『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻177号)』(転載)
二木立
発行日2019年04月01日
出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。
目次
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1. 論文:保健医療の費用対効果評価に「労働(生産性)損失」を含めるべきか?
(「二木教授の医療時評」(168) 『文化連情報』2019年4月号(493号):16-20頁) - 2. インタビュー:地域包括ケアと保健・医療・福祉の連携(『地域包括ケアと医療・ソーシャルワーク』出版記念インタビュー」『二木教文化連情報』2019年3月号(492号):8-15頁)
- 3. 最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(通算157回:7論文)(2018年分その13:4論文)(2019年分その1:3論文)
- 4. 私の好きな名言・警句の紹介(その172)-最近知った名言・警句
- 5. 大学院「入院」生のための論文の書き方・研究方法論等の私的推薦図書(2019年度版,ver.21)(別ファイル: Word)
訂正:
「ニューズレター」175,176号の名言・警句欄の通し番号は、それぞれ(その170)(その171)です。
お知らせ
1.論文「(連載)医療提供体制の変貌-病院チェーンと保健・医療・福祉複合体を中心に(第1回)私の病院チェーンと複合体研究の回顧」を『病院』2019年4月号に掲載します。
2.論文「予防・健康づくりで個人に対する金銭的インセンティブや『ナッジ』はどこまで有効か?」を 『日本医事新報』2019年4月6日号に掲載します。両論文は、本「ニューズレター」178号(2019年5月1日配信)に転載する予定ですが、早く読みたい方は掲載誌をお読み下さい。
3.「朝日新聞DIGITAL」2019年3月3日に、インタビュー「終末期医療費がかさむ『200%間違い』 ひどさに指摘が」が掲載されました(有料会員限定記事。聞き手:笹井継夫、浜田陽太郎)。
4.4月27日に名古屋国際会議場で第30回日本医学会総会2019 中部・シンポジウム(柱2-6-3)「超少子高齢社会を乗り切る医療制度改革と財源選択」が開かれます。私が座長で、権丈善一、迫井正深、松田晋哉の3氏が報告し、質疑応答を行います(1:50-3:30pm。2号館224)。
1. 論文:保健医療の費用対効果評価に「労働(生産性)損失」を含めるべきか?
(「二木教授の医療時評」(168) 『文化連情報』2019年4月号(493号):16-20頁)
はじめに
本連載(166)では、予防医療の経済分析についての、康永秀生東大医学部教授の次の指摘を紹介しました(1)。「大半の予防医療は、長期的にはむしろ医療費や介護費を増大させる可能性があります。そのことは医療経済学の専門家の間では共通の認識です」(「日本経済新聞」2017年1月4日)。その上で、最近、経済産業省が、予防医療で生涯医療・介護費が減少する根拠として示している3つの報告について検討し、「予防医療は国民の健康状態の改善・余命の延長と生涯医療費の増加の両方をもたらすとの先行研究の結論は維持されている」と結論づけました。
最近、「予防医療政策」についての講演でこのことを紹介したところ、「費用対効果を検討する際には、医療費以外に予防による労働生産性向上も考慮すべきではないか?」との質問を受けました。実は、本連載(167)(本誌491号)で紹介したように、経済産業省事務局も、「次世代ヘルスケア産業協議会の今後の方向性について」(昨年4月18日)の「予防の投資効果(医療費・介護費、労働力、消費)について(試算結果概要)」で、予防により「高齢者の健康度が向上すれば、間接的なインパクトとして、労働力と消費の拡大が見込まれる」と主張しています(2)。
そこで本稿では、この点を検討します。まず、医療の経済評価研究の歴史・論争について、私自身の1980年以降の勉強を振り返りながら簡単に回顧し、現在では「ほとんどの経済評価は、将来関連医療費に注意を限定する傾向」(労働生産性の向上・損失は除外)にあることを指摘します。次に、私がこの「傾向」に賛成する、経験的理由を述べます。最後に、1月23日に公開された「中央社会保険医療協議会における費用対効果評価の分析ガイドライン 第2版」でも、「各健康状態の費用は、評価対象技術によって直接影響を受ける関連医療費のみを含め、非関連医療費[生産性損失等-二木]は含めないことを原則とする」とされたことを紹介し、それが合理的であると評価します。
労働(所得)損失を含めるか否かの論争
医療の経済評価が本格的に行われるようになったのは1970年代以降ですが、労働(所得)損失等の「間接費用」またはそれの予防による「間接便益」を含めるか否かについては、意見が一致していませんでした。
私の記憶では、当初は含めるとの意見も有力だったと思います。例えば、1979年に日本で最初に出版された医療の経済評価の著書の「費用対便益対比表の例示」では「便益」には「直接便益(対人保健サービス支出分等)」と「間接便益(罹患・死亡による所得損失の防げた分)」の両方が併記されていました(表)(3)。これは世界保健機関(WHO)の表現に従ったものだそうです。
医療の経済評価の第一人者であるドラモンド氏が1980年に出版した最初の教科書でも、「資源利用の変化」に「医療資源の変化」と「生産性産出の変化」、及び「健康状態そのものの変化」が併記されていました(4)。
しかし、ドラモンド氏等がその7年後(1987年)に出版した医療の経済評価の教科書の第1版では、費用効果分析で間接費用を含むか否かについては「まだ論争中である」との記載に変わりました(5)。この記載は第3版(1997年)でも維持されましたが、やや否定的ニュアンスが強くなり、「生産性の変化を別個に報告する」ことが提案されました(6)。そして最新の第4版(2015年)では、「ほとんどの経済評価は、将来関連保健医療費に注意を限定する傾向がある」(つまり、「労働損失等の非関連保健医療費」は含まない)とされました(7)。その理由はこれを含めると「複合した不十分な判断を招く危険があること」でした。
労働損失を含めると効果の過大推計と倫理的問題が生じる
私はこの間の論争史には詳しくありませんが、労働損失等の非関連保健医療費・「間接費用」を含めない最近の「傾向」は妥当だと判断しています。ただし、これは理論的判断ではなく、医療の経済評価に労働損失(の回復)や生産性の向上を含める場合、恣意的な条件を設定することにより、効果の極端な過大推計が生じることを体験しているからです。そもそも医療の経済評価は経験的・実用的学問であり、確固とした(単一の)理論的根拠・原理に裏付けられているわけではありません。
私がこのことに最初に気づいたのは、1995年に、「医療経済学からみた医薬品の適正使用」について検討した際、「薬物治療の『技術評価』」(日本製薬工業協会委託研究。1987年)の評価を行った時でした(8)。
