『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻21号)』(転載)
二木立
発行日2006年05月01日
お断り: 次号(22号)は、6月1日ではなく、6月10日に配信予定です。
(出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見等をいただければ幸いです)
本「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/ )
目次
- 1.拙論1:医療経済・政策学の視点と方法
(「二木教授の医療時評(その27)」『文化連情報』2006年5月号(338号):36-40頁) - 2.拙論2:新予防給付の行方-長期的な健康増進効果と費用抑制効果は未証明
(『社会福祉研究』第95号:20-28頁,2006.4.1)(別ファイル:新予防給付の行方-長期的な健康増進効果と費用抑制効果は未証明(PDF)) - 3.拙講演原稿:日本における21世紀初頭の社会保障改革の3つのシナリオ(別ファイル:日本における21世紀初頭の社会保障改革の3つのシナリオ(PDF))
- 4.私の好きな名言・警句の紹介(その17)-最近知った名言・警句
1.拙論1:医療経済・政策学の視点と方法
(「二木教授の医療時評(その27)」『文化連情報』2006年5月号(338号):36-40頁)
勁草書房から『講座 医療経済・政策学』(全6巻)が刊行中です。これは、私と田中滋氏(慶應義塾大学)、西村周三氏(京都大学)、池上直己氏(慶應義塾大学)、遠藤久夫氏(学習院大学)の5人が編集委員となっている、この分野でのわが国初の本格的講座です。今回は、この講座の宣伝も兼ねて、医療経済・政策学の視点と方法について、以下の3つの柱で述べます。1.私の医療経済学の理解、2.医療経済・政策学の幅広く偏りのない勉強のために、3.私の医療経済・政策学研究の視点と方法。
なお、医療経済・政策学とは、「政策的意味合いが明確な医療経済学的研究と、経済分析に裏打ちされた医療政策研究との統合・融合をめざし」て、新たに考えた造語・新語です。単に「医療経済学」と言わずに、この用語を用いる理由は後述します。
私の医療経済学の理解ー新古典派は日本医療の分析には無力
医療経済学について、まず指摘したいことは、それは決して「一枚岩」ではなく、経済学全般と同じように、「新古典派」対「制度派」という2つの学問的潮流があることです。新古典派が市場メカニズムに基づく資源配分を絶対化するのに対して、制度派は市場の役割を認めつつ、それが各国の制度・歴史によって規定されていることを強調します。経済学全般では新古典派が「主流派経済学」となっていますが、医療経済学では制度派経済学も有力です(この点について詳しくは、「講座」第1巻の権丈善一論文参照)。
この点と関わって私が強調したいことは、医療経済学にも「国籍」がある、あるいは国により医療経済学の概念・範囲が異なることです(拙著『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』勁草書房,1994,192頁)。具体的には、アメリカでは医療経済学といえばほとんど新古典派医療経済学を指します。アメリカではたくさんの医療経済学教科書が出版されていますが、それらはごく一部(トム・ライス『医療経済学の再検討』)を除いて、新古典派経済学に基づいており、そのために「医療の経済評価」(費用効果分析・費用便益分析等の「臨床経済学」)はまったく含まれていないのが普通です。
それに対して、日本や、イギリスを含めたヨーロッパの医療経済学は、アメリカ流に言えば「医療サービス研究」も含んでいます。ここで、医療サービス研究とは、特定のモデルを前提とせずに行われる「医療サービス」の実証分析の総称です。この医療サービス研究の範囲は広く、医療の質の研究や、テクノロジー・アセスメント等「医療サービス」にかかわるあらゆる研究を含んでいますが、多くの研究は「医療の経済評価」も含んでいます(「医療サービス研究」の最新の包括的定義は、Lohr KN, et al: Health Services Research 37(1):7-9,2002参照)。 jp18
