反知性主義あるいはポピュリズム(3)
―反知性としてのポピュリズム―
「理事長のページ」 研究所ニュース No.60掲載分
中川雄一郎
発行日2017年11月30日
「ポピュリズム」という用語を私たちがしばしば耳にするようになったのは、ドナルド・トランプ氏が2016年11月のアメリカ大統領選挙に共和党から立候補する旨を表明した後の共和党内での予備選挙で頭角を現してきた頃からだと私は記憶している。その頃のアメリカの主要メディアも日本の主要メディアも、「不動産実業家」としてその名を知られていたトランプ氏の「予想外の健闘」を「ポピュリズム」あるいは「大衆迎合主義」だと安易に観ていたようであった。かく言う私も、民主党の大統領候補ヒラリィ・クリントン氏との大統領戦は共和党の予備選挙のように行かないだろうと思っていた。日本にいてトランプ氏の政策的発言をテレビや新聞・雑誌で見聞きしている限りでは、最終的にクリントン氏が勝利するだろうと予測せざるを得ない(編注:太文字は圏点)のであった。何しろ彼は、雌雄を争う大統領選であるにもかかわらず、共和党の大統領候補者となっていくのと同じ調子で、ある時は口汚く、またある時は自信たっぷりに、産業的、経済的に疲弊してまった、かつて繁栄した工業地帯の人びとに雇用と経済を取り戻すのだと「アメリカ・ファースト」を呼びかけ、アメリカ(人)の労働者の雇用や職を奪ってしまう移民の制限を公言し、そしてその返す刀で、麻薬や犯罪をバラ撒くメキシコからの不法移民を防ぐために「メキシコとの国境にメキシコの費用で壁を築く」のだとの公約を言い立てているのであるから、日本にいる私にとって「トランプ勝利」は文字通りの「予想外」である、と言わざるを得ないのである。そして以後私は、この単純にして身勝手な「アメリカ・ファースト」こそ彼の「単一の政策志向」、別言すれば、「政策アイデンティティ」であると考えることにした。
そう考えると、先般の来日時にトランプ大統領が大統領専用機で羽田空港や成田空港ではなく、「横田基地」に降り立った意図もよく分かる。彼は、「アメリカ軍の横田基地」に降り立つことで日本がアメリカの従属国であることを日本国民に思い知らせ、安倍首相に「アメリカ・ファーストについて良きに計らうよう」命令したのである。トランプ大統領の行為は日本国民を侮辱して憚らない支配者然の意識だと言うべきである。にもかかわらず、安倍首相は直ちに彼の命令に応えて、巨額に及ぶ兵器・武器をアメリカの軍需産業から購入することを約束したのである。このような安倍首相と安倍政権の「対米従属的政治態度」を私は「敗北の内弁慶」と呼んでいる。
安倍首相の政治は、その意味では、かつて小泉首相がブッシュ大統領にそうしたように、以前はオバマ大統領からの、今はトランプ大統領からの「対米従属的要求」に呼応して動いているのである。文芸評論家の加藤典洋氏(早稲田大学名誉教授)は『朝日新聞』(「オピニオン」2017年10月20日朝刊)で先の衆院選で見えた状況を「対米自立か従属か 真の焦点」と題して次のように指摘した。多少長くなるが、教えられる点がいくつもあるので引用しておこう(一部省略)。
「保守」という考え方は、フランス革命への反動から出てきたもので、理性によって急進的に社会を変革することへの懐疑や、慣習と制度化による漸進的な変化の重要性を説く政治思想でした。大切なのは、そこに、社会全体に共通の目標が前提とされていることです。つまり、保守と革新はその目標に近づく方法をめぐる手法の対立でした。その意味では、安倍政権はもはや保守ではありません。戦後の第一の目標として従来の保守政治が堅持してきた国の独立という大前提、つまり対米自立の目標を、自分の政権維持のため事実上放棄しているからです。
戦後保守政治は、敗戦、占領を経て、独立をどうやって確保するかという問題と常に向き合ってきました。……保守本流と言われる吉田、池田、佐藤(首相)の時代の戦略は、不平等な地位協定を含む日米安保条約の制約のもと、できる限りの自立をめざしつつ、もっぱら経済的繁栄によって国民の自尊心を満足させる「親米・軽武装・経済ナショナリズム」路線でした。その後も、米国の要求を最小限に受け入れる妥協をしながらも、したたかに独自の外交や政治決定権を回復して日本の国益を追求するという政治目標が、保守政権のなかでは共有されてきました。
ところが、少なくとも第2次安倍政権以降は、これまで堅持されてきた、そうした国益保全のための対米自立に向けた努力が全く見られません。沖縄の普天間飛行場の辺野古移設での米国べったりの姿勢、県民への非情さもそうですが、自衛隊の使命感と安全を考えたら、米軍に指揮権を委ねたままでの集団的自衛権の行使容認は無責任で、国益に反します。また、米国を忖度し、国連の核兵器禁止条約に参加しなかったのも、原爆の犠牲者の尊厳を守るという国の義務の放棄です。