これは日本で行われた医薬品の費用便益分析のうちもっとも大規模なもので、以下の3種類の新薬の費用便益分析をシミュレーション分析で行いました:①虚血性心疾患に対するベータ遮断剤、②下気道感染症に対する内服用抗菌性化学療法剤、③B型肝炎に対するワクチン。その結果いずれの場合にも、新薬開発により総費用(直接費用+間接費用[稼所得所得の損失])の大幅な削減が生じたとしました。費用削減率が一番小さい①のベータ遮断剤でも、開発後総費用は開発前費用のわずか36.6%にまで低下するとしました。②の化学療法剤と③のワクチンではこの値はその半分以下-それぞれ14.3%、14.0%-でした。ちなみに、当該薬剤費用(開発後総費用の一部)の開発前総費用に対する割合は、①0.3%、②9.2%、③6.7%と常識ではとても信じられないほど小さい値でした。逆に言えば、この結果に基づけば、それぞれの医薬品の価格は現実の公的薬価よりもはるかに高く設定すべきと言うことになります。
ただし、このような驚異的効果の主因は、費用に「間接費用」を含み、しかもそれを極端に過大推計したためでした。例えば①については、心筋梗塞の現実の発症年齢は50~60歳代であるにもかかわらず、シミュレーションでは初発年齢を40歳と極端に若く設定したために、患者の大半を占める労働年代の心筋梗塞発症が減少すると、患者の稼得所得の損失が大幅に減少する(間接費用が減少する)と見なされたのです。ちなみに、この推計では、医薬品開発前総費用のうち、この間接費がなんと90.8%を占めていました。それに対して、心筋梗塞の初発年齢を現実に合わせて60歳とすると、患者の大半が退職者であることになり、新薬による間接費用削減はほとんどなくなります。
ちなみに、日本・アメリカ・ヨーロッパの製薬4団体は、現在、中医協に対して、医薬品の費用対効果評価では、「生産性損失を含め」るよう要望しています(昨年12月19日および本年2月6日)【注】。もしそれを含めた場合は、新薬の費用対効果比は、含めない場合よりも桁違いに良くなり、その結果当該新薬の薬価も大幅に高く設定されることになります。
上記の「薬物治療の『技術的評価』」は、費用に稼得所得の損失、または効果に生産性向上を含めるた場合には、深刻な「倫理的問題」も生じることを明らかにしています。なぜなら、それらを含めない場合には、費用対効果は患者の年齢とは無関係に判断されますが、稼得所得の損失や生産性向上を含んだ場合には、生産年齢人口が主な対象である医薬品や医療技術の費用対効果が高く評価される反面、退職者や重度障害者を主な対象とする医薬品・医療技術の費用対効果は極めて低く評価されるからです。それに対して高齢者・障害者差別との厳しい批判が巻き起こることは確実です。
労働損失または労働生産性の向上を含めると、効果(便益)の過大推計になる最近の好例(?)は、「はじめに」で述べた、経済産業省事務局による「予防の投資効果(医療費・介護費、労働力、消費)について(試算結果概要)」で、予防により「高齢者の健康度が向上すれば、間接的なインパクトとして、労働力と消費の拡大が見込まれ」、「最大840万人、1.8兆円/年(2025年)拡大」との推計です(図)。しかし、本連載(167)で指摘したように、この試算の前提・仮定は、「65~74歳の高齢者が現役世代並みに働け、75歳以上の高齢者が65~74歳並みに働けると仮定した場合」です(2)。これは今後わずか7年間で65~74歳の労働力率を現在の37.5%から77.6%へと2.0倍化、75歳以上のそれを現在の9.0%から37.5%へとなんと4.2倍化できるとの超・浮世離れしたものです。
以上から、医療の費用対効果評価に労働損失や労働生産性の上昇を含めることの危うさは明らかと思います。
厚生労働省ガイドラインは合理的
この点で注目に値するのは、厚生労働省が1月23日の中医協に示した「費用対効果評価の分析ガイドライン 第2版」です。それの総論は、「評価対象技術の導入が生産性に直接の影響を与える場合には、より広範な費用を考慮する立場からの分析を行い、生産性損失を費用に含めてもよい」と一見すると、上述した製薬企業寄りの「立場」に見えます(3頁)。
しかし、「公的介護費用・生産性損失の取り扱い」(各論)では、「公的介護費用や当該疾患によって仕事ができない結果生じる生産性損失は、基本分析においては含めない」とし、しかも「追加的な分析」に含める生産性損失の減少は、原則として「医療技術に直接起因するもの(治療にともなう入院期間の短縮等)」に限定し、「アウトカムの改善(病態の改善や生存期間の延長等)を通じて間接的に生じるもの」は除外しています。
実は2013年3月29日に発表された「医療経済評価研究における分析手法に関するガイドライン」(第1版)では、「生産性損失は、分析の立場によっては費用に含めてもよい」とされていました。第2版で、労働損失の扱いが、先に述べた医療の経済評価の最近の国際的「傾向」に沿ったものになったことは合理的であり、これにより新薬の経済評価に労働損失を含めた場合に生じうる新薬の極端な高薬価は予防されたと言えます。
[注]費用対効果評価に「公的介護費用」を加えるのは合理的
日米欧の製薬4団体は、「費用対効果評価の制度化に対する意見」(昨年12月19日)の「総合的評価」で、以下のように主張しています。「総合的評価において考慮する要素としては、治療方法が十分に存在しない希少な疾患や小児に用いられる品目、重篤な疾患に対する治療に加え、試行的導入において考慮要素とされた、公衆衛生的有用性、公的介護費や生産性損失を含め、医薬品毎の特性に応じた幅広い価値についても、考慮要素として頂きたい」。日米欧の医療機器4団体も2月6日に「意見陳述資料」を提出して、「総合的評価」に「公的介護費」を含めるよう要望していますが、「生産性損失」には触れていません。
私は、本文で述べたように「生産性損失」を含めることには反対ですが、「公的介護費」を含めるのは合理的だと判断しています。その根拠は、在宅ケアの費用対効果評価では、費用に家族等によるインフォーマルケアの費用を含めることが現在では国際的常識となっており、「公的介護費用」はそれの代替になるからです。その方法については、別に詳しく述べました(9)。
なお、喫煙や認知症等の社会的費用の推計では、医療費等の直接費用だけでなく、労働損失等の間接費用も加えられることが多いと思います(10)。この点は医療の費用対効果評価の最近の「傾向」と異なりますが、この違いは医療の経済評価が経験的・実用的学問であり、確固とした(単一の)理論的根拠・原理に裏付けられているわけではないことの現れとも言えます。
文献
- (1)二木立「経済産業省主導の『全世代型社会保障改革』の予防医療への焦点化-その背景・狙いと危険性」『文化連情報』2019年1月号(490号):22-31頁。
- (2)二木立「予防医療の推進で『ヘルスケア産業』の育成・成長産業化は可能か?」『 文化連情報』2019年2月号(491号):16-21頁。
- (3)前田信雄『保健の経済学』東京大学出版会,1979,90頁。
- (4)Drummond MF: Principles of Economic Appraisal in Health Care. Oxford University Press,1980,pp27-31.