そして私自身は、アメリカで主流の新古典派医療経済学は日本の現実の医療問題・政策の分析には無力と考えています。それには次の3つの理由があります。これらは、1992~1993年のアメリカ留学(UCLA公衆衛生学大学院)と留学から帰国後の10数年間の私の実体験に基づいています。
第1の理由は、新古典派理論(モデル)に基づく医療経済学研究で、日本の現実の医療問題の認識を深めたり、医療政策の分析に寄与した研究はほとんどないことです。ただし、新古典派の研究者が、新古典派理論(モデル)に依拠せずに行なった実証研究(「医療サービス研究」)の中には、わが国の医療問題の認識を深めた研究が少数存在します。
第2の理由は、医療サービス価格が公定価格である日本の医療制度を、医療でも市場原理(価格メカニズム)が働くことを前提とした新古典派理論(モデル)で分析するのは困難、ほとんど不可能だからです。
第3の理由は、医療経済学研究者の間では、そもそも医療サービス市場には、市場原理の大前提となっている、供給者の行動から独立した消費者の需要曲線が存在しないという主張が有力だからです。特に新古典派を含めて、大半の医療経済学研究者が支持している「医師誘発需要理論(仮説)」は、原理的には医療サービスの需要曲線の存在を否定するものです。
実は、冒頭に紹介した「講座 医療経済・政策学」は、当初編集者から私に依頼のあった段階では「講座 医療経済学」とされていました。しかし、医療経済学=新古典派医療経済学との誤解を避けるために、敢えて「医療経済・政策学」という新しい用語を用いることにしました。
医療経済・政策学の幅広く偏りのない勉強のために
次に、主として若い研究者のために、医療経済・政策学の幅広く偏りのない勉強のためには、何が必要かを述べます。
私がこの点に関してもっとも包括的だと思うのは、世界最高峰の医療経済学研究者であるアメリカ・スタンフォード大学のフュックス教授が、1999年にオランダで開かれた国際医療経済学会第2回世界大会の基調講演の最後に述べた、医療経済学に最近参入した研究者への助言です。それらは、(1)あなたのルーツ[経済学]を忘れるな、(2)医療技術と制度についてたくさん学べ、(3)ハードに学べ、しかしもっと重要なのはスマートに学ぶこと、(4)同時期に研究者と政治スタッフの兼業を試みるな、(5)研究者としての3つの美徳を磨けの5つです(拙訳「医療経済学の将来」『医療経済学研究』Vol.8:91-105,2000.)。
次に、医療経済学の3つの古典を紹介します。私は、医療経済学に限らず社会科学を学ぶ場合には、それぞれの分野の古典を読み、その学問のルーツを知ることが不可欠だと思っています。幸いなことに、これらはすべて日本語訳があります。
1つ目は、ノーベル経済学賞受賞者のK・J・アロー著、田畑康人訳「不確実性と医療の厚生経済学」(『国際社会保障研究』27:51-77,1981)です。1963年に発表されたこの論文は、医療経済学の出発点とも言える古典中の古典です。原論文の英語はやや難解なためもあり、それを読んでいない研究者も少なくないのですが、日本語訳は極めて正確であり、これだけでも読むに値します。ちなみに、翻訳が掲載された『国際社会保障研究』はかつて健康保険組合連合会が発行していた非常に高水準の学術雑誌で、現在でも主な大学図書館にはあるはずです。
2つ目は、V.R.フュックス著、江見康一訳『サービスの経済学』(日本経済新聞社,1974)です。フュックス教授は、医療経済学を専攻する前に、サービス経済の実証研究と理論研究を行なっており、本書がその集大成と言えます。3つ目は、同じ著者・訳者による、『生と死の経済学』(日本経済新聞社,1977.原題"Who Shall Live?"を直訳すれば、『誰が生きながらえるべきか?』)です。これは、アロー論文と並ぶ、医療経済学の古典と言えます。訳書は絶版ですが、英語版は、1998年に、アメリカ経済学会での会長講演「経済学、価値、および医療改革」(これもすばらしい論文です)等6論文を追加した「増補版」が出版されました。
