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非営利・協同組織の地位、役割と限界

(転載:法政大学経営学会『経営志林』第47巻第3号、2010年10月)

法政大学名誉教授、研究所名誉理事長・顧問 角瀬保雄

掲載日2011年03月31日


(1)はじめに

私は長年勤務してきた大学を2003年に定年退職してから、間もなく10年を迎えようとしている。大学に定年はあっても、研究には定年はないというのが、研究者としての信条である。

私は1979年に比較経営学会(旧社会主義経営学会)の会員になってから、ほぼ3分の1世紀が経過したが、その間に行った学会報告をみると、以下のごとくである。

在職中から現在に至る間、旧社会主義国の企業改革から、近年は資本主義のもとでの非営利・協同組織の研究について大きな関心を払ってきた。

本稿は2010年5月15日に行なわれた日本比較経営学会第35回全国大会(日本大学商学部)での報告を加筆したもので、私が近年考えているところを要約したものといえる。いうまでもなくすべての論稿は、試論という性格をもたざるをえないもので、本稿もその例外ではない。したがって、今後、練り上げられていかなくてはならないものといえる。 

ところで、これまでの経営学は営利企業としての株式会社の経営論に限定しがちで、非営利組織や協同組織に関する研究の欠落が目につく。例外としては、経営共同体論で著名なHeinrich Nicklischがいるが、彼は協同組合運動の実践家でもあった。協同組合に関連した学会は古くからあるが、わが国における非営利組織NPOの研究についてみると、独立の学会は近年誕生したばかりで、歴史が新しい。したがって、経営学的研究の欠落が目につく。営利企業の経営学者であって、NPOの理論的、実践的指導者としてはPeter F. Druckerが著名である。

協同組合論やNPO論は、企業論としては部分理論としての限界をもっている。日本の協同組合論が伝統的にとってきた外部市場否定論=内部市場論は、協同組合と営利企業の間に壁をもうけ、協同組合が社会的市場経済の中の存在であることを認めない限界をもっていた。一方、NPO論は慈善型、社会批判・監視型、政策提言型、事業型など非営利の、多種多様な市民活動を包含しており、日本におけるその数も4万を上回るまでになっている。しかし、その7割は行政や営利企業に依存していて、理論と実態との乖離が問題となる。私個人についていうならば、この間、営利企業の社会的責任の研究と並んで、協同組合や非営利組織の研究へと力を注いできた。

(2)非営利・協同組織概念の提起

私は1990年代の末から刊行が始ったミネルヴァ叢書『現代経営学』のなかの一巻で、川口清史氏とともに、『非営利・協同組織の経営』(1999年)を編集刊行したが、そこでは対象を協同組合とNPOを統合した非営利・協同組織として措定した。社会経済的には、協同組合+共済組合+アソシエイションからなるヨーロッパの「社会的経済」と親和性を持つものといえる。一方、非営利・協同組織論に対してはヨーロッパの「社会的経済」からの輸入品との批判や、非営利と協同とは異質なものであり、両者を中黒で結びつけるのは問題であるとする異論もあったが、一般的な流れとしては非営利・協同のアプローチへの支持、共鳴は強かったといえる。

わが国の協同組合は、欧米のそれと異なり、戦後、縦割り行政の枠組みの中で農協、生協など事業分野別の組織として発展してきた。法制化が唯一残された協同組合としての労働者協同組合については、10年程前から日本労働者協同組合連合会を中心に、労働者協同組合法の法制化運動が進められてきた。法制化を求める市民会議によって超党派の議員連盟が結成されはしたが呉越同舟の感は否めないでいる。当初の「協同労働の協同組合」というものからその名称が二転三転した後、「協同出資・協同経営で働く協同組合」として、ようやく陽の目をみるかにみられた。しかし、2010年の参議院選挙をめぐる自民、民主党間の対立激化によって流産してしまった。しかし、今日の雇用失業問題、貧困問題の重要性は、様々の問題を内包しながらも労働者協同組合法の法制化の促進を時代の要求としてきた。