- (5) Drummond MF, et al: Methods for the Economic Evaluation of Health Care Programmes. Oxford University Press,1987,p78-79 (久繁哲徳・西村周三監訳『臨床経済学』篠原出版,1990,88-91頁)
- (6) Drummond MF・他著、久繁哲徳・岡敏弘監訳『保健医療の経済的評価[原著第2版]』じほう,2003(原著1997),129-134頁。
- (7) Drummond MF・他著、久繁哲徳・橋本英樹監訳『保健医療の経済評価 第4版』篠原出版新社,2017(原著2015),123-124頁。
- (8)二木立『日本の医療費』医学書院,1995,212-215頁。
- (9)二木立「(インタビュー)薬価制度改革案と費用対効果評価導入をどう読むか」『国際薬品情報』2018年1月29日号(1098号):26-29頁[二木立『地域包括ケアと医療・ソーシャルワーク』勁草書房,2019,103-104頁]
- (10)荒井一博『喫煙と禁煙の健康経済学』中公新書ラクレ,2012,116-119頁。
[本稿は『日本医事新報』2019年3月2日号(4949号)に掲載した「保健医療の経済評価に『労働生産性向上(損失)』を含めるべきか?」(「深層を読む・真相を解く」(84))に加筆したものです。
2.インタビュー:地域包括ケアと保健・医療・福祉の連携
(『地域包括ケアと医療・ソーシャルワーク』出版記念インタビュー。『文化連情報』2019年3月号(422号):8-15頁)
地域包括ケアシリーズ第3作目の著作
――本誌連載の「二木教授の医療時評」を中心にして、『地域包括ケアと医療・ソーシャルワーク』(勁草書房)がこのたび刊行されました。時宜を得た時論集として構成されています。
二木 2017年の4月から昨年の12月までの1年9カ月に、『文化連情報』や『日本医事新報』等に発表した30論文を収録しています。うち19論文が『文化連情報』からです。貴誌に載せた論文等を基にした出版は、『医療改革 危機から希望へ』(2007年)以来、9冊目となりました(いずれも勁草書房)。今回の出版は、地域包括ケア・シリーズの第1作『地域包括ケアと地域医療連携』(2015年)、第2作『地域包括ケアと福祉改革』(2017年)に続くものです。
タイトルにもあるように、今回は「ソーシャルワークと介護人材確保」の章を立てました(第2章)。日本福祉大学の学長だった2015年に、日本社会福祉教育学校連盟(現在は日本ソーシャルワーク教育学校連盟)の会長になった頃から、「新福祉ビジョン」などの福祉制度改革がどんどん進むようになり、ちょうど社会福祉学部の改革を検討していたので、その延長で社会福祉やソーシャルワークの論文も書くようになりました。医療経済領域と違って、福祉領域の研究者には、政策分析をする人はあまりいない。それと、私だけじゃなくて医療政策の研究者や医師会は政府の政策への反応・分析が早いのですが、福祉の研究者や専門職団体はレスポンスが遅いと感じています。
――昨年の報酬改定では、退院支援加算の算定要件に初めて社会福祉士が含まれました。ソーシャルワーカーの病棟への配置基準への道として注目されます。
二木 現実の報酬改定に反映されたように、保健・医療・福祉の連携は、もはや単なるお題目ではなくなっています。連携の鍵となる多職種連携は、診療報酬改定のキーワードのひとつになっています。これからは医療は医療、福祉は福祉といった縦割りではなく、福祉の人間も医療のことを、医療の人間も福祉のことを勉強しなくてはいけないと思います。
病院は地域包括ケアに積極的に関与する必要
――新刊で取り上げられた、地域包括ケアと地域医療構想、診療報酬改定や費用対効果評価、生活習慣病や予防医療などのテーマを中心にお話をお聞かせください。まず、地域包括ケアの本質についてお願いします。
二木 第1章「地域包括ケアと地域医療構想」であらためて強調したことは、地域包括ケアシステムの実態は全国一律に実施される「システム」(制度・体制)ではなく、各地域で自主的に推進される「ネットワーク」であることです。いまだに法律用語のシステムという言葉に引っ張られて、医療保険「制度」とか医療提供「体制」、介護保険「制度」から類推して、地域包括ケアも国が法律や通知でガイドラインを作って、都道府県や市町村、医療・福祉施設がそれに従う、その枠内で行うというイメージが強く残っているのが問題です。
――「ネットワーク」だということは、作っていくもの、地域づくりだという理解でよろしいでしょうか。
二木 「ネットワーク」には青写真はないので、ボトムアップしかない。「システム」だったら国などの責任者がいますが、「ネットワーク」には、固定した中心はない。一部の専門職団体はよく「地域包括ケアの主役は自分たちだ」と主張していますが、あれは間違いで、それぞれの地域で主役は違うのです。地域包括ケアの源流を見ると、医療機関が中心になったところもあり、地域福祉の側が地域づくりの一環で始めたところもあり、両者がなかなか合流していない。しかし、法律でも一緒にやることになったから、多職種連携をやらざるを得ないのです。
もう1つ大事なのは、地域包括ケアは保健・医療・福祉にまたがるので、医療の枠、医師の指示の枠を一部越えており、保健・福祉では医師はワンノブゼムであることです。多職種連携では全部医師が指示、支配するのではないという、発想の転換が医師には必要だと思います。
――先生が強調されている地域包括ケアと地域医療構想との〝一体性″、法律でも一緒だとされたことについてお聞かせください。
二木 一体的に検討する必要がある理由は3つあります。第1に社会保障改革プログラム法等の法律で、同格・一体と位置付けられていること、第2に、地域医療構想の「必要病床数」の減少は、地域包括ケア構築により入院患者の30万人を「在宅医療等」に移行させることが大前提になっていること、第3に、大学病院や巨大病院を除く大部分の病院は、地域のニーズに応え、経営的にも患者を確保するためにも地域包括ケアに積極的に関与する必要があること―です。地域医療構想についての病院関係者の理解は、2025年の必要病床数問題に収斂してしまっているけれど、それは間違い。医療法にもはっきり書いていますけれど、必要病床数を個別の病院単位で明らかにする一方で、在宅や施設の在り方を決めないといけない。ですから、必要病床数と在宅医療・介護施設等の配置・連携をセットで考えないといけないのです。
大学病院やそれに準ずる高度先進医療のみをやっている病院、あるいは眼科等の専門病院以外は、これから地域に開かれた医療をしようと思ったら、医療の枠内だけではできず、地域包括ケアに積極的に関わらないわけにはいきません。この本の第1章第1節では、そのことを「事実と論点」という形で、できるだけ分かりやすく書いたつもりです。ただ、現時点では、法律上も、行政上も、どの規模の病院が地域包括ケアに入るかという定義はない。地域に密着した協同組合病院である厚生連は比較的大きいところでも、地域包括ケアに熱心で、期待しています。
――在宅看取りで医療介護費の抑制ができるという言説に疑問を呈し、病院・施設の組み合わせが現実的だとされています。
二木 もともとは地域包括ケアに病院は入ってなかった。2003年にオリジナルな地域包括ケアシステムが提唱された時は、介護保険制度の改革だった。医療は診療所医療と訪問診療だけで、驚くべきことに在宅での看取りも入っていなかったのです。その後2012、3年ぐらいに、地域包括ケアに病院も含むことがはっきり言われるようになりました。
その在宅看取りも、公私の社会的費用や重症度をそろえて病院・施設と比較すると、安上がりとは言えないのです。加えて、今後は高齢者夫婦・独居世帯が増えるのです。実際、この間、病院での死亡を代替したのは、自宅ではなく老人施設(有料老人ホームを含む)なのです。終末期ケアで求められているのは、当事者の選択を尊重したうえでの「在宅・病院・施設ケアのベストミックス」です。
17万床の実質削減は十分可能
――気になる病床数の話ですけれども、病床を無理に減らす施策を実施すべきではない、実質は黙っていても相当程度減るとおっしゃってみえます。