フュックス教授には、医療経済学の原理論、医療政策論、医療の実証分析の三部構成のいわば「医療経済・政策学」の生きた教科書が2冊あり、両方とも翻訳されています。それらは、江見康一・田中滋・二木立訳『保健医療の経済学』(勁草書房,1990)と江見康一・二木立・権丈善一訳『保健医療政策の将来』(勁草書房,1995)です。
医療経済・政策学の勉強と研究を行う上では、最新の英語文献に目を通すことも不可欠です。私は医療経済・政策学関連の英語雑誌24冊を毎号チェックしています。それらの中で、良質の論文が特によく掲載されるのは、以下の雑誌です:Health Affairs, Health Policy, Health Services Research, Journal of Health Economics, Medical Care, Medical Care Research and Review。
私はこれらの雑誌を1984年以来20年以上チェックしていますが、そのたびに、少なくとも実証研究面では、日本とアメリカとの格差は絶望的なほど大きいと感じています。英語雑誌のチェックで強調したいことは、アメリカ以外の研究が掲載されている国際雑誌にも目を通す必要があることです。レスター・サローが強調しているように、国際化の時代にあっては、「相手国がしていることをいつもコピーできるわけではないが、それをいつも理解しなければならない」と思います。
私の医療経済・政策学研究の視点と方法
第3に、私の医療経済・政策学研究の視点と方法について、ごく簡単に述べます(詳しくは、拙論「私の研究の視点と方法・技法-リハビリテーション医学研究から医療経済・政策学研究へ」『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』113:89-114,2006参照)。
私は、1985年に東京都心の地域病院の勤務医(リハビリテーション医)から日本福祉大学教員に転身したのですが、それから約20年間、政策的意味合いが明確な実証研究と医療・介護政策の分析・予測・批判・提言(「時論」執筆)という「二本立」の研究・言論活動を行なってきました。ちなみに、私の姓名には2つの特徴があります。1つは「二本立」に類似していること、もう1つは縦書きにすると左右対称で裏表がないことです。共に名は体を表すと言え、親に感謝しています。
私の医療経済・政策学の研究の心構え・スタンスは3つあります。
第1は、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究を行うことです。リアリズムだけでは現状追随主義に陥るが、リアリズムを欠いたヒューマニズムでは観念的理想論になってしまうからです。ただし、リアリズムとヒューマニズムとの間には緊張関係があり、両者のバランスをどうとるか、いつも腐心しています。
このスタンスは、アルフレッド・マーシャルの有名な「冷静な思考力を持ち、しかし温かい心をも兼ね備えた」(cool heads but warm hearts)というスタンス、あるいはアラン・ブラインダーの「ハードヘッド&ソフトハート」というスタンスと同じです。ブラインダーは、同名の著作(佐和隆光訳、TBSブリタニカ,1988,4頁)で、「経済効率性を尊重する『ハードヘッド』な頭脳と、経済社会の敗者に対する『ソフトハート』な気配りを両立させる魅力的な経済政策の哲学」を提唱しています。なお、日本では、マーシャルの言葉は「冷静な思考力と(and)温かい心」と訳されていますが、それは誤訳です。
第2は、事実とその解釈、「客観的」将来予測と自己の価値判断(あるべき論)を峻別するとともに、それぞれの根拠を示して「反証可能性」を保つことです。ここで「客観的」将来予測とは、私の価値判断は棚上げして、現在の諸条件が継続すると仮定した場合、今後生じる可能性・確率がもっとも高いと私が判断していることです。2001年に出版した『21世紀初頭の医療と介護』(勁草書房)からは、事実認識と「客観的」将来予測と自己の価値判断に3区分するようにしています。ただし、自然科学と異なり、社会科学では、これらの区別は相対的・概念的です。
