)[文献レビュー]
医療の質を改善するための介入から投資利益が得られるか否かを明らかにするために、Medlineを用いて、下記のキーワードで文献検索を行った:business case, cost-effectiveness, cost-benefit, return on investment, costs, cost savings, quality, quality improvement, program evaluation。その結果1968文献が得られたが、そのうち、投資利益率を計算するために必要な質改善のための介入の実施費用と実施後の費用・収益の変化について十分な情報を含んでいた文献は15しかなかった。これらの文献の対象は多岐にわたっていたため、投資利益を生みだす介入の種類、患者の疾病、治療の場についての確固たる結論は得られなかった。なお、これら15文献のうち9文献は慢性疾患患者のセルフマネジメントに関するものであった。この結果に基づいて著者は、現在の医療の質改善についての文献では質改善のための介入実施費用にほとんど関心が払われていないと批判している。
○「プライマリ研修医の[糖尿病と高血圧の]診療の質を改善するためのインターネットを用いた監査とフィードバックの失敗」(Simon SR, et al: Failure of internet-based audit and feedback to improve quality of care delivered by primary care residents. International Journal for Quality in Health Care 17(5):427-431,2005)[量的調査(介入の時系列分析)]
本研究の目的は、糖尿病と高血圧の診療の質を改善するためのインターネットを用いた医師の監視とフィードバックの有効性を検討することである。そのために、ボストン地域のハーバード大学系列のグループ診療所の12人のプライマリケア内科レジデントを対象にして、インターネットによる情報提供の開始前後(各1年間)の各疾患の全国的ガイドラインの遵守率の変化を比較した。その結果、情報提供開始後1年間で、該当するホームページに1回でもアクセスしたレジデントは12人中4人にすぎず、しかもそのうち1人は3回、残りの3人は1回しかアクセスしていなかった。しかも情報提供により糖尿病と高血圧診療ガイドラインの遵守率の有意な向上は見られなかった。
○「肥満に対するライフスタイル変容と薬物療法のランダム化試験」 (Wadden TA: Randomized trial of lifestyle modification and pharmacotherapy for obesity. New England Journal of Medicine 353(20):2111-2120,2005)[量的研究(ランダム化試験)]
アメリカでは、体重減少薬は包括的な食事・運動・行動療法に付加することが推奨されているが、現実には薬のみが処方されることが多く、これでは薬物療法の効果が限られてしまう可能性がある。そこで224人の成人肥満者をランダムに以下の4群に分けて、1年後の体重減少効果を比較した:(1)体重減少薬(sibutramine)を服用するのみ、(2)30回のライフスタイル変容のカウンセリングのみ、(3)体重減少薬の服用と30回のライフスタイル変容カウンセリングの「複合療法」、(4)体重減少薬の服用と8回のライフスタイル変容簡易カウンセリング。1年後の体重減少は、(3)で一番大きく12.1±9.8kgであった。それに対して、(1)は5.0±7.4kr、(3)は6.7±7.9kr、(4)は7.5±8.0kr(p<0.001)であった。(4)の「複合療法」群のうち、食事摂取量を頻回に記録していたサブグループの体重減少は18.1±9.8kgに達していた。著者は、この結果により、体重減少薬はライフスタイル変容の代りではなく、それと一緒に用いることの重要性が再確認されたと主張している。
4.私の好きな名言・警句の紹介(その13)-最近知った名言・警句
- 橋本治(作家。『乱世を生きる 市場原理は嘘かも知れない』著者)「常識が分からないから、ふつうの人が当たり前と考えていることがわからない。自分はバカなのかと思うけど、バカがバカのままでいるのは嫌な前向きな性格だから、ゼロから取材し、考える」(「読売新聞」2005年12月18日朝刊「著者来店」)。二木コメント-このような「前向きな性格」は研究者に不可欠と思います。逆に、「バカの壁」に安住する人は、研究者には不向きです。なお、同氏の『「わからない」という方法』(集英社新書,2001)は、「わからないからやってみる」という(研究)方法を提起したユニークな本で一読に値します。
- 冨田洋之(世界体操選手権の男子個人総合で優勝)「技だけをやるのはサーカス。6種目をきれいにやることが体操だと思っている」(「中日新聞」2005年11月25日朝刊「このひと」)。「美しくなければ体操ではない」(「読売新聞」2005年11月25日朝刊「顔」)。二木コメント-冨田選手の美学は、研究(論文)にもそのまま当てはまると思います。「技だけ」で美しくない論文とは、一見精緻な統計手法(技)を使いながら、データの洪水でまとまりがなく、しかも結論は陳腐、アイマイ、あるいは現実離れしている論文です。
- 加藤条治(スピードスケート選手。スピードスケートのワールドカップで、清水宏保選手の持つ記録を塗り替える世界新記録を樹立した感想を聞かれて)「時代を動かした感じ。(清水の記録は)速いけど、古い記録だなあと思っていた。世界も自分も止まってはいけない」(『AERA』2005年12月5日号38頁)。
