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『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻57号)』(転載)

二木立

発行日2009年05月01日

出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。

本「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/)。


目次


お知らせ:拙著『医療改革と財源選択』を6月初旬に出版します

拙著『医療改革と財源選択』を勁草書房から、6月初旬に出版します(予価2300円)。これは、2007年10月から本年4月までの約1年半に発表した主要論文をまとめたもので、章立ては以下の通りです。本「ニューズレター」次号(58号)に、詳細目次と「はしがき」と「あとがき」を掲載します。


1.論文:医師数と医療費の関係を歴史的・実証的に考える

(『月刊/保険診療』2009年4月号(69巻4号):48-55頁。『文化連情報』2009年月5月号(374号):18-26頁に転載)。

はじめに

2008年は、1982年以来四半世紀も続けられてきた医師数抑制政策が公式に見直される画期的な年になりました。6月に閣議決定された「骨太の方針2008」は、医師不足を公式に認め、「これまでの閣議決定に代わる新しい医師養成の在り方を確立する」としました。これを受けて医学部の入学定員増が急ピッチで進められ、2009年度の入学定員は過去最高の8486人になりました。さらに、厚生労働省「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化に関する検討会は、同年8月、「将来的には50%程度医師養成数を増加させるべき」と明記した「中間とりまとめ」を発表しました。

日本医師会を含めた医療団体や、マスメディア、国民世論はこの政策転換を肯定的に受け止めています。しかし、やや意外なことに、医師の間では、医師数増加に対する反対・慎重論が根強くみられます。たとえば、「日経メディカルオンライン」が本年1月に現役医師・医学生を対象にして行った医師数増員に対する大規模なアンケート調査(現役医師1925人、医学生281人が回答)では、反対が現役医師では37.6%(賛成47.6%)、医学生では44.1%(賛成41.6%)もありました(1)。私自身も、ある高名で見識のある医師から、「医師数抑制政策は、医師数増加が医療費を増加させるとの認識に基づいて実施されたので、医療費抑制策が続けられたままの医師数増加策への転換は信用できない」と言われ、驚いたことがあります。

そこで、本稿では、医師数と医療費の関係について、1980年代前半に医師数抑制政策が開始された時点でなされた主張の妥当性を検証するとともに、この関係について1990年代以降の医療経済学の実証研究で明らかにされていることを示します。

1 医師数抑制政策の原点は「医療費亡国論」ではない

その前に、1980年代前半に開始された医師数抑制政策の主導者についての誤解を指摘します。最近、臨床医の側から、医師数抑制政策と医療費抑制政策を厳しく批判する本が次々に出版されていますが、それらは、共通して、吉村仁保険局長(当時)が1983年に主張した「医療費亡国論」が「すべて」・「原点」等と主張しています(2-4)。吉村氏が提起した「医療費亡国論」や「医療費需給過剰論」(医師・病床数過剰論)が、ネーミングの巧みさもあり、当時、医療界に大きなインパクトを与えたことは事実です(5)。しかし、この主張は、特に医師数抑制政策に関して、次の2つの事実を見落としています。

医師数抑制政策を提起したのは臨時行政調査会

第1は、医師数抑制を最初に提起したのは厚生省ではなく、当時、超法規的強権を発揮していた臨時行政調査会だったことです。具体的には、臨時行政調査会が1982年7月にまとめた「行政改革に関する第3次答申-基本答申-」の中で、「社会保障」の「医療費適正化と医療保険制度の合理化等」の項の「医療供給の合理化」の2番目に「医療従事者について、将来の需給バランスを見通しつつ、適切な養成に努める。特に、医師については過剰を招かないよう合理的な医師養成計画を樹立する」と提言したのです。

これを受けて、政府は同年9月の閣議で医師・歯科医師の養成計画について検討することを決定し、医師抑制策が政府決定となりました。そして、厚生省は、この閣議決定に従って、1984年5月に「将来の医師需給に関する検討委員会」を設置したのです。このような事実は、この委員会の「中間意見」冒頭の「委員会の設置経緯」にも明記されています(6:1頁)。

つまり、医師数抑制政策は、臨時行政調査会主導で、医療費抑制の一環として打ち出されたのであり、吉村氏や厚生省は、医療費抑制政策・医師数抑制政策の主導者ではなく、政府決定の具体化を図った「番頭」にすぎないのです。この点については、日野秀逸氏も、「吉村論文が医師過剰論の牽引車ではない」と明言しています(7)。