二木 病床数は第二次医療圏、医療構想区域で自主的に決め、強制ではないことは、厚生労働省も通知でくどいほど言っていますね。2013年8月の「社会保障制度改革国民会議報告書」では、日本は民間病院が中心なので、ヨーロッパ諸国のように政府が決めることはできないから、情報を公開してそれに基づいて自主的な再編成をしようと言っています。経済産業省や財務省はもっと強制的にやれと言いますが。
地域医療構想を推進しても、必要病床数の大幅削減は困難で、2025年の病床数は現状程度になると私は予測しています。この予測は「現状追認」ではありません。今後高齢人口急増で入院ニーズが増えるので、厚生労働省自身も「現状投影シナリオ」(機能分化しなかった場合)では、今よりも17万床多くなると公式に推計しています。私は現状程度になると言っているわけですから、""〝実質″17万床削減になるのです。現状と同じ数と言うと、守旧派だと言われるけれどそうじゃない。私は17万床の実質削減は十分可能だと思いますが、今の病床数よりも20万床減らすことは、実質40万床近く減らすことを意味し、無理です。
――地方での人口減少のうえに、介護医療院への転換や休眠病床の返上が加わるということですね。
二木 そうです。すでに人口減少が始まっている地域では必要病床数も減ります。加えて、今の介護療養病床は、介護保険施設ではあるけれども、病院なのです。それが介護医療院に転換した場合には、医療法上は病床ではなくて医療提供施設になるから、もし仮に10万床移行したら自動的に病床は10万床減るのです。それから、特に自治体病院で多い休眠病床、長く使われていない病床が9万床と推計されていますから、これは都道府県知事の権限で返上させる。そういうことを考えると、実質17万床の削減は、そんなに難しくないのです。しかも在院日数短縮で病床利用率が減って、黙っていても病床はじわじわ減っているのだから、無理して減らすと、かえって弊害のほうが大きいと思います。
余談ですが、小泉改革で2006年に介護療養病床の廃止と医療療養病床の大幅削減が突然出てきて、当事者は梯子を外された形になりました。今回の介護医療院の創設は、医療者側と厚生労働省との信頼関係の回復に寄与したといえます。介護報酬も随分高く設定され、看取りの強化にもつながります。韓国は日本を参考に昨年3月から地域包括ケア政策(「コミュニティケア」)を始めましたが、医療者側と政府の間の信頼関係がゼロでうまくいっていないのと大違いです(第6章参照)。
後期高齢者の急性期医療ニーズは増加
――一方で、急性期の必要病床数は、今後の「健康」な高齢者の人口増加に伴って、急性期医療ニーズが増加するため減少しないと主張されています。
二木 私がすごく抵抗があるのは、「後期高齢者になると急性期医療は要らない。キュアからケアへの転換だ」といった主張です。日本の要介護・要支援の後期高齢者は、大雑把に言って3割。65歳から74歳までの前期高齢者では5%であるのと比べるとずいぶん多い。でも、逆に見ると7割の方は健康、少なくとも要介護・要支援ではなく、日常生活や社会生活を自立して送っているのです。私も71歳で「後期高齢者」の一歩手前ですが、今のところ「健康優良爺」です(笑)。そういう方が脳卒中、心筋梗塞、がん等になった時に、「あなたは75歳以上ですから治療は要りません、ケアをしましょう」って、だれも納得しないでしょう。社会的に到底許されません。
私は、在宅ケア推進も、高度急性期病床の集約化・削減も必要だと判断しています。しかし一般急性期病床は、増やす必要はないけれども、大幅に減らすのは無理じゃないですか。軽度急性期は地域包括ケア病棟で診ればいいと言う人がいますが、看護体制が13対1ですよ。軽い肺炎ぐらいならともかく、心筋梗塞、脳卒中、がん等の本格的な治療は、原則は7対1、どんなに譲っても10対1でしょう。その意味では、地域医療構想の推進で医療費削減は困難だと思います。
医療機関「複合体」化奨励へ政策転換
――昨年の診療報酬・介護報酬の同時改定は、「地域包括ケアシステムの構築と医療機能の分化・強化、連携の推進」を第1に掲げました。これを読み解く論点をお示しください。
二木 ①7対1と10対1病棟の「再編・統合」、②200床未満の中小病院の地域包括ケアへの参入の促進、③医療機関の「複合体」化の奨励、④療養病床の介護医療院への転換の強力な誘導、この4点だと思います(第3章第1節)。
7対1と10対1の入院基本料の大きな格差が縮小されたのは合理的だと言えます。しかし、制度上、10対1看護が基本だとするのは問題だと思います。今後の医療技術の高度化や入院患者の高齢化・重度化、看護職員の「働き方改革」を踏まえると、急性期医療の中心を10対1に引き下げることは不可能だと判断しています。
200床未満の中小病院の地域包括ケア、在宅ケアへの参入の促進は、当然です。
――その関連でも、医療機関の「複合体」化の奨励に公式に踏み切ったとみてよいのでしょうか。
二木 明確です。200床未満の中小病院の地域包括ケア病棟入院料1・3の、「在宅ケアに関する実績」の介護サービスは「提供施設が同一敷地内にあること」とされました。さらに同一法人や開設者が同じなど「特別の関係」にある場合でも、入退院時の連携を評価する項目の算定を認めました。従来の方針を180度変えたのは、画期的です。
そこまでやらないと地域包括ケア、保健・医療・福祉の連携は無理だと厚生労働省も認めたのです。もちろん独立した事業者間の連携もあるけれども、なかなかうまくいかない。同一法人、同一グループの、私流に言う「複合体」の役割を公式に認めたのです。厚労省老健局の地域包括ケア研究会も最近は同じことを主張しています(第1章第5節)。同じく厚労省の「2040年を展望した社会保障・働き方改革本部資料」でも、経営の大規模化、協業化が掲げられ、医療法人、社会福祉法人それぞれの経営と運営の共同化・多角化方針の検討、医療法人と社会福祉法人の連携方策の検討等が打ち出されています。
厚生連のような地域密着型の医療機関には、やらないという選択肢はないでしょう。すでに厚生連グループで、社会福祉法人を持ち複合体化しているところがあるじゃないですか。オプションとして複合体化が認められたのだから、堂々と胸を張ってやればいいと思います。
私が1990年代に複合体の全国調査をしてからもう20年が経ちました。学長時代は時間をかけてじっくり実証的な調査はできなかったので、もう1回本腰を入れて複合体の全国調査をしようと思っています。
疾病が自己責任と誤認させる「生活習慣病」概念は見直しを
――新刊では「生活習慣病」用語の批判的検討についても章を起こして取り上げ、「一番思いが強い論文だ」とおっしゃっています(第5章第1節)。
二木 「生活習慣病」という用語には、病気の多様な原因を個人の生活習慣、自己責任に単純化する傾向があり、しかも最近その傾向が強まっていることへの批判を「違和感」というややソフトな言葉で表現しました。
過去の「厚生(労働)白書」をチェックし、「生活習慣病」概念の導入を初めて提唱した1996年の公衆衛生審議会の「意見具申」を見つけました。そこで、「疾病の発症には、『生活習慣要因』のみならず、『遺伝要因』、『外部環境要因』など、個人の責任に帰することのできない複数の要因が関与していることから、病気になったのは個人責任といった、疾患や患者に対する差別や偏見が生まれる恐れがあるという点に配慮する必要がある」と注意喚起しています。
しかし、2007年「白書」の「メタボリック症候群」概念を導入した「生活習慣病進行モデル」では、遺伝要因や外部環境要因にはまったく触れず、個人の不健康な生活習慣が原因イコール自己責任とのイメージが拡大・固定します。それに対して、2012年の「健康日本21(第2次)」では軌道修正があり、がん、循環器疾患、糖尿病、慢性閉塞性肺疾患など非感染性疾患(NCDs)について、「個人の意識や行動だけでなく、個人を取り巻く社会環境による影響が大きいため、地域、職場等における環境要因や経済的要因等の幅広い視点から、社会政策として包括的な健康対策」を打ち出しています。これは画期的です。第5章第1節の「おわりに」では、デンマークの研究者が、生活習慣病概念は廃棄されるべきと主張していることも紹介しました。私は、疾病が自己責任と誤認させる「生活習慣病」ではなく、「生活習慣関連病」への変更が現実的と思います。