第3はフェアプレイ精神です。具体的には、次の3つを励行しています。(1)実証研究論文だけでなく時論や講演レジュメでも、出所・根拠となる文献と情報はすべて明示する。(2)政府・省庁の公式文書や自分と立場の異なる研究者の主張も全否定せず、複眼的に評価する。(3)自己の以前の著作や論文に書いた事実認識や判断、将来予測に誤りがあることが判明した場合には、それを潔く認めるとともに、大きな誤りの時にはその理由も示す。
私の医療経済・政策学の実証研究には、他の研究者にはあまり見られない特徴があります。それは、日本医療についてのさまざまな神話・通説をデータ・根拠に基づき批判し、一般には知られていない真実の姿を明らかにすることです。それには、官庁統計の独自の分析と独自の全国調査という2つの手法があります。後者の「3大実証研究」は、(1)病院チェーンの全国調査、(2)老人病院等の保険外負担の全国調査、(3)保健・医療・福祉複合体の全国調査の3つで、これらは日本の医療(政策)についての「認識枠組み」を変えた歴史に残る実証研究と自負しています。
独自の全国調査を成功させる3つのポイントは、(1)適切な研究課題を設定する、(2)基本的用語・概念の定義を明確にして調査する、(3)私独自の人的ネットワークを駆使するです。
次に、私の研究のもう1つの柱である医療・介護政策の分析・予測・批判・提言(以下、医療政策研究)の手法について、簡単に述べます。一般に政策研究というと、政府・省庁の公式文書等の分析が中心と理解されがちですが、私は、分析枠組みを拡げて、次に述べる3種類の研究や調査に基づいて、医療政策研究をしています。
第1は、日本医療の構造的変化の徹底的な実証分析です。第2は、自己の臨床経験に即して判断すると共に、それを補足するために新しい動きが注目される医療機関を個々に訪問し、そこから生の情報を得ることです。これはフィールド調査とも言えます。第3は、政府・厚生労働省の公式文書や政策担当者の講演記録を分析する、いわば文献学的研究です。
医療経済学の実証研究と医療政策との関係
最後に、医療経済学の実証研究と医療政策(提言・分析)との関係について簡単に述べます。
この点について私が一番強調したいことは、実証研究のみでは政策の妥当性は評価できないこと、そのために政策について論じる場合には自己の価値判断の明示が必要なことです。このことは、古くから医療の経済評価の問題点、限界として指摘されてきたことです。たとえば、ドラモンドは、「効率のみが意志決定における唯一の尺度ではなくそれ以外に平等なども制約条件として考慮しなければならない」ことを強調しています(詳しくは、拙著『医療経済学』医学書院,1985,71頁)。
そのために、私は、実証研究(しかもデータに大きな制約のある1つの実証研究)のみに基づいて「政策的含意」を語るのはきわめて危険だと思っています。
他面、医療経済学の知識と方法は、現実の医療・介護政策の分析(事実認識と「客観的」将来予測)を行う上で不可欠だとも考えています。手前味噌ですが、その実例としては、
拙論「厚生労働省『医療制度構造改革試案』を読む」(『社会保険旬報』2261号。本時評20)や「新予防給付の科学的な効果は証明されているか?」(同(14)、(15))をお読み下さい。
以上から私は、「学問の本質は『提言』ではなくて『分析』がメインになります。それが学者が他の人より強いところであって、[政策]提言は社会科学者の主目的ではない」という田中滋氏の指摘に大いに賛同します(水野肇・川原邦彦監修『医療経済の座標軸』厚生科学研究所,2003,192頁)。
[本稿は、4月24日に開催された医療科学研究所2006年度第1回医療経済研究会での同名の報告に加筆したものです。]
2.拙論2:新予防給付の行方-長期的な健康増進効果と費用抑制効果は未証明(『社会福祉研究』第95号:20-28頁,2006.4.1)
(別ファイル:新予防給付の行方-長期的な健康増進効果と費用抑制効果は未証明(PDF))
これは、拙論「新予防給付の科学的効果は証明されているか?」「同(その2)」(『文化連情報』2005年7,8月号掲載。本「ニューズレター」11,12号)をベースにしつつ、その後の動き・研究を加筆したもので、介護予防の効果の文献学的研究の現時点での決定版です。
3.拙講演原稿:日本における21世紀初頭の社会保障改革の3つのシナリオ
(別ファイル:日本における21世紀初頭の社会保障改革の3つのシナリオ(PDF))