ところで、その内容は当初案からみるとかなり変化がみられ、そのガバナンス構造も「協同経営」によって働くという点を除くと、経済活動を営んでいる通常の協同組合法人とそれほど異なるものとはいえない。それは経済活動の主体としては当然のことでもあるが、法人格の取得後には、金融機関からの融資や自治体からの仕事の請負など事業の可能性が広がるものとみられていたが、同時に労働者協同組合の法制化にはいろいろ課題も残されているように思われる。当初、日本労働者協同組合連合会が要求していた税制上の特例は、準則主義と引き換えに認められるに至っていない。法人税率も就労創出等積立金や従量配当、出資配当など資本充実の手当てを除くと、税制上の配慮も一般の会社組織と大差なく、税率は30%という営利企業並みとなっている。

(注)

いずれにせよ、労働者協同組合はその法制化の暁には非営利・協同組織の一部として包摂されていくことになるものと思われる。富沢賢治氏は法律制定後の問題点として、「被雇用労働者から協同労働者への意識変化は可能であろうか。意識変革は、現段階における労働者協同組合の現場から始らなければならない。運動の実態を伴わない法律は、腐敗する。」(「友愛社会とは何か」非営利・協同総合研究所いのちとくらし、ワーキングペーパーNo.2、2010年3月1日、49ページ)と述べ、残る問題の所在を指摘している。われわれがヨーロッパ型の協同組合組織にとどまらず、またアメリカ型のNPO組織にとどまらず、両者を包摂した非営利・協同という概念を提起したのには、それなりの理由と根拠があったのであるが、実を結ぶまでにはいたっていない。

(3) 医療供給主体の「公共性」と国別多様性

私はこの10年来、医療・福祉の公共性、非営利性の研究に力を注いできた。そこで以下では、医療分野における非営利・協同組織の問題を取り上げたいと思う「いのちの平等」ということから「医療の平等」ということが求められ、医療の公共性が問題となっている。医療の供給主体、担い手としては、ヨーロッパでは公的病院を中心としてきており、アメリカでは民間の病院チェーンにみられる営利病院と貧困者救済の非営利病院とが中心となっている。

それに対して日本では、明治以来、多様な法人形態の医療機関が特徴となっている。国公立病院、公的病院、大学病院、医療法人病院、社会福祉法人病院、協同組合病院(医療生協、農協・厚生連)などがあるが、病院の半数以上が民間の医療法人病院となっている。いわば民間中心の、民営型がとられてきている。

こうしたなかで、近年、医療・福祉の経済・経営の研究の機運が高まり、その社会的企業性に関心が集まっている。まだその研究の数はそれほど多くはないが、注目すべき研究も生まれてきている。その一つに西村万里子・山下智佳両氏による「医療・福祉分野のソーシャル・エンタープライズ―日英の事例を通して」(『ソーシャル・エンタープライズ―社会貢献をビジネスにする―』塚本一郎・山岸秀雄編著、2008年、丸善)がある。

西村・山下両氏はまず90年代後半のイギリスの動向に着目され、そのソーシャル・エンタープライズ性を重視する。内容的には2003年の「医療および社会ケア法」によって、既存の公立病院(NHS Trust)の中に、参加型ガバナンスをもつ協同組織型のファンデイション・トラスト(Foundation Trust)が創設されたことに注目され、これを「公益性の高い医療の提供と営利性とをあわせもつ医療法人」の誕生としている。参加型ガバナンスをもつとともに、経営の裁量権が拡大されて営利性の側面を持つ点で、企業としてのソーシャル・エンタープライズと位置づけている。

次いで両氏は日本における医療分野の「社会的企業」として医療生協をとりあげる。組合員による「社会的所有」と参加型ガバナンスに注目されている。具体的な事例としては東京保健生協の東京健生病院、香川医療生協の高松平和病院のほか、フィットネスクラブなど医療関連事業への進出で注目されている庄内医療生協を取り上げている。日本の医療生協はペストフなど海外の研究者からも注目されているもので、組織的にはこれまで日本生協連の医療部会に属してきたが、日本医療福祉生協連合会(医療福祉生協連)として独立することになった。