医療費抑制の手段とすべきでない予防医療
――われわれ厚生連、農協グループの「予防」活動の進め方としても、よく深めるべき問題だと認識させられました。
二木 昨年以降、経済産業省主導で「全世代型社会保障」の「予防医療」への焦点化が進み、トンデモ推計ともいえるヘルスケアの成長産業化が喧伝されています(『文化連情報』1月号・2月号の「医療時評」を参照)。その大前提は、「生活習慣病は個人責任」で、大変危険だと思います。「健康ゴールド免許」等の予防・健康づくりの「インセンティブ」改革や、「喫煙、肥満には不健康税を」等の主張は、厳しく言えば、かつてナチス・ドイツが「義務としての健康」を国家の公式スローガンにしたことに通じると思います。
ただ、うかつに予防医療を批判すると、じゃあ予防は必要ないのかと感情的に反発される、ものすごいデリケートな問題です。私も予防医療(健康管理や介護予防を含む)を重視し、健康寿命延伸をめざすことには、それが国民への強制・ペナルティーを伴わない限り賛成です。しかも、予防医療では、個人に対するアプローチと社会に対する(環境改善)アプローチの両方を、同時に行うべきと思います。この点は明確にしておかなければなりません。突き詰めると、予防医療はあくまで国民の健康増進のために行われるべきであり、医療費抑制や公的保険の給付範囲縮小の手段とすべきではないと思います。
――生活習慣病や予防の話が医療費抑制と連動して、間違った形で出されたことによって、実は社会保障の財源論や必要な負担増のまともな議論に悪影響を与えていることが、構造的にすごくよく理解できました。
二木 予防医療の推進によって医療・介護費を削減できると経済産業省が言った。それだったら、国民に嫌われる社会保障の財源確保のための新たな負担増をわざわざやる必要はない。その考えに安倍首相が飛びついたという構図です。本来だったら、2040年に向けて、何らかの負担増を含む次の段階の社会保障政策を国民的に議論しなければいけない時期なのに、その議論がすっ飛んでしまっているのです。
――社会保障給付費は対GDP比でみるべきだと強調されています。
二木 厚生労働省は、一方で予防重視と言っているけれど、それで費用は下がるとは一言も言っていません。むしろ、将来の社会保障給付費は、対GDP比で見ると大したことはないから社会で負担できますとしており、大変見識があると思います。
政府の公式推計でも、2018年度の社会保障給付費の対GDP比21.5%と比べて、2040年度で23.8~24.0%で、2.3~2.6%ポイント高くなるだけなのです(第4章第3節)。しかも国民皆保険制度の維持という点では、自民党から共産党まで一致している以上、主財源は社会保険料、補助的財源は消費税を含む租税になるでしょう。現在の国民皆保険制度を維持する限り、どんな改革を行っても、医療費の対GDP比は今後も確実に増加するので、医療は「永遠の安定成長産業」と言えるのではないでしょうか。
市場実勢価格を踏まえた薬価引き下げで費用コントロール
――財源に関連する問題のひとつとして、薬価制度の抜本改革や費用対効果評価のことがありますが、どう見ていけばよいのでしょうか。
二木 ごく例外的な画期的新薬を除けば、患者・国民に効果がある新しいアプローチは、医療だろうが、予防だろうが、福祉だろうが、費用もある程度上がるのが常識で、それは厚生労働省もよく知っているのです。
昨年の薬価改定では、実勢価格に基づく通常の医薬品費引き下げは約6000億円、「抜本改革」(新薬創出加算、長期収載品、外国平均価格調整等の見直し)による削減は約1200億円。うち、費用対効果評価による削減は試行とはいえ約30億円にすぎません。ですから、医療費抑制政策全体での費用対効果評価の位置はごく低いのです。評価自体に多額の費用がかかりますから、対象はバイオ医薬品等の極端な高価格の医薬品に限定すべきです。余命1年延長当たり費用の「支払意思額」の国民意識調査なんてやめるべきで、実際そうなりました。このことを決めた昨年6月13日の中医協の文書には、私の論文も引用されています。そこで第3章第3節では、「医薬品等の費用対効果評価は、『医療政策的』にはもう終わった」とストレートに書きました。
――医薬品も医療技術も、適正な値付けをして適正利用していけば、医療費をうまくコントロールできると述べられています。日本の場合、すべての医薬品を保険で償還するのだから、医療機関側とメーカー・卸側の自由で公正な価格交渉で決まっていく市場実勢価格に基づいて下がっていく。これが基本原則だと思います。
二木 そのとおりです。医薬品費は、人件費と違って物件費なのだから、その原価には規模の経済が働き、売上高の増加によってどんどん下がっていくのが当然です。オプジーボを75%も下げたって、メーカーはつぶれもしないし、製薬企業は売り上げが増えることを正確に予測すればいいだけの話です。
1980年代、90年代は20%だった医薬品費の割合が、2000年からじわじわ上がってきて、それを今までの歴史的水準、つまり20%ぐらいに抑えるのが政府の目標だと思います。決して15%にまで下げるとは思っていないのです。先ほどからの話のように、市場実勢価格を踏まえた薬価引き下げを基本に置いて、高過ぎた新薬の値付けの見直しを組み合わせた費用コントロールが原則です。
「オプジーボ亡国論」の提唱者の大前提は、薬価は引き下げられないことでした。しかし、私は前著『地域包括ケアと福祉改革』第4章第2節で、適正な値付けと適正利用を推進すれば、技術進歩と国民皆保険制度は両立できることを明らかにしました。結核医療、透析医療、インターフェロン…と、これまで全部コントロールできているのです。
複眼的視点の研究姿勢を続けて
――先生が日本福祉大学大学院の最終講義(終章)で、「リアリズムとヒューマニズムの複眼的視点」を研究姿勢だと話されたことが印象的でした。
二木 私の医療経済・政策学研究の心構えは3つあります。第1は、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムの複眼的視点を持つこと、第2は、事実認識、「客観的」将来予測、自己の価値判断の3つを峻別し、その根拠と反証可能性を保つこと、第3は、政府文書や他の研究者の主張を全否定せず複眼的に評価するフェアプレイ精神―です。
これから新たな視点から、「複合体」研究を再開します(『病院』4月号から長期連載)。さらに、「技術進歩と高齢化、医療費抑制政策のトライアングルの実証的・理論的研究」にも挑戦したいと思っています。そのためにも「修道僧のような生活」を実行し(笑)、心身が健康である限り、年齢に上限を設けることなく、少なくとも85歳までは研究と社会参加を続けようと思っています。
――多岐に渡るテーマでお話をいただき大変勉強になりました。これからも引き続きの研究をご期待申し上げます。長時間ありがとうございました。
(聞き手=文化連代表理事理事長・東公敏/2019年1月28日)
3.最近発表された興味ある医療経済・政策学関連の英語論文(通算157回:7論文)
※「論文名の邦訳」(筆頭著者名:論文名.雑誌名 巻(号):開始ページ-終了ページ,発行年)[論文の性格]論文のサワリ(要旨の抄訳±α)の順。論文名の邦訳中の[ ]は私の補足。
(2018年分その13:4論文)
○終末期[死亡前1年間]のアメリカの医療費の予測モデリング
Einay L, et al: Predictive modeling of U.S. health care spending in later life. Science 360(6396):1462-1465,2018[量的研究]