これは、5月19日に韓国・ソウル市で開かれる日本福祉大学と延世大学校の「第1回日韓定期シンポジウム」で発表予定の原稿で、私の「3つのシナリオ説」の現時点での決定版です。韓国での報告に先だって、草稿を4月15日に早稲田大学で開催された「社会保障研究会」(土田武史早稲田大学教授・中医協会長や田多英範流通経済大学教授が中心になって約30年間継続している研究会)で発表し、そこでの質疑応答等に基づいて加筆しました。
4.私の好きな名言・警句の紹介(その17)-最近知った名言・警句
<研究と研究者のあり方>
- ペテル・マトウシュ(チェコから東大大学院への留学生。東大相撲部主将)「[日本人の短所はどういうところだと聞かれ]ムダに頑張ることが多いですね。頑張ること、イコール、いいことだと思っているようなところがあります。だから、『私は暇です』とは誰も言わない。それを言ったら、何か悪いことをしている気になる。僕はよく『お忙しいなか…』と言われますが、忙しくないですよ(笑)。忙しいことがなぜいいことですか。暇はダメですか」(『エコノミスト』2006年4月4日号57頁「ワイドインタビュー問答有用」)。二木コメント-私はこれを読んで、医療経済学者のフュックス教授による若い研究者への助言を思い出しました。教授は「ハードに学べ、しかしもっと重要なのはスマートに学ぶこと」と助言し、ハードに学ぶこと(これが「ムダに頑張ること」に近い)とスマートに学ぶことの違いを明快に説明しています(拙訳「医療経済学の将来」『医療経済学研究』8号,2000,101頁)。
- 林望(作家)「例外なき生活。行き過ぎは賢者の知恵です」(「日本経済新聞」2006年3月30日夕刊「病と生きる」。低脂肪食に徹するために、宴会やパーティーには出ない。やむを得ず出席するときは、持参したペットボトルの水しか飲まない)。二木コメント-林さんのような自由業と異なり、大学教員ではこのような「例外なき」社会生活を行うのは不可能ですが、研究生活では「例外なき…行き過ぎ」も時に必要と思います。武弘道氏(医師。現・川崎市立病院事業管理者)も「立派な学者はみんなオタク的なところあり」と指摘されています(2002年2月24日。私へのメール)。
- 日垣隆(評論家)「たくさん本を読まないと世界が小さくなり、そのことに無自覚だとプライドだけ育ってしまう傾向がある。けれども、体験が広がっていないのに、本ばかり読んでいれば『仕事ができないひと』になりかねない」(『エコノミスト』2006年3月26日号3頁「敢闘言」)。二木コメント-本多勝一氏も、「すぐれたルポルタージュを書くためには、どんなタイプの人が有望か」について論じたときに、その対極として、「ひたすら鑑賞してばかりの、目の肥えた、しかしかといって個性的評論家に成長するわけでもない、ニーチェのいう『教養ある俗物』」をあげています(『ルポルタージュの方法』朝日新聞社文庫,1983,279頁)。私の経験では、大学の教員にはこのような「教養ある俗物」が少なくありません。なお、ニーチェは『反時代的考察』(1873~1876)で、「教養[ある]俗物(Bildungsphilister)」という用語を初めて用いたそうです(『ニーチェ事典』弘文堂,1995,135-136頁)。
- 川崎富作(医師。「川崎病」発見で第1回小児科学会賞受賞)「医療は優しく、医学は厳しく」(「読売新聞」2006年3月23日朝刊「顔」。氏の座右銘で、患者には優しく接し、個々の症例は徹底的に吟味する意)。二木コメント-これは、アルフレッド・マーシャル「冷静な思考力を持ち、しかし温かい心をも兼ね備えた(cool heads but warm hearts)」(「ニューズレター」5号)や、アラン・ブラインダー「ハードヘッド&ソフトハート」(佐和隆光訳の同名書,TBSブリタニカ,1988)にも通じる至言と思います。ブラインダーは、アメリカの民主党のソフトハート&ソフトヘッドの政策と、共和党(レーガノミックス)のソフトヘッド&ハードハートの政策の両方を乗り越えるために、「経済効率性を尊重する『ハードヘッド』な頭脳と、経済社会の敗者に対する『ソフトハート』な気配りを両立させる魅力的な経済政策の哲学」を提唱しました(4頁)。私の経験では、福祉研究者には、「現場に優しく、研究にも優しく」(ブラインダー流に言えば、ソフトハート&ソフトヘッド)の方が多いと思います。