「非営利目的」の事業体としては、「事業所の集団所有」、「民主的管理・運営」の内容が問題になる。大規模化した消費生協がかかえる問題は大きく、医療生協だけに過大な期待を寄せることは難しいであろうが、医療生協が今後その管理運営の民主化をどこまで実現しうるかが問われる。

日本では戦後、1950年の医療法の改正によって医療法人制度が生まれた。これは明治以来の個人開業医制度と区別して、医業経営と家計との分離を図ろうとするものといえる。医療法人には民法上の公益法人にならって、社団医療法人と財団医療法人とがあるが、医療法人のほとんどすべてが「出資持分のある社団」となっていた。持分に応じた議決権は認められていないので、その運営は一人1票制という協同組合原則に準じたものとなる。一方、財団医療法人は社員がいないので、寄付行為、理事制度、評議員制度によるガバナンスによって管理運営されることになる。

1985年には医療法改正によって、「一人医療法人」というものが創設された。従来の医療法人では常勤医師3名以上が要件とされていたのに対して、一人でも法人化を可能にするというものである。関係者にとって、その最大のメリットとされるのは節税効果である。今日、診療所を営む医療法人のほとんどが、「一人医療法人」となっており、医療の公共性と医療法人の営利性との矛盾はもはや放置できないところにきていた。

そこで2006年の医療法改正によって財産の個人への帰属を禁じた「出資額限度医療法人」制度が生まれ、医療法人の剰余の分配に歯止めを掛けることになった。さらに2007年には新たな「社会医療法人」制度が導入されることとなり、イギリスと同様の医療法人の「事業性」と「公益性」を強化する内容が盛り込まれた。そして2008年度以降、都道府県による認定が始まった。「社会医療法人」は、住民にとって必要とされる公益性の高い医療の実施をその認定要件としている。具体的には救急医療、僻地医療、周産期医療など公益的な医療の実施が義務づけられているが、同時に危機に瀕した自治体病院など公立病院の受け皿となることも予定されている。また都道府県知事などの認定を受ければ、収益事業もできるとされており、さらに医療法人債を発行できるとなっている。すでに2009年4月現在、全国で55法人が認定を受けている(角瀬保雄「わが国の医療制度と医療法人制度の改革」『経営志林』第43巻第4号、2007年1月)。

(4)民医連運動の発展と医療機関の「社会的企業」化

ところでわが国では、戦前から民間で無産者診療所運動という非営利の医療運動が生まれていたが、戦時体制へ突入するなかで、治安維持法による弾圧をうけて消滅し、戦後その伝統を受け継いだ民主診療所が全国各地に生まれた。

1961年に全日本民主医療機関連合会という全国組織が結成され、地域医療の全国的ネットワークを形成した。その特徴は医療福祉の事業体であるとともに、憲法第25条の実現を目指す社会保障の運動体となっていることである。現在、民医連には医療生協とともに医療法人がともに半々の割合で参加している。生協法人、医療法人という法人形態のもつ限界を民医連運動が突破したのである。個別の法人形態としては、NPO、協同組合、医療法人、社会福祉法人、公益法人から介護施設、薬局などを経営する有限会社・株式会社まで含まれている。医療を専門家と患者との「共同の営み」としてとらえるとともに、生協組合員、「友の会」会員からなる「共同組織」の強化を重視している。こうして民医連運動は、その院所における「無料低額診療」の実践によって、医療福祉分野における非営利・協同の運動の実体を創りだしているのである。千葉勤労者医療協会のように可能なところでは、「社会医療法人」の認定をえて、「社会的企業化」の先駆ともなっているのである。

こうしたなかで2007年の公益法人制度改革は、法人格の取得(準則主義)と公益性の認定の分離によって、一般社団法人・一般財団法人と特定公益増進法人との区別が導入され、いまNPOは市民の公益的活動の主たる法人格であるとはいえない事態にまでとなっている。この新しい公益法人は、非営利を原則とする、2名以上の社員からなる社団と拠出財産300万円以上からなる財団でもって設立できるとなっている。設立目的や事業活動にも特段の制限がなく、解散時には社員総会(財団では評議員会)の決議によつて、残余財産の分配も可能となっている。行政庁による監督もなく、また一般社団には、寄付や借入れの他に、無配当となるが、出資金を集めることの出来る基金制度も設けられる。しかもその判定権限は国税庁が握ったままで、かつ公益認定が優遇税制と連動するようになっている。こうして今日、非営利組織と営利企業をブリッジする「社会的企業」の概念が広がってきている。