アメリカのメディケア医療費の四分の一が死亡前1年間に使われていることは、広くムダと見なされている。しかしこの解釈は、誰が、いつ死ぬかが分かると想定している。そこで、メディケア請求書の20%ランダムサンプリングデータ(563万人)を用いて作成した年間死亡リスクの機械学習モデルに基づいて、1年後の予測死亡率(事前死亡率)別の1人当たりメディケア総医療費の分布を分析した。死亡は極めて予測困難であった(highly unpredictable)。予測死亡率が50%超であった患者の医療費は総医療費の5%未満であった。医療費が重症患者-回復する患者と死亡する患者の両方-に使われるという単純な事実が死亡者に医療費が集中していることの30~50%を説明できた。この結果は、条件を様々に変えて計算しても変わらなかった。以上の結果は、事後的(ex post)死亡者の医療費は事前に(ex ante)「助かる見込みがない」と見なされた患者に医療費を使っていることを必ずしも意味しないこと、つまり終末期患者の医療費に焦点を当てることは無駄な医療費を同定する賢明な方法ではないことを示唆している。
二木コメント-わずか3頁の短い論文ですが、ビッグデータの分析手法は手堅く、結果の多面的な解釈(「感度分析」)も説得力があり、高齢者医療費・死亡前医療費について論じる者の必読文献と思います。対象を日本のように「死亡前1か月間の医療費」に限定すれば、統計的予測可能性は大幅に高まると思いますが、個々の患者の1か月以内の死亡・生存を正確に予測することが不可能なことは変わりません。それにしても、アメリカで相変わらず「死亡前1年間の医療費」が医療のムダの象徴となっているとは驚きです。
○「リーン」は今日の[イギリス]NHS病院で持続可能か?:メタ・ナラティブ・統合法を用いての体系的文献レビュー
Woodnutt S: Is Lean sustainable in today's NHS hospitals? A systematic literature review using the meta-narrative and integrative methods. International Journal for Quality in Health Care 30(8):578-586,2018 [文献レビュー]
本文献レビューの目的は、統合的アプローチにより、今日のNHSにおける「リーン」の持続可能性についてのエビデンスの質を検討することである。[リーンの原義は「贅肉のとれた」。経営分野では「ムダのない生産方式」の意味で、一般名詞と区別するために、大文字で表記される-二木]11の電子データベース(CochraneやMedlineを含む)を用い、リーンを導入したNHS病院・トラストについての報告で、定量的データを含む査読付き論文を探索し、各論文の研究デザイン、介入方法、アウトカム測定および持続可能性についての記載を抽出した。
最終的に2008~2016年に発表された12論文を選択した。研究方法は、疑似実験デザイン5(うち1つは混合法)、多施設分析3、アクションリサーチ1、「故障モードとその影響の解析」(FMEA.設計の不完全や潜在的な欠点を見出すために構成要素の故障モードとその上位アイテムへの影響を解析する技法)1、年次報告書の内容分析1、体系的文献レビュー1であった。6論文はリーンの持続可能性を検討し、そのうち2論文はリーン導入が成功したと報告していた。しかし、多様で肯定的アウトカムを報告した論文は科学的厳密性に欠け、交絡因子について考慮せず、結果に肯定的バイアスが含まれるリスクがあり、統計的に有意な持続可能性を示していなかった。以上から、リーンは見かけ上は価値があるが、それの効能や持続可能性についての結論を引き出すことは困難であると結論づけられる。
二木コメント-病院経営効率の研究者必読と思います。リーンの効果はまだ科学的に証明されていないとの結論は、本「ニューズレター」139号(2016年2月)、146号(2016年9月)で紹介した、以下の2つの文献レビューの結論と同じです。
「リーン・ヘルスケア:包括的文献レビュー(D'Andreamattteo A, et al: Lean in healthcare: A comprehensive review. Health Policy 119(9):1197-1209,2015)
「医療におけるリーン介入:それは現実に機能するのか?体系的文献レビュー」(Moraros J, et al: Lean intervention in healthcare: Do they actually work? A systematic literature review. International Journal for Quality in Health Care 28(2):150-165,2016)
○高所得国と高中所得国における一般的[地域]保健活動における地域住民参加:地域住民参加における参加の性質、理論の使用、文脈上の推進力および権力関係を探究する体系的文献レビュー
Chuah FLH, et al: Community participation in general health initiatives in high and upper-middle income countries: A systematic review exploring the nature of participation, use of theories, contextual drivers and power relations in community participation. Social Science and Medicine 213:106-122,2018[文献レビュー]
プライマリヘルスケアの重要性を強調した1978年のアルマアタ宣言以来、地域住民参加は多くの保健活動を成功させる鍵と見なされている。しかし、参加を形作る文脈上の推進者とそれの関連事項についての理論構築とエビデンスは欠けている。本体系的文献レビューの目的は、高所得国と高中所得国に焦点を当てて、一般的(疾病特異的ではない)保健活動での地域住民参加についての公刊された学術論文のエビデンスを検証することである。Medline等複数のデータベースを用いて、2000~2016年に公刊された文献を検索した。一般的保健に焦点を当てた文献のみを含み、疾病特異的な文献は除外した。すべての言語の論文を対象とし、すべての研究デザインを含んだ。最終的に、高所得国を対象とした68論文と高中所得国を対象とした11論文の合計79論文を選んだ。
全体的には、この領域の研究は理論的根拠が弱く、頑健な研究デザインも欠けていた。しかし、得られた知見は保健活動における地域住民参加を促進する戦略は、参加や地域統制が弱いものから強いものへと連続体(continuum)を形成していることを示唆している。報告されたアウトカムを分析したところ、一般的保健活動での地域住民参加は、プロセスと社会・健康面でのアウトカム改善に貢献していることが分かった。社会的アウトカムは、地域住民参加の強まりとしばしば関連していた。全体としてはこれらの知見は、地域住民参加はそれが生じる文脈に強く影響される複雑なプロセスであること、及び権力関係等の社会的要因を注意深く検討すべきことを再確認している。
二木コメント-このテーマについての最新の文献レビューで、地域保健活動の研究者必読と思います。ただし、私には元論文の「要旨」の「結果」は「予定調和的」(predictable)に見えます(上記抄訳第2段落の第1文と第2文は、本文の「考察」から補足、修正しました)。
○プライマリケア受診が他の医療利用に与える影響:[アメリカ・]バージニア州の低所得・無保険者に提供された金銭的インセンティブのランダム化比較対照試験
Bradley CJ, et al: The effect of primary care visits on other health care utilization: A randomized controlled trial of cash incentives offered to low income, uninsured adults in Virginia. Journal of Health Economics 62:121-133, 2018[量的研究]
アメリカ・バージニア州の低所得・無保険成人を対象にしたランダム化比較対照試験で、金銭的インセンティブによりプライマリケア受診を促進すれば、医療利用と費用を削減できるかを検討した。対象(1643人)は以下の4群にランダムに分類した:対照群(415人)と3種類の介入群。介入群は試験開始後6か月間にプライマリケアを受診した場合、0ドル、25ドル、50ドルを支給される3群に割り当てた(各413人、407人、408人。受診した場合、受診回数によらずこの金額を支給。0ドル支給群には、初回調査への参加に対して10ドル支給)。本実験による外生的変動により、プライマリケア受診の効果についての因果関係のエビデンスが得られる。