安倍政権が掲げる憲法九条に自衛隊を明記する改正も、「自主憲法制定」という言葉によって、あたかも対米自立をめざしているかのように装っていますが、その実態は対米軍事協力のための改正でしかありません。(中略)
今回の選挙で立憲民主党の枝野幸男代表は、当初「私はリベラルであり、保守です」と言っていましたが、その後の毎日新聞のインタビューでは「保守と対立するリベラルと位置づけるなら、我々はリベラルではありません」と発言しています。しかし、ここは踏ん張らないといけない。社会の空気がなんとなく「リベラル」に対して否定的になってきたからといって、「リベラル」の旗を掲げる党がなくなってしまえば、80年前の繰り返しになってしまいます。
今回の選挙で気づかなければならないのは、本当の選択肢が、保守かリベラルかではなく、対米従属による国益追求か、対米自立による国益追求か、の間にあるということです。
加藤典洋氏は、安倍首相と安倍政権は「沖縄の辺野古問題」に典型的に見られるように、「日本の国益を追求する」対米自立を目指す「保守」ではもはやなく、ひたすらアメリカ・ファーストに従属することで自らの政権を維持しようとしているのだと厳しく批判しているのである。そして私から見れば、「保守」でなくなった安倍首相は今や、ある種のポピュリストであり、安倍政権の行動はある種のポピュリズムなのである。なぜなら、彼とその政権は、一方で国民主権を実体化させるのに不可欠な国会開催を無視した行動を取り、他方で海外において自己と彼の政権の政治的行為の正当化を演出することで「大衆を彼のパフォーマンスに迎合させる」べく行動しているからである。実際のところ、安倍首相とその政権のポピュリズムは「大衆に迎合する」ことを意味するのではなく、「大衆が彼とその政権の政治的行為に迎合するよう取り繕う」ことを意味する用語であることを彼とその政権は明らかにしたのである。
私としては、トランプ大統領は――彼自らがそう呼んでいる――「世界No.1 のアメリカ」の大統領に相応しい、世界的な観点や視点に基づいた責任ある政策やビジョンを国内外に向けて発信し、それに応じた政治行動を積極的に遂行し展開していくのかなと思ってきた。しかしながら、彼はどうもその気がないようで――政治舞台に現れた――2015年のままに相変わらずポピュリスト的パフォーマンスを駆使しているので、私は彼の本志が何であるのか知りたくなった。そこで既に「研究所ニュース」のNo.58(森本あんり著『反知性主義』)及びNo.59(水島治郎著『ポピュリズムとは何か』)で言及した「ポピュリズム」を踏まえて、ここでは薬師院仁志著『ポピュリズム:世界を覆い尽くす「魔物」の正体』(新潮新書)を手本に、トランプ大統領の政治家というよりも事業経営者として政治の舞台に登場した彼の本志を探りつつ、「日本の政治におけるポピュリズム」について観ることにする。
ところで、以前私は、本ニュースの「理事長のページ」(No.37, 2012年2月)で「『無言国ニッポン』の深層心理」と題したエッセイを書き、その一部で「無言国ニッポン症候群」をつくり出す因子は「他者の尊厳を無視あるいは軽視する、他者への配慮を欠く社会的な空気」であること、そしてその「空気」を放出しているのが「俗物的欲求や欲深さを正当化」し、「人間の行動について単純で割り切った考えをする」新自由主義者たちであって、彼らは「権利を行使する能力の不平等が現に果たしている役割(パート)」について真剣に考察することなくあしらってしまい、それ故にまた「シチズンシップの遂行を妨げている本当の障害物である制度や機関や機構――主に、排他的な政府・国家や市場の不平等――を無批判的に受け入れ」、その結果、「問題の根本に手をつけないまま更なる不平等を生みだすような政策を先導してしまう」と、指摘しておいた。私のこの指摘は、当時、「権利の縮小」と「新しい権利の停止」を主張して、「権利の一層の充実を求めている弱い立場の人びとにとっての自由」に対して脅威を煽っていた「橋下徹とその仲間」にも向けられていた。
振り返ってみると、私のこのような指摘は間違いではなかった。この指摘はダニエル・ベルの新自由主義にたいする批判を受けてのそれである。ここで再度、ベルが批判した新自由主義者の描く「人間像」を示すと次のようである。