日本医師会は医師養成数の大幅削減を主張

第2は、当時、日本医師会が医師養成数の大幅削減を主張していたことです。具体的には、上記「将来の医師需給に関する検討委員会」設置前の1983年7月に、日本医師会医業経営検討委員会は「第二次報告-医師急増問題について」を発表し、医師数は「国際比較からみてもすでに欧米諸国の水準に並び得た」との認識に基づいて、「適正な医師数の実現のための具体策」として、なんと「医学部の1学年定員は5,400人[当時の入学定員8360人の34.7%減!?-二木]にする必要がある」と提案したのです(8)。

さらに、小倉秀夫弁護士が国会議員の当時の医師過剰論を克明にフォローしたブログによると、日本医師会の意向を受けたと思われる医系議員は、上記臨時行政調査会「基本答申」が出される前の1977~1982年に、早くも医師過剰論とそれによる医療費高騰論を主張していました(9)。例えば、坂口力議員(小泉政権時代の最初の厚生労働大臣)は、1980年2月18日に、「医師の数の増加というのが、これが医療費を高騰させる大きな原因になっております」と発言しました。

ただし、意外なことに、当時、厚生大臣は、それに対して「理論的にはおっしゃる点がないとは言いませんけれども、現実的には、それだからといって医療費がそんなに増えるものではない、私は、私の勘でございますけれども、そう思っております」と、軽く否定していました(1981年10月16日)。この発言を含めて、厚生省と文部省は、臨時行政調査会「基本答申」(1982年)が出された後も、1984年までは、冷静な答弁を行い、医師過剰論には与していませんでした。

以上から明らかなように、医師数抑制政策の主導者は、吉村仁氏や厚生省ではなく、臨時行政調査会と日本医師会だったのです。なお、当時、日本医師会だけでなくほとんどの医療団体が医師数抑制政策に賛成しましたが、民医連(全日本民主医療機関連合会)だけはそれに正面から反対しました。しかもその際、医療費抑制を目指す臨時行政調査会だけでなく、「いち早く、開業経営基盤の危機とばかり、それ[医師過剰論]に乗じた主張を始めた」日本医師会も批判しました(10)。

2 委員会が主張した医師数と医療費の関係

次に、「将来の医師需給に関する検討委員会」(以下、委員会と略す)の報告書中の、医師数と医療費との関係についての記述を検討します。

1984年5月に発足した委員会は、同年11月に「中間意見」を、1986年7月に「最終意見」を発表し、「昭和70年(1995年)を目途として医師の新規参入を最小限10%削減すること」を提案・再提案しました(6,11)。なお、日本医師会は、それに対して、医師養成数の大幅抑制が必要との立場から、「より積極的削減で合意できなかったことは遺憾だ」とする見解(不満)を発表しました(『日本医事新報』3244号:90頁,1986)。

医師数と医療費の関係について、「中間意見」は、「国民経済の視点から見た問題点」の項で、ストレートにこう主張しました。「医師の増加が医療需要を産み出すという傾向も否めない。例えば、日本医師会の医業経営検討委員会資料によれば、医師数の増加に伴う医療費の増蒿を、病院勤務医1人当たり年8,000万円、開業医1人当たり年6,000万円程度としている。このような点をみると、医師数を必要にして十分な数としていくことが、財政上負担しうる医療費に限度があることを考えても必要と思われる」(6:7頁)。このように「中間意見」が日本医師会の主張と資料をそのまま引用していることからも、委員会での検討が日本医師会主導で進められたことが分かります。

「中間意見」発表後、委員会では、医療経済からの検討が中心とされました。その結果、「最終意見」の「医療経済と医師数」の項では、新たに「国民医療費の対GDP比をこれまで以上に増加させることが出来ないとした場合に、医師数の増加は医師所得を低下させる」という視点が加えられ、上記主張と合わせて「2つの視点」とされました(11:27頁)。ただし、こちらが第1の視点とされ、「中間意見」で出された上記主張は、「医師数の増加は医療供給の増大を招き、その結果、国民医療費の対GNP比をこれまで以上に増加させる」と整理され、第2の視点とされました。論理的に考えると、これら2つの視点は明らかに矛盾しますが、その点については検討されず、並置されました。

平均医療費と限界医療費を混同

次に、これら2つの視点を医療経済学的に検討します。最初に「中間意見」で出された、医師数の増加が医療需要を産み出し、医療費を増加させるという主張は、直感的には分かりやすいのですが、後述するように、その後の医療経済学的実証研究でほぼ完全に否定されています。