- 深澤美津子(フリーアナウンサー。ラジオ日本「とっておきの話」インタビュアー)「相手がちらっと言ったことでも、ああ、あの仕事のことを言っているんだなと分からないと言葉を返せない。準備は随分しました」、「ありきたりのことを聞いても、答えてはくださいますが、ああまたかという感じになる。オリジナルな質問ができると、やっぱり目の光が変わるんです。興味を持ってくださる。そうすると、相手との空気が通ったなという感じになります」(「朝日新聞」2006年3月22日朝刊「ラジオアングル」、聞き手・山家誠一)。二木コメント-これは、インタビュー(ヒアリング)調査の極意と思います。
- 西尾漠(原子力資料情報室共同代表。『新版 原発を考える50話』著者)「そもそも、電力会社など、原子力に責任のある立場の人は、もはや原発推進なんて言っていません」(普段のニュースを見聞きする限り、そんなふうには見えないが、との聞き手の疑問に答えて)「記者会見なんかで言っているのは建前。業界紙や、政府の委員会、内輪の会議などをチェックしていると、はっきり分かります」(「朝日新聞」2006年3月19日朝刊「著者に会いたい」)。二木コメント-医療政策の分析と将来予測でも、同じ手法で、厚生労働省や各種団体の建前と本音を峻別することが不可欠です。この点について詳しくは、拙論「医療政策の将来予測の視点と方法」(『月刊/保険診療』2004年9月号38-42頁)参照。
- フランツ・ファノン(1960年代~1970年代の植民地解放闘争の理論的支柱)「無知というのは、知識がないことじゃない。(中略)無知とは、疑問を発せられない状態を指す」(森達也・森巣博『ご臨終メディア』集英社新書,2005,40頁より重引)。
- ※早石修氏(生化学者)の「私の履歴書」(「日本経済新聞」2006年3月1日~3月31日朝刊連載、全31回)は、研究(者)とは何かについての示唆に満ちています。
- 早石修「論文を理解するだけでは意味がない。そこに載っていないことに疑問を抱け」(「日本経済新聞」2006年3月21日朝刊)。二木コメント-これは早坂氏が教授を務めた京都大学医学部生化学教室の論文勉強会(ランチセミナー)での指導方針だったそうです。毎日正午から1時間、当番が最新の論文を取り上げ、着想や方針、実験から結論を導く過程について、弁当を食べながら徹底的に討論したそうです。少し次元は違いますが、政府・厚生労働省の公式文書の読み方について講義・講演するときの私の口癖は、「アマチュアは何が書かれているかに注目するが、プロは何が書かれていないか(特に何が削除されたか)にも注目する」です。これは、読書一般についても同じです。養老孟司氏も、以下のように述べています。「『言っていない部分』が著者の本音なんだろうなという読み方は、やっぱりある程度、年をとらないとできないな。若いときは、書かれている内容だけを追ってまじめに理解しようとしがちだ。ネガの部分を読めるかどうかが、本を読む際の大事なポイントだな」(『AERA』2006年1月16日号66頁「本の読み方」)。
- 早石修「物わかりのよすぎる人は実験科学に向かない。常識や定説に反する結果が出ると、何かの間違いだと切り捨ててしまうからだ。『何でや』と疑うことが発見の出発点になる。教科書に載っていないことを調べるのが科学である」(「日本経済新聞」2006年3月26日朝刊。氏の京都大学での最終講義「失敗は成功のもと」で、学生に伝えたかったこと)。二木コメント-これは実験科学に限らず、科学研究一般に当てはまると思います。
- 早石修「教科書に書いてある他人の学説より、自身で確かめた実験事実を信じ、証明したかった」(「日本経済新聞」2006年3月17日朝刊)。二木コメント-私も同じ気持ちで実証研究を行ってきました。ちなみに、私は、かつてある新古典派医療経済学研究者(故人)から、「医療経済学は[新古典派]経済学理論の応用にすぎない」と言われて、唖然としたことがあります。