その結果、救急疾患によらない救急外来受診は多少(modest)減り、外来受診は増加したが、総費用は減らなかった。この結果は、プライマリケアが緊急ではない救急外来受診の代替になるとの当初の期待と一致している。総医療費が減らなかったのは、不必要な救急外来受診の削減が外来受診の増加により相殺されたためである。
二木コメント-全国民を対象にした医療保険(保障)制度がないアメリカでのみ実施可能な実験(ランダム化実験)です。外来受促進の金銭的インセンティブを与えても総医療費は減らないとの結果は当然とは言え、貴重と思います。
(2019年分その1:3論文)
○ナッジ以上のことを-健康の向上により強い主張が求められる時
Ubel PA, et al: Beyond nudges - When improving health calls for greater assertiveness. NEJM 380(4):309-311,2019[評論]
ナッジは、健康に関する問題行動に、個人の選択の自由に干渉しないで取り組む新しい方法として人気がある。しかし、危険な健康行動や医療行為に対してはしばしば「ナッジ」以上のことをすることが求められる。①一部の健康に関する行動は当事者だけでなく、他の人びとにも危害を与える(例:間接喫煙。経済学者が負の「外部性」と呼ぶもの)。②医療選択の一部は患者だけが選択するのではない(例:医師が不必要な検査や治療を指示)。③経済的利害はしばしば患者や社会に危害を与える医療選択をもたらす(例:製薬会社の過度のマーケティング)。
ただし、ナッジがうまくいかない時、すぐに強制的な規制を行うべきと示唆しているのではない。介入は連続体(continuum)であり、情報提供から、「あめとむち」、さらには選択の廃止に至る「介入の階梯(intervention ladder)」がある。ナッジにも様々な組み合わせがある。同様に行動の危険性も連続体である。このことを踏まえると、健康・医療の政策担当者は、重大な有害行動に対しては、時にナッジ以上のもっと強い介入を検討すべきである。
二木コメント-アメリカだけでなく、日本でも、個人の選択の自由を保証しつつ、個人の行動変容を促す手法として流行しつつある「ナッジ」の限界を、多面的に指摘した好評論です。「介入の階梯」という視点は重要と思いますが、患者個人に対する強制は最後の手段であると思います。
○個々人への体重情報の通知が体重減少と健康行動に与える影響:回帰不連続デザインのエビデンス
Cook W: The effect of personalized weight feedback on weight loss and health behaviours: Evidence from a regression discontinuity design. Health Economics 28(1) :161-172,2019[量的研究]
本研究は、イギリスの時系列データセット(40-69歳の約2万人)を用いた回帰不連続法により、個々人への体重情報の通知が、その後2~7年間の個人の体重減少をもたらすかを分析する。その結果、個人に「肥満(overweight)」(BMI 25以上~30未満)と通知しても、平均的には、その後の体重減少はなかった。しかし、「重度の肥満(very overweight)」(BMI 30以上)と通知すると、その後、平均的に、1%の体重減少が生じた。通知の効果は家計所得と強く関連しており、高所得家計ではすべての効果は、部分的には、身体活動の増加のためだった。以上の結果は、体重情報通知の効果は小さいが、成人の肥満を減らす費用効果的方法であることを示唆している。しかし、医療情報の提供に対する所得階層間の反応の違いは健康不平等の原動力(driver)にもなりうるし、体重の通知は長期的な健康状態にバイアスを生む可能性があることも明らかになった。
二木コメント-個々人に体重(広くは健康)情報を通知するだけでは、健康不平等を拡大する可能性があるとの結果は重要と思います。
○金銭的インセンティブが健康と医療[費]に与える影響:[アメリカの]大規模ウェルネスプログラムから得られたエビデンス
Einav L, et al: The impact of financial incentives on health and health care: Evidence from a large wellness program. Health Economics 28(2):261-279,2019[事例研究・量的研究]
職場でのウェルネスプログラムはアメリカで急速に一般化しているが、それが従業員の健康を改善し医療費を減らす力があるかについての合意はまだない。本論文では、従業員の健康に直接結びつけた相当の金銭的インセンティブを提供しているアメリカのある大企業のプログラムについて検討する。このプログラムには対象者(組合非加入従業員とその配偶者)の約80%(約11.6万人)が参加している。プログラム開始後4年間のデータを、医療費請求データとリンクさせて分析した。参加者は健康指標(BMI値、血圧、コレステロール値、血糖値、喫煙)の改善に応じて金銭給付を受けた。
その結果、参加者の健康指標が改善すること、および特定の健康改善(BMI値と血圧の低下)と医療費減少との間に相関があることについて頑健なエビデンスが得られた。後者に関して、プログラムへの参加が医療費減少をもたらすとの因果関係を直接に示すエビデンスは得られなかったが、これは長期的に生じる可能性がある。
二木コメント-要旨だけだと、ウェルネスプログラムと医療費減少との「相関関係」と「因果関係」を峻別した誠実な論文と思えます。ただし、「頑健な(robust)エビデンス」という表現は誇大で、健康指標改善による医療費低下の「決定係数」は一番大きいBMIでもわずか0.0056(0.56%)にすぎません。しかも、介入費用(ウェルネスプログラムの費用+金銭給付の総額)も示されていません。
4.私の好きな名言・警句の紹介(その172)-最近知った名言・警句
<研究と研究者の役割>
- 映画「グリーンブック」(黒人の天才ピアニストと運転手のイタリア系アメリカ人の友情を描いたロードムービー。2019年米アカデミー作品賞受賞)「天才だけでは十分じゃないんだ。人びとのハートを変えるためには勇気がいるんだ("Being genius is not enough; it takes courage to change people's hearts")」(バンドメンバーであるチェリストが、運転主のトニー・リップから、ピアニストのドン・シリーが、差別主義の強い南部でなぜコンサート・ツアーをやるのかと聞かれてこう答えた)。二木コメント-研究者にもこのような「勇気」が必要と思います。
- 伊東光晴(日本の経済学界の重鎮。京都大学名誉教授)「一流の物書きは、文章が伸び縮み自由でなければならない。小さな本でも、どんな大きな本でも、八〇〇字でレビューを書けと言われたら八〇〇字、八〇〇〇字で書けと言われたら八〇〇〇字で書きなさい」(根井雅弘『経済学者の勉強術』人文書院,2019,79頁。京都大学大学院博士課程で指導を受けた伊東先生から、こう言われたと紹介)。二木コメント-論文を書く時だけでなく、講演・報告をする時にも、研究者は指定・依頼された時間に合わせて「伸び縮み自由」で話す能力を身につける必要があると思います。これを読んで、ある委員会で報告した有名大学の研究者が、開口一番、「私は学者なので、2時間で話すことは楽だが、20分で話すのは苦手」と言い放ち、実際に持ち時間をオーバーして話したことを思い出しました。