しかし、「社会的企業」に関しては、国によってその認識が異なっている。最も市民権をえていると思われるのがヨーロッパ型で、C.ボルザガ/J.ドゥフルニの『社会的企業』(The Emergence of Social Enterprise、内山哲朗他訳、2001年,日本経済評論社)にみられるような、 EU規模での実態調査がある。そこでは雇用対策に重点がおかれ、ソーシャル・インクルージョンの概念が問題となっている。こうしてEUではNPO、協同組合と並んで「社会的企業」の概念が広く用いられようになっているが、協同組合や社会的協同組合が発展しているイタリアでも、田中夏子氏によれば、社会的協同組合による「社会的企業」の法人格取得、「社会的企業」としての登録事業体数は必ずしも多くないといわれる。したがって、「社会的企業」は株式会社や協同組合等と横並びの独立した法人格意味するものではないともいわれる(「資料に見るイタリア非営利・協同経済の今(3)、社会的企業法(下)」『協同の発見』第212号、2010.3、75ページ)。

一方、アメリカでは、「社会的企業」はNPOの変種としてとらえられており、社会的起業家による社会的貢献のビジネス化、企業化としてとらえる傾向が強いといわれる。ボルザガらの著書では、その序文で以下のように述べられている。「多くのEU諸国のように、日本にも、巨大で多様な協同組合セクターが存在する。それは、アメリカのNPOセクターアプローチでは分析しきれないかもしれない。…その動向を真に把握するためには、新しい分析枠組みが必要だという点である。それらの組織のなかには、ヨーロッパ的な見方からすれば驚きであるが、新しい社会的ニーズに応えようと動き出している運動・事業体がある。…とりわけ民医連運動は…いまやみずからを『非営利・協同組織』とみなしている。」(iv)としている。

私は民医連病院、福祉施設などを非営利・協同組織として認識するとともに、そこにおける企業性をより積極的なものとして打ち出すために、「社会的企業」の概念でとらえることが必要になっているものと考える。これからの21世紀社会を考える時、「市場原理主義」に対抗するものとしての「公共性」、「公益性」とともに、「非営利・協同」と結びついた企業性、市場性が重要になると、思っている(角瀬保雄「医療の産業化」非営利・協同総合研究所いのちとくらし『研究所ニュース』No.30,2010.04.30 PDFファイルPDF)。

(5)社会的企業の地位、役割と限界

馬頭忠治氏は藤原隆信氏との共編著『NPOと社会的企業の経営学―新たな公共デザインと社会創造―』(ミネルヴァ書房、2009年)の終章、「NPO・社会的企業とソーシャル・チェンジ」において、「非営利の原理の限界性と可能性を確かめる」(233ページ)ことの重要性を指摘し、「社会的企業」についての興味ある理論展開を行なっている。それは、大内力の「社会的労働」にキーワードを求め、「私的所有からその社会的資源化へという市民的所有によって、社会を時間的にも空間的にもオープンにしていくプロセスの仕事が『社会的労働』だと考えられる。」(241~242ページ)とするものである。

大変難解で、私などには今直ちにその的確な評価を下すことは難しく思われる。その「社会的企業」の議論に欠けているものとしては、「社会的企業」の市場における地位と役割の解明が十分でなく、資本形成や利潤形成といった企業性の解明が欠落しているところにあるように思われる。また、その編著書のタイトルに経営学ということがうたわれているにもかかわらず、内容の大半はNPOの事例研究で占められていて、「社会的企業」の分析が弱い点にも不満足感が残る。