新自由主義政策を許してきた資本主義が直面している経済的ジレンマは、われわれが俗物的欲求を是としてきた事実の結果なのである。この俗物的欲求は、道徳的見地に立とうが、税を課せられようが、欲深さを抑えることに抵抗する。要するにこれは、「自由主義という名の個人主義」であって、この個人主義は「民主主義やシチズンシップに対して自分本位の態度や道具主義的な態度を助長してきたのであって、民主主義やシチズンシップを共同(協力し協同する)生活の表現としてみなすのではなく、自己の利益を促す方法とみなすのである。権利は大いに要求するが、責任はまったく受け入れないのである。これは「自由が勝手気ままに変異する」ことを最善とする人間像である。
そして私はこのエッセイの最後に、私が翻訳したキース・フォークスの『シチズンシップ』の一節を記しておいたので、ここでも書き記しておこう。ポピュリズムやポピュリストの「単一の政策志向」や「政策アイデンティティ」との思考の相異が分かるというものである。
人間は多様であり、また創造的でもあるのだから、人と人との対立を避けることはできないだろう。だが、この対立はしばしば非常に生産的であって、しかも必ずしも激しい感情や言葉(あるいは暴力行為)を伴うものではない。実際、シチズンシップがその一部を成している政治のまさにその目的は、妥協や歩み寄りを通じて紛争や争議を解決することである。権利が社会的な対立を解決するのに重要な役割を果たすのは、個人はお互いに最大の尊敬を払うこと、また個人は他者の目的のための単なる手段だとみなされてはならないことを、権利をして人びとに思い起こさせるからである。
フォークスのこの言葉を私たち一人ひとりが明確に理解し、自覚するようになれば、ポピュリズムやポピュリスト的人間像を私たちが問題にすることはないであろうが、そうならないのが人間の世界である。先般、朝日新聞朝刊(2017年11月18日)に「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」と題する社説が掲載された。その「政治家」とは日本維新の会の足立康史衆議院議員である。彼は加計学園の獣医学部問題の審議する衆議院文部科学委員会で他の政党の議員3人を名指しして、「彼らは犯罪者だと思っています」と言ったそうである。しかも、犯罪者である「相応の論拠」を示さずに、である。これは明白な中傷である。社説は「各党から抗議されると『陳謝し撤回したい』とすぐに応じた。その軽薄さに驚く。言論の府を何だと思っているのか」と、強く叱責している。彼は朝日新聞に対しても自分のツイッターで「朝日新聞、死ね」と書いたそうである。そして社説は「『犯罪者』『死ね』『こんな人たち』。国策に重責を担う政治家が論争の相手を突き放し、対立と分断をあおる。そんな粗雑な言動の先にあるのは政治の荒廃であり、それに翻弄される国民である」と批判して締め括った。「犯罪者」と「死ね」は足立議員の、「こんな人たち」は安倍首相の「言葉」である。足立議員と安倍首相をさすがに一緒にできないが、足立議員は正真正銘のポピュリストであり、橋下徹氏も強調するように、「感情に訴えて、人びとを扇動する」ことが彼の国会での「仕事」なのである。
しかしながら、私にしてみれば、「言論の府」である国会は「学問の府」である大学と同じく、ユルゲン・ハーバーマスの言う「コミュニケーション・コミュニティ」なのである。すなわち、コミュニケーション・コミュニティは言語を基礎とする「社会的行為の一形態」であり、しかも「言語的に形成され、支えられる実体」であり、それ故にまた「すべてに向けて開放されている」のである。そうであるから、コミュニケーションは「すべての社会的行為の基礎」となっているのである。
言論の府たる国会が、それ故、「すべての社会的行為の基礎である」と安倍首相をはじめすべての国会議員が正しくも理解し自覚するならば、「反知性としてのポピュリズム」は姿を消すであろうが、自公政権による国会運営の本末転倒の実態を見ていると、私たち市民が自らの生活と労働において「反知性を許さない」環境を創り出していくよう自覚しなければならないだろう。
最後に、薬師院仁志氏の主張を記しておこう。
「政治制度は教育的な側面を持つ必要がある」。事実、全ての有権者が自らの参政権を有効に行使するためには、それだけの判断能力や判断材料を与えられなければならないだろう。それは、不適切な選挙による社会的な悪影響を防ぐとともに、投票者自身の権利を保障することでもある。(中略) 知識や文化の尊重という価値観が崩れてしまえば、学校教育そのものが意味を失う。学校教育が、学歴社会のなかで私的利益を実現するための手段に堕してしまうからである。そうなると、自分たちが幸福になるには、自分たちの手で住み良い社会を作ることが不可欠だという、あまりにも自明な事実が無視されるのだ。民主主義は、自分たち自身の自由な判断で住み良い社会を作る制度であり、各自の自由な判断は、知識の普及によって可能になるのである(薬師院仁志、同上、pp.127-8)。