それ以前の問題として、医師数の増加に伴い「病院勤務医1人当たり年8,000万円、開業医1人当たり年6,000万円」医療費が増加するという試算は、国民医療費中の病院医療費・診療所医療費をそれぞれ病院勤務医数・開業医数で除して算出した、医師1人当たりの「平均医療費」にすぎず、医師数が1人増えることにより「追加的」に生ずる医療費増加(「限界医療費」)とはまったく別物です。他の条件が同じ場合、医師数増加による「限界医療費」は徐々に低下する(収穫逓減する)可能性が大きいことを考えると、単純な算術計算としてもこれは過大推計・誤りです。

また、純理論的に言えば、医師数の増加が自動的に医療費を増やすという主張は、経済学では完全に否定されている、供給があれば直ちに需要がそれに適応するという「セイの法則」の医療版と言えます。

委員会のメンバーには(医療)経済学者が含まれていなかっために、このような初歩的誤りが生まれたのだと思います。

「最終意見」の推計は私の研究の無断引用

次に、「最終意見」で新たに加えられた視点「国民医療費の対GDP比をこれまで以上に増加させることが出来ないとした場合に、医師数の増加は医師所得を低下させる」という視点について検討します。「最終意見」では、この視点に基づいて、「国民医療費に占める医師の所得の総額は全体のほぼ20%程度と思われるので、一応これを前提として」、医師の相対所得(一般勤労者の所得に対する比率)の将来推計を行い、新規参入医師数を削減しなかった場合、医師の相対所得は2020年以降は1974年の8割の水準に低下するとしました。1980年代以降、厳しい医療費抑制策が実施され、国民医療費の対GDP比がほとんど増加しなかったため、この推計が現実化していると思います。

ただし、この推計は私の研究の無断引用です。私は、1981に発表した論文「医師の所得」で、2つの異なる推計方法を用いて、「医師所得の対国民医療費比率の推移」(1963~1977年)を推計し、この比率が約2割で安定しているという経験則を発見しました(12)。さらに、1983年に発表した論文「医師給与の将来像」で、この経験則に基づいて、2005年までの「医師所得水準の将来推計」を行い、医師1人当たり所得(対国民所得比)が、2005年には1980年水準の75%にまで低下すると推計しました(13)。「最終意見」では、医師の相対所得を「一般勤労者の所得に対する比率」に変えていますが、それ以外は私の推計方法と同じです。なお、私は、1990年に、1989年までのデータを用いて、医師所得の国民医療費に対する割合を再推計しましたが、やはり2割で安定していました(14)。

3 医師数と医療費の関係についての実証研究

次に、医師数(増加)と医療費(増加)との関係をマクロ経済学的に検討した海外の医療経済学の実証研究を紹介します。それらは3種類あるのですが、いずれでも、医師数増加が医療費増加を招くという委員会の主張は否定されています。日本でも、最近は、後述する医師誘発需要仮説の検証を目的にして、医師数と医療費の関係のミクロ経済学的実証研究が行われるようになっていますが、その結論は一定せず、しかもマクロ経済学的(国レベルでの)検討はまだ行われていません(15)。

1994年の私の報告

その前に、私が15年前に行った研究報告の一節を紹介します。「医師数増加それ自体が医療費を増加させるという主張は、日本の一部でのみ語られる直感的俗説である。経済学の枠組みで考えると、それは(1)すでに否定された「セイの法則」(供給があれば直ちに需要がそれに適応する)の医療版、(2)平均値と限界値の混同、(3)「合成の誤謬」(サムエルソン)と言える。医療費増加要因の(実証・理論)研究で、それに触れたものは存在しない(?)。しかも、医師数が急増したにもかかわらず、医療費水準は凍結された1980年代の日本の現実がそれの『反証』となっている。医師数と医療費との間には、医療政策と医師の就業形態の変化が介在する」。

これは、1994年4月に、文部省医学教育問題懇談会ワーキンググループで行った報告「医療費増加要因と医師数増加」の冒頭で述べたことです。その1年前にアメリカUCLAに留学し、医療経済学の勉強と研究を行って帰国して間がなかった私にとって、これは学問的には自明のことでしたし、研究会でも特に反論はなかったため、この報告を論文化するのを怠ってしまいました。ワーキンググループの報告書にも私の報告は収録されていないそうです。

この認識は、現在でも大枠で変わっていません。しかし、「医療費増加要因の(実証・理論)研究で、それに触れたものは存在しない(?)」という指摘は、昨年末に行った文献検索で、以下のように修正する必要があると気づきました。「医師数(増加)と医療費(増加)の関係をマクロ経済学的に検討した報告は3種類あるが、いずれでも医師数増加による医療費増加は否定されている」。以下、3種類の研究を、発表順に紹介します。