大内についていうならば、マルクスに依拠するという点では親近感をいだいているが、具体的な展開になると、ここでも一致し得ない点がでてくるように思う。私は「社会的企業」概念に関しては、『資本論』の「労働の二重性」論に依拠しながら、マルクスが最も「社会的」な企業として株式会社をあげている点に注目したい。そして株式会社企業の二重性に依拠した理論展開を図ろうと考えている。マルクスの場合、本来の社会的企業は株式会社をおいて他にはないのである。今日においても、それに代わるものは存在しないものといえる。
マルクスは次のように述べている。

「それ自身社会的生産様式に立脚して生産諸手段および労働諸力の社会的集積を前提とする資本が、ここでは直接に、私的資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとるのであり、このような資本の諸企業は、私的資本に対立する社会的諸企業として登場する。それは、資本主義的生産様式そのものの限界内での、私的所有としての資本の止揚である。」(『資本論』第3巻a、新日本出版社版756~757ページ

マルクスが「労働の二重性」から展開する「株式会社企業の二重性」は、広義の社会的会的企業を意味するものといえる。それに対して今日、「社会的企業」の条件とされる「社会的貢献」なるものは、狭義の社会的企業の要素として区別することができる。企業の一般的・社会的存在理由とされる生産と流通、分配は、株式会社企業が普遍的に担ってきているもので、いわゆる「社会的貢献」のような限定的なものではない。

それに対して「社会的企業」は、20世紀後半から21世紀以降における営利企業の欠陥を補完する役割をもつものといええるが、その「社会的貢献」なるものは、必ずしも狭義の「社会的企業」に限定されるものではなく、広義の社会的企業としての株式会社こそが十分に果たしうる可能性をもつものといえる。現代の「社会的企業」なるものが、株式会社企業にとって代わるだけの「社会的貢献」を十分に果たしえていない現状は、いまだその形成過程・発展過程にある限界といえよう。

その「集団所有」「民主的運営」の未熟さを指摘することもできる。イギリスの協同組合連合会(Co-operatives UK)のヘレン・シーモアは次のように述べている。「一部の企業は、社会的企業と呼びながらも、非常にガバナンスがしっかりしていない。オーナーシップ「所有制」にも問題があるし、民主主義かどうか、きちんとした経営ができているかどうか、という点についても問題がある。多くのよい組織があるが、長期的に持続可能かどうか、本当に民主主義的であるかどうか、はまた別である。」(『協同の発見』第147号、2004年10月、21ページ

ところで民医連は2010年2月末に新綱領を制定した。そこでは「営利を目的とせず、事業所の集団所有を確立し、民主的運営を目指して活動」するとうたっており、「社会的企業」としての実体を築きつつある。この民医連にもいまだ「共同組織」との関係など、矛盾がないわけではないが、運動の中で解決されていくものと思う(角瀬保雄「民医連考」非営利・協同総合研究所いのちとくらし、研究所ニュースNo.22,2008.05.10:PDFファイルPDF)。

また、株式会社が「社会的企業」へと進化するテコとしてCSR(「企業の社会的責任」)が重要な意味をもってくるが、わが国の財界は、企業の自主性に委ねることで十分としているところに問題がある。私は大企業のCSRを、企業の自主性に委ねるだけでは不十分で、労働組合による下からの規制と行政による上からの規制が欠かせないと考えている。また地域の市民による横からの規制も必要となると考えている。こうした社会的規制によって初めて株式会社は「社会的企業」へと進化をとげることが出来、株式会社企業と「社会的企業」の収斂が実現するものと考えている。

以上のような私の企業変革のビジョンは、「社会的企業」に関する少数論といえるかも知れない。そして私のいだく展望は、それが実現するまでにはかなり長い期間を要するものとも思うが、最も現実的な見通しに立つものと思っている。多くの株式会社批判論者、「社会的企業」肯定論者に問いたいのは、現在支配的な株式会社の未来がどうなるかが示されない限り、その「社会的企業」論は一定の役割を果たしながらも、ロマン主義から抜け出すことはできないということである。これまでの協同組合やNPOの限界を乗り越えることができないであろうということである。私が狭義の「社会的企業」とその「社会的貢献」、その担い手となっていきた非営利・協同組織の地位、役割を高く評価しながらも、あえて自己否定ともいえるその限界を問題とせざるをえない所以である。

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