- 伊東光晴「たった数百円で学問ができると思ってはいかん!」(根井雅弘『経済学者の勉強術』人文書院,2019,100頁。先生の『ケインズ』(岩波新書)を読んだ学生が、おそらく専門的なことが書いていないと先生に文句を言いに来たときに、こう一喝したと紹介)。二木コメント-私は、最近ある官庁職員に予防医療政策について講演したのですが、事前に提出された質問リストに、私の著書の「はしがき」だけを読んで書かれたものがあったので、きちんと著書の本文を読んだ上で質問して欲しいと「苦言」を呈しました。
- 門井慶喜(作家。第158回直木賞受賞)「人間は、直接自己を発見しようと思ってもなかなか難しい。誰にも、自分さえにも発見されたくない『自分』が必ずいるからです。しかし、目の前の仕事に没入することによって、自己発見のゲートが開くことがあります。自己を知るには、まず目の前の仕事に向かうことが必要なのかもしれません。(中略)とにかく、机の前に座れば何かいいアイデアが降ってくる」(『週刊東洋経済』2018年6月23日号:15頁)。二木コメント-最後の一文を読んで、次の2つの名言を思い出しました(共に、本「ニューズレター」50号(2008年10月)に紹介)。
- 福田和也(フランス文学者)「決まり通り机に向かっても、一向に進まない、気持ちが行きづまってしまうということもあるでしょう。そういう場合は、一旦逃げる、つまりは現実逃避をするということもいいでしょう。ただ、一応、机に座っていることが大事だと思います。(中略)肝要なのは、机に座っていることだと思います。机に座ってさえいれば、いずれは何とかなるでしょう」(『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』PHP研究所,2001,198頁)。
- 松本清張(推理小説作家、故人)「[作家の条件とは]原稿用紙を置いた机の前に、どのくらい長く座っていられるかというその忍耐力さ」(『NHK人間講座2001年10月~11月期:半藤一利「清張と司馬さん-昭和の巨人を語る」』23頁)。
- 佐藤敏信(久留米大学特命教授。元厚生労働省健康局長)「…医療関係者からは、しばしば、財務省や厚生労働省が今後どういう政策を打ち出すのかわからないという声を聞く。しかし、今は、各種の審議会や検討会の内容はほぼすべて公開されている。またネットを中心にしたメディアも、かなり正確な記事を配信している。これらを丹念に読み込めば相当のことがわかり、将来予測もできる」(『THE中医協-その変遷を踏まえ健康保険制度の「今」を探る』薬事日報社,2018,iv頁)。二木コメント-厚生労働省の審議会や検討会についてはこの通りと思います。しかし、内閣官房や経済産業省の検討会・委員会には議事録が公開されていないものも少なくありません。
- 湯浅誠(社会活動家、法政大学教授)「政策を進める際、強固に賛成する1割と反対する1割の間に8割の人がいる。政策は税金を伴いますから、反対は和らげ、間で揺れる8割に耳を傾けてもらわなければいけない。欠かせないのが対話です」(「読売新聞」2018年12月30日朝刊、「想う2018 貧困と孤立なき社会へ」)。二木コメント-この姿勢は、医療政策についての論文を書く際にも必要と思います。
- 橋本治(評論家・小説家。2019年1月29日死去、70歳)「『手続きの中に重大な意味がある』ということを、どうやら人はあまり理解してくれません。そこをすっ飛ばして『二者択一のどちらかを選べ』という方向に、割合簡単に進んでしまいます。(中略)でも、『手続きの中に重大な意味がある』と知っていて、これをすっ飛ばして、たやすく二者択一の一方に誘導することにたけた人たちはいます。『詐欺師』と呼ばれる人達です」(『思いつきで世界は進む』ちくま新書,2019,121-122頁)。二木コメント-私も「『手続き民主主義』(due process)を重視し、『大事なのは内容(だけ)』、『目的のためには手段を選ばず』という立場」はとらず、「2005年末から突如浮上した療養病床の再編・削減方針」を批判したことがあるので、大いに共感しました(『医療改革-危機から希望へ』勁草書房,2007,129頁)。
- 立川志の輔(落語家)「日本はYES OR NO No? と迫られたら、ORを選べばいいんです」(高田文夫『私だけが知っている金言・笑言・名言録』新潮社,2016,126頁)。二木コメント-この言い回しは、政策の選択・検討時にも「使える」と思いました。
- 平田オリザ(劇作家・演出家。大阪大学等多くの大学で客員教授を務める)「『現場』という幻想から離れる (中略)/「そんなものは現場で…[学んだものだ]」という発言には、二つの問題が内包されている。/一つは、その『現場』というのが、まさに上意下達のコミュニケーションで成り立っている従来型の組織だという点。(中略)しかし、いま求められているのは、対等な人間関係の中で、いかに合意を形成していくかといった能力なのだから、これはやはり教育の中で、ある程度きちんと体系的に身につけさせていく必要がある。/もう一点は、やはり時代の変化という問題だ。(中略)…私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている」(『わかりあえないことから-コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書,2012,38-39頁)。二木コメント-福祉の領域では、他の領域以上に「現場という幻想」・現場の神聖視が強いので、大いに共感しました。私も、平田氏とは違う視点ですが、福祉関係者・若手研究者に「研究と現場・実践を直結させない」よう「忠告」しています(『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,108頁)。
<その他>
- イチロー(米大リーグ・マリナーズ外野手、45歳。本名鈴木一朗。常々「最低50歳までは現役」と言っていたが、2019年3月21日、現役引退を表明)「有限不実行の男になってしまったですけど。その表現をしてこないとここまでできなかったと思います。難しいけど言葉にすることが目標に近づくことだと思います」。「はかりはあくまでも自分の中にある。それをちょっと超えていく。その積み重ねの中でしか自分を超えていけない」(「朝日新聞」2019年3月22日朝刊)。二木コメント-私も2015年から、「研究と言論活動は、体力と気力と知力が続く限り、少なくとも85歳までは続け」ると宣言(?)しているので、「難しいけど言葉にすることが目標に近づくこと」の意味がよく分かります(『地域包括ケアと地域医療連携』勁草書房,2015,246頁(あとがき))。
- 樹木希林(女優。2018年9月15日死去、75歳。60歳以降つぎつぎと病気に襲われ、最後はがんが全身に転移したが、女優の仕事は続けた)「病というものを駄目として、健康であることをいいとするだけなら、こんなつまらない人生はないだろう」。「決して病気だからといってかわいそうなのではない …病気をして、72歳になった私が分かったことは、決して病気だからといってかわいそうなのではないということ。たとえ病気であっても、生きる希望を持って生きていく。そうやって命を使いつくしていったんじゃないの、ということをこの作品[映画「あん」2015年公開]を通じて伝えたいです」(『一切なりゆき~樹木希林』文藝春秋,2018,120,181頁)。二木コメント-これを読んで、次の名言を思い出しました。
- 渡辺利夫(拓殖大学学長、経済学博士。70歳)「長い間、大学のためにご尽力賜り、本当にお疲れさまでした。どうか、ご退職後は健康のことなどに余りご留意することなく、残りの人生を大いにエンジョイしていただきたいと思います。お齢を召されると、どうしても体のことに注意が向いてしまい、内向的になることは否定できません。しかし、体に注意を向けてばかりいると、老化を病気と思い違え、老化をなんとか食い止めようという、どうにも勝ち目のない闘いに打って出て、結局はこれに敗れ、陰々滅々たる人生を送るという羽目に陥りかねません。/そういう不幸な人達が私の周辺にもたくさんおります。老化を"あるがまま"に受け入れて、痛い苦しい時以外は、病院には近づかないほうがいいのではないか、そう私は考えます」(『人間ドックが「病気」を生む-「健康」に縛られない生き方』光文社,2009,3-4頁。退職教職員送別会でのあいさつ。本「ニューズレター」65号)」(2010年1月)で紹介)。