ニューハウスの医療費増加要因研究

最初の実証研究は、ニューハウス(アメリカを代表する医療経済学者)が1992~1993年に行った、アメリカの医療費増加要因についての包括的実証研究です(16,17)。なお、兪炳匡『「改革」のための医療経済学』第4章「医療費高騰の犯人探し」では、この研究が詳細かつ分かりやすく紹介されています(18)。

ニューハウスは、1929~1990年のアメリカの総医療費(1人当たり実質医療費)の増加要因として、人口高齢化、医療保険の普及、国民所得の増加、供給者誘発需要(医師数増加)、サービス産業と他産業との要素生産性上昇率の格差を選び、それらの医療費増加寄与率を推計して、それらが医療費増加の主因ではないことを示した後、これらの要因では説明できない医療費増加の「残余」の大半が技術進歩で説明できると指摘し、技術進歩の医療費増加寄与率が50%弱であると見なしました。

医師数増加と医療費増加との関係について、ニューハウスは、1930~1990年の人口当たり医師数増加率と1人当たり実質医療費増加率を10年刻みで比較し、すべての期間で、医師数増加率が医療費増加率を大幅に下回り、しかも両者の間には何の相関もないことを理由にして、「医師数増加は医療費増加のほんのわずかの部分を説明できるに過ぎない」と結論づけました。なお、ニューハウスは、医師数増加による医療費増加と「供給者誘発需要(医師誘発需要)」を同一視していますが、この問題点は後述します。

医療費増加要因の研究は以前から行われてきましたが、増加要因を包括的に検討し、しかも医師数増加を明示的に組み込んだ研究は、これが初めてだと思います。なお、最近、オクネイド等は、医療技術進歩が医療費(1人当たり実質医療費)増加の主因とする「ニューハウス仮説」を精緻な回帰分析で追試していますが、ニューハウスの研究により医師数増加は医療費増加にほとんど影響しないことが確認されているため、医師数は最初から説明変数に加えられませんでした(19)。

イエットタム等の医療費水準の決定要因研究

第2の実証研究は、OECDの医療費データ(横断面データ・時系列データ)を用いた医療費水準の国際比較研究(各国の1人当たり実質医療費の違いの原因を明らかにするための、多数の説明変数を用いた回帰分析)のうち、説明変数に人口当たり医師数を用いている研究です。

この分野の研究の第一人者であるイエットタム(スウェーデンの医療経済学者)等によると、やや意外なことに、この種の研究は、イエットタム等が行った2つしかなく、しかもどちらの研究でも、人口当たり医師数の医療費水準に対する係数はマイナスである(ただし有意ではない)、つまり医師数の多い国ほど医療費水準が低い傾向があるという「予期せぬ結果」が得られているのです(20,21)。

特に決定的だと思われるのは、OECD加盟22か国の20年に及ぶ時系列・横断面データを用いて15の重回帰分析を行った1998年の研究です。そのうち、医師数を説明変数に含む6つの重回帰分析のいずれでも、医師数の医療費水準に対する係数がマイナス(ただし、有意ではない)という結果が得られています(20)。この結果について、イエットタムは、医療費に対しては医師数よりも、医師に対する診療報酬の支払い方式(出来高払いであるか否か等)の影響の方が大きいと解釈しており、私もそれが妥当だと思います。

経済成長が医師数を規定するとの研究

第3の実証研究は、クーパー、ゲッツェン等(アメリカの医療経済学者)が2003年に発表した「経済成長は医師の供給・利用の主要な決定要因である」です(23)。この論文名からも明らかなように、この研究は、医師数増加が医療費増加の要因と仮定する従来の研究とは視点を逆転させて、経済成長が医師数増加を規定するとの仮説を立て、それをアメリカ国内全州の1929-2000年の時系列データ、OECD加盟国の時系列データと横断面データ(1960-1995年)等を用いた4つの相関分析・回帰分析等で検証したものです。
この研究の特に優れている点は、横断面分析や一般的な時系列分析を行うだけでなく、1人当たり実質GDP(または国民所得)が一定年限を経た後の人口当たり医師数を規定するという仮説も立て、それを時系列分析で検証したことです。それにより、いずれの分析でも、1人当たりGDPと人口当たり医師数との相関が高いこと、および1人当たりGDPが一定の年限(10年)を経た後の医師数と強い相関のあることが実証されました。著者は、この結果は経済成長の将来見通しが、将来の医師サービス利用の推計のための「計器」となることを示唆していると主張しており、説得力があります。
この論文の中に注目すべき日本とイギリスのデータがあります。それは、OECD加盟国ごとに、1960~1997年の各年の1人当たりGDPと人口当たり医師数を結んだ曲線を描くと、すべての国で1人当たりGDPが大きくなるほど人口当たり医師数も多くなるのですが、日本とイギリスの曲線がもっとも下方に位置し、しかも1人当たりGDPが高くなるとともに、他のOECD加盟国との差が拡大していることです(図。略)。
このことは、他のOECD諸国と異なり、日本とイギリスでは、経済成長に対応した医師数増加政策がとられなかったことを如実に示しています。ただし、1997年にイギリスで成立したブレア政権は、サッチャー政権時代の医療費・医師数抑制政策から医療費・医師数増加政策へと大転換を行いました。
以上3種類のまったく異なる方法の実証研究により、医師数増加が医療費増加をもたらすという委員会の主張は、マクロ経済学的にほぼ完全に否定されたと言えます。