- 早石修「米国では若いポストドク(博士研究生)が師を転々と変えるのは珍しくない。伯楽は名馬を選ぶというが、馬にも伯楽を選ぶ権利がある。野心ある若手は皆そう思っている」(「日本経済新聞」2006年3月13日朝刊)。二木コメント-これと似た私の好きな名言に、「教わる相手を選別する能力もないと、プロの世界では生きていけない」があります(「日本経済新聞」1996年2月3日夕刊の匿名コラム「鐘」。若き日の野村克也選手評)。
- アーサー・コーンバーグ(生化学者)「美人の娘でも嫁に出すときはきれいな衣装でさらに美しくみせるだろう」(早石修「私の履歴書(15)」2006年3月15日朝刊より重引。学会発表のスライドを分かりやすくかつ魅力的に作るよう指導する時の口癖。具体的には、「1枚に数字をごたごた並べるな。最大で4つまで、それも上下・左右で比較できるようにしろ」、「最大限魅力的なタイトルをつけろ」、「起承転結を明瞭に」)。二木コメント-私も、リハビリテーション医学上の恩師の上田敏先生から、ほとんど同じ指導を受けました。なお、文字スライドは「日本字では横15字、縦8行程度が限度」です( 諏訪邦夫『発表の技法』講談社ブルーバックス,1995,61頁 )。字数がこれ以上多くなる場合には、スライド(パワーポイント)の全原稿を参加者に配るべきです。私自身は、現在は、学会や講演でスライドは用いず、その代わりに参加者に詳細なレジュメを配布しています。
<その他>
- 茨木のり子(詩人。2006年2月19日逝去)「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」(『自分の感受性くらい<新装版>」花伝社,2005(初版1977),16頁)。二木コメント-これは茨木さんの詩「自分の感受性くらい」(1975年)の最後のフレーズで、私は天野祐吉さんの追悼文で初めて知りました(「しんぶん赤旗日曜版」2006年3月12日「茨木のり子さんをしのぶ」)。それによると、天野さんが、「これを読んだとき、ぼくは自分の頭をぶんなぐられたような気がしました」と茨木さんにいったら、「とんでもない、私は暴力は嫌いです。ばかものよって、これは、自分にいっているんですよ」と、茨木さんは笑っていたそうです。
- 丸山昌宏(毎日新聞政治部編集委員)「自民党幹事長時代の小沢[一郎]氏のモットーを思い出す。『来るものは拒まず、去るものは追わず』。いかにも合理主義者・小沢氏らしい考えだが、権力を握れば握るほど、そばに来るものは限られ、情報も耳に心地よいものばかりになる。いやな情報も積極的に聞くように強く意識しなければ、足をすくわれかねない」(「変化を選ばせた危機感」「毎日新聞」2006年4月8日朝刊)。二木コメント-実は私も長年「来る者拒まず去る者追わず(ベタベタした付き合いはしない)」を信条の1つにしており、しかも最近は「中間管理職」を務めていますので、この指摘にはドキッとしました。これを読んで、佐高信『逆名利君』(岩波現代文庫,2004,原著1989)の「まえがき」で紹介されていた、伊藤正住友商事会長(当時)の次の言葉を思い出しました。「部下から忠言を受けたら、きちんと傾聴しなければいけない…。/大体、下の者が上の者に『あなた、まちがってますよ』と面白半分で言えるものじゃないんです。それだけに、言われたら、上の者はありがたいと思って耳を傾けなければいけないんですよ」。
<祝・WBC世界一>
- 王貞治(WBC初代世界一の日本チーム監督)「どちらかと言うと、彼[イチロー]は個人主義的と見られていた。WBCに参加して彼の熱いものが日本の人たちにも伝わったでしょう」(「朝日新聞」2006年3月22日朝刊)。
- イチロー「他人の行動で自分の行動が変わることはない」、「[リーダーの役割も]必要なことかもしれない。発言することではなく、自分がやることで何かを示したい」(「東京新聞」2006年1月24日朝刊)。
- イチロー「変わったのではなく、表現するようになっただけだ」(WBCの試合で、イチローが喜怒哀楽をあからさまに表現する姿に、日本人は驚いた。石田雄太「イチロー 日の丸に恋した男」『文藝春秋』2006年5月号,178頁より重引)。
- 松坂大輔(WBC初代MVP)「(大リーグ関係者に)アピールしようと言う気持ちはなかった。普通にやれば見ている人は見ていてくれる」(「毎日新聞」2006年3月22日朝刊)。