- 藤巻幸夫(元カリスマバイヤー)「先日、テレビを見ていたら、スピードスケートの清水宏保選手が、伸び盛りの加藤条治選手について聞かれ、『志は同じ。尊敬している」と答えていた。『負けたくない』ではなく、『尊敬している』。スポーツの世界にだって、勝ち負けより大事なものがあるのだと思った」(「朝日新聞」2005年11月26日朝刊「勝ち組と呼ばないで」)。
- 清水宏保「五輪は8割の力で戦う必要がある」、加藤条治「マックス(全力)でいくのではなく、普通に自分の力をどれだけ出せるかを考えたい」 (「読売新聞」2005年12月14日朝刊。三木修司「カーブの勝負師」:「全力で戦えば、ミスへの対応ができなくなる。五輪のメダル獲得には、余力が求められる。加藤の言う『普通』が大切なのだ」)。二木コメント-私はこの記事をすぐにコピーして大学院の「医療経済学」講義時に配布し、修士論文・博士論文の提出も、提出日直前に「全力でいくのではなく」、「余力が求められる」と話しました。
- 森下卓(日本将棋連盟9段・出版担当理事。瀬川晶司さんのプロ試験合格を祝して)「プロとは持続。瀬川さんも、アマチュアのうちは楽しく努力できるが、これからは苦しいことばかりですよ」(『AERA』2005年11月21日号78頁)。二木コメント-私もかつて病院勤務医だったころは「趣味は読書」でしたが、1985年に日本福祉大学教員になってからは、読書が仕事になってしまい、趣味が一つ減ってしまいました。
- 山田規畝子(3度の脳出血を体験、後遺症を語る高松市の医師。講演ではいつも、障害を持って生きる意味を聞かれる)「死なないで時間が過ぎてゆくのが生きるってこと。その時間を受け入れて、とりあえず命をつないでいけば、後は何とかなるでしょう」(「朝日新聞」2005年12月1日朝刊「ひと」)。二木コメント-山田さんの『壊れた脳 生存する知』(講談社,2004)は、生きるとは何かを考える上でも、(失語症以外の)高次脳機能障害について当事者が語った初めて(?)の本としても、一読に値します。
- 日垣隆(評論家)『スケジュール手帳は、小さな人生の断片である。『手帳をもつ』は、『社会人になる』と重なってさえいる。(中略)毎年手帳を選ぶのは、自分とは何者かを問う作業の一端でもある」(『エコノミスト』2005年11月29日号3頁「敢闘言」)。
- 仰木彬(前オリックス球団監督。12月15日死去)「ベンチで野球を見ているのが一番面白い。『バックネット裏から勉強したい』なんていう引退選手がいるけれど、信じられないね。緊張感のないところで見たって面白くないから」(「朝日新聞」2005年12月16日朝刊。根岸敦生「評伝」)。二木コメント-私は、少なくとも医療政策研究や医療経済学のような応用科学では、このような臨場感・「緊張感」が不可欠と思っています。私が、1985年に常勤医を辞めて日本福祉大学教授になってからも、昨年4月まで19年間古巣の東京・代々木病院で診療を続けていた主な理由もこのためでした。
- 筑紫哲也(ジャーナリスト)「『火事だ!』と聞いたらすぐさま飛び出してゆくのが新聞記者。でもそのとき『火事なんて、人類が火を使い始めて以来、つねに起きてきた』と考える人は、手足でなく頭を使う人、たとえば学者を夢みたらいい」( 「朝日新聞」2005年11月24日朝刊「夢に向かって『手考足思』 )。二木コメント-これは学者を揶揄した言葉ですが、学者に必要な資質を鋭く突いていると思います。大事なことは、冷静に「頭を使う」ことと上述した臨場感・緊張感を両立させることです。
- 大川慶次郎(「競馬の神様」と呼ばれていた予想屋。故人)「勉強すれば当たるとは限らないが、勉強しないと当たらない」(『エコノミスト』2005年12月20日号48頁。スポーツ日本記者・小田哲也への「ワインドインタビュー問答有用」より重引)。
- R・E・ルービン(クリントン政権時の財務長官)「私と仕事をした経験がある方々は、私が確実なものなど何もないと考えていることをよくご存じだ。(中略)蓋然的な意志決定…健全な決定は、関連性のある変数を見つけだし、その1つひとつに確率を当てはめる作業に基づいている。それは分析の過程ではあるが、同時に主観的な判断にも関わっている。したがって最終的な決定は、これらすべての入力データを反映してはいるが、そこに本能、経験、勘という要素も加わっているのである」(古賀林幸・鈴木淑美訳『ルービン回顧録』日本経済新聞社,2005,3-6頁。原題は"In an Unceatain World"(不確実な世界で))。二木コメント-この2つの名言は、私の「医療政策の将来予測の視点と方法」とも似ています(同名の拙論(『月刊/保険診療』2004年9月号参照)。
- タモリ(テレビ番組司会者。「ミスター・テレビジョン」)「[-ものごとを正面からだけでなく、斜めから見たり後ろから見たり。]癖でしょうね。正面から見て、そのまんまだったことがほとんどないんですよね、世の中当然、正面から出てくるものは違うものだと思う癖がついている。裏を考えたりするんですね。額面通りに受け取って泣いたり感激したりする人を見てると、なんでそのまんまとるんだろうと」。「[『トリビアの泉』に触れて]『いろんなことをよく知ってますね』と言われますが、おれは知っていることしか言わないからそう聞こえるだけ。知っていることはしゃべりたいんですよ。ま、そういう病気なんですけど。そんな人間には、うってつけの番組じゃないですかね」(「朝日新聞」2005年12月21日朝刊「長寿番組『秘けつは薄味』」)。
- 南波隅子(主婦。58際)「あと少しで還暦なんて考えたくないのですが、現実は鏡の中にはっきりと表れています」(「朝日新聞」2005年12月23日朝刊「ひととき(名古屋版の読者投稿欄)」)。二木コメント-私も投稿者と同じ年です。