4 医師誘発需要論についての2つの誤解

最後に、医師誘発需要論についての誤解を簡単に指摘します。日本では、医師誘発需要とは、医師が患者の利益に反した過剰・無駄な医療を行うことであると否定的に理解されることが多く、しかもかつては、医師数が過剰になると過剰診療が促進されるという懸念も持たれていました。例えば、『昭和60年版厚生白書』(62~64頁)は、「将来の医師需給に関する検討委員会中間意見」を詳細に紹介した後、「医師の増加が医療需要を生み出すという傾向も否定しきれず、医療費の不必要な増大を招きかねない」と述べていました。ちなみに、「医療費の不必要な増大を招きかねない」という表現は、「中間意見」には書かれておらず、厚生省の密輸入です。

最近でも、兪炳匡氏は先述した著書で、「医師誘発需要とは、患者の利益よりも医師の利益を優先して、必要性の低い医療を提供することで需要を誘発し、その結果医療費高騰に寄与すること」と定義しています(18:165頁)。その上で、近年の精密な分析手法を用いた研究により、医師数が増加しても医療受診率の上昇がごくわずかかほぼゼロであることが確認されたこと、および上述したニューハウスの研究結果を根拠にして、医師誘発需要が現在では否定されていると主張しています。前述したマクロ医療経済学の実証研究でも、医師数増加による医療費増加は否定されているため、私も、この意味に限定した医師誘発需要は否定されていると思います。

医師誘発需要は無駄な医療とは限らない

しかし、これらの主張には、医師誘発需要論について2つの誤解があります。先ず第1に、医師誘発需要の元々の意味は、一般の財やサービスの需要は消費者が供給者から独立して決定する(「消費者主権」)のと異なり、医療については、医師と患者との間に「情報の非対称性」があり、医師が医療の必要性を判断するため、患者(消費者)だけでなく医師も医療需要を誘発できる(する)ということです。このように、医師誘発需要は価値判断を伴わない中立的概念であり、「必要性が低い医療を提供する」等の否定的意味合いは元々はありません。

なぜなら、医療には不確実性があるため、必要な(適切な)医療と不必要な(不適切な)医療に簡単には二分できず、その中間に「状況によっては適切」な医療(池上直己氏)が広く存在し、しかもその範囲は患者によって変わるため、医師が誘発した医療が即、「必要性が低い」、無駄・過剰とは言えないからです(23)。逆に、医師が「状況によっては適切」な医療の枠内で需要を誘発することにより、患者負担の増加等による医療需要の過度の抑制を是正することもありえます。もちろん、医師誘発需要の中には、過剰・無駄な医療も存在しますが、それと必要な医療、「状況によっては適切」な医療を、数値データのみで区別することはできません。

医師誘発需要論は否定されていないが限界がある

第2の誤解は、医師数増加による医療受診・医療費の増加が否定されたことをもって、医師誘発需要論一般が否定されたとは言えないことです。なぜなら、医師誘発需要の検証方法には、この方法以外に、医師に対する診療報酬の支払方式の違い・変化による、医療サービス量の差・変化の有無を検証する方法もあるからです。そして、この方法を用いた実証研究では、例えば出来高払い方式では、包括払い方式に比べて、医療サービス量が多いことが、厳密な比較対照試験や自然実験(支払い方式の変化等)により、疑問の余地なく確認されています。

医療経済学のもっとも権威ある教科書である『医療経済学ハンドブック』の医師誘発需要の項でも、この意味での「医師誘発需要を支持する膨大な研究がある」と認めています(24:518頁)。医師誘発需要論は「消費者主権」という新古典派経済学の根本原理を否定するために、アメリカの新古典派医療経済学者にはそれを毛嫌いするする方が少なくありません。それにもかかわらず、新古典派の立場に立つアメリカの医療経済学教科書でも、医師誘発需要の存在を正面から否定したものはなく、多くが肯定論と否定論の「両論併記」です。例えば、最も純粋な新古典派医療経済学者であるフェルプスの『医療経済学』では、医師誘発需要論の賛否両論を併記した上で、それが「広範な支持を受けており、一部の人々だけがそれが存在しないと信じている」と書いています(25:241頁)。

フュックス(アメリカを代表する医療経済学者)が、1996年のアメリカ経済学会会長講演で示した小規模アンケート調査によると、アメリカの医療経済学者の68%が医師誘発需要の存在を支持しており、この割合は臨床医の67%と同水準でした(26)。2005年に全米の医療経済学者(有効回答359人)を対象に行われた大規模調査でも、医師誘発需要への同意は55%で、否認の29%の2倍に達していました(27)。

ただし、医師誘発需要は無制約ではなく、医療技術や医療サービスの特性や、政府の医療費抑制政策により大きな制約を受けます。特に、1980年代以降厳しい医療費抑制政策が続けられ、しかも包括払い方式の範囲が広がりつつある日本では、医師誘発需要がごく限定的になっていることは確実です。1990年代以降、医療費のいわゆる自然増(診療報酬改定や人口高齢化等による影響を除いた医療費増加)が極めて小さいか、年によってはマイナスになっているのはそのためと言えます。

おわりに

以上の検討から、1980年代前半に医師数抑制政策が開始された根拠の一つとされた、医師数増加が医療費増加を招くという主張が、まったく「根拠に基づく」ことのなかったことを明らかにできたと思います。他面、医師所得の医療費水準に対する割合は2割で一定であるという経験則はその後も続いているため、今後、医療費水準が固定されたままで、医師数が大幅に増加した場合には、1990年代以降生じている医師の所得水準(相対所得)の低下が加速することが懸念されます。

そのために、私は、医師数増加と合わせて、医療費抑制政策を見直し、公的医療費の総枠を拡大することが不可欠であると考えます。この点で、日本医師会が最近、「国が医師数増加に転じたことを評価するが、医師数の増加は、財源の確保を絶対の前提条件として進めるべきである」と主張しているのは、妥当であると言えます(28:25頁)。それとは逆に、一部の医師にみられる、公的医療費増加のための努力を放棄して、医師数増加に頑なに反対する傍観者的態度は不適切であり、国民の理解も得られないと思います。

文献

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2..最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文

(通算44回.2009年分その1:8論文・特集)

○特集:疾病管理[プログラム](Disease Management. Health Care Financing Review 30(1):1-91,2008(実際の発行は2009))[雑誌の特集]

アメリカでは、疾病管理(DM)プログラムが医療の質をあげつつ費用を抑制することを売り物にして、民間医療保険や従業員にそれを提供する企業によって広く用いられるようになっています。DMプログラムは公的部門(メディケア、メディケイド)でも関心を集め、いくつかのモデル事業が始められています。本特集にはそれに関する6論文が掲載されており、そのうち3論文はモデル事業の費用効果分析の「中間総括」です(検証期間はそれぞれ、2年、1年半、6か月。いずれも出来高払い方式)。3論文の対象の選択基準や対象疾患の細部は異なりますが、いずれも主な対象疾患は糖尿病と心疾患・冠動脈疾患です。研究法に関しては、いずれもランダム化比較対照試験であり、しかも費用に医療費だけでなく介入費用を含んでいます。結果で注目すべきことは、3論文とも、健康アウトカム面でも費用節減面でも、当初期待された効果を示せていないことです。この結果に基づいて、巻頭論文(by Kapp MC)では、「医療保険購入者と政策担当者はDMプログラムの潜在的効果に懐疑的であらねばならない」と警告しています。モデル事業の費用効果分析を行った3論文は以下の通りで、DMプログラム研究者の必読文献と思います。

○[アメリカ]インディアナ州慢性疾患管理プログラムのメディケイド医療費に対する影響-州全体の縦断的評価
(Katz BP, et al: The Indiana chronic disease management program's impact on Medicaid claims - A longitudinal, statewide evaluation. Medical Care 47(2):154-160,2009)[量的研究]

アメリカ・インディアナ州の3地域(北部・中部・南部)で、段階的に導入された慢性疾患管理プログラムの医療費抑制効果を検証した。対象は、メディケイド(医療扶助)を受給している糖尿病患者とうっ血性心不全患者44,218人であり、プログラム開始前後3.5年間のデータを用いた。プログラム数は合計6である(3地域×2疾患)。メディケイド受給者1人当たり年間医療費の伸び率をプログラム開始前後で比較したところ、6プログラムとも開始後伸び率が低下していた(5プログラムで有意の低下)。しかも伸び率の低下は、プログラム開始後1年目だけでなく、2年目も続いていた。

二木コメント-この結果は、一見、上述したHealth Care Financing Review誌の特集の3論文の結果と逆です。しかし、本研究は、3論文と異なり、ランダム化比較対照試験ではなく、しかも疾病管理プログラムの費用(介入費用)が示されておらず、医療費に介入費用を加えた総費用の伸び率が低下したか否かは不明です。そのために、本研究によって疾病管理プログラムの費用節減効果が証明されたとは言えません。

○特集:保健医療分野のITの促進(Stimulating Health IT. Health Affairs 28(2):320-516,2009)[雑誌の特集]

アメリカのオバマ新大統領は、医療改革および経済成長の重要な柱として保健医療分野のIT化の促進を打ち出しており、本特集もそれに呼応したものかも知れません。「電子カルテ」、「医療の個人情報」、「電子処方」、「プライバシー」、「保健医療分野のITシステム」、「州政府」を柱とする、23論文(特集の序文、コメント論文を含む。全197頁)が掲載されており、アメリカの保健医療分野のIT化の現状(光と影)と最新の政策動向を鳥瞰できます。

医療分野へのIT化の最先進例は、ハワイのカイザー財団(the Kaiser Permanante)のようで、包括的なIT化により、2004~2007年の4年間に外来患者数の25%削減等の効率化を達成できたと報告しています(Chen C, et al: pp.323-333)。ただし、この論文はシステムの導入費用を含んだ総費用の変化については述べていません。この論文を含めて、どの論文もIT化による費用(医療費・総費用)削減効果には言及していません。オバマ大統領は選挙期間中に発表した「医療制度改革案」で、保健医療分野の情報技術投資により「長期的には総医療費を削減できる」と主張しましたが、この特集は、現時点では、それが「根拠に基づく」ことのない願望であることを示していると言えるかも知れません。

論文の大半はアメリカのみを対象にしていますが、病院における医師の電子的オーダリング・システム実施状況の国際比較研究(7か国:アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、スイス、オーストラリア)も掲載されています(Aarts J, et al: Implementation of computerized physician order entry in seven countries, pp.404-414)。オーダリング・システム導入率は概してまだ低く、もっとも高いオランダでも20%です(第2位はアメリカで15%)。

○医療情報技術の費用と便益:文献からの新しいトレンド(Goldzweig CL, et al: Costs and benefits of health information technology: New trends from the literature. Health Affairs 28(2):w282-293,2009[ウェブ版])[文献レビュー]

医療情報技術(IT)の研究で、何が新しく明らかにされているのか知るために、2004~2007年に発表された文献レビューを行った。臨床分野のITの効果を検討した179の英語論文を選んだ。その結果、この間、患者中心のIT化が進んだことが確認されたが、それのフォーマルな評価はほとんど行われていなかった。IT化の費用分析、費用効果分析を行った研究もほとんどなかった。電子カルテによる費用削減効果を支持する実証研究は少しはあったが、その結果を一般化するには無理があった。最後に著者は、「現実のIT導入の費用効果分析の意味あるデータの欠乏(paucity)が続いている」と指摘している。

二木コメント-本論文は、同じ研究グループが2006年に発表した、次のレビュー論文(対象は1995~2005年発表論文)の続編です。Chaudhry B, et al: Systematic review: Impact of health information technology on quality, efficiency, and costs of medical care. Annanls of Internal Medicine,144(10):742-752,2006. この時点では、IT化の厳密な費用効果分析を行った論文はまったくなかったとのことです。

○どこに革命があるのか?インターネット時代のデジタル技術と医療(Miller EA, et al: Where's the revolution? Digital technology and health care in the Internet age. Journal of Health Politics, Policy and Law 34(2):261-284,2009)[量的研究]

インターネット利用が増加しているにもかかわらず、どれくらいのアメリカ人がそれを医療関連の目的で利用しているか、および医療におけるインターネット利用の促進が伝統的な対面式の医療受診にどのくらい影響しているかは明らかではない。そこで、この点を全米の18歳以上の成人をランダムに抽出して行った電話調査により検証した(有効回答数1428)。

その結果、インターネットを用いて、医療情報を得たり、医薬品等の購入を行ったり、医師等とコミュニケーションをとっているのはごく一部の人々に限られていることが分かった(それぞれ31.1%、7.5%、4.6%)。しかも、農村部居住者、低学歴者、低所得者では利用率はさらに低かった。これらの人々の医療分野のインターネット利用を促進する政策をとらない限り、インターネット革命の恩恵は国民のうち恵まれた特定階層に限定されたままであろう。

二木コメント-この調査結果は、最近日本でも注目されている健康と医療の不平等が、医療のインターネット利用にも存在することを示しています。

○需要側主導の医療と病院選択.オランダの需要側主導を目指した医療政策:病院[附属診療所]選択についての調査結果 (Lako CJ, et al: Demand-driven care and hospital choice. Dutch health policy toward demand-driven care: Results from a survey into hospital choice. Health Care and Analysis 17(1):20-35,2009.[量的研究]

オランダの現在の医療政策では需要側主導の医療が強調されている。このモデルの中心にあるのは、医療の質とアウトカムについての情報を患者に十分に知らせ、患者がそれに基づいて受診する医療機関を選択することを奨励することである。オランダの新しい医療改革の成否はこれが妥当するか否かにかかっている。

この前提の妥当性を検証するために、2005年7月に、ある地区の病院附属診療所を受診した患者409人を対象にして、その診療所を受診した理由についての自記式アンケート調査を行った(有効回答384人。有効回答率94%)。その結果、69%の患者はプライマリケア医の紹介で受診しており、14%が病院の評判を聞いて受診していた。それに対して、医療の質とアウトカムについての情報を調べてからこの診療所を選んだ患者は17%にすぎなかった。この結果は、患者が与えられた情報に基づいて医療機関を選ぶという需要側主導モデルが現実には妥当せず、患者の医師への信頼を考慮したもっと適切なモデルが必要なことを示している。

二木コメント-標本数がやや少なく、分析手法もクロス集計だけですが、それだけに結果は頑健と言えます。本「ニューズレター」55号で紹介した論文「管理された競争と強制加入の皆保険の実験:新しいオランダの医療保険制度」との併読をお薦めします。

○アメリカの受刑者の健康と医療:全国調査の結果(Wilper AP, et al: The health and health care of US prisoners: Results of a national survey. American Journal of Public Health 99(4):666-672,2009)[量的調査]

アメリカの受刑者の慢性疾患(特に精神疾患)有病率と医療へのアクセスを明らかにするために、2002年の地方刑務所受刑者調査と2004年の州・連邦刑務所受刑者調査を統合して分析した。受刑者総数は198.6万人であり、慢性疾患の有病率は41.2%、精神疾患の有病率は24.6%であった。精神疾患を有する受刑者のうち、逮捕前に一度でも医師に薬物療法の処方を受けた経験のある者は74.1%であったが、逮捕時にそれを受けていた者は23.9%にすぎなかった。この結果は、慢性疾患(特に精神疾患)を有する受刑者の大半が、逮捕時に治療を受けていなかったことを示している。(元論文では3種類の刑務所ごとの割合しか示されていないが、実数データからに受刑者総数の割合を計算)

二木コメント-The Economist 4月4日号(40頁)のレポート「[アメリカは]囚人の国(A nation of jailbirds)」には、アメリカの受刑者の6分の1(約17%)は精神疾患を有すると書かれていましたが、実態はそれより約8%ポイントも高いようです。そのレポートによると、精神疾患を有する受刑者数は精神病院入院患者数の4倍と書かれていましたが、この調査結果で「補正」するとなんと6倍になります。日本では、かつてアメリカの精神医療の「脱施設化」が肯定的に紹介されましたが、この調査結果は、それは精神病院から刑務所への患者シフトの面が強かったことを示唆しています。

○[新古典派に代わる]もう一つの医療経済学に向けて(Hodgson GM: Towards an alternative economics of health care. Health Economics, Policy and Law 4(1):99-114,2009)[理論研究]

主観的効用の最大化に基礎を置く(新古典派)経済学は医療提供制度の分析と政策形成には不適であるとされている。本論文では、従来無視されることが多かった医療の重要な特殊性(peculiarities)、特に医療ニーズについて検討する。健康それ自体は普遍的なニーズであるが、医療ニーズは非自発的であり、変動が大きく、特異的である。このことは医療制度の計画にも、市場システムにおける取引費用の範囲にも大きな影響を与える。これらを考慮した、(新古典派に代わる)もう1つの医療経済学が求められている。

二木コメント-著者は意外なことにイギリスのビジネススクールの教授で、イギリスの非新古典派医療経済学の動向を鳥瞰できそうです。なお、"Health Economics, Policy and Law"は2006年に創刊されたばかりの、文字通りの「医療経済・政策学」の国際誌です(松田亮三氏(立命館大学産業社会学部教授)に教えていただきました)。

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3.私の好きな名言・警句の紹介(その53)-最近知った名言・警句

<研究と研究者のあり方>

<組織のマネジメントとリーダーシップのあり方>

<その他>

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